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1980年とビートルズ

5月13日(日)

やるべきことはたくさんあるのに、週末にひとりでぼんやりと過ごしていると、結局なーんにもせずに終わってしまう。軽く死にたくなるなあ。

そんなことはともかく。

NHK少年ドラマシリーズ 家族天気図」は、やはりいま見てもすばらしい名作である。1970年代末~80年代初頭の家族像を、これほどリアルに描いたドラマを、私は知らない。1980年当時、小学生だった人、中学生だった人、高校生だった人、大学生だった人、そして親だった人、すべてに見てほしいドラマである!1980年の家庭って、こんな感じだったのだ。

いま見ると、土屋嘉男と小林千登勢の「悩める親」に感情移入してしまうのは、私がその世代になったからだろう。ちなみにこのドラマのなかのエピソードの1つには、あの宮口精二が「人のいい老人」役で出ていて、土屋嘉男と楽しそうに会話をしている。映画「七人の侍」ファンにはたまらないシーンだぞ!

そして特筆すべきは、末っ子役を演じた斎藤ゆかりである。当時有名な子役だった斎藤こず恵の実の妹だそうで、私が子どものころよく見ていた「ケンちゃんシリーズ」というドラマにも、ケンちゃんの妹役で出ていた。その後、あまり見なくなり、いまは俳優業を引退しているらしい。

Img_720234_28565237_9 だがいまこのドラマを見ると、その達者な演技には舌を巻く。わかる人にだけわかってもらえればよいが、韓国のシットコム「明日に向かってハイキック」に出ていた天才子役・ソ・シネを彷彿とさせる。

ソ・シネの天才子役ぶりは、いま日本にいるどの子役も、おそらくはかなわないものだろう。だが、日本にもかつて、斎藤ゆかりのような天才子役がいたのである。

さて、「家族天気図」の全編に流れていた、ポール・マッカートニーの音楽(DVD版では、著作権の関係から音楽は差しかえられている)で思い出したが。

B00018gxv6 私がビートルズの曲をはじめて「ちゃんと」聴いたのは、1981年に公開された映画「悪霊島」(監督:篠田正浩)の挿入歌だった「LET IT BE」だったと思う。

金田一耕助の映画をきっかけにビートルズを聴く、というのが、いかにも私らしい。

1960年代末の瀬戸内の島を舞台にした映画「悪霊島」は、ビートルズ世代のヒッピーの青年(古尾谷雅人)を登場させたり、金田一耕助(加賀丈史)じだいを、当時の若者の象徴であったヒッピーになぞらえたりするなど、1960年代に青春をすごした「ビートルズ世代」へのオマージュみたいな映画だった。それだけに、いわゆる「金田一もの」としては、かなり異色の出来で、きっと金田一ファンにとっては、好き嫌いが分かれる作品であろう。

しかし私のように、この映画を見て、内容よりもビートルズの音楽が強く印象に残った人も多かったろうから、興行的には成功したのではないだろうか。

公開の前年、すなわち1980年12月8日にジョン・レノンが暗殺されており、映画はそのことを伝えるニュースからはじまる。つまり、本編にビートルズの曲を使用することになった背景に、ジョン・レノンの暗殺事件があったことは想像に難くない。

だが不可解なのは、映画で実際に使われた曲は、ジョン・レノンの曲ではなく、ポール・マッカートニーの「LET IT BE」であった、ということである。これには、首をかしげざるをえない。

ちなみに、「家族天気図」の第1回が放映されたのが、1980年12月22日。ジョン・レノン暗殺事件の直後である。だがドラマの音楽にポール・マッカートニーの曲を使用することは以前から決まっていたはずであり、ジョン・レノンの事件とは無関係であったと考えられる。

ではなぜこの時期、ポール・マッカートニーだったのか?

1980年1月、日本で公演を行う予定で来日したポール・マッカートニーは、成田空港で大麻取締法違反で現行犯逮捕される。このとき、日本での公演は、すべて中止になったのである。この事件は、スネークマンショーによってギャグにされており、私も後年、スネークマンショーのアルバムによって知ることになる。

ビートルズが解散して10年がたち、ポール・マッカートニー来日公演が幻に終わった1980年は、日本においてビートルズを回顧するまたとない年となった。それに加え、同じ年の年末にはジョン・レノンの暗殺事件が起こったのである。

1960年代に青春時代を送った人にとって、1980年という年は、ビートルズこそが思い出されるべき存在だったのだろうか。

当時小学校6年生だった私には、よくわからない。ただ想像するのみである。

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コメント

1980年は、ジョンがハウスハズバンド時代を終え、アルバム『ダブルファンタジー』を手に音楽市場へ帰還した年ですね。

70年代は国内の音楽動向として、GSが収束してフォーク、ニューミュージックが台頭し、また当時のファンもビートルズと共に大人になるわけで、顧みる余裕など無かったのではないでしょうか。

あのドロドロした解散劇の後で、当人であるポールとジョンは基本的にずっと反目してましたしね。

ジョンが前衛に走ったり、休業する中(リンゴは俳優業)で、ポールは第一線を走り続けていた(もちろんジョージも)。
元メンバーのなかでメディアに起用するなら、やっぱりポールだよね、という世間の認識もあったのでは?

と、1980年に生まれていない青二才は想像します。

ビートルズは現在も世界中で、新しい世代のファンを獲得している。定期的に回顧されることは、聴き、歌い継がれていくうえで欠かせないことでしょう。

日本で繰り返し起きるビートルズのブーム、販促活動は、1980年が起点になっているのかもしれません。そう考えるとすごく大事な年に思えます。

ちなみに僕はレノン=マッカート二―のクレジットでは「We Can Work It Out」が好きです、PVも見てて楽しそうだし。

投稿: だい | 2012年5月16日 (水) 01時24分

私も遅ればせながら、これをきっかけにポール・マッカートニーを少し追っかけてみようかと思います。
そういえば、職場の近くに、ビートルズの音楽がかかっている居酒屋(?)がありましたなあ。ビートルズの写真が飾ってあったりして。あのお店は今でもあるのだろうか。

投稿: onigawaragonzou | 2012年5月16日 (水) 23時56分

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