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2012年5月

ぬか喜び?

5月30日(水)

どこかの芸人のギャグではないが、「コロス気かぁ~!」と叫びたくなるような忙しさである。もっとも、私のまわりには、私以上に忙しい人が多い。

こういう時にはどうでもいい話題をするにかぎる。

先週の月曜日のボランティア作業の時に、世話人代表のKさんが言った。

「7月1日に、うちの町でイベントをやるんです。そこで、サックスを吹いてもらえませんかねえ」

「なんです?突然」

「私がたまたまそのイベントの担当になっちゃったもので、どうしようか困っているんです。…どうです。これを機に、デビューしてみては」

「ちょっと待ってください。一人でですか」

「ええ」

「一人でサックスを吹くなんて、恥ずかしくてできませんよ」

「せっかくの腕前を披露する機会ですよ」

「そんな無茶な。…だって、まだ2回しか練習していないんですよ」

「大丈夫ですよ。適当に吹いてりゃ、聞いてる人にはわかりゃしませんよ」

ずいぶん失礼な話だ。

「それに、サックスは一人で吹くとマヌケですよ。バックバンドがないと」

「そんなぜいたくな…。いいじゃないですか、なくっても。私がその横でぬいぐるみ着て踊りますから」

「それじゃあますます何だかわからないじゃないですか。それに、いまサックスは修理中で、戻ってくるのが6月の上旬なんですよ。練習なんてできやしない」

「大丈夫ですよ。お願いしますよ」

いつものように、Kさんは強引である。

翌週の月曜、つまりおとといも、そんな話になった。

「7月1日、予定あけといてくださいよ」

「勘弁してくださいよ!無理ですって」

「またまたぁ。もうプログラムに組んじゃいますよ」

Kさんのことだから、本当にやりかねない勢いである。

困ったなあ。もし本当にやるのだとしたら…。

そしたら、今日(水曜)、電話がかかってきた。

「7月1日の件なんですけど、上司と相談したところ、やはり楽器を使う出し物は難しいだろう、と」

「はあ」

「ですので大変申し訳ないんですが、今回はご遠慮いただくということで…。本当にすみません」

おいおい、これではまるで、私が乗り気だったみたいではないか!

こういうのを何て言うの?ぬか喜び?いや、喜んだわけじゃないからなあ…。

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ポスター・バージョンアップ

5月29日(火)

ほら、よく陶芸家が、どこからどう見てもよくできている皿なのに、「この皿は気に入らん!」とかいって、自分が作った皿を投げつけて割ったりすること、あるでしょう。

あれと同じ感じ。昨日作ったポスターが、どうも気に入らない。

そのポスターというのは、夏休みに韓国の大学で開催される「夏期学校」の応募説明会に参加を呼びかけるポスターである。

センスが悪いのは仕方がない。私が気に入らないのは、ポスターに使った写真である。

せっかくだから、昨年度に参加したOさんから、そのとき撮った写真を使わせてもらおうと思い、頼んだところ、データを送ってくれると快諾してくれた。

ところがOさんも忙しかったようで、送られてこなかった。仕方がないので、とりあえず私が韓国滞在中に撮影した写真でお茶を濁して、昨日、ポスターを作ったのである。

しかし、どうもインパクトがない。それもそのはずである。たんなる、大学の建物の写真なのだから。

そしたら今日の午後、Oさんから私の携帯にメールが来た。

「遅くなりました。昨年の夏期学校の写真です」と、ビックリするくらいの数の写真が、次々と携帯メールに送られてくるではないか!

だが、私の携帯電話は古い型なもんで、写真の容量が大きすぎて開けないものもあったりする。それに、携帯に写真を送られても、ポスターに使うことはできない。

「写真ありがとうございます。お手数ですが、写真の容量が大きすぎて、ケータイでは開けないので、PCのメールに送っていただけないでしょうか」と、返事を書いた。

「わかりました」と返事をくれたが、それからまた、音沙汰がない。

さて、2時間半にわたる会議が終わった午後7時過ぎ、研究室に戻って、試みにさきほど送ってくれた写真を携帯からPCに転送してみると、何枚かはうまくいった。

さすがに、私が撮った建物の写真などより、はるかにいい写真である。なにより、研修の楽しそうな様子がよくあらわれている。

こうなったら、ポスターの写真を作りかえよう、と思い立ち、写真を差しかえることにした。

さらに、誰も頼んでいないのに、印刷室に行って、大型プリンタを使って自らポスターサイズに印刷までしたのであった。

使い慣れない大型プリンタに悪戦苦闘しながら、何とかポスターを印刷し終えて研究室に戻ると、今度はPCメールの方に、Oさんから写真が送られてきていた。

「先ほどはすみませんでした。遅くなりましたがPCメールの方に写真を送らせていただきます」

えええぇぇぇぇ!!!いま印刷し終わったばかりなのにぃ!

送られてきた写真を見ると、先ほど差しかえた写真よりも、はるかにインパクトのある写真があるではないか!研修の楽しさが、さらによく伝わってくる写真である!

さあ、あなたならどうする?選択肢は2つ。

1.でも、もうポスターを印刷しちゃったからいいや。見なかったことにしよう。どうせポスターを真剣に見る人なんていないし。

2.せっかくだから、納得がいくまでポスターを作りかえよう。

さあ、どっち?

私は当然、2番である。

もういちど、ポスターを作り直した。

そしてふたたび印刷室へ。

また、悪戦苦闘しながら、なんとかポスターサイズに印刷し終える。

ようやく満足のいくポスターができあがった。

研究室に戻ったら、すでに夜11時を過ぎていた。

えええぇぇぇぇっ!!!もうこんな時間?!

この忙しいときに、俺はいったい何をやっているんだ?とひどく落ち込んだ。

…この感覚、思い出したぞ!

前の職場の同僚だったOQさんが、こんな感じで、韓国への実習旅行の「旅のしおり」を作っていたんだった。

OQさんは、ひととおり「旅のしおり」を作ったあと、それが気に入らなくて、夜遅くまで研究室に残って、何度も作り直していた。そうこうしているうちに、ビックリするくらい分厚い「旅のしおり」ができあがってしまうのである。

だから「旅のしおり」の表紙にはよく、「Version○○」とか、「最新版」とか、書かれていた。自分の気の済むまで、何度も作り直していたのだ。他人にはそれが些細な違いに見えても、である。

今の私は、そのときのOQさんではないか!

OQさん、私は知らず知らずのうちに、あなたのスタイルをまねていましたよ。しかも、まねなんかしなくていい部分を、です。

それにしても、韓国、となると、どうしてこう、アツくなるんでしょうねえ。

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並べられたポスター

5月28日(月)

6月の中旬に、職場を会場として、あるイベントを計画していて、先日、そのチラシとポスターを作ることになった。

せっかくだからいいものを作ろうと、原稿は私が作成し、昨年末のイベントのときと同様、事務スタッフのSさんにデザインをお願いしたところ、数日して素晴らしいデザインのポスターができあがった。センスのいいポスターってのは、こういうのをいうんだなと、感心する仕上がりである。私だけではない、そのポスターを見た多くの人たちがそう言っているのだから、間違いない。

今回は、どことなく市川箟監督の映画「犬神家の一族」のタイトルバックを思わせるデザインである。Sさんは、私が金田一映画のマニアであることを知っているはずもないのだが、それと知らず顧客の好みに合わせるところもまた、プロ並みである。

授業でチラシを学生に配りながら言う。

「このイベントにもし100人集まらなかったら、私は重大な決意を…」

学生たちは、またはじまった、と呆れた顔をした。

さて、先週の木曜日。別の職員さんから言われた。

「韓国の大学から、夏期学校の案内が来ています。ついては、近日中に参加を希望する学生への説明会を開かなければならないので、先生、説明会告知のポスターを作っていただけないでしょうか」

私は、その説明会を担当することになっていたのだ。

「はあ、わかりました。いつまでに作ればいいでしょう」

「なるべく早い方がいいですね」

「わかりました。では月曜日までに作ります」

とは言ってみたものの、この週末は結局、研究室の移転準備作業に追われていたので、ポスターのことなどすっかり忘れていた。

そして今日(月曜日)。

午前の授業が終わり研究室に戻り、ふと、ポスターのことを思い出した。

(い、いかん!ポスターを作らなければ!)

しかし午後からは、会議と授業で夕方まで時間がとれない。仕方がないので、お昼休みにあわててポスターを作ることにした。作る、といっても、ワープロソフトで作成するごく簡単なものである。

ひととおり作り終わって、大きくため息をついた。

(われながら、ビックリするくらいセンスがないなあ)

ほんとうに、驚くほどセンスのないポスターに仕上がったのである。いくらワープロソフトで作ったとはいえ、センスがないにもほどがある。

(でもまあ、ポスターといっても、せいぜいA3くらいに拡大して貼るのが関の山だから、そんなに目立たないだろう)

時間がなかったこともあり、そう思い直し、仕上がったポスター原稿を職員さんにメールで送ることにした。

さて夕方。

授業が終わり、建物の外にある掲示板のところを通ってビックリした。

お昼休みに職員さんに送信したポスターが、すでにデカデカと掲示されている。

そればかりではない。Sさんがデザインしたあのポスターのすぐ横に、しかもそのポスターとまったく同じサイズで、私が作ったセンスのかけらもないポスターが並んでいるではないか!

それにしてもビックリするくらい大きなポスターである。何もそこまで大きくして告知するほどのものでもないのに…。あれだけ大きいと、センスのなさも際だつというものである。

そして並べられているところを見ると、あたかも「センスのいいポスター」と「センスの悪いポスター」の見本市のように思えてきて、だんだん悲しくなってきた。

問い合わせ先が2つとも私の名前になっているのは、何ともシュールである。

これはあれか?私をはずかしめようとするプレイなのか?

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ラストスパート!

5月26日(土)、5月27日(日)

この週末は何をしていたかというと、研究室移転のための準備作業である!

いよいよ、研究室移転のためのタイムリミットが近づいてきた。

学生アルバイトを募集したところ、土曜日は4人、日曜日は5人が来てくれた。2日とも、午後1時から夕方までの作業である。

一人では、まったく作業がはかどらないが、やはり手伝ってくれる人がいると、かなりはかどる。

「先生、これはどうしますか?」と、常にその場の判断を求められるので、それが、片づけには功を奏するようである。

とくに懸案となっていた机まわりも、だいぶスッキリしてきた。

いろいろなものも出てくる。

12年前、「新進気鋭の研究者」として地元の新聞にとりあげられたときの記事が出てきた。

「ワッカイですねえ、先生」新聞記事を見た学生たちが口をそろえて言う。

そうか、やはり12年もたつと年をとるわけだ。それに、12年前は「気鋭」だったんだねえ…。今なんてもう…。

机の上を整理していると、あるリーフレットがまとまって出てきた。

「ちょっとちょっと、みんな来てごらん」私は5人の学生を集めた。

「この、1号と、3号と、5号を、よーく見てごらん」

私は、先日発見した事実を話しはじめた。

「…ね?どう思います?」と私。

「ヒドイと思います」

「こんなことになっているなんて、知りませんでした!」

まあ、当然の反応だろう。

…と、そんなことをやっているから、片づけがなかなか進まないのだ!

だが、2日間、学生に手伝ってもらったおかげで、9割がた、片づけは終わった!

ただいまのところ、ダンボール箱にして約210箱!

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謎のオカベさん

謎のタカダさん

5月25日(金)

往復100㎞の逆襲」と題して、夕方にこぶぎさんやKさんのいる「前の職場」に電撃訪問をした話を書こうと思ったが、すでにこぶぎさんがコメント欄で電光石火のごとくそのときの顛末を書いてしまっているではないか!すっかり先手を打たれてしまった。

まあ、例によって夜の12時近くまでこぶぎさんとKさんと3人で「ガスト会議」をして、コメント欄にあるような話をしていたわけだが、…あ、今日はガストではなく、トンカツ屋だった…、ともかく片道50㎞の道を往復して、帰宅したのが午前1時である。結論、「往復100㎞の友情」は、楽しいけれどかなり疲れる。

うーむ。先手を打たれてしまったので、コメント欄に書かれた内容と別のことを書かなければならない。何を書いたらよいものか…。

先日、研究室の移転準備のために部屋の片づけをしていると、ホッチキスで綴じた、1冊の分厚い冊子が出てきた。

10年ほど前に、前の職場の同僚のOさんが、学生を連れて韓国に実習に行った際に作った、「旅のしおり」である。この時、私と、私の妻、そしてこぶぎさんも同行したのである。

Oさんは、学生を引率して韓国に実習に行くたびに、分厚い「旅のしおり」を作っていた。そこには、実習中の行動計画やその移動方法、さらには見学先の詳細なガイドや、韓国語の基礎知識など、実習に関わるありとあらゆる情報が集成されていた。持っていくのが億劫になるくらい、詳細をきわめた「旅のしおり」である。

しかし、たいていの場合それは、およそ現実的な計画とはいえなかった。Oさんが机上で立てた計画は、無理がありすぎて、計画通りに行ったためしがなかったのである。…いや、正確に言えば、非現実的な計画に現実を無理やり合わせようとして、最終的にはみんながヘトヘトになる。

今から10年ほど前のその旅も、まさにOさんによる「机上の空論の計画」にふりまわされた旅だったのである。

「旅のしおり」のことを、今日の「ガスト会議」でこぶぎさんやKさんに話すと、

「よくとってあったねえ」とこぶぎさんが驚いた。

「こぶぎさんは持ってないの?」

「もう捨てちゃったよ。とっておけばよかった」

こぶぎさんとKさんと私で、Oさんの思い出話に花が咲く。

Kさんは、Oさんの韓国実習に同行したことはなかったのだが、話を逐一Oさんから聞いていて、Oさんの企画した旅がいかにタイヘンなものであるかを、よく知っていた。

さて、この旅の思い出話をしているうちに、こぶぎさんと私と私の妻のほかに、もう1人、外部の参加者がいたことを思い出した。

オカベさん、という謎のオジサンである。

私たちが博多港からフェリーで釜山に着くと、リュックサック一つ背負ったオジサンが待っていて、「やあ」と私たちに挨拶した。

どうやらOさんの知り合いらしかったが、Oさんはその人を、「オカベさんです」と紹介するだけで、オカベさんがどんな人なのか、自分とはどういう関係なのか、などを、まるで説明しない。

オカベさん自身も、自分のことをまったく語らない。

ただ私たちと一緒に旅行して、とりとめのない会話をするばかりである。さらに不思議なことに、唯一の知り合いであるはずのOさんとも、さほど会話をしていないのである。

実習の初日から最終日まで、ずーっと一緒だったのだが、結局、オカベさんが何者なのか、よくわからなかった。

そして最終日、私たちが福岡に渡るビートル(高速船)に乗るために釜山港に到着すると、「それじゃあ」と言って、オカベさんはどこかに去っていった。

オカベさんは、いったい何者だったのだろう?

帰国後、いつしか私たちのあいだでは、その人のことを「謎のオカベさん」と呼ぶようになった。

「話していて、久々に謎のオカベさんのことを思い出しましたよ」と私。

「提案なんだけどさあ」とこぶぎさん。「もし今後、2人のうちのどちらかが韓国に学生を連れていく機会があったとしたら、もう一方が『謎のオカベさん』みたいな感じで、突然現れて、なんの説明もなく一緒に旅をして、最終日の空港あたりで「じゃあ」と言って去っていく、てのはどう?」

「いいですねえ」

「学生たちは、『誰あのオジサン?』って不思議に思うだろうけど、一切説明をしないで一緒に旅をする、というわけだ」

「今度は我々のどちらかが『謎のオカベさん』になるんですね!」

「そう!」

これくらいのことだったら、近いうちに実現しそうな気がする。

そしてもし私が学生を引率して韓国に行く機会があったとしたら…、

Oさんに負けないくらいの、分厚い「旅のしおり」を作ってやろう。

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空の下の作業、開始

5月24日(木)

夕方6時過ぎ、「丘の上の作業場」に行く。

今日から、念願の「空の下の作業」である!

記録によれば、「丘の上の作業場」で「空の下の作業」がはじまったのが昨年の5月17日だから、ほぼ1年が経過したことになる。

久しぶりの「空の下の作業」なので、心なしかウキウキする。世話人代表のKさんも、いつになくウキウキしている様子だった。

目の前に座ったのが、今年度から作業に加わった1年生のYさん。東京の洗足池の出身なので、Kさんが「洗足池さん」とあだ名をつけた。

Kさんが、Yさんに言う。

「オジサン2人に囲まれて、やりにくいでしょ」

「そんなことありませんよ」

「このオジサン」Kさんは私のことをさしていった。「こう見えて、昔は切れ者だったんですよ」Kさんは相変わらず私のことをからかう。

「ほんとですか」

「それが今じゃあ、こうしてハケを片手にせっせと砂を落としているんですから、人生なんて、わからないものです」と私。一同は爆笑した。

そこに一人の女子学生が通りかかった。

「何をやっているんです?」興味深そうに私たちの作業をのぞきこんだ。

「津波で砂をかぶってしまった書類を、こうしてハケで掃除しているんです」とKさん。「どうです?やってみませんか?」

「私にもできますか?」

「もちろんです」

聞くと、やはりこの大学の1年生だという。一ノ関の出身だということで、Kさんは彼女に「一ノ関さん」とあだ名をつけた。

飛び入り参加の学生も加わり、いつになくにぎやかな作業場である。

これも、「空の下の作業」のせいだろう。

丘の上に吹く心地よい風は、去年の今ごろに吹いた風と、少しも変わらなかった。

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まじめな話をしている横で

5月23日(水)

朝イチの授業が終わって研究室に戻ると、4年生のN君がやってきた。

「学生研究室の中にあるものを、耐震工事のためにすべて引き上げなければならないんですが、学園祭で使った看板、どうしましょうか」

Photo2 そういえば、学生がふだん使っている研究室も、来月からはじまる耐震工事のために使えなくなるのだった。そこには、昨年、一昨年の学園祭で使った、私のイラストが描かれた看板が保管されていた。

「捨てるのはしのびないから、ひとまず私が預かるよ」

「わかりました。では持ってきます」

しばらくして、4年生のCさんが、私の研究室に看板を持ってくれた。私はそれを、研究室の中に置いておいた。

さて、夕方。

気の重い会議が終わり、研究室に戻ると、しばらくして、「まじめで仕事のできるN先生」がいらっしゃった。

「ちょっと、さっきの会議の件で、重要な話が」

N先生は私の研究室に入り、職場の将来に関わる重要な話をされた。

私も、当然のことながら、それに対してまじめに受け答えをする。

しかし途中で、例の看板が置いてあることを思い出した。

Photo1 しかも、いま目の前でまじめな話をしているN先生のちょうど視界に入る位置に、それらの看板が置いてあるではないか!

そのことに気づいてからというもの、気になって気になって仕方がない。

心なしか、N先生も、その看板の方をチラッチラッと見ているような気がする。

私の顔がデフォルメされたイラストの看板が置いてあるのを見て、まじめなN先生は、どう思っているのだろう?

(こいつ、自分のキャラクターグッズ作ってるのかよ!キ~モチ~ワル~イ)

と思っているんじゃないだろうか、とか、

(こいつ、どんだけ自分のことが好きなんだ?!キ~モチ~ワル~イ)

と思っているんじゃないだろうか、とか、そんな妄想が頭をめぐりだした。

「いえ、これはですね、その…、学生が学園祭のときに作った看板でありまして、捨てるのがしのびなくて預かっているだけなのです」

と、喉元まで出かかったのだが、職場の将来を左右するほどのまじめな話をしている最中に、唐突にそんなことを言うこともできない。そんなことを言ったら、かえって「自意識過剰」と思われるに違いない。それに、そもそもN先生がこの看板のことをまったく気にしていない可能性もあるし。

「…ということで、そんな感じで進めましょう」

「そうですね。そうしましょう」

ひととおり話が終わり、N先生は、研究室を出ていかれた。

嗚呼、N先生は絶対、「こいつとはもうまじめな話ができない」と思って呆れて出ていかれたんだな、と、私はうなだれた。

こういうとき、軽く死にたくなるね。

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名探偵になれず

名探偵は誰か?

5月21日(月)

事務室に行くと、職員のNさんが私に言った。

例の鍵、M先生のものではありませんでした…」

「3F 資料室」と書かれた落とし物の鍵は、私が最初に推理した、甲学のM先生のものではなかったのだ。

私はその場で大きくうなだれた。

「結局私もハズしましたか…」これが当たれば私も名探偵!などと自信満々だっただけに、何とも恥ずかしい。

最後の頼みの綱であるM先生でもないとすると、もはや打つ手はない。

…いや、一つだけ手があるぞ!

「そうだ!この鍵を持って、3階の資料室を開けてみましょう。その資料室にある資料を見れば、どの専門分野の先生が使っていたものかがわかるはずです。その上で、鍵を落とした先生を推理すればいいんだ!」ひらめいた、といわんばかりに私は叫んだ。

「なるほど」とNさん。

「どうしてこんな簡単なことに最初から気づかなかったんだろう…」私は自分の推理の浅はかさを悔やんだ。

さっそく、鍵を持って3階に行き、「資料室」を開けてみた。

「なるほど、この部屋は、丙学と戊学が共同で使用している部屋のようですね」資料室に残されている文献から、丙学と戊学の共同使用の資料室であることは明白だった。

「戊学のN先生とF先生は、2人とも鍵の持ち主であることを明確に否定しているから、戊学の先生であるはずはない。丙学は、A先生は否定されたけれども、丙学の他の先生にはまだ確認していませんよね」

「ええ、そうです」

「丙学には、A先生の他に…、そうだ!O先生がいらっしゃる。鍵の持ち主は、O先生の可能性がありますよ!」

「そういえば、まだO先生には鍵のことをうかがっておりませんでした」

「もうこうなったら、O先生しか考えられません。これでもしO先生でなかったら私、自殺します!」これまでことごとく推理をはずしてきた私ももう、やぶれかぶれである。

「何もそこまで思いつめなくても…」

「とにかく、O先生に聞いてみましょう」

ちょうど運のよいことに、そこにO先生が通りかかった。

「O先生!この鍵に見覚えありませんかっ!!!」私はO先生に鍵を見せた。

「何です?藪から棒に」

O先生はそういうと、鍵をしげしげと見た。

「…こんな鍵、知りません」

「えええぇぇぇぇぇっ!!!知らないんですか?」

「だいいち、僕はこの資料室とやらに入ったこともありません」

「で、でも…この資料室には丙学に関する文献が保管されているんですよ」

「でも、知らないものは知らないんですよ」

うーむ、どういうことだ??わけがわからない。

「ほかに丙学を教えている先生って、いらっしゃいましたっけ?」

「I先生ですね」

「I先生!?」

そうか、もうひとり、I先生がいらっしゃったか…。まったくノーマークだった。

「すいません。お騒がせしました」私はO先生にお詫びした。

O先生が去ったあと、私はNさんに言った。

「結局、またハズしてしまいました…」

「気になさることありませんよ。みなさんハズしていらっしゃいますし…。とりあえず、あとでI先生に連絡をとってみます」

慰めともつかない言葉をいただき、研究室に戻った。

はたして鍵の持ち主はI先生なのか?

…もう、どうでもよくなってきた。

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初潜入!音楽練習スタジオ

5月19日(土)、20日(日)

木曜日の授業のあと、ロックバンドのサークルに入っている3年生のAさんに、

アルトサックスの練習をしたいんだが、どこかいい練習場所がないだろうか」

とたずねると、

「大学の近くに、音楽練習スタジオがあるでしょう。そこにたしか、個人用の練習室があったと思いますよ」という。

職場近くの音楽スタジオは、私も毎日、通勤途中に横を通っていたので、よく知っていた。

しかしあそこは、ロックバンドの若者たちが使う練習スタジオだしなあ。私のようなオッサンが利用してよいものか。

とりあえず、電話で聞いてみることにした。

「あのう、アルトサックスを練習しても大丈夫でしょうか」

「大丈夫ですよ」

「一人で音出しをするだけなんですが」

「ええ、大丈夫です。お時間はいかがしますか。1時間単位で予約することができます」

1時間では短いかな、と思ったが、初めてなので「じゃあ、1時間でお願いします」と、予約した。

まるで映画「Shall we ダンス?」の役所広司みたいな心境である。

さて19日(土)。

練習スタジオの建物に初めて潜入すると、中は完全な「ロックンロール」である!

やれロックバンドのライブのポスターだの、「バンドメンバー募集」のチラシだの、といったものが壁いっぱいに貼ってある。

受付には、「ロックンロール」な若者がいた。

「いらっしゃいませ」

「予約していた者ですけど」

どうみても、私は完全に「場違いな人間」である。

「こちらです」

Photo 個人練習室に案内された。何となく、一人でカラオケボックスに入るような心境で、どうにも気恥ずかしい。

練習室に入り、さっそくアルトサックスを吹き始める。

周りを気にする必要がないので、気兼ねなく大きな音で練習を始めた。

だが30分もすると、唇に限界が来た。

(こりゃあ、1時間くらいでちょうどよかったな…)

1時間がたったので、練習室を出て、受付に行くと、さっきと同じ「ロック」な若者がいた。

「あのう…明日も予約したいんですが…」

「大丈夫ですよ。今日と同じ部屋をおさえておきます。時間は?」

「1時間でお願いします」

「かしこまりました」

というわけで、20日(日)。再び音楽スタジオで1時間ほど練習した。

不思議なもので、昨日よりも確実に上達しているのが、自分でもわかる。唇の疲労も、昨日よりひどくはない。

練習を続けさえすれば、まだ何とかなるかもしれない、と確信した。

Photo_2 しかしながら問題は、私の楽器である。

なにしろ、15年近くも吹いていないのである。しかも、高校時代に買って以来、いまだかつて、修理に出したことすらないのだ。

童謡「クラリネットをこわしちゃった」ではないが、「出ない音」もあるのである。

この楽器をはじめて手にしたのは15歳の時だから…、今から28年も前だ!つまり28歳。人間にたとえると…何歳くらいなのだろう?

1時間の練習を終え、練習スタジオの隣にある楽器屋さんに、アルトサックスを持っていって、見てもらうことにした。

狭い店なのだが、若い女性店員が4人ほど、所狭しと机に座っている。

「あのう、楽器を見てもらいたいんですが…」

「修理でしょうか?」

「いえその…こわれた、というわけではないんですが、もう15年近くも使っていなくて、音も出しづらい感じがするので、見てもらおうと」

「かしこまりました。ちょっと拝見させていただきます」

楽器を見てもらっているあいだ、店内を見渡すと、なんと、ナベサダ(渡辺貞夫)さんの写真が貼ってあるではないか。

ここの店長、ひょっとして、ナベサダさんのファンなのだろうか、と想像した。

「お待たせいたしました。だいぶ、楽器が傷んでおりますね」

「やはりそうですか」

「この機会に、修理された方がいいと思います」

「このまま吹き続けてはダメですか?」

「ええ、無理に音を出そうとするあまり、ヘンなクセがついてしまいます」

「修理すると、やはり吹きやすくなりますか?」

「そりゃあ、もう」

ということで、修理をお願いすることにした。28年間もほったらかしにしていたのだから、無理もない。

楽器が戻ってくるのは、約2週間後である。

それまで、アルトサックスとはしばしのお別れである。

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名探偵は誰か?

5月18日(金)

先週のことだったか。

職場の事務室に行くと、職員のNさんが私に言った。

「あのう、…この鍵に見覚えはありませんか」

見ると、部屋の鍵である。鍵には小さなラベルが貼ってあって、そこに「3F 資料室」と書いてある。

「どなたかが落とされたようなんです」

「3階の資料室の鍵ですね」

「はい」

「私が関わっている資料室は4階ですからねえ。私の管理している鍵ではありませんねえ」

「そうですか…では、どなたのか、心当たりはありませんか?」

資料室は、専門分野ごとにわかれて、建物の各所に分置されている。3階には資料室がいくつかあり、たんに「3F 資料室」だけでは、どの専門分野の資料室かは、わからないのである。

「そういえば、この資料室は、近々耐震補強工事のために移転しなければいけない部屋ではありませんか?」と私。

「ああ、そうかも知れません」

「移転の準備で部屋を使用したときに、落とされたのかも知れませんね」

「なるほど」

そこで私は思い出した。

「ひょっとしたら、甲学のM先生がお持ちになっていた鍵ではありませんか?そういえば数日前、3階の資料室をM先生が片づけておられたようですよ」

「きっとそうかも知れません。ありがとうございます。あとでM先生に聞いてみます」

Nさんは安堵の表情を浮かべた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ…」私は、また別のことを思い出した。

「そういえば、乙学のT先生も、数日前に3階の資料室を片づけておられました。T先生の可能性もありますね」

そこへ、同じ乙学を専攻しているS先生が通りかかった。

「S先生、たしか、乙学の資料室は3階にありましたよね」

「うーん、あったかなあ。あったかも知れない」

「その部屋、T先生が管理されていませんでしたか?」

「あ、そうそう。思い出した。たしかTさんが管理されていた」

「耐震工事のために移転しなければならないでしょう」

「そうそう。あの部屋のことは、Tさんにすべて任せているんだった」

「すると、この鍵は、T先生が持っていたものの可能性があるわけですよね」

私は鍵を、S先生に見せた。

「たしかにそうだ。Tさんが持っていた鍵かも知れないね」

「じゃあ、T先生の鍵の可能性が高いですね。あとでT先生に聞いてみます」一部始終を聞いていた職員のNさんは言った。

さて、それから数日がたった、今日。

事務室に行くと、Nさんが話しかけてきた。

「あのう、先日の鍵の話なんですが…」

「あの鍵、どうなりました?」私も少し気になっていたのだった。

「T先生の鍵ではなかったようです」

「そうでしたか」

「でも、そのあとが不思議なんです」

「どうしたんです?」

「T先生は、『この鍵には心当たりがある。丙学のA先生か、丁学のK先生が管理されている鍵ではないか』とおっしゃったんです」

「ほう」

「で、お二人の先生に確認してみたら、お二人とも、この鍵は自分のものではない、とおっしゃったんです」

「また違ったんですか」

「ええ。でもそればかりじゃありません。今度は、自分の鍵ではないとおっしゃったK先生が、『この鍵は戊学のN先生が管理している鍵に間違いない』とおっしゃるんです」

「ほう。どうしてまたそう断言したんでしょうね」

「『3F 資料室』の筆跡は、どうみてもN先生のものだ、と、K先生がおっしゃったんです」

「なるほど」

「K先生は、『もし僕の推理が当たったら、僕はこの職場の名探偵だな』などとおっしゃって」

k先生らしい言い方だ、と思った。

「でも、N先生にうかがったところ、『そんな鍵は知らない』と…」

結局、心当たりの人を「芋づる式」に聞いていっても、誰もその鍵については知らない、というのである。

「聞く先生、聞く先生、みなさん『違う』とおっしゃるんです」

「乙学のT先生、丙学のA先生、丁学のK先生、戊学のN先生…。皆さん、自分の鍵ではないとおっしゃるわけですね…。ミステリーですねえ。いったい誰の鍵なんでしょう」と私。

「それより不思議なのは」Nさんが続けた。「お聞きした先生が、『自分の鍵ではない』と言ったあと、その鍵の持ち主を推理されることなんです。それも、かなり確信を持って『○○先生に違いない』と」

「ほう」

「でも、それがことごとくハズレるんです」

私は苦笑した。そもそも自分の推理も間違っていたからである。

「学問なんて、そんなもんなんですよ」と私。「自信をもって仮説を立てるけれども、実はたいした根拠がないのに結論を出したりしているんです」

「研究者の先生方は、たった一つの鍵にも、好奇心を持たれるんですねえ」Nさんはヘンに感心していた。

私はそのとき、ハタと思い出した。

「そういえば、甲学のM先生には聞いてみましたか?」

「あ!そういえば忘れていました」

私は最初に、甲学のM先生の可能性をあげたのだった。しかしその直後、乙学のT先生の名前があがり、同じ乙学のS先生の意見に流されて、T先生ではないか、ということになったのである。

「そうでした!M先生の可能性もあったんですよね。あとで聞いてみます」

さて、私は研究室に戻ったが、その後も鍵の持ち主が気になって気になって仕方がない。

夕方、ふたたび事務室に行った。

「あのう、…鍵の持ち主、わかりました?」私はNさんに聞いた。

「いえ、M先生と連絡がとれなくて、まだ聞いてないです」

「そうですか」

「さっき、こちらに丁学のK先生もいらっしゃいました」

「ほう」

「『鍵の持ち主、わかった?』とお聞きになったので、『N先生ではありませんでした』と申し上げたら、うなだれて帰っていかれました」

やはりK先生も、自分の推理の結果を気にしていたのだろう。

「これで、この職場で名探偵になる可能性があるのは、あとは私だけだ、ということですね」

「そうですね」

さてさて、鍵の持ち主は、はたして甲学のM先生なのか?

…ということで、ひと言でいえば「鍵の持ち主が見つからない」というお話しでございました。

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「寝床」の旦那かっ!

5月16日(水)

今年のひそかな夢は、10月の学園祭で、1曲でいいからバンドをしたがえてアルトサックスを演奏することである!

だがいま困っているのは、練習場所とバンドのメンバーが見つからないことである。

先週の水曜日、研究室にやって来た3年生のNさんに聞いてみることにした。Nさんは吹奏楽団に所属している。

「あのう…、例えば、例えばだよ」

「何です?」

「いつも、夕方に吹奏楽団が個人練習しているスペースあるよね」

「ええ、あります」

「そこで、私のような者が混じって楽器の練習をしたとしたら、ヘンだろうか」

「そりゃあ、ヘンですよ。『何このオジサン』みたいな」

オジサンって…。

Nさんに一蹴されたので、吹奏楽団のメンバーに混じって練習することを断念した。

先週の土曜日(13日)、何もする気力が起きなかったので、アルトサックスが練習できる場所を探しに、車でロケハンを敢行することにした。といっても、家の近所である。

中学校わきのグランド、山のふもとにある公園、近くを流れる川の河原などを見てまわるが、どこも、音を出すには迷惑がかかりそうなところばかりである。昔はよく河原で練習したものだが、いま住んでいるところの近くを流れる川は、週末になるとバーベキューをする家族連れで賑わったりしているので、どうにも恥ずかしい。

(困ったなあ)

結局、適当な練習場所を見つけられなかった。

次に、バンドのメンバーを見つけることである。こちらの方がはるかに難しい。

いま、ロックバンドのサークルの顧問をしているから、サークルの学生にお願いして手伝ってもらおうか、という考えがよぎったが、同時に、「寝床」という落語を思い出した。

大家の旦那が、義太夫が好きで、暇さえあれば誰かに語りたがるが、これが下手で下手で聞くに堪えない。長屋の店子(たなこ)たちも、近所の人たちも、下手な義太夫を誰も聴きたがらず、仮病をつかってなんとか旦那の義太夫から逃げようとするのである。

私のアルトサックスも、落語の「寝床」に出てくる旦那の義太夫のようなものかも知れない。

「バンドやろうぜ!」とでも言おうものなら、「やっかいなオッサンに関わりたくない」と、学生たちは蜘蛛の子を散らすように、逃げ出すだろうなあ。

そう思うと、もう一歩も足を踏み出せない。

うーむ。どなたかいい知恵を持っている方はいらっしゃいませんか。

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映画的余韻・金田一映画篇

5月14日(月)

映画「悪霊島」を見返してみた。

横溝正史のおどろおどろしい世界観をビートルズで煮しめたことはさておきですよ。

…いや、さておかないぞ。

企画会議で、

「設定は1960年代後半だし、…どうだろう。ビートルズ世代にうったえかける意味で、ビートルズの音楽を使う、というのは」

「いいですね!グッドアイデアですよ!金田一耕助にビートルズ…。斬新じゃないですか!金田一耕助をヒッピーに見立てるんですね!」

みたいな会話が、したり顔で行われていたかと思うと、ちょっと脱力するなあ。

とはいえ、当時中学1年生だった私はまんまとその戦略にのせられ、ビートルズの音楽が頭から離れなくなったわけであるから、結果的には成功したんだろう。

それよりも、映画「悪霊島」の演出がなじめなかった理由が、わかった。

それは、「心の声」をセリフにしているからである!

周囲に誰もいないのにもかかわらず、

「おや、これは○○ではないか。おかしいなあ。何でこんなところに、こんなものがあるんだろう?」

みたいな独り言を言っているシーンがあって、それがいかにも、とってつけたような説明口調のセリフなのだ。

ふだんの生活で、そんな独り言なんぞ言わないだろ!と思ってしまうと、もうその時点で、映画にはのめり込めなくなってしまう。

あと、金田一耕助(加賀丈史)が、磯川警部(室田日出男)から電話を受けるシーン。

「そうですか…。死因は墜落死だけじゃない。その前に首を絞められた形跡がある…。」

磯川警部の言ったことを、電話口で復唱するのである。これもまた、説明口調のセリフで、リアリティがない。

演出をしている時点で、そのリアリティのなさに、気づかなかったのだろうか?

それとも、それを承知で、あえて説明口調のセリフを入れたのか?

どちらにしても、私にとっては残念な演出である。

そう思うと、市川昆監督による初期の金田一映画はよかった。

Tdv2747d とくに、映画「悪魔の手毬歌」のラストシーンは、日本の映画史上に残る名シーンである!

事件が解決し、駅のホームで金田一耕助(石坂浩二)が磯川警部(若山富三郎)と別れる場面。

金田一耕助が磯川警部に「あるセリフ」を言ったあと、汽車が走り出す。

走り去る汽車のデッキに立つ金田一耕助は、駅のホームで見送る磯川警部に2回ほど、実直に頭を下げる。

この、2回頭を下げるのがいいんだよなあ。

うーむ。思い出すだけで涙が出てくる。

オープニングのタイトルバックで、金田一耕助が沼のほとりを歩いている映像も、見ているだけでゾクゾクする。

そしてそこに流れる村井邦彦作曲の「哀しみのバラード」。

それだけで、もうその世界観にのめり込んでしまう。

映画の本質とはやはり、「映画的余韻」なのだ。

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1980年とビートルズ

5月13日(日)

やるべきことはたくさんあるのに、週末にひとりでぼんやりと過ごしていると、結局なーんにもせずに終わってしまう。軽く死にたくなるなあ。

そんなことはともかく。

NHK少年ドラマシリーズ 家族天気図」は、やはりいま見てもすばらしい名作である。1970年代末~80年代初頭の家族像を、これほどリアルに描いたドラマを、私は知らない。1980年当時、小学生だった人、中学生だった人、高校生だった人、大学生だった人、そして親だった人、すべてに見てほしいドラマである!1980年の家庭って、こんな感じだったのだ。

いま見ると、土屋嘉男と小林千登勢の「悩める親」に感情移入してしまうのは、私がその世代になったからだろう。ちなみにこのドラマのなかのエピソードの1つには、あの宮口精二が「人のいい老人」役で出ていて、土屋嘉男と楽しそうに会話をしている。映画「七人の侍」ファンにはたまらないシーンだぞ!

そして特筆すべきは、末っ子役を演じた斎藤ゆかりである。当時有名な子役だった斎藤こず恵の実の妹だそうで、私が子どものころよく見ていた「ケンちゃんシリーズ」というドラマにも、ケンちゃんの妹役で出ていた。その後、あまり見なくなり、いまは俳優業を引退しているらしい。

Img_720234_28565237_9 だがいまこのドラマを見ると、その達者な演技には舌を巻く。わかる人にだけわかってもらえればよいが、韓国のシットコム「明日に向かってハイキック」に出ていた天才子役・ソ・シネを彷彿とさせる。

ソ・シネの天才子役ぶりは、いま日本にいるどの子役も、おそらくはかなわないものだろう。だが、日本にもかつて、斎藤ゆかりのような天才子役がいたのである。

さて、「家族天気図」の全編に流れていた、ポール・マッカートニーの音楽(DVD版では、著作権の関係から音楽は差しかえられている)で思い出したが。

B00018gxv6 私がビートルズの曲をはじめて「ちゃんと」聴いたのは、1981年に公開された映画「悪霊島」(監督:篠田正浩)の挿入歌だった「LET IT BE」だったと思う。

金田一耕助の映画をきっかけにビートルズを聴く、というのが、いかにも私らしい。

1960年代末の瀬戸内の島を舞台にした映画「悪霊島」は、ビートルズ世代のヒッピーの青年(古尾谷雅人)を登場させたり、金田一耕助(加賀丈史)じだいを、当時の若者の象徴であったヒッピーになぞらえたりするなど、1960年代に青春をすごした「ビートルズ世代」へのオマージュみたいな映画だった。それだけに、いわゆる「金田一もの」としては、かなり異色の出来で、きっと金田一ファンにとっては、好き嫌いが分かれる作品であろう。

しかし私のように、この映画を見て、内容よりもビートルズの音楽が強く印象に残った人も多かったろうから、興行的には成功したのではないだろうか。

公開の前年、すなわち1980年12月8日にジョン・レノンが暗殺されており、映画はそのことを伝えるニュースからはじまる。つまり、本編にビートルズの曲を使用することになった背景に、ジョン・レノンの暗殺事件があったことは想像に難くない。

だが不可解なのは、映画で実際に使われた曲は、ジョン・レノンの曲ではなく、ポール・マッカートニーの「LET IT BE」であった、ということである。これには、首をかしげざるをえない。

ちなみに、「家族天気図」の第1回が放映されたのが、1980年12月22日。ジョン・レノン暗殺事件の直後である。だがドラマの音楽にポール・マッカートニーの曲を使用することは以前から決まっていたはずであり、ジョン・レノンの事件とは無関係であったと考えられる。

ではなぜこの時期、ポール・マッカートニーだったのか?

1980年1月、日本で公演を行う予定で来日したポール・マッカートニーは、成田空港で大麻取締法違反で現行犯逮捕される。このとき、日本での公演は、すべて中止になったのである。この事件は、スネークマンショーによってギャグにされており、私も後年、スネークマンショーのアルバムによって知ることになる。

ビートルズが解散して10年がたち、ポール・マッカートニー来日公演が幻に終わった1980年は、日本においてビートルズを回顧するまたとない年となった。それに加え、同じ年の年末にはジョン・レノンの暗殺事件が起こったのである。

1960年代に青春時代を送った人にとって、1980年という年は、ビートルズこそが思い出されるべき存在だったのだろうか。

当時小学校6年生だった私には、よくわからない。ただ想像するのみである。

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夕暮れ時のメロディ

1972年から1983年にかけて、NHKでは夕方6時から「少年ドラマシリーズ」という小・中学生向けのドラマを放送していた。

この、「少年ドラマシリーズ」を見て育った世代、具体的には、1972年から1983年にかけて小・中学生だった世代を、「少年ドラマシリーズ世代」と呼ぶことを提唱したい!

巷に流行る「アラフォー世代」なんて言い方より、よっぽど「同世代感」が強いと思うのだが、どうだろう。

といっても、小学生のころに見ていたドラマの内容は、そのほとんどを忘れてしまった。

それに加え、「少年ドラマシリーズ」は、フィルム撮影からビデオ撮影に切り替わる過渡期で、その頃のビデオテープは「重ね撮り」することがあたりまえだったため、NHKにマスターテープがほとんど残っていないのだという。

つまりは、まぼろしのドラマシリーズなのである。

現在ソフト化されているものは、当時の視聴者が録画したものをもとにしているという。

Ff1cb4ba そんな中で、私にとって、いまでも強く印象に残っているドラマが、「家族天気図」である。

1980年の放映というから、私が小学校6年生のときに見たドラマである。

「SFもの」が多かったシリーズの中で、地味なホームドラマというのは異色だった。だが私はこのドラマがめちゃめちゃ好きだった。

父(土屋嘉男)、母(小林千登勢)、そして長女(松原千明)をはじめとする4人の子どもたち。平凡な家庭だが、その周囲でさまざまな問題が起こり、ときに家族がぶつかり合う。

まだビデオデッキなんてなかったころだから、私はこのドラマを、心がザワザワしながら食い入るように見ていた。小学生が見るには、かなり重い内容だった。

だがそれ以上に、このドラマに釘付けになった理由がある。

それは、長女を演じた松原千明が、ビックリするくらい美しかったからである!

ショートカットでスラッとした大学生を演じていた松原千明は、小学校6年生の私にとって、憧れの女性であった。ほとんど恋をしていたといってもいい。

あれ?たしか小学校5年生のときには蝦名由紀子に恋をしていた、と前に書いたような…。

まあそれはよい。

私にとっては「『家族天気図』の松原千明」、という印象がとても強く、そのイメージが、かなりのちのちまで残像となった。

もう一つ、このドラマに釘付けになった理由がある。

それは、ドラマのテーマ曲として流れていたメロディである。

ギターを基調とした、物悲しいインストゥルメンタルの曲だったと記憶しているが、せつないメロディは、ドラマの内容や、放映時間が夕暮れ時だったこととも相俟って、とても心に染みたのである。

そして驚くべきことに、30年以上たったいまに至るまで、そのメロディは、私の脳内でくり返し流れているのである!

あのメロディは、何だったんだろう?数年前まで、そのことがずーーーっと気になっていた。だって、毎日のように、そのメロディが頭の中で流れるんだもん。

インターネットとは便利なもので、調べてみるとすぐにわかった。ポール・マッカートニーの「ジャンク(JUNK)」という曲である。より正確に言えば、「ジャンク」という歌のインスト版の、「シンガロング・ジャンク(SINGALONG JUNK)」という曲である。1970年に発売された、ポールのソロデビューアルバム収められている。

ええ、もちろん、数年前にCDを入手しましたよ。

私は、ビートルズはおろか、洋楽に関してまったく知識がない。にもかかわらず、たまたま小学校6年生のときに聞いて、30年たっても耳について離れないメロディが、実はポール・マッカートニーの曲だった、て、すごいことではないか!やっぱり彼の音楽は、時代を越えて心に響き続けるものなんだなあ。

日々の生活の中で、心配事や悩み事がとぎれることはない。だが彼の音楽は、そのすべてを包み込んでくれるのである。

ただ、もしこのドラマとは無関係に、「JUNK」という曲を聴いたとしても、これほど印象には残らなかったかも知れない。このドラマのテーマ曲だったからこそ、である。

そう考えると、音楽というのは、やはり「聴くタイミング」が重要なのかも知れない。

いまでも夕暮れ時になると、あのメロディが頭の中で流れ出す。

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丘の上に駆けつける人びと

5月10日(木)

昨日、今日と、クタクタである。

ま、私の周りにはもっと忙しい人がいるから、忙しいなどと嘆いてみても仕方がない。

夕方6時過ぎに仕事が一段落つき、「丘の上の作業場」に向かう。

「作業場」に到着すると、社会人、学生あわせて20人くらいが来ていた。今年度から新しく参加した人も多い。

作業をはじめて1年が経っているが、ますます活気づいているではないか。じつに不思議である。

どんなに疲れていても、ハケで汚れを落としながら、みんなでああでもないこうでもないと話しているうちに、昼間の疲れもしばし忘れてしまう。

続いている理由は、案外そんなところにあるのかも知れない。

今日は奥さんが残業なので、家事をするために、少しだけ作業をして早退する人。

仕事が長びいたため、終わる間際に駆けつけて、少しだけ作業をする人。

さまざまである。みんな、少しの時間でもかかわっていたい、と思っているのだろう。

世話人代表のKさんも来ていた。

「おとといはどうも」

おとといのこと、やっぱり書きましたね」

「すいません」

「書くと思ってました」

考えてみれば、Kさんと会うのは、今週これで3回目である。

ひょっとして、今週いちばん頻繁に顔を合わせたのは、家族や同僚などより、世話人代表のKさんだったのではないか。

そう思うと、少し複雑な気持ちである。

「今日は本当は、オモテで作業をやりたかったんですがねえ」と、「丘の上の作業場」のリーダーのYさん。あいにくの雨で、今日も作業は、建物の中である。

「来週からはオモテでやりたいですねえ」

「そうですねえ」

「空の下の作業」が、待ち遠しい。

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テレビに出た!らしい・老父篇

テレビに出た!らしい

テレビに出た!らしい・その2

しばしば書いているが、私の父は無趣味で、暇をもてあますことに関しては右に出る者がいない。

仕事を辞めてかれこれ10年以上もたつから、もう10年以上も暇をもてあましていることになる。

最近は、意味もなく車を運転して、あちこちの道の駅に行ったりしているらしい。

先日の大型連休、久しぶりに実家に立ち寄ったとき、父が言った。

「この前、道の駅に行ったらさあ。石ちゃんが来ていたんで、握手してもらったよ」

「石ちゃん?」

「ほら、『まいうー』の人」

「ああ、ホンジャマカの石塚さんね」

「撮影しているなんて知らなくってさあ。近づいていったら握手してくれたんだよ」

「へえ」

「そしたら、それがテレビに映っちゃったみたいで」

「え?」

なんと、父はテレビに出たらしい。

「ほら、土曜の昼にやっているやつ…」

「ああ、『メレンゲのなんとか』って番組?」

「そうそう」

首都圏ローカルの長寿番組である。たしか、若い女性向けの番組だったと記憶する。

「その番組を、たまたまキョウコが見ていて、『おじさん、テレビに出てたでしょう』と、電話をくれたんだ」

「キョウコ」というのは、私のいとこである。たしかに、キョウコちゃんくらいの世代がよく見ている番組である。

「それにしても、キョウコちゃんはよく気がついたねえ。1年に1度、会うか会わないかっていうていどなのに。しかも、映ったのはほんの一瞬でしょう」

ほんとうに不思議である。その番組のメインは、「石ちゃん」が道の駅で美味しいものを食べまくる、ということであり、父と握手している場面などは、ほんの一瞬、映ったにすぎないはずなのだ。にもかかわらず、キョウコちゃんは、父の姿を見逃さなかったのである。

そういえば、映画「男はつらいよ」シリーズの中に、よくこんなシーンがある。

旅先の寅次郎が、なにかのひょうしに、チラッとテレビに映る。

たまたま、柴又の「とらや」でテレビを見ていた家族たちが、一瞬映った寅次郎の姿をめざとく見つけ、そこで寅次郎の安否を確認するのである。

映画を見ていたときは、「そんな偶然なんて、あるかよ~」と思っていたのだが…、

あるんだね。そういうことが。

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うっかり往復100㎞

5月8日(火)

夕方、打ち合わせが終わって研究室に戻ると、携帯電話が鳴った。

「ご無沙汰してます。Aです」

大学の後輩のA君である。

「仕事でこちらに来たもので、いるかなあと思って電話しました」

「今どこ?」

「大学の建物の玄関です」

「え?下にいるの?」

「はい」

ということで、研究室まであがってきてもらって、しばし雑談。

「このあとお忙しいんですか?」とA君。

夕方6時から、いつものクリーニング作業をしに「丘の上の作業場」に行く予定だった。

かくかくしかじか、と、これまでの経緯を話すと、

「帰りの新幹線までまだ時間がありますから、一緒に行きましょう」という。

夕方6時。車で「丘の上の作業場」まで行くと、世話人代表のKさんがいた。

「今日は、作業、ないみたいですよ」

「え?そうなんですか?」

「私も勘違いして、来ちゃいました」

世話人代表のKさんとは、昨日夕方の、うちの職場でのクリーニング作業のさい、「じゃあまた明日」といって別れたばかりだった。

「てっきりあると思ってました」まあ、ちゃんと確かめなかった私の方が悪かったのだが。

それにしても、私はともかく、うっかり片道50㎞かけて来てしまったKさんの方が大変である。このあとまた、片道50㎞をかけて帰らなければならないのだから。

…あ!「恥ずかしいので誰にも言わないでくださいよ」とKさんに言われていたんだった。

だが、「うっかり往復100㎞」という言葉を思いついてしまったので、書いてしまった次第です。すみません。

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原点は「猟奇的な彼女」

この大型連休は、例によって韓国の番組や映画などを見て過ごした。

韓国KBS放送のバラエティ番組「1泊2日」が、リニューアルされ、新しいレギュラーが加わった。

「1泊2日」とは、簡単にいえば、アラフォーのオッサン芸能人7人が、1泊2日で韓国内を旅行して、その中で、さまざまなゲームをしたり、ミッションをクリアしていく、というバラエティ番組である。韓国では、知らない人がいないほどの超人気番組である。

新レギュラーのひとりが、俳優のチャ・テヒョンであった。

チャ・テヒョンといえば、映画「猟奇的な彼女」(2001年)である。

私が見た回では、映画「猟奇的な彼女」のロケ地である、江原道のチョンソンを訪れていた。

そこは、あの「松の木」のシーンを撮影した場所である。

チャ・テヒョンも、撮影当時からじつに12年ぶりに、この「松の木」と再会した。

この番組を見ていて、久しぶりに「猟奇的な彼女」を見たくなったので、見ることにした。

1644617610 この映画は、私がはじめて買った、韓国映画のDVDである。

10年ほど前、こぶぎさんに「絶対に見た方がいい」とすすめられて、とりあえずDVDを買った。

当時、韓流映画にまったく関心のなかった妻に、「そんな口車に乗せられてDVDを買うなんて、バカじゃないの」と叱られたが、実際に見てハマったのは、むしろ妻の方であった。

つまり、この「猟奇的な彼女」こそが、妻と私を、韓流の道に導いた原点の映画なのである。

じつに久しぶりに見たので、細かな場面をほとんど忘れていたが、あらためて見直してみると、やはりいい!

若者たちよ、とくに大学生たちよ、この映画、絶対に見るべし!

と、声を大にして言いたい。

好きな場面はいろいろあるが、私がとくに好きなのは、映画の後半で、キョヌ(チャ・テヒョン)が「彼女」(チョン・ジヒョン)のお見合い相手と話すはめになり、見合い相手の男性に、「彼女」とつき合う際の心得を話す場面である。

キョヌは本当は、「彼女」のことが好きなのに、その気持ちを押し殺して、「彼女」の見合い相手の男性に、「彼女とつき合う心得」を語り出すのである。

この場面は、何度見てもいい。

今回、あらためて見ていて気がついた。

この、「お見合い相手の男性」の役をやっているのは、イム・ホではないか!

Img_106057_198865_1 イム・ホは、ドラマ「チャングムの誓い」で、チャングム(イ・ヨンエ)にフラれる、なさけない王様を演じた俳優である。

決して不細工な俳優ではないのだが、というより、「古いタイプの男前」といった感じの顔なのだが、演じる役は、なぜか情けなくフラれる、という役が多い。つまり「引き立て役」である。

ということで、イム・ホが出てくると、私たちのあいだでは、「この人、またフラれるぞ」という「フラグが立つ」のである。

映画「猟奇的な彼女」でも、さりげなくそのフラれ役を演じている。

映画の中でもとりわけ印象深いあの名場面は、そこで「受けの演技」をしているイム・ホがいればこそだったのだな、と、あらためて実感した。

これからも、何度となくこの映画を見るだろう。なぜなら、私にとって原点の映画だから。

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雨を呼ぶアルトサックス

5月3日(木)~5日(土)

今年の大型連休は、家族と過ごすことを優先して、ほかの用事を入れないことにした。

先日の、2年生歓迎会の2次会のおり、4年生のN君が言った。

「先生、パヒュームってご存じですか?」

「ああ、知っているよ。たしか、3人組の女性ユニットでしょう」

「ええ。僕、パヒュームのすっごいファンなんですけど、最近は、ファンであることを通り越して、『俺はパヒュームになりたい!』と思うようになったんです」

20歳を過ぎた男性が、「パヒュームになりたい!」というのもどうかと思うが、その気持ちもわからなくはなかった。

「その気持ちは大事だよ。その気持ちを、これからも大切にしていったほうがいい」

私がN君に強くそう言ったのは、酔っていたせいもあるが、実は私も最近、「俺はナベサダ(渡辺貞夫)になりたい!」と、そのことばかり考えているからである。

憧れの人のようになりたい、というのは、ごく自然の感情なのである。

N君と話しているうちに、「そうだ!俺も15年ぶりに、アルトサックスを吹いてみよう!」と思い立った。

これは完全に、先日聴きに行ったナベサダさんのライブの影響である。

「大型連休後半」は、妻の家族と、とある高原で過ごすことになっていたが、その高原に、アルトサックスを持っていって練習することにしたのである。

高校時代から使っているアルトサックスは、実家に置きっぱなしになっていた。そこで、私の実家に立ち寄り、アルトサックスを引っぱりだして、車に積み、目的地の高原へと向かった。

さて、その高原にて。

3日(木)はひどい雨だったが、4日(金)は、多少天気は不安定なものの、晴れ間ものぞきはじめた。

「本当に練習するの?」妻は呆れ顔である。

「うん」

問題は、どこで練習すればよいか、であった。アルトサックスはとても大きな音が出るので、あまり他人様に迷惑がかからないような場所で練習しなければならない。妻に相談したところ、近くの農場に、だだっ広い芝生の広場があるから、そこで練習すればいいのではないかということになった。

車でその農場に行くと、さすが大型連休だけあって、広い芝生の広場には、子ども連れの家族たちがキャッチボールをしたり、犬を連れてきた家族が犬とたわむれていたりして、多くの人たちでひしめいているではないか。

そんな場所でアルトサックスなんか吹いてしまったら、うるさくて仕方がない。

しかし、楽器を持ってきてしまったので、いまさら後にひくこともできない。

Photo その広い芝生広場のいちばん奥の方は、あまり人がいないようだったので、そこに陣取って、楽器を吹くことにした。

「私は少し離れていますから」と妻は行ってしまった。他人のふりをしたいらしい。

15年ぶりにケースを開けて、中にあるアルトサックスをとりだした。

音を出してみる。

ブーッ!

どうやら音は出るようだ。しかも、思っていた以上に音がでかい。続いて音階の練習。

ピロピロピロピロッ!

さらに、ナベサダさんの曲!

○×※□△●~♪~

本人は、iPodに入っているナベサダの曲に合わせて吹いていて、気分はすっかりナベサダなのだが、周りで聞かされている方は、たぶん、騒音のように聞こえただろう。

最初は、周りにいる人たちのことが気になって気になって恥ずかしかったが、吹いているうちに次第に周りが見えなくなり、ガンガン音を出しはじめた。

(やっぱり、楽器を吹くのは気持ちいいなあ)

ひととおり吹き終わって、ふと周りを見渡すと、さっきまでいた大勢の家族たちが、すっかりいなくなっていた。

(あれ?おかしいなあ)

すると、遠くの方にいた妻が戻ってきた。

「サックスの音、この芝生広場じゅうに聞こえるよ」

妻は、芝生広場のいちばん端の、私から最も遠い場所まで行って聞いていたらしい。

「吹いていたら、周りで遊んでいた家族たちが、みんなどこかに消えてしまったんだよ」と私。

「犬を連れていた家族がいたでしょう。サックスの音が出はじめてから、その犬が飼い主に『早く帰りましょう』みたいな仕草をして、帰っていったみたいよ」

なんと、犬は、私のサックスの音に耐えかねて、どうやら帰ってしまったらしいのである。

こうなるともう、ほとんど騒音である。

「でも考えようによっては、周りに人がいなくなったんだから、気兼ねなく練習できるじゃない」と妻。

それもそうだ、と思い、ふたたび楽器を吹きはじめた。

すると今度は、

ザーッ

と、大粒の雨が降り出した。

「いったん戻ろう」

私たちは急いで駐車場に止めていた車に乗り込み、いったん別の場所で買い物をすることにした。

しばらくすると、雨がやみ、少し晴れ間が見えだした。

「雨がやんだようだ。もういちど行こう」

「また行くの?」と妻の呆れ顔。

再び車に乗って広い芝生広場に行くと、やはりまた、広場は家族たちでごった返していた。

だが今度は2度目であるから、最初の時のような恥ずかしさは消えていた。

調子に乗って、

ブーッ

ピロピロピロピロッ

○×※□△●~♪~

と、自分の世界に浸ったあと、ふとまわりを見渡すと、

…さっきまでいた多くの家族連れが、やはり誰もいない。

それからほどなくして、

ザーッ!!

また雨が降り出した。

あわてて車に戻る。

「まるで雨乞いの音楽みたいですな」と妻。

ジャズを吹いていたつもりだったんだが、空の神様には、雨乞いの音楽に聞こえたようである。

「どうやら『サックスの神様』ではなく、本当の神様の心を動かしたようですな」と妻のダメ押し。

すっかり落ち込んで、いそいそとひきあげたのであった。

翌日(5日)。快晴である。

「まさか、今日も練習に行くの?」と妻。

「昨日の場所は、周りに人が多すぎていけなかった。昨日と違う場所を探そう」

と、車に乗り、楽器を練習できそうな場所を探した。

とりあえず、桜が咲いている公園を見つけた。

駐車場に車をとめると、金管楽器を吹いている音が聞こえた。

「あ!楽器を練習している人がいるぞ!ひょっとしてここは、楽器の練習スポットかも知れない」

同志を見つけた!という感じで、音が聞こえる方に向かうと、そこでは「さくら祭り」というのをやっていて、もうすぐジャズコンサートが始まるのだという。金管楽器の音は、そのバンドの人たちのものだった。

「せっかくだから聞いていこう」

いちばん前の席に陣取り、彼らの演奏を聞くことにした。

彼らは、地元で演奏活動をしている、アマチュアのジャズバンドだった。

「デキシー ニューオジンズです!」司会者は、バンド名をそう紹介した。

「どういう意味?」妻が私に聞く。

「デキシーランドジャズっていうジャズのスタイルがあって、それがいってみればジャズの発祥みたいなものなんだが、それがアメリカのニューオリンズではじまったんだ。だから『ニューオジンズ』は『ニューオリンズ』のダジャレだよ」

オジサンばっかりのバンドだけに、バンド名までオヤジギャグである。

トランペット、クラリネット、テナーサックス、トロンボーン、キーボード、ギター、ベース、ドラム。まさにデキシーランドジャズのスタイルである。

Photo_2 演奏がはじまった。誰でも知っている親しみやすい曲ばかりで、大人から子どもまで楽しめる演奏である。風が強くて譜面が風で飛ばされるというハプニングがあったりして、演奏するにはとてもいい環境とは思えなかったが、それでも青空をバックに、オジサンたちはとてもかっこよく見えた。

私は、どんなアマチュアバンドでも応援することにしているので、演奏が終わると、力いっぱい拍手した。

「不思議ねえ」と妻。

「何が?」

「だって、本当は昨日(5月4日)、お仲間たちの演奏会があったんでしょう」

5月4日は、高校時代のOBで作っている吹奏楽団の、年に1度の定期演奏会が東京で行われていた。私が15年前まで参加していた楽団である。私は昨年に引きつづき、その演奏会の司会を頼まれていたのだが、大型連休は家族と過ごしたいと思い、直前になって司会を辞退したのであった。

「結局今年も、同じように、演奏会を聞いているじゃない」

なるほど。結局私は、こういうことに憧れているんじゃないか、と、苦笑した。

「この楽器、勤務地に持って帰るよ」と私。

「本気で言ってるの?」

「時間を見つけて、また少しずつ練習しようと思う」

「どうぞご自由に。でもその楽器、わが家に置いておかれるのだけは勘弁。ちゃんと責任もって持っていってよ」

勤務地にもどったら、練習場所を探さなくちゃな、と、本気で考えはじめている。なにしろ、私が吹くアルトサックスの音はとてつもなくうるさく、空の神様が驚いて雨を降らせかねないのだから。

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午前0時の黒霧島

5月2日(水)

朝イチの授業のあと、書類作成だ会議だと仕事をすませていくと、あっという間に午後1時である。

今日は午後1時から、懸案の「資料室」の引っ越し作業を、学生たちに手伝ってもらうことになっていた。

10人くらいの学生が手伝ってくれたおかげで、夕方までに、2つの部屋の「雑誌箱詰め作業」が終わった。

夕方6時半からは、「2年生歓迎会」である。

この4月からいよいよ専門課程に進む2年生たちを歓迎する、毎年の恒例行事である。

例によって、こういう大勢の集まりになると、心がどんよりし始める。

1次会が終わり、店を出たところで、3年生のNさん、Sさん、Aさんに言う。

「やっぱり、私はダメだな」

「何を言うんですか、唐突に」

「いや、私なんかもう本当にダメなんだ」

「そんなことありませんよ!」

3年生たちは、またはじまった、と呆れているようだった。

「私たち、1次会で失礼します」3人が口をそろえて言う。

「そう、じゃ、また来世で会いましょう」

「何を言ってるんですか!」

3人は完全に呆れて、帰っていった。

2次会では、4年生のN君、O君、Uさん、それに卒業生のT君たちも合流した。

そんな中、1次会の途中から、私の与太話を熱心に聞いてくれている学生がいた。3年生のT君である。

T君は、近く中国に1年間の短期留学をすることが決まっていた。

で、私が、韓国での留学体験談を話すと、身を乗りだして聞きはじめたのである。

途中、酔った4年生のFさんがチャチャを入れようとしても、

「ちょっと黙ってくださいよ!」と制止したりしている。

「先生!黒霧島を飲みながら、話の続きをしましょう!」会場が2次会に移ったあとも、彼は私の話を聞こうとした。

T君は、1年間の短期留学を決めたことにともなって自分の中でわき起こってきた、さまざまな心配事を、どう解決していいのか、悩んでいるようであった。

それは、この年齢の若者ならば誰でも抱えうる悩みである。

「大いに悩め!悩んで悩んで、悶絶するくらい悩め!」と私。「人間には『悩む力』が必要なんだ!」私はベストセラーの新書のタイトルを拝借して、T君に言った。

「なるほど、『悩む力』ですか。いい言葉です」T君は言った。

「実は俺、先生のブログを読んで、中国に短期留学しようって決めたんです」

「え?」私は意外だった。T君がまさか、読んでいるとは思わなかったからである。

「4年生のOさんに勧められて、留学中のことを書いた部分を読んでみたんです。そしたら、中国人留学生たちのハチャメチャな行動が書いてあって、それを読んで、スゲエなって思って、こういう世界に飛び込んでみよう、と」

「そうか」私は、1級1班のころを思い出した。

「ふだん全然授業に出て来ないのに、野外授業(遠足)の時だけはりきって参加する留学生がいたって話があったじゃないですか」

「あったあった」1級1班の問題児だった、リ・ヤン君のことである。

「ああいう話を読んで、おもしれえなあって思って…。それに、『猟奇的な先生』。あの先生、すごいですねえ」

久しぶりに「猟奇的な先生」というフレーズを思い出した。

「いろいろな先生に留学を勧められましたけど、最終的に後押ししたのは、あのブログなんです」

なんと!Oさんに続き、これで2人目である。

「実は俺の親父も、先生のブログを読んでいるんです」

えええぇぇぇぇ!!

さらにビックリである。

「いつか、韓国の留学体験記を本にするのが夢でね」私は、冗談半分で言った。

「そしたら、絶対買います!俺の親父も絶対買うはずですから、少なくとも2冊は売れるはずです!」

「あなたも、留学したら絶対に日記をつけなさいよ。それも、日本語と中国語で」

「わかりました」

そんな話をしていたら、すっかり声が枯れてしまい、気がつくと夜12時を越えていた。

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バレエ・メカニック

最近、つくづく思うのは、「思春期に聴いた音楽こそが、その後の音楽の趣味を決定づける」ということである。

この日記で、やれYMOだ、やれナベサダだ、やれ大貫妙子だ、やれ矢野顕子だ、などと書いているが、それらは結局のところ、私が思春期に聴いた音楽に対する思い入れを書いているにすぎず、いくら私が熱っぽく語ったとしても、そうでない人にとっては、「はあ?」という感じになる。

たとえば、YMOの曲を妻に聴かせても、「どこがいいのかまったくわからん」と言われるのは、そういうことである。

つまり、どのタイミングで、その音楽を聴くか、ということである。そのタイミングが合えば、「わかるわかる」ということになるし、タイミングが合わなければ、一生、わからないことになる。

こんなことを書いたのは、思い出したことがあったからである。

坂本龍一に「未来派野郎」(1986年)というタイトルのソロアルバムがあって、まあ、坂本龍一のファンでなければ買わないアルバムだと思うのだが、その中に、「Ballet Mecaniqu(バレエ・メカニック)」という曲があった。

坂本龍一は80年代当時、YMOや映画のサントラなどではとても売れていたが、ソロアルバムは、自分の世界観を追求している作品が多く、それほど売れていたわけではなかった。むしろどちらかといえば、地味なものが多かったのである。「未来派野郎」もそうであった。

私は、このアルバムに収録している「バレエ・メカニック」という曲がとても好きだった。何かこう、心がザワザワするというか、せつなくなるというか、とにかく、地味だけれども、耳について離れない曲だったのである。

とくに、英語の歌詞から日本語の歌詞に移るところ、

「ボクニハ ハジメトオワリガ アルンダ

コウシテ ナガイアイダ ソラヲミテル

オンガク イツマデモツヅク オンガク

オドッテイルボクヲ キミハ ミテイル」

のあたりにさしかかると、何か、すごくせつなくなるのである。

たぶん思春期特有の、やるせない思いと、この曲の雰囲気がマッチしたのではないかと思う。

何年か前、私と同年代のラジオDJが、こんなことを言っていた。

「自分は音楽には全然詳しくないが、中学時代の友達がYMOのファンで、その友達に聴かせてもらった坂本龍一の「バレエ・メカニック」という曲がすごく好きだった。ふだん、自分の番組で自分の好きな曲をかけることはないけど、これだけは自分の番組が最終回を迎える時だけにかけようと決めていた。そして以前、長く続いた深夜番組の最終回の時に、この曲をかけた」

この話を聞いて、なんとなくうれしかったのは、「バレエ・メカニック」という地味な曲が、鬱屈した思春期を過ごしていた少年にとって「特別な1曲」として心にひっかかっていたのは私だけではなかった、ということだった。坂本龍一のファンでもなんでもないその人の言葉だけに、なおさらうれしかったのである。

ぜんぜん世の中を席捲した曲でもないのに、そのラジオDJも私も、その曲が「特別な1曲」であると思ったのは、その曲の持つ力もさることながら、その曲を、思春期のある時期に、何らかの思いをもって聞いていたからではないだろうか。つまり思春期の鬱屈した思いと、その曲に出会うタイミングが、合致したからではないだろうか。

「バレエ・メカニック」がいい曲だと思う人はいるとしても、私やそのラジオDJと同じような感じでこの曲に思い入れがある人は、どのくらいいるのだろう。

…と、ここまで書いてきて、「バレエ・メカニック」をまだ聴いたことのない方、どんな曲か、聴いてみたくなったでしょう。機会があったら、聴いてみてください。

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老木の桜

5月1日(火)

早朝、ふと思いたって、桜の古木を見に行くことにした。

水上勉の小説『櫻守』を読んで、エドヒガンの古木を見たくなったのである。

このロマンチシズム、誰にも理解されないだろうなあ。

車で1時間ほど行ったところに、エドヒガンの古木が点在する地域がある。人々はこれを「さくら回廊」と名づけている。折しもいまは、満開の時期である。

寝起きのまま車に乗り、とにかく「さくら回廊」に急ぐことにした。

数あるエドヒガンの古木のうち、目的の木は3箇所である。

S町にある、「山なみを背景に屹立する桜」。

やはりS町にある、「お堂の前に屹立する桜」。

N市にある、「満身創痍の桜」。

Photo_2 まずは、S町の「山なみを背景に屹立する桜」を見に行く。樹齢推定800年の古木である。

この桜が好きなのは、背景の山々の残雪とのコントラストが、じつにすばらしいからである。

三脚に一眼レフを据えて、雲や光のタイミングをはかっている人や、桜の前に腰掛けて大きなスケッチブックに絵を描き始める人などがいた。

うーむ。私も一眼レフがほしいなあ。

Photo_3 ここから歩いてすぐの所に、「お堂の前に屹立する桜」がある。樹齢は1200年と推定されている。狭い敷地にひっそりと立っていて、「山なみを背景に屹立する桜」とは、また違った趣がある。古いお堂の前に立っている、というロケーションがじつにいいのだ。

今度は車でN市に移動する。「満身創痍の桜」を見に行くためである。

Photo_4 数年前、「桜について講演してください」という依頼があったのは、この「満身創痍の桜」のある町からである。主催者、というか、仕掛け人だったその知り合いは、この「満身創痍の桜」の樹勢回復を、町をあげておこなうきっかけとして、そのシンポジウムを企画したのである。

桜は老木になると幹の内部が空洞になる。すると幹の内部から新たな根を発生させて地中にのばし、根を太らせ、それを次世代の幹として、若返りをはかるのである。

ところがこの桜は、江戸時代ごろに幹の内部が焼けてしまい、新たな根が出にくい状態になっていた。そこで数年前から、新たな根を発生させるための治療をおこなっていたのである。

つまり若返りをうながすための治療をおこなっている最中なのであるが、樹齢推定1200年の老木は、今年もまた、花を咲かせたのであった。

地元の人たちによって桜の古木が守られる様子は、小説『櫻守』の世界そのものである。

数年前、ほんの少しだけ、そのことにかかわることができたのは、私のひそかな誇りでもある。

だからこの「満身創痍の桜」には、ことのほか、思い入れが深いのである。

2 しばらくこの桜の周りを歩きながら眺めていると、老夫婦が話している声が聞こえた。

「この桜、薄墨桜よりもいいね」

「そうね」

薄墨桜とは、岐阜県にある「根尾の薄墨桜」のことであろう。どうやら2人は、全国の桜の古木をめぐっているようだった。

「なにより、自分の力で花を咲かせている」

老夫婦のうちの、夫の方が、しみじみと言った。

それはまるで、自分の人生と重ね合わせて出た言葉のようにも聞こえた。

多くの部材に支えられ、幹の内部に特殊な治療をほどこされ、そのうえ幹の部分に、包帯のようにシートをぐるぐる巻きにされ、痛々しい姿を見せながらも、それでもなお、毎年、力をふりしぼるようにして、決まった時期に花を咲かせる。

まるで、私たちとの約束を守るかのように。

この老夫婦は、その「約束」を確かめるために、桜を見に来ているのではないだろうか。

そんなことをぼんやり考えていると、2人は、ゆっくりとした足どりで、私の横を通りすぎていった。

老木の桜には、初夏のような暑い日差しが照りつけていた。

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つかの間の韓国気分

4月29日(日)

午後、妻が都内で所用があるというので、その間、私は新宿で「ワンドゥギ」という韓国映画を見た。

夕方、妻と合流し、久しぶりに新大久保で韓国料理を食べようということになった。

久しぶりに行ってみると、新大久保は若者たち、とくに若い女性たちで、ごった返しているではないか!

こんなにたくさんの韓国料理店があったっけ?というくらい、お店ができていて、しかもそのほとんどが、若い女性客であふれかえっている。ずいぶん、様変わりしたものだ。

界隈をひとまわりして、路地に入ったところの、小さな焼肉店に入った。

「ご予約の方ですか?」と、店の人が聞いたので、

「いいえ」と答えると、

「申し訳ございません。8時以降でないと席が空きません」という。

仕方がないので、携帯電話の番号を教えて、席が空いたら電話をください、といって、ふたたび、新大久保界隈を歩くことにした。

「コリアプラザ」で、CDやDVD、書籍などを見て、そのあと、「韓国市場」というスーパーに行った。

ここでは、韓国のたいていの食材が揃っている。

「なあんだ。韓国に行かなくても、ここで食材が揃うんだったら、韓国に行ったふりをして、ここでお土産を買ってもわからないよな」

妻は私の言葉に相変わらず呆れた様子である。

ここで、チャプチェ(韓国風はるさめ炒め)の材料である、韓国はるさめ(さつまいもの澱粉でつくったはるさめ)を買った。

韓国に留学していたとき、大学近くの、学生が集まるような大衆食堂で、「チャプチェ定食」をよく食べていた。たぶん韓国人なら、チャプチェは「家庭の味」の代表ともいえる料理ではないだろうか。

最近、手軽に作れる「チャプチェの素」、というのが、日本のどこのスーパーでも売っている。私はこの「チャプチェの素」をよく買って作っているのだが、妻は、これが口に合わないらしい。たしかに、韓国で食べるチャプチェとは、だいぶ味付けが違っている。

そこで、「チャプチェの素」に頼らず、最初からチャプチェを作ろう、ということになったのである。

韓国市場で買い物すませると、すでに夜8時である。そろそろかなと思い、さっきの食堂に向かっていると、携帯電話が鳴り、「席が空きました」と連絡が来た。

20120430183818_61870782 さっそく店に入り、サムギョプサル(豚の三段バラ肉の焼肉)、マッコリ、焼酎などを注文する。

私がその店を気に入ったのは、韓国の大衆酒場とか、小さな焼肉屋によくある、「ステンレスの円テーブル」が置いてあったからである。

韓国の映画やドラマを見ていると、上司と衝突した主人公が、ひとりで小さな大衆酒場みたいなところに行き、焼酎のビンを何本も空にしながら、ヤケ酒をあおっているシーンがあるでしょう。で、そこに同僚とか友人が合流して、日ごろの憂さを晴らしたりして。そして最終的には泥酔して、同僚や友人に背負われて帰ったりして。

そのときに主人公たちが座っているのが、ステンレス製の円テーブルなのである。

うーむ。どうもわかりにくいな。

ともかく、そのテーブルを見ると、韓国の大衆酒場を思い出すのである。

つい、ここは韓国か、と錯覚してしまい、マッコリに加え、焼酎2本をあけてしまう。最後は、冷麺でしめた。

会計は、韓国ではおよそ考えられないくらい高い値段だったが、まあ、しばし韓国の気分を味わわせてもらったのだから、仕方がない。

おかげで2人とも泥酔し、帰りは家まで千鳥足だった。

翌日午後。

昨日買った、韓国はるさめを使って、2人でチャプチェ作りに挑戦する。

「チャプチェの素」を使うと、あっという間に完成してしまうのだが、最初からすべて作ろうとすると、これが、けっこう手間がかかる。

なるほど、だからこれが「家庭の味」なんだな。

1時間ほどかけて、チャプチェが完成した。

味見をしてみると、市販の「チャプチェの素」で作ったものよりも、はるかに美味しい。そうそう、韓国で食べたチャプチェは、こんな感じだったことを思い出した。

Photo せっかくなので、作ったチャプチェを弁当にして、帰りの新幹線の中の夕食にすることにした。

冷めてもまた、美味しい。

というわけで、大型連休前半は、とくに何をしたというわけでもなかったが、つかの間の韓国気分を味わったのであった。

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