名探偵は誰か?
5月18日(金)
先週のことだったか。
職場の事務室に行くと、職員のNさんが私に言った。
「あのう、…この鍵に見覚えはありませんか」
見ると、部屋の鍵である。鍵には小さなラベルが貼ってあって、そこに「3F 資料室」と書いてある。
「どなたかが落とされたようなんです」
「3階の資料室の鍵ですね」
「はい」
「私が関わっている資料室は4階ですからねえ。私の管理している鍵ではありませんねえ」
「そうですか…では、どなたのか、心当たりはありませんか?」
資料室は、専門分野ごとにわかれて、建物の各所に分置されている。3階には資料室がいくつかあり、たんに「3F 資料室」だけでは、どの専門分野の資料室かは、わからないのである。
「そういえば、この資料室は、近々耐震補強工事のために移転しなければいけない部屋ではありませんか?」と私。
「ああ、そうかも知れません」
「移転の準備で部屋を使用したときに、落とされたのかも知れませんね」
「なるほど」
そこで私は思い出した。
「ひょっとしたら、甲学のM先生がお持ちになっていた鍵ではありませんか?そういえば数日前、3階の資料室をM先生が片づけておられたようですよ」
「きっとそうかも知れません。ありがとうございます。あとでM先生に聞いてみます」
Nさんは安堵の表情を浮かべた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ…」私は、また別のことを思い出した。
「そういえば、乙学のT先生も、数日前に3階の資料室を片づけておられました。T先生の可能性もありますね」
そこへ、同じ乙学を専攻しているS先生が通りかかった。
「S先生、たしか、乙学の資料室は3階にありましたよね」
「うーん、あったかなあ。あったかも知れない」
「その部屋、T先生が管理されていませんでしたか?」
「あ、そうそう。思い出した。たしかTさんが管理されていた」
「耐震工事のために移転しなければならないでしょう」
「そうそう。あの部屋のことは、Tさんにすべて任せているんだった」
「すると、この鍵は、T先生が持っていたものの可能性があるわけですよね」
私は鍵を、S先生に見せた。
「たしかにそうだ。Tさんが持っていた鍵かも知れないね」
「じゃあ、T先生の鍵の可能性が高いですね。あとでT先生に聞いてみます」一部始終を聞いていた職員のNさんは言った。
さて、それから数日がたった、今日。
事務室に行くと、Nさんが話しかけてきた。
「あのう、先日の鍵の話なんですが…」
「あの鍵、どうなりました?」私も少し気になっていたのだった。
「T先生の鍵ではなかったようです」
「そうでしたか」
「でも、そのあとが不思議なんです」
「どうしたんです?」
「T先生は、『この鍵には心当たりがある。丙学のA先生か、丁学のK先生が管理されている鍵ではないか』とおっしゃったんです」
「ほう」
「で、お二人の先生に確認してみたら、お二人とも、この鍵は自分のものではない、とおっしゃったんです」
「また違ったんですか」
「ええ。でもそればかりじゃありません。今度は、自分の鍵ではないとおっしゃったK先生が、『この鍵は戊学のN先生が管理している鍵に間違いない』とおっしゃるんです」
「ほう。どうしてまたそう断言したんでしょうね」
「『3F 資料室』の筆跡は、どうみてもN先生のものだ、と、K先生がおっしゃったんです」
「なるほど」
「K先生は、『もし僕の推理が当たったら、僕はこの職場の名探偵だな』などとおっしゃって」
k先生らしい言い方だ、と思った。
「でも、N先生にうかがったところ、『そんな鍵は知らない』と…」
結局、心当たりの人を「芋づる式」に聞いていっても、誰もその鍵については知らない、というのである。
「聞く先生、聞く先生、みなさん『違う』とおっしゃるんです」
「乙学のT先生、丙学のA先生、丁学のK先生、戊学のN先生…。皆さん、自分の鍵ではないとおっしゃるわけですね…。ミステリーですねえ。いったい誰の鍵なんでしょう」と私。
「それより不思議なのは」Nさんが続けた。「お聞きした先生が、『自分の鍵ではない』と言ったあと、その鍵の持ち主を推理されることなんです。それも、かなり確信を持って『○○先生に違いない』と」
「ほう」
「でも、それがことごとくハズレるんです」
私は苦笑した。そもそも自分の推理も間違っていたからである。
「学問なんて、そんなもんなんですよ」と私。「自信をもって仮説を立てるけれども、実はたいした根拠がないのに結論を出したりしているんです」
「研究者の先生方は、たった一つの鍵にも、好奇心を持たれるんですねえ」Nさんはヘンに感心していた。
私はそのとき、ハタと思い出した。
「そういえば、甲学のM先生には聞いてみましたか?」
「あ!そういえば忘れていました」
私は最初に、甲学のM先生の可能性をあげたのだった。しかしその直後、乙学のT先生の名前があがり、同じ乙学のS先生の意見に流されて、T先生ではないか、ということになったのである。
「そうでした!M先生の可能性もあったんですよね。あとで聞いてみます」
さて、私は研究室に戻ったが、その後も鍵の持ち主が気になって気になって仕方がない。
夕方、ふたたび事務室に行った。
「あのう、…鍵の持ち主、わかりました?」私はNさんに聞いた。
「いえ、M先生と連絡がとれなくて、まだ聞いてないです」
「そうですか」
「さっき、こちらに丁学のK先生もいらっしゃいました」
「ほう」
「『鍵の持ち主、わかった?』とお聞きになったので、『N先生ではありませんでした』と申し上げたら、うなだれて帰っていかれました」
やはりK先生も、自分の推理の結果を気にしていたのだろう。
「これで、この職場で名探偵になる可能性があるのは、あとは私だけだ、ということですね」
「そうですね」
さてさて、鍵の持ち主は、はたして甲学のM先生なのか?
…ということで、ひと言でいえば「鍵の持ち主が見つからない」というお話しでございました。
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