7月15日(日)
新幹線で、西に向かう。
3連休のためか、その町のほとんどのホテルが満室であった。
妻がインターネットの旅行予約サイトで、とあるゲストハウスを見つける。
古い民家を改装してゲストハウスとしたもので、1泊3000円ほどの格安の宿である。
「貸し切りですので他のお客様を気にされることなく、自分たちだけの空間をのんびりゆったり満喫できます」とある。考えようによっては、雰囲気のいいところかも知れない。
ものは試しに、ということで、予約することにした。
予約をすませた画面に、「注意事項」というのがあった。
「お荷物のお預かりは前日までに到着時間をお知らせください。連絡なしにお越しいただいても不在の場合がございます」
「男性のみのご利用及び、未成年の方のみのご利用はできません」
「館内火気厳禁にて、全館禁煙です」
「ご近所での路上喫煙も絶対にしないでください」
「暴れたり騒いだりなど、ご近所にご迷惑をかける行為は絶対にしないでください」
「違反された場合は即時ご退去いただきます(いただいた宿泊料金はお返しいたしません)」
「違反行為による設備等の破損や営業上の損失については損害賠償請求をさせていただくことがあります」
「さらに、違反行為による損害や怪我、疾病等について一切責任を負いません」
ずいぶんといろいろな注意事項が書かれている。最初に書かれていた「のんびりゆったり満喫できます」という宣伝文句とのギャップにおどろいた。
もとより、違反行為などする気はさらさらないのだが、これだけ書かれると、どんなに厳しいところなんだろう、と、身構えてしまう。
ほら、よくラーメン屋さんとかうどん屋さんとかで、「味に集中してもらうために、店内禁煙です」とか、「ほかのお客様のご迷惑にならないよう、私語は慎んでください」みたいな貼り紙がいっぱいあるお店があるでしょう。あんな感じのプレッシャーである。
さて当日の夕方。
ホームページからプリントアウトした地図を頼りに、目的のゲストハウスに向かう。
だが周囲は、ゲストハウスがあるとは思えないような、住宅地である。
「大丈夫かなあ」と地図を片手にした妻が言った。「もしかして、ネットタヌキなんじゃない?」
「ネットタヌキ?」
妻によれば、インターネット上で、タヌキに化かされたのではないか、というのである。
しばらく歩くと、玄関にゲストハウスの名前が書かれたのれんがかかっている家を発見した。扉の横に、「本日貸切」と小さく書かれた木の札がかかっている。
「ほ、ほら見てみな。ちゃんとあるじゃない」と私。
しかしながら、ずいぶんと小さな家である。
おそるおそる入ると、ひとりの若い男性がいた。私たちは、頑固オヤジの主人を想像していたのだが、予想とはまったく違った、気の弱そうな若主人だった。
「あのう…、今日、予約した者ですけど…。お知らせしたチェックインの時間より早いんですけど、大丈夫でしょうか」たしか注意事項には、あらかじめ連絡したチェックインの時間より早く来ても、荷物は預かれない可能性がある、と書いてあったので、ビクビクしながら聞いた。
「ええ、大丈夫ですよ。ただ、いまから友達が来る予定なんでね」
と、友達?どうやら、私たちのチェックイン予定時間までのあいだ、ここで友達の寄合が行われることになっていたらしい。
「いえ、とりあえず荷物だけ置かせてもらって、私たちこれから夕食に出ますので」そう言って、とりあえず荷物だけ置かせてもらうことにした。
「どうぞこちらです」
ふつうの居間のような畳部屋に案内された。
「ここが、共用スペースになる居間です。ここに荷物を置いておいてください」
次に奥の部屋に案内された。ここが寝室です、といって案内された部屋には、2段ベッドが置いてあった。
「今日は貸し切りですので、2段ベッドが窮屈な場合は、先ほどの居間に布団を持っていって寝ていただいてもかまいませんよ。ただし、その隣の部屋で私が寝ておりますので」
えええぇぇぇ!?ふすまをはさんだ隣の部屋が、あんたの寝室かい!
どうもよくわからない。
「あのう…ひとつ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「男性のみの宿泊はお断り、と、注意書きに書かれていたんですが、これはまたどうしてでしょう?」
「以前、とんでもないことが起こりまして…」若主人は、それ以上のことは言わなかった。
いったい何があったのか?気になって仕方がなかったが、それ以上のことは聞ける雰囲気ではなかった。
「いちおう、合い鍵をお渡しします」若主人が私に合い鍵を渡した。「万が一、私が不在の場合もありますので」
「はあ」
「明日の朝も、もしチェックアウト時に私がいない場合は、外から鍵をかけていただいて、鍵を郵便受けに放り込んでおいてください」
「はあ、わかりました」
私たちは夕食に出た。
夕食から帰ると、ゲストハウスに鍵がかかっている。
「おかしいな…。たしか、若主人が友達と寄合をする、と言っていたはずだが…」
合い鍵を使って入り、居間に行くと、ちゃぶ台の上に置き手紙らしきものがあった。
「今日はこれから不在にしますので、何かありましたら、以下の番号にご連絡ください。もし何もない場合は、明日の朝8時半にこちらにまいります」
どうもわからないことばかりだが、とりあえず、今晩、若主人はこの家に泊まらないのだな、ということだけはわかった。
「本当かなあ」と妻。
「何が?」
「実は、ふすまをはさんだ隣の部屋にいたりして」
「まさか…」
ふすまを開けて隣の部屋を見てみたい、という衝動にかられたが、開けて、何かとんでもないものを見てしまったら怖い、と思って、開けることはできなかった。
その晩は、暑さと疲れで奥の部屋の2段ベッドでぐっすりと寝てしまった。
さて翌朝。
朝8時半に若主人が来る、と言っていたが、8時頃には出発の準備がととのってしまった。
私たちは昨日の若主人の置き手紙の裏に「お世話になりました」とだけ書いて、出発することにした。若主人に言われたとおり、玄関の鍵を外からかけて、その鍵を、郵便受けの中に投げ込んだ。
結局、ゲストハウスの若主人に会ったのは、チェックインしたときの1度きりである。
泊まり心地は悪くなかった。むしろ旅行予約サイトの宣伝文句のとおり「のんびりゆったり満喫」できたのである。掃除も行き届いていて、古い民家ながらも、清潔だった。
しかし私は心のどこかで、妻が言った「ネットタヌキ」という言葉が、ひっかかっていた。
あの置き手紙は、いまごろ「木の葉」に変わっていたりして。
次に来たときには、あの家が廃屋だったりして。
そしてあの気の弱そうな若主人はやはり…。
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