十七歳だった!
8月1日(水)
夜、原田宗典のエッセイ集『十七歳だった!』(集英社文庫)をむしょうに読みたくなり、夜遅くまで開いている書店に駆け込む。
15年以上前、まだ20代後半だったころ、同じ高校の後輩が、原田宗典のエッセイ集を私にさかんに勧めてきたことがあった。
「先輩が読んだら絶対はまると思いますよ」
「どうして?」
「自意識過剰とか、過剰な妄想とか、そういうところが先輩に似ているんです」
どうやら私は昔からそう思われていたらしい。
「中でもどれがおすすめなの?」
「そうですねえ…。『十七歳だった!』ですかね」
信頼していた後輩からの勧めでもあったので、その当時、原田宗典のエッセイ集をかなり読みあさった記憶がある。
だが15年以上たって、その内容もすっかり忘れてしまった。
今夜は「十七歳」について考えたいと思い、久しぶりにこのエッセイ集のことを思い出したのである。
問題は、その書店に置いてあるかどうかである。なにしろ15年以上も前に出されたエッセイ集なので、今でも買えるのかどうかもわからない。
大汗をかきながら、熱帯夜の町を歩き、ようやく書店に到着した。
運のよいことに、原田宗典のエッセイ集は、『十七歳だった!』(集英社文庫)だけが置いてあった。
さっそく買いもとめ、家に帰って読みはじめる。
『十七歳だった!』は、原田宗典自身の、高校時代の「おバカな体験」を綴ったものである。
十七歳の男子高校生なら、誰もが「思いあたるふしのある」体験や妄想が、抱腹絶倒の文体で描かれている。
原田宗典のエッセイの文体の特徴をひと言でいえば、「照れ隠しの文体」である。自分の中にある自意識過剰、被害妄想、といった部分が、軽妙な照れ隠しの文体で書かれている。
その文体は、必ずしも私の趣味と一致しているというわけではないのだが、私をよく知るその後輩は、なぜか原田宗典のエッセイの語り口が、私のふだんの語り口と似ていると思ったらしい。不思議である。
ただ、そこに語られている内容は、私たちにとっていわば「あるあるネタ」である。
たとえば、こんな文章。
「今にして思うと、どうしてそんなにワケもなく反発を覚えたのか不思議でならないのだが、とにかく十七歳当時のぼくは両親のことをこの上もなく煩わしく感じていた。反抗期と呼んでしまえばそれまでなのかもしれないが、んもうイヤでイヤでしょうがなかったのである。
まず母親に関しては、口うるさいことが、いちばん気に入らなかった。年がら年じゅう小言ばかりいいやがってンナロー、と憎しみすら覚えた。まあ母親という生物は、ぼくの家だけに限らず、どこの家庭でも口うるさいものであるらしい。ようするに赤ん坊の時代からずっと育てているものだから、その子どもが十七歳になっても、
『んもう子供なんだからうちの子わあ。あたしがついてなきゃ何もできないんだからこの子わあ』
と腹の中で思ってしまい、ついつい口を出したり手を出したりしたくなるのであろう。
しかしナイーブな十七歳にとって、自分が子供扱いされることほど屈辱的なことはないのである。しかも母親というのはどういうわけか、小言のタイミングが悪い。例えばぼくが学校から帰って夕食をとり、骨休めにテレビを一時間ほど観て、
『さーて、そろそろ勉強でもすっかな』
と考えて腰を上げようとする。と、母親はまるでその瞬間を狙いすますようにして、風のように現れ、
『テレビばっかり観てないで、勉強しなさいよ勉強』
などと小言を言うのである。これは頭にくる。
『たった今そう思ってたのにー!』
と地団駄を踏みたくなる。そして、すっかりヤル気をなくしてしまう。母親の小言というのはいつもそういうタイミングでばきゅーんと発射されるので、ぼくとしては腰砕けになることが常であった」
こういう感じの「照れ隠しの文体」で、男子高校生の「あるあるネタ」が次々と披露される。
いま読み返してみると、その文体も含めて、何とも気恥ずかしい感じのするエッセイ集なのだが、この本のあとがきは、少しじーんと来る。
「高校時代のことを思い出すと何だか夢のようだ、などと言ったら陳腐に過ぎるだろうか。しかしぼくの高校の三年間は、本当に夢のようだった。小、中学校の時代や大学時代、あるいは社会人になってからの日々と比べてみても、高校時代だけ思い出の色合いが違う。やけに明るくて、眩しいのである。もちろん当時は高校生なりの悩みや問題も抱えていたけれど、今にして思うとその悩みすらも楽しんでいたような印象がある。(中略)
十七歳。
口にしてみると、この響きは他のどんな年齢よりも軽やかで、愉快で、しかも美しく感じられる。
『そんなのはあんたの個人的な意見でしょうが』
と反論する人も中にはいるかもしれないが、そうだろうか?もし貴方が十七歳以上の年齢ならば、本書のタイトルをちょっと口にしてみてもらいたい。
『十七歳だった!』
小声でもいいから、力強くそう言うと、たちまち胸の奥が甘く疼かないだろうか。ああ、そうだそうだ、自分は十七歳だったんだと改めて思い返し、口許が綻ばないだろうか」
これを読んで、思い出した。
この本を最初に読んだとき、数々のおバカなエピソードは、この文章にたどり着くために書かれたのではなかったか、と感じたことを。
そして私も、「十七歳だった!」と、そのとき、呟いてみたことを。
思えば、十七歳が原点だったのかもしれない。
どんな選択肢を選ぶことも可能だった、十七歳。
そこから、どんな道にも進むことができた、十七歳。
だから、十七歳を迎えることができた少年は、その幸せを噛みしめなければならない。
そしてその無限の可能性が、失われるようなことがあってはならない。
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