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2012年8月

東京痛風クラブ

8月31日(金)

若い人は知らないと思いますけど、「シティボーイズ」という、3人組のコントグループがおりましてね。大竹まこと、きたろう、斉木しげる、というオジサン3人組。

むかし、シティボーイズが好きで、東京にいた頃はよくコントライブを見に行っていた。

その中に、「東京腰痛クラブ」というコントがあって、腰痛持ちの人たちが集まって、腰痛持ちが抱えているいろいろな悩みを告白したり、腰痛を克服するためにいろいろなことを試みようとするのだが、結局、何でもないことをするにも腰痛に悩まされてのたうちまわる、という内容で、当時は見ていてとても面白かったんだが、たぶん腰痛持ちの人が見たら、身につまされるのだろうな、とも思った。

私は幸いにして腰痛持ちではないが、痛風持ちである。だからいま私がこのコントをみたら、たぶん私も、身につまされるのだろうと思う。とにかく、痛風の発作が起こったら、ふだんあたりまえにやっていた行動も、もう痛くて痛くて、できなくなるのだから。

昨晩、左足首が痛みだした。

もう長年この病気とつきあっているから、(そろそろ来たか)と思った。今年に入って、奇跡的にまったく発作が起きることなく過ごしていたから、じつに久しぶりである

(このところの、不摂生な食生活がたたったな…)

と、すぐに思った。私にとって、痛風の発作の原因は、「お酒」ではない。「食べ物」と「ストレス」である。ある食べ物を大量に摂取したりすると、とたんに発作が起こるということに、最近になって気付いた。そのことに気付いてから、なるべくその食べ物をとらないでいたら、ウソのように発作が起こらなかったのである。

だがここ最近、外食などの機会に、その食べ物を食べていたようである。

寝ている間にも、どんどん痛みが激しくなってくる。あまりの痛みに眠れなくなってしまった。

(まいったなあ…)

朝になっても、痛みがひどくなるばかりである。歩くことすらままならない。

こうなったら、「ほふく前進」で出勤するしかない。しかしこの暑い中、地べたにうつ伏せになって「ほふく前進」しながら通勤するのは、どう考えても暑い。というか、かなりオカシイ。

仕方がないので、かかりつけの病院に行って、痛み止めの薬をもらうことにした。

電話をかける。

「あのう…今日、診察してもらえますでしょうか」

「申し訳ございません。あいにく今日は、午前も午後も予約でいっぱいでして…。明日の午後以降であれば大丈夫なんですが…」

かかりつけの病院は、人気があるのか、いつも予約でいっぱいなのだ。

だが、痛いのは「今」である。明日まで待てるはずがない。

「あのう、急を要するんですが…」

「どうなさったんですか」

私はかくかくしかじか、と説明した。

「せめて痛み止めの薬だけでも…」

「わかりました。では、簡単な診察と、血液検査をした上で、お薬をお出ししましょう。すぐにいらしてください」

イタイイタイイタイッ!!と、足を引きづりながら、やっとの思いで病院に到着した。

「薬、しばらく飲んでいなかったんでしょう!」

開口一番、看護師さんに指摘される。

このセリフがイヤで、私は病院がキライなのだ。

こっちは患者なのに、なぜ私が責められなければいけないのか?

「すみません」私は謝った。

「いまは夏ですからね。水分を大量に補給して、オシッコをたくさん出しなさいね!」

このセリフも、病院に行くたびに言われるセリフである。

そんなこと、わかりきっているのだ!

だから私は毎日、水を「リットル」単位ではなく、「ガロン」単位で、飲んでいるのだ!

それでも発作が起こるとはこれ如何に?

それに、いい年をしたオッサン(私)が、「水をたくさん飲んで、オシッコをたくさん出しなさいよ」と、自分の「オシッコ」の件で毎回たしなめられるのは、どうにも屈辱的である。

「あとねえ」

「なんです?先生」

「あなた、太りすぎです」

「……」

ここまで言われて、打ちのめされない人はいない。

「いったい俺が、何したって言うんだよ!」

寅さんがよく言うセリフである。何も悪いことをした覚えがないのに、なぜ俺だけがこんな目に会わなきゃならないんだ、というときに、口をついて出るセリフである。

この発作が起きるたびに、いつもそんな気持ちになる。

午後、職場に行く。今日中に仕上げなければならない原稿があるのだ。

2階の仕事部屋に階段で上がるだけでも、一苦労である。

(アイタタタタタタ!)と、心の中で叫びながら、階段を一段ずつ昇る。

昇るのはまだいい。つらいのは降りる方である。

一段一段降りるたびに、全体重が足にかかるから、それはそれはもう、痛いのである。

やっとの思いで、図書館に行く。

「あのう…1カ月分の新聞を見たいんですが」

書庫から出していただいく。

「どうぞ」

1カ月分の新聞をドサッと渡される。

それを持ちながら、(イタイイタイイタイイタイ)と心で叫びながら、数メートル先の机まで向かう。

「ありがとうございました。見終わりました」

「じゃあ、カウンターまで持ってきてください」

また、(イタイイタイイタイイタイ)と心の中で叫びながら、重い新聞のたばを持って、数メートル先のカウンターまで持っていく。

ふだんならなんということもない動作も、苦痛この上なく感じられるのである。

(こんなことなら、もっと早く原稿にとりかかっていればよかった…)

そこでまた落ちこむ。

この気持ち、同じ痛風持ちにしかわからないだろうなあ。

いっそ、「東京痛風クラブ」というのを立ち上げてみるか。ここは東京ではないけれど。

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やはりカオスな送別会

カオスな歓迎会

かなりカオスな発表会

8月30日(木)

ベトナムと中国の学生30人が、いよいよ明日、帰国する。

夕方は、そのフェアウェルパーティである。

午後5時、会場に行く。10日前の歓迎会の時とくらべると、みんなかなり仲よくなっていることがわかる。

あの「一楽ラーメン」のK君が近づいてきた。

「先生のこと、さがしていたんです。先生、どこに行ったんだろうって」

「仕事があったからね」

K君は、すっかり私になついているようである。

「先生、いつ、中国に来ますか?」K君のいる大学は、中国でも北の方の、Eという町にある。

「一度行ってみたいと思うんだがね」これは、本当のことである。

「もしいらっしゃることがあったら、連絡ください。私が仲間と一緒にご案内しますから」

連絡先を交換する。

「日本語で私に連絡ちょうだいよ。日本語の勉強にもなるから」

「わかりました」

みんなと一緒に写真を撮ったり、連絡先を交換したりする。

送別会には、ホームステイを受け入れたご家族の方々も招待されていた。

今回は、ホームステイ先があまり見つからず、実際にホームステイができた学生は、30人中、5,6名、といったところだった。

幸運にもホームステイをすることができた中国の女子学生、ベトナムの女子学生は、みんなの前で最後のスピーチをしたあと、ホームステイでお世話になった「お母さん」のもとに次々と駆けより、抱き合って号泣した。

「バカねえ。泣くんじゃないの」そういうお母さんも号泣。

近くでそれを見ていた私も、もらい泣きする。

やっぱり、ホームステイって、いいなあ。

「言葉なんて、関係ないのよ」3人の女子学生を受け入れた家のお母さんが私に言った。「心が通じてさえいればね」

「いま拝見していて、それがよくわかりました」と、涙目の私。

「肝っ玉母さん」みたいなお母さんが続ける。「本当は、もっとうちが広ければ、何人でも泊まってもらいたかったんだけどねえ。…だって、ホームステイができた子もいれば、できなかった子もいるなんて、あんまりにも不公平じゃないの!そんなことをしたら、絶対ダメよ!」

それはまったくそのとおりだった。

急ごしらえのプログラムは、いろいろと問題はあったものの、確実に、彼らと、そして私たちに、何かを残したのだ。

会がお開きになり、日本の学生のひとりが叫ぶ。

「これから2次会に行きま~す」

数年前の私だったら2次会についていったのにな、と思いながら、会場をあとにした。

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中堅芸人の被害妄想

少しもどって、8月24日(金)~26日(日)

毎年開かれる、お笑い芸人たちによる2泊3日の「合宿ライブ」。今年は、隣県で開催される。

もちろん、これはたとえ話

中堅芸人の私は、初日の「全体ライブ」で、「ネタ」をやるようにと、主催者の友人に言われた。古い友人からの誘いなので、断れない。

おもに若手芸人たちが集まる合宿ライブなので、もう参加することはないだろうと、ここ数年参加していなかったので、じつに5年ぶりである。

行ってみると、大御所の師匠たちも、数人参加されていた。

(困ったなあ…例年、大御所の師匠は来ないはずなのに…)

こういうとき、中堅の芸人はいちばん困る。若手芸人の芸が未熟なのは仕方がない。だがいい年をした中堅芸人は、そういうわけにもいかない。若手からは、

(フフフ、あいつのネタも、その程度か)

と思われたり、大御所の師匠たちからは、

(あいつ、まだまだ全然ダメだな。やめちゃえばいいのに)

と思われたりする。つまり、トクすることは何もないのである。

初日は、市民会館大ホールを使っての、中堅芸人2人、大御所の師匠2人によるネタ。

2日目は、3つのライブハウスに分かれて、若手芸人たちによる「ミニライブ」である。

私は初日のトップバッター。唯一よかったことは、最初に済ませてしまうので、あとは気兼ねなくお酒を飲めることだ。

初日の懇親会で、(よし、少しは若手芸人たちと交流をもつか!)と、よせばいいのに柄にもないことを考える。

同じ事務所の、かなり下の後輩芸人がいたので、少し話をする。

自分としては、アドバイス的なことを話しているのだが、話せば話すほど、「上から目線」で喋っていることに気付く。

後輩の顔は、明らかに、

(やっかいだなあ。この先輩)

という顔をしている。いや、そんなふうに見えるのだ。

私がその後輩の立場だったら、絶対にそう思うだろう。

(うわぁ…。絶対、やっかいな先輩と思われているぞ…)

そう思いはじめると、被害妄想はどんどんふくらみ、もう何も話せなくなった。

若い女性芸人と話しているときも、話の流れで、

「…そうですか。じゃあ今度、私の書いたものをお送りします」

などと言っては見たものの、

(あのバカ、本気にしやがった。こっちは社交辞令で言ってるだけなのに。キモ~イ)

と思っているように思われてきて、

(どうしよう…いまさら、やっぱり送りませんとは言えないしなあ)

と、やはりひどく後悔した。

2日目の若手芸人のライブで、中堅芸人として、ネタに対するコメントを言わなければならない。

なかにはネタに対して懇切に「指導」する中堅芸人もいるようなのだが、私はすっかりビビってしまって、それができない。

「たたた、…たいへん面白かったです」

そんな自分にひどく落ちこんだが、何人かの古い友人たちと再会し、何人かの新しい後輩たちと知りあえたことは、この3日間の大きな収穫だった。

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芸は才覚

8月27日(月)

街で、ポスターを見かける。

「円楽サンの会」

六代目円楽師匠(つまり、「笑点」の楽ちゃん)と、漫才コンビのサンドウィッチマンによる公演が、わが町で開かれるのだ!

ベトナムと中国の学生たちとの「街歩き」のイベントが終わり、ヘトヘトだったが、この疲れを癒すには、「笑い」しかない。午後6時過ぎ、ダメもとで会場に行くと、幸いなことに、当日券がまだあり、会場に入ることができた。

公演は、休憩をはさんで2部に分かれていて、前半の第1部は、サンドウィッチマンと六代目が、それぞれ「ネタ」をする。

で、後半は、お客さんからもらったお題をもとに、そのお題を盛り込んだ形で、サンドウィッチマンが漫才をし、六代目が落語をする、というもの。

まず最初に3人が舞台に登場し、オープニングトークである。その際、会場の客から、お題をいくつかもらい、そのお題を盛り込んだ「ネタ」を、公演の後半で披露するのである。

つまりは落語の「三題噺」である。

かの有名な落語「芝浜」も、落語中興の祖・三遊亭圓朝が、寄席でお客から出された「酔漢」「財布」「芝浜」の三題を盛り込んで演じたのがそのはじまりだと言われている。

オープニングトークが終わり、まずは前半の「ネタ」。

サンドウィッチマンによる漫才とショートコント。やっぱりサンドウィッチマンのネタはおもしろいなあ。笑った笑った。

そして六代目による、桂米朝作「一文笛」。こちらにも引きこまれる。

どうです?これだけでも贅沢でしょう?

そして後半は、オープニングで会場からもらったお題をもとにした、ほぼ即興の漫才と落語。これも堪能。よくあの短い時間の中で、考えつくものだ。

六代目の落語をはじめて生で聴いたが、聴いていてじつに心地よい。とくに、マクラからネタに入る感じがとても自然で、噺の組み立て方をかなり念入りに計算しているんだろうなと推察する。

おふた組とも、「才覚」という言葉で形容するのがふさわしいような、みごとな芸でありました。

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かなりカオスな発表会

8月27日(月)

先週の金曜日から、いろいろなことがありすぎて、何から書いていいかわからない。

とりあえず、今日のことを書く。

前回までのあらすじは、ここここに書いた。

今日はいよいよ、2週間の短期研修にやってきたベトナムと中国の学生30人を相手に、ある企画を行う、という日である。

私が考えた企画というのは、次のようなものである。

30人の学生を、6つのグループに分け、それぞれのグループに対して、手伝ってくれる日本の学生1人をずつ割りあて、合計6人でひとつのグループにする。つまりこのグループは、日本、中国、ベトナムの混成部隊である。

午前中、各グループにビデオカメラを1台ずつ持たせて市内に放ち、「これは面白いな」とか、「日本らしいな」とか思うものを、撮ってきてもらう。

さらに、町の人にインタビューして、その町のよさだとか、自慢できるものを聞き出す。

午後、大学に戻り、プレゼンテーションの準備をして、夕方、各グループによるプレゼンテーションを行う。プレゼンテーションでは、午前中に行った場所について、模造紙に書いたり、撮影したビデオを流したりしながら、説明を行う。説明は、もちろん英語である。

すべてのグループのプレゼンテーションが終わったあと、投票をおこない、最も面白いと思ったグループを決定する。

以上の段取りである。

要は、街をブラブラ歩きながら、さまざまなモノや人と出会い、それを映像に記録する、という企画で、イメージとしては、「鶴瓶の家族に乾杯」みたいなことをしたいな、と思っていたのであった。

企画を考えたときは、「これは面白いぞ」と思ったのだが、いざ実際にやってみると、いくつかの大きな誤算があったことがわかった。

ひとつは、手伝ってくれる日本の学生が、4人しか集まらなかったことである。

グループは6つなので、2人ほど足りない。

「そこでお願いなのですが」と職員のMさん。

「何でしょう」

「先生にも、学生と一緒に街歩きに参加してほしいのです」

「ええぇぇぇ!私がですか?」

「お願いします」

もうひとり、教員としてこの企画に参加していた他部局のIさんが、「いいですよ~」と、ふたつ返事でOKした。

となると、私も引き受けざるを得ない。

ということで、私も朝から彼らと一緒に街歩きをすることになったのである。

二つめの誤算は、この暑さである。

予報では、本日の最高気温は35度である。こんな日に半日も炎天下のまちなかを歩き続けるのは、ほとんど無謀な行為である。

ただでさえ大汗かきの私にとっては、ほとんど自殺行為である。我ながら何とバカな企画を立ててしまったのだろう、と、今朝になってひどく後悔した。

さて、朝9時。

本日のスケジュールを説明したあと、いよいよまちなかに出発である。

ここで3つめの誤算。

私は、英語がほとんど話せないのだ。そもそも、うちの職場には英語の堪能な同僚が山ほどいるというのに、なぜよりによって私がやらなければならないのか?

私のグループにいるのは、中国人学生のK君とWさん。ベトナム人留学生のリン君とトゥエさんとヴォさん。

K君は、先日の歓迎会で、「一楽ラーメン」にこだわっていた青年である。日本語ができるが、英語ができない。

Wさんは、日本語はできないが、英語ができる。

ベトナム人学生の3人は、日本語ができず、英語ができる。

つまり、意思疎通は英語でやるしかないのである。

だがベトナムの学生たちの英語は、ひどく訛っていて、かなり聞きとりづらい。

逆に私の英語も、単語の羅列だけで、まったくわかりにくい。

私の英語が通じないときは、日本語でK君に話し、それをK君が中国語でWさんに話し、さらにそれをWさんが、ベトナムの学生3人に英語で話す、という手順で伝えていく。ベトナムの学生たちは、それをベトナム語で確認しあう。

ベトナムの学生が私に質問するときには、その逆である。

つまり、4カ国語による前代未聞の伝言ゲームがはじまったのである。

さて、朝9時、市内に向けて出発。

朝から気温はぐんぐん上がり、歩いていてたちまち汗だくになる。

こっちはすっかりぐったりだが、学生たちは楽しそうである。

いろいろと英語で質問してくるので、こちらも英語で答えなければならない。

ある神社に入ることにする。ビデオ撮影担当のリン君に「これは何ですか?」と聞かれ、「shirine」という単語が出てこず、「temple」と答えてしまった。しかもその様子が、しっかりビデオに収められてしまった。

軽く死にたくなる、というより、かなり死にたくなる。英語ができないにもほどがある。

その後、駅の反対側にある大きな公園まで歩き、さらには、駅ビルの展望台に登った。

お昼12時に大学に戻り、学生たちは昼食である。私は昼食ととりそびれたまま、午後1時から、プレゼンテーションの準備を学生たちと始めた。

学生たちは、午前中におとずれた場所について、思い思いの絵や言葉を、模造紙に書いてゆく。

ベトナムの学生のトゥエさんが、私に聞いてきた。

「先生、私、声が小さいので、みんなの前で発表することができません。だから、リン君に発表を代わってもらってもいいですか?」

トゥエさんは、おとなしいが、私に熱心にいろいろと質問してきた学生である。

「必ず全員が発表しなければなりません。声が小さくても、大丈夫です」

と私が言うと、仕方なさそうに「わかりました」と答えた。

午後3時。いよいよ各グループによるプレゼンテーションである。

ここでまた誤算。

各グループに支給したビデオカメラは、職場中からかき集めたものだったので、どれもメーカーや機種が異なる。操作が面倒なものや、中には大型テレビのモニターに接続できないものもあり、せっかく撮ってもらった映像が、流せないグループも出てきたのである。

段取りはもう、ボロボロである。

まあ仕方がない。もともとほとんど準備がないままに始めたことであったのだから。

しかし学生たちは、そんな私たちの「段取りの悪さ」とは無関係に、かなり楽しんでプレゼンテーションを行っていた。

「映像がつながるまでの間、私たちがベトナムの歌を歌います」と、その場をつないだベトナム人学生たちもいた。

もし私が学生としてこの場にいたら、段取りの悪さにイライラしていたことだろう。しかし彼らは、そうではなかった。

ベトナムと中国の学生が、日本について、英語でプレゼンテーションをする。こちらの段取りの悪さも手伝って、客観的に見ればかなりカオスな発表会である。私はこれほどカオスな発表会を目にしたことは、今までにない。

映像機器のトラブルに終始悩まされつつも、彼らの発表は予定の時間どおりに進み、最後は私たちのグループでの番である。

リーダーのリン君を中心に、撮影した映像を流しながら、ひとりひとりが英語で説明をする。

ビデオ撮影を担当したのはリン君だったが、あらためて見てみると、私のアップの映像が、やたら多い。

「どうして、私ばかり映すんでしょうねえ?」横にいたIさんに言うと、

「大汗かいている姿が、珍しかったからじゃないですか?『日本人は、こんなに汗をかくのか』ということに、驚いたんだと思いますよ」と、笑いながらIさんが言う。

たしかに映像に映っている私は、ビックリするくらい大汗をかいている。しかし、まだそんなに親しいわけでもないIさんにもそんなことを言われるとは、私の大汗はよっぽど印象が強いのか?

さてわがグループのトリは、中国人学生のK君である。

「僕は英語が話せないので、日本語で発表をします」

と、上手な日本語で、説明をはじめた。

ひととおり説明が終わって、彼が言う。

「最後に、私たちと一緒に歩きながら、コツコツと私たちの質問にも丁寧に答えてくださった先生に感謝申し上げます」

「コツコツと」という言いまわしが、どうやら私のことを言いあらわしているらしい。

そして一同は頭を下げ、わがグループの発表は終わった。

疲れているせいもあり、ちょっとウルっときた。

すべてのプレゼンが終わり、最後に投票である。これだけ段取りが悪くては、1位を決めるも何もあったものではないが、この投票も、かなり盛り上がった。

段取りなんて関係ないんだな。要は、楽しもうと思うかどうかだ。そのことを、彼らに学んだ。

投票が終わり、トゥエさんが私に言う。

「ごめんなさい。私の発表、全然ダメでした」

「そんなことありませんよ。とてもよかったですよ」実際、トゥエさんの発表は、堂々としていて、わかりやすかった。

「ありがとうございます」トゥエさんは、ホッとした表情を浮かべた。

みんなで集合写真を撮ったあと、会場の撤収作業である。

「ずいぶんカオスな会になってしまいましたね」私が職員のHさんに言うと、

「でも、つい数日前までは、ベトナムの学生はベトナムの学生同士、中国の中国の学生同士で固まっていたのです。ようやくお互いが仲よくなれたって感じです」

夕方5時半前、撤収作業が終わり、教室を出る。学生たちは、食堂で夕食である。

中国の学生のK君が近づいてきた。

「先生は、僕たちと一緒に、夕食を食べないんですか?」

「これから仕事があるんでね」

「そうですか。残念です。今日はありがとうございました」K君が手をさしだしたので、握手をした。

「30日がフェアウェルパーティですよね。そのときにお会いしましょう」

「はい」

みんなと別れ、ドッと疲れが出た。

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G大学の子供たち

人によって、それぞれ「涙のツボ」っていうのが、あると思うんですよ。

たとえば、テレビの「はじめてのおつかい」を見ると涙がとまらなくなったり、犬の映画を見ると涙がとまらなくなったり、高校野球とかサッカーとかラグビーを見て、涙がとまらなくなったり。

自分の場合は何か、というと、「留学もの」ですね。あるいは、「短期研修もの」。

自分が留学を経験して以降、「留学」とか「短期研修」の話に、めっぽう弱くなった。

先日(8月11日)、大邱で、語学院の先生方と再会したときのことである

午後6時に大学の北門のところに集合し、お店に向かおうとしたら、すれ違った数人の学生にナム先生が気づき、声をかけた。「アンニョンハセヨ?」

「学生ですか?」

「ええ、日本のG大学から来た学生たちです。いま、3週間の短期研修プログラムでこの大学の語学院で勉強しているんですよ」

G大学といえば、東京の私立大学の名門ではないか!私の知り合いの中にも、G大学出身者が多いので、親近感がわいた。

私はG大学の学生たちに、日本語で話しかけた。

「短期研修で、ここの語学院で勉強しているんですね?」

「はい」

「G大学では、学部はどこですか?」

「私は文学部です」「僕は法学部です」

「そうですか。私の先輩も、G大学に勤めているんですがね…。○○先生ってご存じですか?」

「さあ」

そういえば自己紹介するのを忘れていた。

「私、○○大学で教員をやっています。3年ほど前に、この語学院で1年間勉強して、今日はその同窓会なんですよ」

「あ~、日本の方ですか」G大学の学生たちは、私を見て一様に驚いた。

ずっと日本語で喋ってたじゃん!今まで俺を誰だと思って喋っていたんだ?

「この語学院は楽しいし、いい先生ばかりなので、楽しんでいってください」

「はい」

彼らが立ち去ったあと、ナム先生に聞いてみた。

「通常の語学院の授業のほかに、いまは短期研修の学生にも教えているんですか?」

「ええ、私とアン先生がその担当なんです」

アン先生は、私も少しだけ習ったことのある、とても楽しい先生である。二人とも、短期研修の先生としてはうってつけだな、と思った。

「でも、困ったことがあるんです」とナム先生。「G大学の学生の韓国語のレベルが、ひとりひとりあまりにも違いすぎて、同じ教室でどうやって教えたらいいか、わからないんです」

なるほど、それはよくあることである。

「それに、彼らの韓国語のレベルがどのくらいなのかを、事前にまったく知らされていなくて、こちらとしても授業をどのように準備したらいいかわからなくて…」

「でも、大学の短期研修プログラムとして実施しているんでしょう?」

「ええ、大学としては今年度が初めての試みで、中味はすべてこちらに丸投げです。大まかな予定は決まっているんですけど」

そういうと、短期研修プログラムの日程表を見せてくれた。

「毎日語学の授業が半日あって、それ以外は、いくつかの文化体験があるほかは、ほとんどが自由時間なんですよ」

たしかに、日程表はスカスカである。この「公式プログラム」が、いかに「何も考えていないか」が、よくわかる。すべては、語学院に丸投げなのだ。これもまた、ありがちなことである。

私も、自分の職場で同じような短期研修プログラムを、今年度はじめて試みることになっていたので、他人事ではない。

「もっといろいろな文化体験をすればいいと思うんですけどね」と私。「楽しくなければいけませんよ」

「そう思います。でも、これでは、せっかくうちに来ても子供たちが全然楽しめないまま帰国するような気がして…。たぶん、このプログラムは今年度かぎりで終わりでしょうね」ナム先生は、不安そうに言った。

韓国では、「学生たち」のことをしばしば「子供たち」と表現する。いわば慣用表現である。

「そんなことありませんよ。どんな体験でも、学生たちにとっては心に残るはずです」と私。「実際に、私の教え子は、夏休みに韓国のC大学に3週間の短期研修に行って、それがきっかけで、この8月から韓国のC大学に1年間留学することになったのです」

「そうですか」

「ですから、彼らも同じように思うはずです」

昨年、韓国のC大学に短期研修に行ったOさんは、最後の日に別れるのがつらくて、みんなで抱き合って号泣した、と言っていた。

さて、短期研修に参加していたG大学の学生たちは、その後どうなったのだろう?

昨日(8月21日)、ナム先生からメッセージが届いていた。

「キョスニム

今日、G大学の短期研修が終わりました。

心配していたのとは裏腹に、楽しく授業を終えることができ、学生たちも満足そうで、次にまた来たい、と言っていました。彼らと一緒に遊びながら、とても親しくなりました。

ユンノリ(韓国の伝統的な遊び)もして、八公山(パルゴンサン、大邱近郊の山)にも行って、一緒にご飯も食べて、写真も撮って、学生たちにとってよい思い出を作りたかった試みは、ある程度は成功したようです。体はとても疲れていますが、心はとても軽やかです。 そして久しぶりにこの仕事に対するやりがいを感じて、別れの寂しさも感じました。

彼らとはもう会うことができないかもしれませんが、心さえあれば、必ずまた会うことができるだろうと信じています。

ようやく、明日から短い夏休みです」

ナム先生のホームページをのぞいてみると、G大学の学生たちが、とても楽しそうに写っている写真が何枚もあげられていた。

いちばん最後の写真には、「最後の日は、みんなが涙を見せながら挨拶した」とコメントが書いてある。

それを読んで、私も号泣。

ダメだ。やはり私は「留学もの」「短期研修もの」には弱いのだ。

私は、「少しでも楽しんでもらおうとした先生方の心が、学生たちにも伝わったのだと思いますよ。この学生たちのなかから、必ずこの大学に留学したいという人が出てくるでしょう」と、コメントを書いた。

実際、「公式プログラム」にはない、語学院の先生方が考えた非公式なイベントこそが、彼らの心に残ったのだろう。

公式の記録には残らないのだろうが。

たった3週間の短い期間だったけれど、10人あまりのG大学の学生にとっても、そしてナム先生やアン先生にとっても、忘れがたい、大きな意味を持つ時間だったのだろう。

まったく根拠のない話だが、いつかどこかで、私はこのときのG大学の学生たちと、バッタリと会うような気がする。

だって、世間は狭いんだもの。

そのときは、語学院の話で盛り上がろう。

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カオスな歓迎会

8月21日(火)

ベトナムと中国から、30人ほどの学生がやってきて、今日からうちの職場で2週間ほどの短期研修を行う。今日の夕方はその歓迎会である。「ぜひ参加してください」と、職員のMさんに言われた。

午後4時半過ぎ、2コマ分の授業を終えて、その足で歓迎会場に向かった。

30名のお客さんに対し、手伝ってくれている日本の学生は、7、8名といったところか。

手伝ってくれている学生に聞いてみた。

「日本語がわかる学生はどのくらいいるの?」

「4分の1くらいですね。あとは英語です。ただし、日本語がわかる学生は英語がわからなかったりします」

中国から来た学生は、朝鮮語もできる人が多いので、朝鮮語であれば話せそうである。

立食形式の歓迎会が始まった。

中国から来た学生とは、朝鮮語でなんとか話せたが、問題はベトナムから来た学生である。

試みに、近くにいた男子学生に英語で話しかけたが、どうしても朝鮮語が出てきてしまう。

それでも、なんとなく意思疎通ができ、最後はなぜか電話番号の交換をした。

「ベトナムに来る機会があったら連絡ください。僕がご案内します」

はたしてそんな機会はあるだろうか。

職員のMさんが私のところにやってきた。

「このあと、全員に自己紹介をしてもらいます」

「はあ」

「最初は、先生にお願いします」

「えええぇぇ!!私からですか?}

「はい」

「日本語でいいですか?」

「できれば英語でも」

「こまったなあ。朝鮮語ならできるんですが…」

「じゃあそれでお願いします」

ということで、日本語と朝鮮語で自己紹介をする。使った英語は、

「ウェルカム トゥ ジャパン、レッツ エンジョイ ウィズ アス」だけ。

何とも恥ずかしい挨拶である。軽く死にたくなった。

その後、職員さんや、うちの学生たちも自己紹介するが、みんな英語をがんばって使っている。なかには流暢な人もいる。

みんなすごいなあ、下手でも頑張って英語で挨拶すればよかったと、ひどく落ち込んだ。

日本の学生はかなり少なかったが、ありがたいことに3年生のNさんが、急遽歓迎会に参加してくれた。

「Nさんも英語で自己紹介しなさいよ」

「え?私もですか?私、英語全然ダメですよ。ひと言もしゃべれません」

「そんなことないよ。いちど英語で挨拶したら、世界が変わるぞ」私自身、英語で自己紹介したわけでもないのに、まったく私もいいかげんな人間である。

「でも、なんて言えばいいんですか?}

そこで私がアドバイスする。

「『マイネーム イズ ○○、プリーズ コール ミー ○○ アイ スタディ ○○ アット ディス ユニバーシティ』と、まずはこう言うんだ」

「わかりました。そのとおり言います」

「で、次に『アイ キャント スピーク イングリッシュ』という」

「はあ」

「そこで、ドッカーンとウケること間違いなし!」

「ほんとですか?」

「だって、お前英語を喋っているやんけ!て、なるでしょう」

「なるほど」

「で、最後に、『レッツ エンジョイ ジャパン』でしめる」

「わかりました」

3年生のNさんは、言われたとおり英語で自己紹介をした。ところどころアドリブを加えたりして、それはそれは堂々としたもので、発音もすばらしかった。ただし「アイ キャント スピーク イングリッシュ」は、「ややウケ」だった。

(すごいなあ。それにひきかえ、やっぱり俺は全然ダメだな)と、さらに落ち込んだ。

ひととおり自己紹介が終わり、歓談の時間。

中国の大学から来た男子学生のグループの席に行く。ひとり、日本語が堪能な学生がいた。

「先生、日本に来てぜひしてみたいことがあります」

「何ですか?」

「『一楽ラーメン』に行って、ラーメンを食べることです。先生、『一楽ラーメン』は知っていますか?」

「いや、知りませんねえ」

「え?『一楽ラーメン』を知らないんですか?有名ですよ。中国では誰でも知っています」

「一楽ラーメン」なんて、聞いたことがない。

「インスタントラーメンでも出ているんですけど。それではダメなんです。お店で食べないと」

「一楽ラーメン」というインスタントラーメンすら、知らない。

「私は知らないけど、ほかの人に聞いてみた?」

「他の先生(職員)に聞いてみたんですが、どの方も知らない、というんです」

それはそうだろう。少なくともこの地域には、そんな名前のラーメン屋は聞いたことがない。

「ほかのラーメン屋ではダメなの?この地域には美味しいラーメン屋がたくさんあるよ」

「いえ、ほかのラーメン屋ではダメです。『一楽ラーメン』でないと」

ずいぶん強情な学生である。

しかし、「一楽ラーメン」なんて、まったく思いあたらない。

「どこでその『一楽ラーメン』を知ったの?」

「日本の漫画ですよ。『ナルト』という漫画です。中国では誰でも知っています」

なるほど、漫画に出てくるラーメン屋か。となると、そのラーメン屋は実在しないラーメン屋の可能性が高い。

「漫画にしか出てこないラーメン屋でしょう。たぶん実在しないと思うよ」

「いえ、そんなことありません」その隣にいたもう1人の男子学生も、日本語が堪能だった。「僕は大阪で『一楽ラーメン』という名前のお店を見ました」

「美味しかったの?」

「いえ、僕はラーメンがそんなに好きではないので、中には入りませんでした」

ますますわからない。とすると、大阪に実在するラーメン屋なのか?

「ほら、ちゃんと『一楽ラーメン』はあります。この近くにはないんですか?」と、その強情な学生。

困ったので、近くにいた日本の学生に聞いてみた。

「『一楽ラーメン』って知ってる?『ナルト』っていう漫画に出てくるらしいんだけど」

「ああ、知っていますよ。有名ですね。でも、あれは漫画の中に出てくるもので、実際にあるお店というわけではありません」

やはりそうか。

「じゃあ、大阪で見た『一楽ラーメン』は違うのですか?」

「たぶん、たまたま同じ名前のラーメン屋だったのでしょう」日本の学生が答えた。

「でも僕、絶対に『一楽ラーメン』でラーメンを食べたいです」

「でも、漫画に出てくるお店とは違うんだよ」

「でも食べたいです。こんど大阪に行きます。先生も大阪に食べに行ってください」かなり強情な性格とみた。

そんなこんなで、歓迎会が終了した。

3年生のNさんは、すっかりとみんなとうちとけていた。さすがだなあ。

「楽しかったですか?」

「ええ、とっても楽しかったです」

それにひきかえ、私は自分のふがいなさに落ち込むばかりである。

やはりむいていないんだな、こういう仕事に。元来が、非社交的な人間なのだ。

そのせいか、今日はひときわ疲れた1日だった。

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K-POPプレイバック キム・グァンソク特集

A さあ、今回も始まりました「K-POPプレイバック」。では早速、コーナー紹介からどうぞ。

B はい、この「Kプレ」コーナーでは、懐かしのK-POPを、ラジオ番組風に紹介しています。旧来のK-POPファンには過ぎし日の思い出を、若きK-POPファンには新たな楽曲との出会いを提供する、K-POP系ブログの王道企画となっています。…て、これ、こぶぎさんのブログのパクリじゃないですか!

A まあいいじゃないですか。こぶぎさんだって、こっちのブログのコメント欄を自分の身辺雑記に使っているんだし。今日は「夏休み限定企画」ということで、趣向を変えて、すてきな音楽をみなさんにお届けしましょう。

B ほんとうは、読者を減らしたいだけなんでしょう?

A その通りです。…で、今回とりあげる歌手は?

B はい、このブログでも何度も登場している、キム・グァンソクです!

A キム・グァンソクは、このブログの読者なら、もうおなじみですよね。ですので解説は省略します。で、今日は、実際にその曲を聴いてみようということですね。

B そうです。

A しかし、キム・グァンソクは、とりあげたい曲がたくさんありますね。何から聴きましょうか。

B ではまず、この曲から聞いていただきましょう。「일어나(立ち上がれ)」です。

검은 밤의 가운데 서있어 한치 앞도 보이지 않아

어디로 가야 하나 어디에 있을까 둘러 봐도 소용없겠지

인생이란 강물 위를 뜻 없이 부초처럼 떠다니다가

어느 고요한 호숫가를 닿으면 물과 함께 썩어가겠지

일어나 일어나 다시 한 번 해보는 거야

일어나 일어나 봄의 새싹들처럼

끝이 없는 말들 속에 나와 너는 지쳐가고

또 다른 행동으로 또 다른 말들로 스스로를 안심시키지

인정함이 많을수록 새로움은 점점 더 멀어지고

그저 왔다 갔다 시계추와 같이 매일매일 흔들리겠지

가볍게 산다는 건 결국은 스스로를 얽어매고

세상이 외면해도 나는 어차피 살아살아 있는걸

아름다운 꽃일수록 빨리 시들어가고

햇살이 비치면 투명하던 이슬도 한 순간에 말라버리지

일어나 일어나 다시 한 번 해보는거야

일어나 일어나 봄의 새싹들처럼

闇夜の中に立っていて 一寸先も見えやしない

どこに行くの、どこにいるのか まわりを見渡しても無駄だろう

人生とは 川の上を意味なく漂う浮き草のようなもので

静かな湖畔にたどり着けば 水と一緒にたちまち腐っていくだろう

立ち上がれ 立ち上がれ もう一度やってみるのだ

立ち上がれ 立ち上がれ 春に吹き出す新芽のように

終わりのない言葉の中に僕と君は疲れていき

また違う行動や言葉が 自分たちを安心させる

認め合うことが多いほど 新しさますます遠ざかり

ただ行ったり来たり 振り子のように 毎日毎日揺れるのだろう

軽やかに生きるということは 結局は自分を縛るということだ

世界に見捨てられても どうせ私は生きているのだ

美しい花であるほど すぐに枯れていき

陽があたれば 透きとおった露も一瞬にして消えてしまう

立ち上がれ 立ち上がれ もう一度やってみるのだ

立ち上がれ 立ち上がれ 春に吹き出す新芽のように

A 歌詞の訳、自信ないなあ。

B ちょっと意訳に過ぎませんか。

A そんなことありませんよ。むしろ誤訳を恐れていますよ。…それにしても、長渕剛が歌っても不思議ではないような、そんな曲ですね。

B でしょう。そもそもあなた、キム・グァンソクは、日本でいえば、長渕剛と尾崎豊を合わせたような存在、って言っていたでしょう。

A ええ。それくらい、カリスマ的な存在だと。

B でもあなた、長渕剛も尾崎豊も、ふだんほとんど聴きませんよね。

A ええ、ほとんど聴きません。

B なのになぜ、キム・グァンソクにはハマったんです?

A さあ、そこがK-POPの不思議なところなんです。…さて、次の曲に行きましょう。次は何ですか?

B 次は「먼지가 되어(埃になって)」です。

바하의 선율에 젖는 날이면

잊었던 기억들이 피어 나네요

바람에 날려간 나의 노래도

휘파람 소리로 돌아 오네요

내 조그만 공간 속에 추억만 쌓이고

까닥모를 눈물 만이 아른거리네..

작은 가슴을 모두 모두어

시를 써봐도 모자란 당신

먼지가 되어

날아가야지

바람에 날려 당신 곁으로

작은 가슴을 모두 모두어

시를 써봐도 모자란 당신

먼지가 되어 날아가야지

바람에 날려 당신 곁으로

バッハ旋律にひたるには

忘れていた記憶がよみがえるのさ

吹き飛ばされた僕歌も

口笛の音で戻ってくるのさ

僕の小さな空間の中に思い出だけがつまって

わけもなくだけが目に浮かぶよ

小さなをすべてすべて

詩を書いてみても語りつくせぬあなた

埃になって

飛んでいかなくちゃ

に吹かれてあなたのそばに

小さなをすべてすべて

詩を書いてみても語りつくせぬあなた

埃になって飛んでいかなくちゃ

に吹かれてあなたのそばに

A いやあ、おじさんの心を揺さぶる、いいメロディですなあ。

B メロディに懐かしさを感じますね。

A キム・グァンソクの曲調は、ほんとうに幅広いですよ。多くの歌手が影響を受けています。

B そうですね。それに、世代を越えて愛されています。

A 今回は取りあげませんが、有名な「二等兵の手紙」は、若者が兵役につく前に、ノレバン(カラオケ)で必ず歌う歌です。キム・グァンソクのことは知らなくとも、この歌は、今の若者たちにも歌われているんです。さて、最後の曲になりました。最後は何を。

B 「바람이 불어오는 곳(風が吹いてくるところ)」です。

A これはまた、地味な曲を選びましたね。

B ええ、癒される曲です。

A では、聴いていただきましょう。

바람이 불어오는 곳

그곳으로 가네

그대에 머리결 같은

나무 아래로

펄펑이는 기차에 기대여

너에게 편지를 쓴다

꿈에 꾸었던 길

그 길에 서 있네

설레임과 두려움으로

불안한 행복이지만

우리가 느끼며 바라 볼

하늘과 사람들

힘겨운 날들도 있지만

새로운 꿈들을 위해

바람이 불어오는 곳

그곳으로 가네

햇살이 눈부신 곳

그곳으로 가네

바람에 내 몸 맡기고

그곳으로 가네

출렁이는 파도에 흔들려도

수평선을 바라보며

햇살이 웃고 있는 곳

그곳으로 가네

나뭇잎이 손짓하는 곳

그곳으로 가네

휘파람 불며 걷다가

너를 생각해

너에 목소리가 그리워도

뒤돌아 볼 순 없지

바람이 불어오는 곳

그곳으로 가네

風が吹いてくるところ

そこに行くよ

のような木の下

ガタゴトする列車に寄り添いながら

君に手紙書く

見た

その道に立っているよ

ときめきと恐れに

不安に感じる幸せだけれど

私たち感じて眺める

空と人々

手に負えない日々もあるけれど

新しい夢のために

風が吹いてくるところ

そこに行くよ

日差しが眩しいところ

そこに行くよ

にこの身を任せ

そこに行くよ

揺れても

水平線眺めて

日差しが笑っているところ

そこに行くよ

木の葉手招きしているところ

そこに行くよ

口笛吹いて歩いて

君を想う

の声が恋しくても

振り返ってみることはないだろう

風が吹いてくるところ

そこに行くよ

A 旅のお供に、口ずさみたくなる歌ですね。

B そうですね。心が軽くなる歌です。

A というわけで、そろそろ終わりの時間が近づいてまいりました。

B 第2回は、あるんですか?

A いえ、書くのにとても時間がかかるので、もうやめます。それではみなさん、ごきげんよう。

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南へ北へ

8月19日(日)

私たちの活動は、第2段階に入った。

「そろそろ自分たちの足もとを見つめなおしましょう」

世話人代表のKさんの提案で、新しい活動を始めることにしたのである。

私にはまったく経験のない仕事で、荷が重かったが、「他にやる人がいないんですよ」と、Kさんは言う。まあそうだろうな、と思う。

頼まれてもいない仕事とか、成果が形になりにくい仕事をするのは、私の性(さが)みたいなものだから、これも運命なのだろうな、と腹を括ることにした。

卒業生のダブルT君(ダブル浅野的な意味、ではない)が心強い味方である。この2人がいなかったら、やる気にはならなかっただろう。

先月くらいから少しずつ準備を始めた。学生に呼びかけたら、なんだか面白そうだ、と思ってくれたのか、5人が参加してくれることになった。これはとても嬉しかった。

さて当日。

お昼12時、総勢9人が、3台の車に分乗して職場を出発し、車で1時間半ほどかかるS市に向かう。そこで老先生をお迎えにあがり、O村に向かう。

O村で2時間ほど、地元の方と打ち合わせをし、予備調査を行う。

老先生や地元の方のお話をうかがいながらO村をめぐるのは、とても楽しく、有意義な時間だった。

だが、まったくの手探りの活動。目に見える形で成果が出るのかどうかもわからない仕事。そして気が遠くなるくらい息の長い仕事。

そのことを実感した1日だった。たぶん、これからも悩み続けるのだろう。

昨日は南のS町、今日は北のO村。

夏バテも手伝って、調査が終わって職場に戻った夕方7時過ぎには、すっかり疲れ果ててしまった。

「とても楽しかったです」と、社交辞令かもしれないが、参加した学生が言ってくれたことが、救いになった。

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汗をかく機械

8月18日(土)

だいぶ前、同僚から、

「8月18日、日程を空けておいてくれる?」

と言われた。

「何です?」

何でも、うちの職場の卒業生が、いまプロの講談師をやっていて、市民会館でその公演を開催するので、ぜひに聴きに来てほしい、というのだ。

「どうして私が?」

「だって、講談とかに詳しいでしょう」

いやいやいや、講談には全然詳しくないぞ。今まで聞いた講談は、立川談志師匠の「三方ヶ原軍記」だけである。しかもCD。

「とにかく、来てくださいよ。あなたに来てもらわないと困る。できれば、その後の懇親会も出てください」

「はあ」

まあ、生で講談を聞く初めての機会でもあるので、こちらとしても楽しみにすることにした。

しばらくして今度は、いつもお世話になっている「おじいちゃん先生」から連絡が来た。

「8月18日、空けておいてくださいよ」

「何です?」

「S町の調査ですよ。先生がいないと始まりません」

そうだった。S町で調査することを、前々から約束していたのだった。

しかしこの日は、講談を聴きに行く日なのだ。

「他の日ではダメですか?」

「ダメです。先方がこの日でないとダメだというもので」

困ったなあ。講談は、午後2時開演なのである。

「午後2時から、市内で用事があるので、この日は午前中しか空いていません。少なくとも、お昼ごろにはS町を出ないと…」

「じゃあ、朝8時半に集合しましょう」

「わかりました」

ということで、朝8時半に老先生たちと集合して、S町に向かうことになった。

さて当日。

相変わらず蒸し暑い。しかも、S町で調査をする建物の中は、狭い上に暗いため、撮影用のライトを照らしながらでないと、調査ができないのだ。

で、この撮影用のライトというのが、ビックリするくらい高熱を発するのだ。

このライトの横で必死に撮影していると、後から後から汗が出てくる。要は、サウナの中で仕事をしているようなものだ。

ハンドタオルで何度も汗をぬぐうのだが、あっという間にハンドタオルがびっしょりになり、そのタオルを絞ると、ビックリするくらいの量の汗がしたたり落ちる。

先日、韓国で山登りしたとき以上の、汗の量である。

お昼すぎに午前の調査が終わり、私ひとり、皆さんとお別れして車で市内に戻る。

いったん家に戻って着替えたいと思ったが、その時間がなかったので、直接、公演会場に行くことにした。

公演会場の近くの駐車場に車を止め、会場に向かう。

あらためて自分の姿を見て、ビックリした。

ズボンの腰のあたり、とくに「社会の窓」のあたりが、汗でぐっしょり濡れて、ズボンの色が変わっているではないか!

おそらく、上半身から流れ出た汗が、ズボンの腰のあたりで、一気に吸収されたのであろう。

それはまるで、「おもらし」したかのように見える。

いや、知らない人が見たら、100人が100人、「こいつ、おもらししたな」と思うだろう。

急に恥ずかしくなったが、しかしもう時間がない。

だいたい、単に講談の公演を聴きに行くのに、何でズボンがぐっしょり濡れているのだ?と、普通の人なら思うに違いない。

開演間近だったので、慌てて公演会場の受付に行くと、知っている女子学生が受付をしている。

受付をしている女子学生は、私のズボンの方に視線をやると、目を見開いて、一瞬、固まっていた。

(あ~、絶対、ズボンがぐっしょり濡れていることを不審に思っているな。絶対、おもらししたと思っているぞ)

もうこの時点で、軽く死にたくなった。

公演自体は、とても楽しいもので、4時に終わった。今度は6時から、町の中心部の居酒屋で、講談師、というか卒業生を囲んだささやかな懇親会である。

その前に、いったん家に帰って、着替えなければならない。なにしろ、ズボンの汗が全然引かないのだ。

家に帰って、着替えたりしているうちに、もう家を出なければならない時間だ。

ビールやお酒を飲むはずなので、家に車を置いて、歩いて懇親会場まで行かなければならない。家から懇親会場の居酒屋までは、徒歩で40分くらいかかる。

遅れそうだったので、早足で会場に向かうと、たちまち汗が流れ出る。

結局、着替える前と同じくらいの量の汗をかいた。

まったく今日1日は、汗をかくために生きたようなものだ。

寅さんのセリフに、

「俺から恋をとったら何が残る?三度三度メシを食ってクソを垂れる機械。つまりは造糞機だよ」(「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」)

というのがあるが、まさに私は、「造汗機」である。

ということで、今日は朝8時半から夜8時半すぎまで、12時間、汗をかき続けたのであった。

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ワン・ウィンチョ君のこと

夏バテ気味なので、少し思い出めいた話を。

ホームステイをしていたナム先生のヒョンブ(姉の夫)の家で、私が日本から持ってきた「韓国留学時代の写真」を、テレビのモニターに映しながらみんなで見ていたときのことである。

語学院の3級の時の「野外授業」(1学期に1度ある、遠足のようなもの)で、料理学校で料理体験をしたときの写真が映し出された。

このときの料理学校が、いかに頓珍漢で面白かったかについては、過去の日記に書いたことがある

私の隣に写っているのは、3級の時に同じクラスだった、中国人留学生のワン・ウィンチョ君である。

「いまごろ彼は、どうしているんでしょうかねえ」ナム先生が写真を見ながらつぶやいた。

私が彼をはじめて見たのは、語学院の1級1班(初級クラス)の時である。

1級1班は、留年した中国人留学生ばかりが集まっているとんでもないクラスだったが、この中に1人だけ、女子学生がいた。チャオ・ルーさんである。このチャオ・ルーさんも、決して韓国語を熱心に勉強しているという学生ではなかった。

チャオ・ルーさんのボーイフレンドが、ワン・ウィンチョ君である。しばしば語学院の建物の中で、二人が並んで歩いていたのを見かけたが、第一印象は、「なんてチャラいヤツなんだろう」と思った。

当時は「チャラ男」なんて言葉もないから、「チャラい」という言い方も思い浮かばなかったのだが(当時の日記では、「チャラチャラした」という表現は使っている)、今でいえば、「チャラ男」という言葉がピッタリの、20歳そこそこの青年である。

チャオ・ルーさんは、韓国語の実力がほとんどなかったにもかかわらず、1級(つまり初級)が終わった後、とにかく入れる大学に入りたい、ということで、名も知れぬ専門大学(日本でいう短大に相当する大学)に、早々と入学を決めてしまった。たぶん、ほとんど試験なしに、合格したんだろうと思う。

一方、ワン・ウィンチョ君は、その後も語学院で、韓国語の勉強を続けた。そして3級の時に、私と同じクラスになった。

一緒のクラスになってみて、彼に対する印象は、私の中で急速に変わっていった。

見た目は「チャラ男」だが、とにかく、まじめなのである。

韓国語の能力も、ほかの人よりもすぐれている。そしてそれ相応の努力をしている。

決して、そのまじめさをアピールしているわけではないのだが、授業に対する取り組みは、誠実である。

あるとき、ワン・ウィンチョ君が私に話しかけてきた。

「僕、日本語を勉強したいんです」

私は彼のためにひらがなの「五十音表」を作って、翌日の授業の時に、彼に渡した

そのとき彼は、韓国語そっちのけで、日本語の勉強をはじめた。

それから私は、彼と急速に親しくなった。

野外授業の「料理教室体験」では、一緒のチームになって料理を作った。その時の様子は、以前、日記に書いたので、くり返さない。

さて、3級の授業も後半にさしかかった、ある日のことである。

ワン・ウィンチョ君は、韓国語の勉強をいまの3級で終わりにして、ガールフレンドのチャオ・ルーさんが通っている専門大学に自分も進みたい、と言いだした。

通常、留学生が韓国の大学に入学するためには、語学院で4級まで進まなければならない。彼はそれを放棄したい、と言いだしたのである。

これには語学院の先生も困った。なぜなら、彼の韓国語の実力は相当なもので、このまま4級に進めば、韓国の有名な国立大学に入学できるほどの能力を持っていたからである。

語学院の先生は、4級まで勉強してもっといい大学に入学するよう、必死に彼を説得した。もちろん私も、彼を説得した。

だが彼は、結局韓国語の勉強を3級まででやめてしまい、ガールフレンドと同じ、まったく無名の専門大学に入学してしまった。

このあたりの経緯についても、すでに過去の日記に書いた

もったいないなあ、と思ったが、彼自身の選択だったのだから、仕方がない。

たぶん彼は、とことん誠実な人間だったのだ、と思う。彼は、チャオ・ルーさんとの結婚を考えていると言った。当時40歳のオジサンの私から見れば、20歳そこそこで結婚を考えるなんて、まだ早い、と思っていたのだが、彼にとっては真剣な問題だったのだ。

そして、チャオ・ルーさんが進んだ大学の「日本語学科」に進学したという。以前私に「日本語を教えて下さい」と言ったのは、そういう理由だったのか、と、その時知ったのである。

ワン・ウィンチョ君は、外見のチャラチャラした第一印象とは違って、徹頭徹尾誠実な人間だったのだ。そのことを、3級の時の担任だったナム先生に言うと、

「私もそう思っていました。実際に受け持ってみると、最初の印象と全然違って、韓国語をまじめに勉強していたことに驚きました」とおっしゃった。

さてその後、彼はどうなったのだろう?

ナム先生が人づてに聞いた話では、その後彼は、突然脳の深刻な病気におかされ、中国に戻って大きな手術をしたのだ、という。その後、彼がどうしているのかは、まったくわからない。

「いまごろ彼は、どうしているんでしょうかねえ」

1 写真を見てナム先生がそうつぶやいたのも、そういったことを思い出したからだろう、と思う。

私は彼に教えられた。見た目や外見の印象だけで人間を判断すると、しばしば誤りを犯すことを、である。

日本に戻ってから、たまに彼のことを思い出しながら、そのことを日本の学生に対しても実践しようとつとめているが、学生たちに私がそのような人間として映っているかどうかは、はなはだ心もとない。たぶんまだまだ、修行が足りないのだろう。

そしてそのたびに私は、ワン・ウィンチョ君のことを思い出すだろう。

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キョスニムのホームステイ

8月12日(日)

「キョスニム(教授様)」というのは、韓国ではたいそう緊張する存在らしい。

「当初は、語学院の先生たちがみな、緊張していたんですよ」夕方、ヒョンブの家に向かう車中で、ナム先生が言う。「日本からキョスニムが韓国語を勉強しに来たけど、どうやって扱ったらいいだろうって」

「そうだったんですか?」

「ええ、私も、大学時代のキョスニムと話すときはとても緊張しますから。大学の勉強よりも、キョスニムと話をすることの方が、気が重かったですからね。最初はそのイメージがあったから、キョスニム(私)の前では、緊張していたんですよ」

ナム先生は「답답하다」という言葉を使った。「気が重い」とか、そういった意味の言葉である。韓国の大学では、教授と学生の間には、日本では考えられないくらいの権力関係が存在しているのだ。学生が教授に気安く話すことなど、絶対にできないのだ。

「こんな話を聞いたことがありますよ」とヒョンブ。「教授が学会に出張するため、家を留守にすることがあったんです。そのとき大学院生が呼び出されて、教授の留守のあいだ、教授の家で飼っている犬の世話をするように言われたそうです」

「へえ」まるで落語家とその弟子のような話である。

「まあ、極端な例ですけどね…。でもキョスニム(私のこと)を見ていると、学生との距離は近いし、学生も気安く話しかけてきますよね。日本のキョスニムは、みんなそうなんですか?」

「さあ…。私は『非主流』ですから」一同が笑った。

私は、この「非主流」という言葉が好きで、韓国滞在中もしばしばこの言葉を使って自分のことを説明した。「異端」という意味で使っているのだが、韓国では「非主流」という言葉の方がなじみがある言葉らしかった。

ヒョンブの家に到着した。

1_2 「さあ、約束のサムギョプサルを食べましょう。韓国では、友達みんなでわいわい食べるときはお店に行くけど、時間を気にせずにじっくり話ながら食べるときは家でするんです」

食べながら、いろいろと話をする。

2_4 ヒョンブは私より10歳ほど年下の、誠実で純粋な青年である。たいへんな読書家で、読んだ本のブックレビューを、ブログに頻繁に載せている。それもかなり長い文章である。そのへんが、なんとなく私とよく似ている。このときも、自分が読んだ本のことを、熱っぽく語っていた。

「オンニ(姉ちゃん)!ギターを弾いてよ」とナム先生。ナム先生のオンニは、ギターが得意らしい。

オンニが弾いた曲は、「버스커 버스커(Busker Busker)」というグループの「여수 밤바다(麗水(ヨス)の夜の海」という曲だった。「麗水(ヨス)」とは、韓国南端の、海岸沿いの町である。

ナム先生とヒョンブが、オンニのギターに合わせて歌う。とても素朴な歌だった。

「フォーク音楽ですね。むかしの歌ですか?」

「いえ、最近の歌ですよ。大学生のグループで、オーディション番組から出てきたんです」

「最近にしてはめずらしいですね、フォークなんて」

「でしょう。今はダンス音楽みたいな、どれも同じ曲調のものばかりだから、逆に新鮮なのかもしれません。なにより、歌詞が素朴でいいんです。いまとても人気があるグループなんですよ」

次に、ヒョンブの演奏である。

「じゃあ今度は、僕が好きなキム・グァンソクの歌を」

そう言って、キム・グァンソクの「일어나(立ち上がれ)」という曲を弾き語りした。長渕剛っぽい歌である。というか、長渕剛がこの歌を歌ったとしても全然違和感のない歌である。

続いて、同じキム・グァンソクの「먼지가 되어(埃になって)」という歌。ヒョンブはキム・グァンソクの歌の中でこの歌がいちばん好きだという。

どちらもメチャクチャ上手かった。やっぱり、ギターを弾けるっていいなあ。

そうこうしているうちに、夜11時を過ぎた。

ナム先生とオンニは、近くにあるお二人のご実家に戻った。

ヒョンブと二人で話をする。

「キョスニム」

「はい」

「キョスニムは、僕が知っているただ1人の日本人です」

「そうですか」

「昨年、キョスニムにお会いするまで、日本のこと、とくに関心がなかったんですよ。本やテレビから得た知識しかなかったんです。でもキョスニムは、僕が本で読んだりテレビで見たりしてイメージしていた日本人とは、ぜんぜん違っていたんです。日本に対するイメージが変わりました。それで日本のことを、もっともっと知りたいと思うようになったんです」

「でも私、『非主流』ですから」と私は冗談めかして言った。

だがそれは、本当のことである。私のような考え方は、たぶん日本では非主流だろうな、と、いつも思う。現に私は、周辺にいる人びとや学生たちに対してさえ、韓国に対する自分の思いを正確に理解してもらうことができないのだ。その無力さを、いつも感じていた。

「韓国に『因縁』という言葉がありますね」と私。「因縁」は、韓国人が好きな言葉である。

「はい、あります。キョスニムとこうして知り合えたのも、まさに『因縁』ですよね。ほんとうに、不思議な『因縁』です」

気がつくと1時近くになっていた。「さあもう休みましょう。明日も朝早いですから」

翌朝(13日)。

私は朝9時のバスで釜山空港に向かうことになっていた。

朝7時過ぎ、ナム先生とオンニがやってきて、4人で一緒に朝食をとる。

8時。慌ただしく準備して、ヒョンブの車でバスターミナルに向かう。ちょうど出勤時間と重なっていたため、道路は渋滞していた。

車中でナム先生が私に言う。

「キョスニム。実は私、この9月から博士課程に進むことにしたんですよ」

「語学院の先生をしながらですか?」

「そうです」

「語学院で仕事をしながらだと、大変ですね」実際、語学院での仕事がハードであることは、私もよく知っていた。

「実はキョスニムが韓国で勉強されていたときも、語学院で教えながら、修士課程の学生をしていたんです」

「そうだったんですか。ちっとも知りませんでした」

「この仕事、いつまで続けられるか、わからないでしょう。だから、博士課程に進んだほうがいいかなあ、と思って。で、決心したんです」

「私もそう思います」たしかに語学院の教師という仕事は、先の見えない仕事である。

「本当のことを言うと、あまり気が進まないんです。元来勉強があまり好きではないし、それに、博士課程に進むと、教授とかほかの大学院生たちとの人間関係についても気が重いことばかりだし…。勉強そのものよりも、どちらかといえばそちらの方が気が進まない理由ですね」

教授や他の大学院生との人間関係に、やはり悩まされることになるらしい。

「私のまわりの友だちが、結婚したり、子供を育てたりしているのに、私だけ何にも変わっていないんですよ。私も、少しでも前に進もうと思って、それで博士課程に進もうかなあ、と思ったんです」

ナム先生もやはり、韓国の『結婚適齢期』の独身女性が持っている共通の悩みを抱えていた。

「ナム先生」

「はい」

「『天職』って言葉、韓国にもありますか?」

「ええ、あります。天が与えてくれた、自分にいちばん合った職業のことでしょう」

「私が見たところ、韓国語を教えることは、先生の『天職』ですよ。少しでも息長くこの仕事を続けていくためには、博士課程に進むべきです」

「天職!そうですか!」

「万が一、韓国で仕事の場がなくなったとしても、そのときは、日本とかモンゴルとか、海外で韓国語を教えることだって、できるでしょう」

「そうですね。私だって、日本で教えること、できますよね」

この話を助手席で聞いていたオンニが言う。

「スジョナ!あんたぜったい博士課程に進みなさいよ!そして日本に行きなさい!そうしたら私も日本に旅行できるから」日本びいきのオンニが、「大邱訛り」で妹にまくしたてた。

「なんか、力がわいてきました。いままで、博士課程に進む動機が見つからなくって、ぜんぜん気が進まなかったんです。ただただ大変なだけだし…。でも、目的が見つかった気がします!」ナム先生の声は、はずんでいた。

車がバスターミナルに着いた。3人がバスの乗車口まで見送ってくれた。

「本当に楽しかったです」

「僕たち、今度必ず日本に遊びに行きます」とヒョンブ。

「ぜひ来てください。お待ちしてます」

「また大邱にも来てください」

「またお会いしましょう」

土砂降りの雨の中、空港へ向かうバスは走り出した。

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フォーク歌手と大統領

8月12日(日)

昨年9月、大邱に遊びに行ったとき、語学院で3級のときにお世話になったナム先生と、その姉夫婦と一緒にドライブをした。そのとき、ナム先生のヒョンブ(姉の夫)と、とても親しくなった。

「今度お会いするときは、サムギョプサル(豚の三枚肉の焼肉)を食べながら、焼酎を飲みましょう。きっとですよ」

別れぎわに、ヒョンブがそう言った。

その言葉が、ずっと気にかかっていて、今回の渡航前に、ナム先生と、ナム先生のヒョンブ(姉の夫)であるヨンギュ氏に韓国に行く旨を連絡したところ、

「じゃあ、最後の日は、わが家に招待しますから、泊まっていってください。サムギョプサルを一緒に食べましょう。もし負担に感じるようでしたら、サムギョプサルだけでも一緒に食べましょう」と返事が来た。

他人の家に泊まるのが大の苦手である私は、一瞬、躊躇したが、まあこれも経験だろう、と思い、「もし迷惑でなければ、ぜひひと晩ホームステイしたいです」と返事を書いた。

だがその日が近づくにつれ、やはりやめればよかったかな、と後悔し始めた。ヒョンブとは、まだ1度しか会ったことがないし、それに若い学生ならまだしも、いい歳をしたオッサンがホームステイをする、というのも、何だか気が引けてきた。

そもそも私は、「座持ちが悪い」のだ。招待された家で、気の利いた話ができるわけでもない。

だんだん憂鬱になってきた。

ナム先生とその姉夫婦とは、午後2時に、大邱市内にある「現代百貨店」の前で待ち合わせることになっていた。

約束はしてみたものの、午後2時から夕食の時間まで、どうやって過ごせばいいのかすら、思い浮かばない。

(困ったなあ。これでは間が持たないぞ…)

そうこうしているうちに、午後2時になり、待ち合わせ場所に3人がやってきた。

「久しぶりです」ヒョンブ夫婦とも1年ぶりである。

「昨日お話ししていた、『キム・グァンソクの小路(こみち)』が、すぐ近くなんですよ。まずはそこに行きましょう」とナム先生。

昨日、語学院の先生と食事しながらお話ししたとき、「最近、キム・グァンソクの歌をよく聴いているんです」という話をした。

1964年生まれのキム・グァンソクは、韓国で80年代に活躍し、当時の若者たちにカリスマ的な支持を誇ったフォーク歌手である。だが、1996年、31歳の若さで突然この世を去る。彼の死の原因は、いまだにさまざまな憶測を呼んでいる。日本でいえば、尾崎豊と同じような運命をたどった歌手である。曲調と、そしてそのカリスマ的な存在感は、尾崎豊と長渕剛を合わせたくらいの感じである。

歌詞といい、歌声といい、メロディーといい、心を揺さぶるものばかりである。

そのキム・グァンソクは、大邱で生まれた歌手であることを、昨日の語学院の先生たちの話で、初めて知ったのである。その生家の近くに、「キム・グァンソクの小路」があるという。

「『キム・グァンソクの小路』は、実は私たちもまだ行ったことがないんです。ちょうどいい機会なので、行きましょう」大邱に住んでおられる3人も、まだ行ったことがないのだという。

さっそく、キム・グァンソクの小路を歩く。

小さな市場の横を直線に走る路地が、「キム・グァンソクの小路」である。路地の壁には、キム・グァンソクのことを描いた壁画や、彼のつくった歌詞が、所狭しと並んでいる。

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「すごいですねえ」何より、壁に描かれている絵がどれも機知に富んでいるのだ。

「これはみんな、キム・グァンソクのことが好きな市民が、自発的に作ったんですよ。今でも定期的に、キム・グァンソクを尊敬するミュージシャンたちが、彼の歌を歌うコンサートをしているんです」

彼は死してなお、愛されているのだ。

しかし今日は蒸し暑い。ひととおり小路を歩いたあと、ヒョンブの車に戻る。

「外は蒸し暑いですね。こうなったら、ドライブしましょう。車の中がいちばん涼しいですから」

大邱の郊外にある八公山(パルゴンサン)の方に向かって、あてもなくドライブする。

「そういえば、この近くに、盧泰愚(ノテウ)前大統領の生家があるんですよ。たいしたことないと思いますけど、行くだけでも行ってみますか」とヒョンブ。

盧泰愚前大統領(在任1988~1993)も、大邱出身である。最後の軍人出身大統領であり、引退後は、かつての粛軍クーデターや光州事件を追及され、懲役刑を受けたこともある。

長らく民主化を望んでいた韓国の民衆にとって、軍人出身の大統領にはある「特別な感情」があるのだろう。

生家は思ったより小さかった。

「何にもないでしょう」

「何にもないですね」

「とっとと行きましょう」

たしかに、不親切なほどに、何もない。さきほどの「キム・グァンソクの小路」が、彼に対する愛情にあふれているのに対し、こちらの方は、まるでぶっきらぼうである。

31歳の若さで死してなお、15年以上にわたって民衆に愛されているフォーク歌手。

権力の頂点を極めながら、最後には民衆に背を向けられつつ生き続ける権力者。

いったいどちらが、幸せな人生なのだろう。

すでに5時を過ぎていた。

「ちょうどいい時間ですね。我が家に行きましょう」

車はヒョンブの家へと向かった。(つづく)

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私の名前はサム・マンソク

(タイトルは、以前韓国で大ヒットしたドラマ「私の名前はキム・サムスン」をもじったものです。念のため)

8月11日(土)

午前10時。バスに乗り、G市を出発して大邱(テグ)に向かう。

午後2時前、3時間半ほどかかって、大邱のバスターミナルに着いた。

夕方6時に、通っていた大学の北門で語学院の先生3人と待ち合わせて、夕食をとることになっているのである。

渡航前、語学院でお世話になったナム先生に連絡をとったところ、「この日は今学期の期末考査の日なんです。夕方には終わりますから、語学院の先生たちと夕食をとりましょう」という。

ということで、2級のときのクォン先生、3級のときのナム先生、4級のときのチェ先生の3人と一緒に、夕食をとることになったのである。

滞在中によく通った、大学北門近くの「安東チムタク」(辛い鶏料理)の店で食事をした後、腹ごなしに大学構内を散歩する。

今日で今学期の授業が終わった解放感からなのか、3人は、まあよく喋る。

韓国語に「スダ(수다)」という言葉がある。日本語で「おしゃべり」とか「無駄話」といった意味であるが、いままさに目の前で、30代独身女性3人による「スダ」がくり広げられているのだ。

だいたい日本にいたって、そんな場面に出くわしたら、こちらはどうやって口をはさんだらよいのか、わからなくなってしまう。ましてや韓国語では、どんなことを話していいのか、サッパリわからない。

そういえば、日本でも卒業生たちの「スダ」の前では、ただ黙って聞いているより仕方がなかったよな、と思い返し、なんだ、俺は日本でも韓国でも同じじゃないか、とひとり苦笑した。

「2次会に行きましょう」と先生たち。ビールを飲みながらも、3人の「スダ」ははてしなく続く。

「そうだ!キョスニムの韓国名を考えましょう!」と、突然、ナム先生が提案する。

ほら、日本でもよく、本当の名前とは別に、「あいつ、雰囲気からすると『のぼる』って名前っぽいよなあ」とか、そうと思うこと、あるでしょう。そんな感じで、私の名前を考えてくれる、というのである。

「マンソクっていうのはどう?」とチェ先生。するとほかの二人も、それはいい、と、手をたたいて同意した。

どうやら「マンソク」という名前が私のイメージにピッタリであるらしい。

「どんな漢字を書くんです?」と私。

「『滿釋』です」とクォン先生。

「…満釈」?

「いい名前でしょう。キョスニムのお人柄をよくあらわしています。ちょっと古めかしくて、最近の若い人の名前には使われませんけど。そうですねえ…50代の人によくありそうな名前です」

「……」よくわからないが、私のイメージをよくあらわした名前らしい。

「じゃあ、姓はどうします?」と私。

「そうですねえ…日本名の姓からとって『三(サム)』がいいんじゃないですか?『三滿釋』」

「三満釈(サム・マンソク)?…韓国に『三』という姓はあるんですか?」

「いえ、ありません。韓国では初めての姓でしょう」とナム先生。

「『大邱三氏』の誕生ですね」とクォン先生。韓国では自分の家系を、先祖の出身の地名とあわせて、「金海金氏」のように表現するのだ。つまり私は、「大邱三氏」の祖、ということになる。

「三滿釋…なんか僧侶のような名前ですね」私が言うと、3人は大爆笑した。

「今度はキョスニムが、私たちの日本名を考えてくださいよ」という。

私はひとりひとりの名前を考えて、それを紙ナプキンに漢字で書いて渡した。3人はさかんに、日本語での自己紹介の練習を始めた。

「こんにちは、私は○○○子です。韓国語の先生をしています…」

ふと気がつくと、11時半をまわっていた。

3人は名前を書いた紙ナプキンをカバンにしまいながら言う。「あっという間でしたね」

お店を出て、解散する。家に帰る道すがら、チェ先生が車でホテルまで送ってくれるという。

ナム先生やクォン先生は1年前にもお会いしたが、チェ先生とは、帰国以来お会いしていないから、2年半ぶりくらいである。

「妹さんは、いまも独身なんですか?」とチェ先生が運転しながら聞く。たしかチェ先生と私の妹は、同い年だったと記憶する。

「ええ。相変わらず自由に暮らしているみたいですよ」と私。それを聞いて、チェ先生も少し安心したようだった。

韓国では日本以上に、『結婚適齢期』という言葉に敏感である。独身のチェ先生も、そのことを気にしているようであった。韓国でも結婚や家族の形態が変わりつつあるとはいえ、まだまだ伝統的な考え方も根強く残っているのだ。

「キョスニム、私、留学生たちに韓国語を教えているでしょう。でも、外国に行ったことがないんですよ」とチェ先生。

「そうなんですか?」と私。それは意外だった。

「20代のころは、韓国の国内をあちこち旅行したんです。で、30代になると、今度は音楽とか演劇の公演を暇があれば見に行ったりして…。でもなかなか海外に旅行しようとまでは思わなくって…。留学生たちに韓国語を教えているうちに、私も海外に行きたいなあと思うようにはなったんですけど…」

「今から始めたらいいじゃないですか。遅いということはありませんよ」と私。

「そうでしょうか…」

車がホテルの前に着いた。

「今日は久しぶりにお会いできてとても楽しかったです」

「私もです」

「またちょくちょく大邱に遊びに来てくださいよ」

「わかりました」

次にお会いしたときも、きっと私の妹のことをたずねるだろうな、と思いながら、車を見送った。

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泥棒たち

8月10日(金)

午後5時、シネコン(映画館)に行く。いま公開中の韓国映画を見ることにする。

いまの時間(午後5時)から、上映開始時間が最も早い映画はどれか?

201208051119041 見ると、「도둑들」という映画が、5時15分上映開始である。

直訳すると、「泥棒たち」。どんな映画かも、誰が出ているかもわからないが、とにかくそれを見ることにした。つまり、何の予備知識もなく、見ることにしたのである。

見てびっくり!

なんと、私の好きな俳優ばかりが出ているではないか!

主演はあの「追跡者」「ワンドゥギ」などでおなじみのキム・ユンソク。いま私がイチ押しの、オッサン俳優である。年齢は私とほぼ同じである。

そして、キム・ヘス!女優キム・ヘスも、私とほぼ同い年である。

このキム・ヘスの色っぽさは、ハンパではない。若者言葉でいえば、「パねえ」である。いまのところ、私の中で「色っぽい女性」の世界ランキング第1位である!

さらにチョン・ジヒョン!映画「猟奇的な彼女」の!このチョン・ジヒョンも、じつに色っぽくてかっこいい。

とにかく、登場人物がすべてかっこいいのだ!

個性派俳優のオ・ダルスも、「青い塩」に引き続いて、コミカルな演技が最高である。ちなみにオ・ダルスは、私と同い年である。

映画の中では、韓国語と中国語と日本語と英語が、飛びかっている。しかもそれを韓国の役者が、すべて演じている。舞台となるのは、釜山、香港、マカオ。香港ノワールを彷彿とさせるような娯楽映画である。

韓国映画ではめずらしく2時間を超える映画だったが、まったく長さを感じさせなかった。

見終わって映画館を出ると、「ソナギ」(夕立、にわか雨)はすっかり止んでいた。

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ソナギのひとり旅

8月9日(木)

朝、ソウルに向かう御一行とM市のホテルで別れ、ひとりでG市に向かう。

学生がお世話になるC大学にご挨拶にうかがおうと思い、事前に連絡すると、「忙しいので」と断られた。まあ、突然のことだからもっともなことである。

そういえば、C大学に行ったことのある人から、先日メールが来ていたことを思い出した。

「もしC大学に行かれるのなら、裏門のところにある『ノルブボッサム』というお店が美味しいです」

これを読んで、思わず笑ってしまった。

だって、「ノルブボッサム」は、全国どこにでもあるチェーン店だもの。

私が大邱にいたときも、食べに行ったことがある。

たしかにそのお店は美味しくて、1日に2度も通ったことがあるくらいだ

しかし、今回はひとり旅である。ひとりで食事をするお店としては、かなり抵抗があるので、今回は見送ることにした。

市内を何カ所か見学した後、C大学のカフェで、「アイスアメリカーノ」を飲みながら、少し涼んだ。

8月10日(金)

G市からバスで50分ほどのところにある、Tという町に向かう。目的は、その町にあるという、石灯籠を見に行くことである。かなりの田舎町である。

バスに乗ると、後ろの座席に、日本人の女性の3人組が座っていた。

あんな何もない町に、何しに行くんだろう?聞いてみたい衝動に駆られたが、キモい人だと思われるのがこわくて、結局何も聞かなかった。

ま、そういう自分も、同じバスに乗っているわけだが。

バスを降りて、タクシーに乗る。

「○○まで行ってください」と言って地図を見せると、

「かなり遠いですよ」と言う。

しかしそういわれても、こっちはそれが目的できたのだから、仕方がない。とりあえず、目的の場所まで行ってもらうことにした。

ところが、行けども行けども着かない。どんどん寂しい山の中に入っていく。

ようやく、目的の場所に着いた。民家も何もない、山深い場所である。

「運転手さん、ちょっと待っていてください。写真だけ撮ってきますので」

ここでタクシーに帰られてしまうと、私の帰る手段がなくなってしまう。私はタクシーから降りて、石の燈籠の写真を撮ることにした。

夏草の生い茂る空き地に、石灯籠がポツンと立っていた。

石灯籠の近くに寄って、一生懸命写真を撮っていると、ブンブンとハチの音が聞こえる。

(うるさいなあ)

すっかり写真を撮ることに集中していたが、ふと我に返り、石灯籠の中を見てびっくりした。

す、す、スズメバチの巣だあああぁぁぁぁぁ!!!

なんと、石灯籠の中に、ビックリするくらい大きなスズメバチの巣があるではないか!

すぐに写真を撮るのをやめて、あわててタクシーに駆け込んだ。

「戻りましょう!」

運転手さんは不審に思ったに違いない。高いお金をかけて石灯籠をたった1つだけ見に来て、写真を撮るかと思ったら、あわてて戻ってきたからである。

雨もポツリポツリと降りはじめる。そういえば天気予報では、今日は全国的に「ソナギ」(にわか雨、夕立)が降ると言っていた。

「ほかにどこか見るところはありますか?」と私。

「ここは竹が有名ですからねえ。竹の博物館なんてどうです?」

「じゃあそこに行ってください」

町に戻り、竹の博物館を見に行ったが、雨がやまない。

すっかり意気消沈した私は、バスでG市にもどることにした。

G市に戻ったのが、午後1時半。外は土砂降りの雨である。

(まったく、今日は散々だなあ)

G市のバスターミナルは、お店や食堂がいくつもある巨大な複合施設になっており、かなりの時間をここでつぶすことができるようになっている。

仕方がないので、本屋にはいると、なんと松本清張の小説が韓国語に翻訳されているではないか!

松本清張ファンとしては、チェックしておく必要がある。

またはじまった。悪いクセである。

本屋で松本清張の短編小説集『張り込み』(韓国語訳)を買い、その隣にあるコーヒーショップで、その中に収められている「顔」を読みはじめる。

もちろん、むかし読んだことがあるのだが、内容をすっかり忘れてしまった。

読みはじめると、これがなかなか面白い。つい時間を忘れて読みふけってしまう。

(待てよ。こんなことで、半日をつぶしてしまっていいのだろうか…)

せっかく韓国に来たのに、これではもったいない。

そこでハタとひらめいた。

(そうだ!映画を見よう!)

バスターミナルに隣接して、シネコン(映画館)があったことを思い出した。

午後5時、隣のシネコンに向かった。(つづく)

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ドロドロの日々

8月6日(月)~8日(水)。韓国滞在中。

つくづく、私のいる業界は体力勝負、スタミナ勝負だな、と思う。とくに韓国滞在中は、そうである。

6日、日本から来た10名以上のメンバーによる、C市での1日仕事が終わり、仕事先でお世話になった先生方との会食も終わった夜、

「明日の予定はどうなっているんです?」

「明日は大型バスを借りて、M市まで行く移動日なのですが、時間に余裕があるので、午前中に山に登ります」

「山ですか?」

ただでさえ35度以上もあるこの気候である。しかも私は、何もしていなくても、いや、冷房のきいている部屋でも、ふだんから川に落ちたような大汗をかいているのだ。

この上、山に登ったらどうなるのだろう。

さすがに周りの人たちも、長いつきあいなので、私の大汗かきぶりを知っている。

「大丈夫かい?」と調査団長。

「たぶん、死にそうな表情をすると思いますけれど、体調は大丈夫ですので、そのときはどうか気にせずに先に登ってください」と私。一同が爆笑した。

さて翌日(7日)。

午前中、山に登る。といっても、山道を15分ほど登るだけである。気温は30度をとっくに超えているので、みんな汗だくである。

もちろん私もである。もう、川に落ちた、というレベルではない。自分の汗におぼれるのではないか、と思うほどである。

山の上での調査が終わり、やっとの思いで下山する。

「午後はどうするんです?」

「1カ所だけ、寄るところがあります。そこで説明を聞いて、それが終われば、あとはバスでM市に向かうだけです」

昼食後、その場所に到着。

冷房があまり効いていない建物の中でいろいろと説明を受けるが、説明してくれる若い方がずいぶんと熱心なので、立ったまま延々と説明を聞くことになる。しかし、ありがたいことではある。

「ずいぶん熱心な方ですね」

「ええ。なんでも、ここへ勤められて、まだ1ヵ月もたっていないそうです」

「なるほど。つまり、使命感に燃えておられるわけですね」

「どうもそのようです」

ようやく1時間にわたる説明が終わった。

「では、これから裏の山に登ります」

えええぇぇぇぇぇっ!!!また山に登るの?

ということで、最も気温が上がった午後2時、建物の裏にある山に登る。緩やかで短い距離だが、日ざしをさえぎるものがまったくないため、ゆっくり歩いていても汗が流れ出る。

しかし上に登ると、眺めは最高で、風が少し気持ちよかった。

この後バスに乗り、夜6時前、M市に到着した。

夜7時から夕食をとった後、次の日に調査でお世話になるI先生と久しぶりに再会し、2次会へと向かう。そこでひたすらビールを飲み続ける。

他のメンバーは、10時すぎにホテルに戻ったが、私を含めた3人が、I先生につかまってしまい、深夜1時までビールにつき合わされた。

I先生は、私より年下の女性だが、酒豪で有名で、3年ほど前、初めてお会いしたときも、午前2時までビールにつき合わされた。じつに明るいお酒である。

I先生は、そのときのことをよく覚えていて、よほどそのときのことが楽しかったらしい。私が最後までつき合わされたのも、そのせいである。

だが、夜も12時をまわると、お話しされている韓国語もほとんど聞きとれないほど、脳が疲れてしまった。

「長い1日でしたね」一緒につきあわされたHさんが、I先生から解放された後に、ポツリと言った。

「そうですね。死ぬかと思いました」と私。

翌日(8日)。

朝から仕事である。昼食以外はまったく休みなく、しかも狭い部屋で10人以上の人たちがひしめき合いながら、さほど冷房が効いていない部屋で、立ちっぱなしで仕事をした。

さらに、昼食の場所から炎天下を15分ほど歩いて作業場に戻ったので、午後はとにかく汗が全然引かない。仕事をしに来たのか、汗を拭いに来たのか、よくわからない。

それにしても私以外のメンバーの、強靱なスタミナと集中力には驚くばかりである。

夜6時過ぎ、仕事が終わり、昨日と同様、仕事先の先生と会食をする。この日もI先生は絶好調で、結局、深夜0時半まで、私とHさんを含めた数人がつきあわされたのであった。

「12月に日本でお会いしましょう」

私たちは仕事の関係で、I先生を12月に日本に招待することになっていた。

「日本の生ビールへの期待が高まります」とI先生。12月も覚悟しなければならない。

この3日間で、どれだけの量の汗をかいたのだろう?まるでアイスクリームがドロドロと溶けるように、汗をかき続けた3日間であった。

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右に見える競馬場、左はビール工場

8月6日(月)

ユーミンの「中央フリーウェイ」をあらためて聴いていて、気づいたことがあった。

「右に見える競馬場、左はビール工場」という歌詞の部分。

この部分が、私の実家の場所を指している、という話は、前回書いた

問題は、なぜ、「競馬場」が先で、「ビール工場」が後なのか、ということである。

「左はビール工場、右に見える競馬場」では、いけないのか?

答え。絶対に「競馬場」の方が先でないといけないのである。

理由は簡単。「調布基地」から八王子方面に、中央自動車道を車で行くと、まず右手に競馬場が見え、それからほどなくして、ビール工場が見えるからである。

競馬場とビール工場は、中央自動車道をはさんで対称の位置にあるのではなく、ビール工場の方がほんの少しだけ、八王子寄りに位置しているのである。

だから絶対にここは「右に見える競馬場、左はビール工場」とならなくてはならない。

試みに、中央自動車道を車で行き、競馬場の横を通ったときに、「み~ぎにみえるけーばじょう~」と、歌い始めてみるがよい。

するとちょうどよい具合に、「ひ~だりはビールこーおじょう」と歌っているときに、左側にビール工場が見えてくるはずである。

つまりこの歌は、競馬場とビール工場の微妙な位置の違いをも歌いこんだ、とてもリアリティのある歌なのである!

この「細かな部分のリアリティ」こそが、ユーミンの音楽の真骨頂なのだ!

…あまりたいした発見でもないか…。

ちなみに我が実家は、「み~ぎに」と歌い始める瞬間に左を向くと、見えるはずである。

…あ、韓国には、昨日無事着きました。

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体育会系のユーミン、文化系のター坊

私にとって「夏の音楽」といえば、チューブではなく、大貫妙子である。

「黒のクレール」「夏に恋する女たち」「海と少年」。この3曲は私にとっての「夏の三部作」である。

松任谷由実こと「ユーミン」と、大貫妙子こと「ター坊」は、同時期に活躍した女性ミューシャンである。二人の音楽的才能は、いまさら説明するまでもない。しばしば、ライバル視するむきもある。

むかし聞いていたFMラジオで、坂本龍一が、ユーミンの大衆性と、ター坊の抽象性を、対比していたと記憶している。

単純化していえば、両者ともクオリティの高い音楽を提供しながらも、ユーミンは大衆に支持されるメジャーな存在なのに対し、ター坊はマイナーな存在なのである。

もちろん私はどちらも好きである。ユーミンの歌でいえば、「中央フリーウェイ」の歌詞にある、

「右に見える競馬場 左はビール工場」

は、まさに私の実家のあるその場所のことを歌っていて、いわば私の実家のテーマ曲、といってもいい。

有名な「卒業写真」の

「話しかけるように

揺れる柳の下を

通った道さえ今はもう

電車から見るだけ」

というフレーズは、私が高校時代に、電車から中学校の通学路を見ていた様子を活写している。これはいわば私の中学校のテーマ曲である。

「海を見ていた午後」の、

「ソーダ水の中を貨物船が通る」

という歌詞を聴いたときは、身震いした。もうこのワンフレーズだけで、ユーミンは天才であることがわかる。

しかし、本当のことをいうと私は、ユーミンの音楽よりも、ター坊の音楽の方が好きである。

それはいったい、なぜなのか?

ひと言でいえば、ユーミンは体育会系で、ター坊は文化系である。

つまり私が文化系人間で、ター坊の音楽は、文化系人間の琴線に触れるからではないだろうか。

私のまわりでユーミンの音楽が好きだ、という人は、体育会系の人が多いような気がする。これは偏見だろうか?

ちなみに矢野顕子も大貫妙子と同様、文化系人間の音楽である。

坂本龍一は、大貫妙子や矢野顕子の音楽に惚れこみ、数々の編曲を手がけている。それは彼が、体育会系ではなく、文化系人間だからではないか?

一方、松任谷正隆は、なんとなく体育会系っぽいじゃん。イメージだけだけど。

ひょっとして体育会系人間は、実は大貫妙子とか矢野顕子の音楽を聞いても、あまりピンと来ないのではないか?これもやはり偏見か?

うーむ。この感覚、うまく伝わらないかなあ。ま、どうでもいいか。

…というわけで、しばらく旅に出ます。行き先はもちろん、韓国です。

道中、ユーミンやター坊の音楽を聴きながら。久しぶりに、ユーミンの「ひこうき雲」を聴こう。

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命を繋ぐ、ということ

ふと、思い出したことがあるので、書きとめておく。

1996年の8月初め。ちょうど今くらいの、暑い盛りのことである。

研究室の同期だったT君が、病気で急逝した。26歳の若さで、である。前の日まで元気だったのに、本当に突然のことであった。

T君はとても優秀な人間で、9人いた研究室の同期の中でいちばん早く就職を決めた。将来を嘱望された人物だった。それは、誰もが認めていたことだった。

だが彼は、その年の4月に就職してわずか4ヵ月にして、亡くなってしまったのである。これからバリバリと活躍していくはずだったのに。

私は、彼とは専攻分野が若干違っていたので、ふだん、それほど話をしたわけではなかった。

それに、正直に告白すると、私は同期の中でいちばんの落ちこぼれで、優秀なT君と話をすることに、気が引けていたのである。むろん、彼はそんなことは微塵も思っていなかったのだろうけれど、当時、コンプレックスの塊のような人間だった私は、なんとなく彼のことを避けていたのである。

彼が亡くなってから、同期の仲間とお宅におじゃまをしたことがあったが、そのときも、ご両親とお話しするのは、もっぱら彼と専攻分野が同じだった連中たちで、私はほとんどご両親とお話しすることもないまま、おいとました。

たぶんご両親は、私のことはほとんどご存じないのだろうな、と思っていた。

それでも毎年、彼のご両親からは年賀状をいただいていた。大変失礼なことだが、私は誰に対しても、例外なく年賀状に個別のメッセージを書かないことにしていて、印刷した年賀状をただお送りしていただけだったのだが、ご両親からは、「二人で元気にやっております」など、メッセージがひとこと書かれた年賀状をいただいた。

その後、私の就職が決まり、東京を離れると、ご両親からの年賀状に、

「就職して東京を離れたそうですね。どうか頑張ってください」

というメッセージをいただいた。たぶん同期の仲間が、ご両親にお話ししたのだろうか、と思った。

さらに3年前、韓国に留学したときにも、

「韓国に留学されていたのですね」

というメッセージをいただいた。

私は彼のご両親とは、告別式と、その後、1周忌のときにお宅におじゃましたくらいで、それ以来、お会いしていないのである。それに、直接お話ししたことも、ほとんどない。だがご両親は、その後もずっと、私のことを気にかけていただいているようなのである。

ひょっとしてご両親にとっては、息子と同期の仲間たちが成長したり、活躍したりすることが、ご自身の支えにもなっているのではないだろうか。

ご両親は、ご自身の息子と重ね合わせるようにして、私たちの成長を見届けておられるのではないだろうか。

あるとき、そのことに気づき、今まで自分がそのことにまったく思い至らなかったことを、恥じた。

残された者が、精一杯生きること。

それが、短かった彼の命に、応えることになるのではないだろうか。ひとり息子を亡くされたご両親を、支えることになるのではないだろうか。

そう思うようになったのである。

彼の卒業論文は、とてもすばらしいものだった。

彼が大学を卒業した翌年、学会誌の巻頭論文として掲載された。卒業論文が学会誌の巻頭を飾るのは、異例のことである。

私は毎年、卒業論文を控えた4年生たちに、彼の卒業論文をコピーして、「卒論のお手本」として配っている。

「本当の卒業論文とは、こういう論文のことをいうのだよ」と。

彼が残してくれた論文は、いまも現役の学生たちの指針になっている。

そしてそのたびに、私も彼のことを思い出す。

こうして彼は、今も生き続けている。

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授業「キョスニムと呼ばないで!」ふたたび

8月2日(木)

昨日、県内の高校生1人が、「職場訪問」ということで、私の仕事部屋をおとずれたので、半日、さまざまな話をする。

そして今日は隣県の高校生6名が、大学の雰囲気を体験しようということで、うちの職場にやってくるという。

ついては1コマ分(90分)の授業をしろ、とのことだった。

ということで、「キョスニムと呼ばないで!」の授業を、ふたたび行うことにした。

せっかくなので、うちの学生にも聴講を呼びかけたところ、なんと6名の学生が、この暑いのに集まってくれた。ありがたいことである。

…いや、単に教室に涼みに来ただけかもしれない。

前回、時間が足りなくなってしまった反省をふまえ、「誕生日の初舞台」のエピソードを削ったところ、12時ピッタリに終わった。

終わってから、教室のいちばん後ろの席で最後まで聞いていた事務職員のHさんが私のところにやってきた。

「先生、ありがとうございました」

「いえ、おそまつさまでした」

「感動しました」

「そうですか」

「実は私も30歳の時に1年間、中国の大学に留学していたんです」

「え?そうでしたか」ふだん、ほとんど話をしたことがなかったので、その話は初耳だった。

「なんか、あの頃を思い出しました」Hさんが感慨深げに言う。「先生のおっしゃるとおりです。学ぶのに、年齢なんて関係ないんですよね」

「その通りです」

「私もあの頃日記を書いていればなあ…」

私の話は、彼の遠い記憶に火をつけたらしい。

そして留学した人間は、その時のことを、誰かに語りたがるものなのである。

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十七歳だった!

8月1日(水)

夜、原田宗典のエッセイ集『十七歳だった!』(集英社文庫)をむしょうに読みたくなり、夜遅くまで開いている書店に駆け込む。

15年以上前、まだ20代後半だったころ、同じ高校の後輩が、原田宗典のエッセイ集を私にさかんに勧めてきたことがあった。

「先輩が読んだら絶対はまると思いますよ」

「どうして?」

「自意識過剰とか、過剰な妄想とか、そういうところが先輩に似ているんです」

どうやら私は昔からそう思われていたらしい。

「中でもどれがおすすめなの?」

「そうですねえ…。『十七歳だった!』ですかね」

信頼していた後輩からの勧めでもあったので、その当時、原田宗典のエッセイ集をかなり読みあさった記憶がある。

だが15年以上たって、その内容もすっかり忘れてしまった。

今夜は「十七歳」について考えたいと思い、久しぶりにこのエッセイ集のことを思い出したのである。

問題は、その書店に置いてあるかどうかである。なにしろ15年以上も前に出されたエッセイ集なので、今でも買えるのかどうかもわからない。

大汗をかきながら、熱帯夜の町を歩き、ようやく書店に到着した。

運のよいことに、原田宗典のエッセイ集は、『十七歳だった!』(集英社文庫)だけが置いてあった。

さっそく買いもとめ、家に帰って読みはじめる。

『十七歳だった!』は、原田宗典自身の、高校時代の「おバカな体験」を綴ったものである。

十七歳の男子高校生なら、誰もが「思いあたるふしのある」体験や妄想が、抱腹絶倒の文体で描かれている。

原田宗典のエッセイの文体の特徴をひと言でいえば、「照れ隠しの文体」である。自分の中にある自意識過剰、被害妄想、といった部分が、軽妙な照れ隠しの文体で書かれている。

その文体は、必ずしも私の趣味と一致しているというわけではないのだが、私をよく知るその後輩は、なぜか原田宗典のエッセイの語り口が、私のふだんの語り口と似ていると思ったらしい。不思議である。

ただ、そこに語られている内容は、私たちにとっていわば「あるあるネタ」である。

たとえば、こんな文章。

「今にして思うと、どうしてそんなにワケもなく反発を覚えたのか不思議でならないのだが、とにかく十七歳当時のぼくは両親のことをこの上もなく煩わしく感じていた。反抗期と呼んでしまえばそれまでなのかもしれないが、んもうイヤでイヤでしょうがなかったのである。

まず母親に関しては、口うるさいことが、いちばん気に入らなかった。年がら年じゅう小言ばかりいいやがってンナロー、と憎しみすら覚えた。まあ母親という生物は、ぼくの家だけに限らず、どこの家庭でも口うるさいものであるらしい。ようするに赤ん坊の時代からずっと育てているものだから、その子どもが十七歳になっても、

『んもう子供なんだからうちの子わあ。あたしがついてなきゃ何もできないんだからこの子わあ』

と腹の中で思ってしまい、ついつい口を出したり手を出したりしたくなるのであろう。

しかしナイーブな十七歳にとって、自分が子供扱いされることほど屈辱的なことはないのである。しかも母親というのはどういうわけか、小言のタイミングが悪い。例えばぼくが学校から帰って夕食をとり、骨休めにテレビを一時間ほど観て、

『さーて、そろそろ勉強でもすっかな』

と考えて腰を上げようとする。と、母親はまるでその瞬間を狙いすますようにして、風のように現れ、

『テレビばっかり観てないで、勉強しなさいよ勉強』

などと小言を言うのである。これは頭にくる。

『たった今そう思ってたのにー!』

と地団駄を踏みたくなる。そして、すっかりヤル気をなくしてしまう。母親の小言というのはいつもそういうタイミングでばきゅーんと発射されるので、ぼくとしては腰砕けになることが常であった」

こういう感じの「照れ隠しの文体」で、男子高校生の「あるあるネタ」が次々と披露される。

いま読み返してみると、その文体も含めて、何とも気恥ずかしい感じのするエッセイ集なのだが、この本のあとがきは、少しじーんと来る。

「高校時代のことを思い出すと何だか夢のようだ、などと言ったら陳腐に過ぎるだろうか。しかしぼくの高校の三年間は、本当に夢のようだった。小、中学校の時代や大学時代、あるいは社会人になってからの日々と比べてみても、高校時代だけ思い出の色合いが違う。やけに明るくて、眩しいのである。もちろん当時は高校生なりの悩みや問題も抱えていたけれど、今にして思うとその悩みすらも楽しんでいたような印象がある。(中略)

十七歳。

口にしてみると、この響きは他のどんな年齢よりも軽やかで、愉快で、しかも美しく感じられる。

『そんなのはあんたの個人的な意見でしょうが』

と反論する人も中にはいるかもしれないが、そうだろうか?もし貴方が十七歳以上の年齢ならば、本書のタイトルをちょっと口にしてみてもらいたい。

『十七歳だった!』

小声でもいいから、力強くそう言うと、たちまち胸の奥が甘く疼かないだろうか。ああ、そうだそうだ、自分は十七歳だったんだと改めて思い返し、口許が綻ばないだろうか」

これを読んで、思い出した。

この本を最初に読んだとき、数々のおバカなエピソードは、この文章にたどり着くために書かれたのではなかったか、と感じたことを。

そして私も、「十七歳だった!」と、そのとき、呟いてみたことを。

思えば、十七歳が原点だったのかもしれない。

どんな選択肢を選ぶことも可能だった、十七歳。

そこから、どんな道にも進むことができた、十七歳。

だから、十七歳を迎えることができた少年は、その幸せを噛みしめなければならない。

そしてその無限の可能性が、失われるようなことがあってはならない。

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氷基準

8月1日(水)

相変わらず、暑い日が続いておりますな。

私の仕事部屋には、冷蔵庫がない。

唯一あるのが、小さめの「ポット型魔法瓶」である。

職場で捨てられそうになっていたところを、もらいうけたものである。

夏場は、氷水を入れておくと意外とこれが重宝する。

事務室の隣に応接室みたいな部屋があって、そこに共有の冷蔵庫が置いてある。その冷蔵庫の冷凍庫から、氷を拝借して、「ポット型魔法瓶」に入れ、そこに、浄水器の水を入れる。そして氷水を飲む。

これが、最近の私の日課である。「氷水は身体に悪い」と言われながらも、こればかりはやめることができない。

面倒なことに、いま私は「陸の孤島」にいるので、わざわざ「陸の孤島」を出て、暑い中を日差しの強い大通りを横切り、自分の所属する部局の建物の事務室まで行かなければならないのである。

つまり、水を汲むのも一苦労、というわけである。

さらに厄介なことに、冷蔵庫が置いてある部屋は、応接室にもなっていて、たまにそこで会議をやっていたりする。

会議中は、その部屋に入ることはできない。つまり、氷を取ることはできないのである。

ポット型魔法瓶を持って、大汗をかきながら「陸の孤島」から所属部局の建物に行き、さあ氷をもらおうとその部屋の前まで行くと、

「会議中」

という看板が掛かっている。

すると、またいそいそと、大汗をかいて「陸の孤島」に戻るのである。

そんなことが2回くらい続いた。

今日、それを見かねたのか、ある職員の方が、

「会議が終わり次第、私が氷と水をポットに入れておきますよ」

と言ってくれた。

だが私は逡巡した。

「いえ、いいです。自分でやりますから」

「いえ、大丈夫ですよ。氷を入れて、浄水を入れればいいんでしょう?」

「はあ、まあそうなんですが…」

私が逡巡したのには、理由がある。

それは、私はそのポット型魔法瓶に、ふだんはビックリするくらいの量の氷を入れているからである。

もう、ポット型魔法瓶が全部埋まるくらいの量の氷である。どちらかといえば氷メインで、その隙間に水がある、という感じである。

そうしないと、時間が経つにつれて猛烈な勢いで氷がとけてしまうのである。少なくとも1日持たせるには、めいっぱい氷を入れなければならない。で、キンキンに冷えた水を飲む。これが最強なのである。

職員の方にそれが理解できているか、不安だった。これまでの経験だと、たぶんこの方に私の本意は理解されないだろうなあ。

しかしむげに断るわけにもいかず、「じゃあ、お願いします」と言って、事務室を出た。

ころあいを見て、暑い中を再び事務室に行く。

「氷と水を入れておきました」

「ありがとうございました。おかげで助かりました」と私。

念のため、ポット型魔法瓶を少し振ってみる。

ふだんだったら、「カランカラン」と、氷がポットの内壁に勢いよくぶつかって、涼しげな音が鳴るのだが、今回ばかりは振っても鳴らない。いや、かろうじて小さい音で「カランカラン」と聞こえる程度である。

(やっぱりなあ…)

申し訳程度に、氷が入っているだけであった。

案の定、ポット型魔法瓶の中の氷は、1時間もたたないうちに、猛烈な勢いで溶けてなくなってしまった。

(やはり自分でやればよかった…)

私と他人とは「氷基準」が異なるにもかかわらず、それを他人に任せてしまったことを反省した。

「冷房の温度と氷の分量は 自分でせぬと気が済まぬ俺」(『うなぎ記念日』(未刊)より)

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