« 俺は「すぎちゃん」か? | トップページ | つまらない意地 »

私の意地に火をつけて

10月11日(木)

夕方6時半過ぎ、やや遅れて「丘の上の作業場」に行く。

書き忘れていたが、10月から「丘の上の作業場」の作業が再開したのだ。

さすがに夜になると肌寒くなるので、夜空の下の作業、というわけにはいかない。屋内での作業となったが、それでも、やはり「丘の上の作業場」はいい。とくに今日みたいに何もいいことがなかった日は、なおさらそれが骨身に染みる。

今日は通常のクリーニング作業のあと、月に一度の定期会合である。

「今日は震災から1年7カ月が経ちました」と世話人代表のKさん。この作業も、1年5カ月くらい続いている。

飽きっぽい私が、なぜここまで続いたのか?

ひと言でいえば、「意地」である。

子供の頃から、つまらない意地を張ることにかけては、右に出るものはいなかった。今でもそうである。

その「意地」に、火がついたのだ。

だが、事の本質は、そこではない。

集まってくる人たちが、それぞれの持ち場で頑張っているのを見て、惹かれたのである。

それは、ボランティア活動の中における持ち場で、それぞれが役割を分担しながら作業している、という意味ももちろんあるが、より本質的なことは、それぞれの本業を頑張りつつ、この活動に参加している、という事実である。

それぞれが、自分の持ち場でギリギリの状況で仕事をしながら、この活動のことを考えている。

だから、活動に常に参加していることだけが、尊いのではない。

たとえば、私と同い年の盟友・Uさん。

彼は今、本業がとても忙しく、こちらの活動になかなか顔を出せない。彼はことあるごとに私に、「出られなくて申し訳ない」という。自分が参加できなくとも、自分の職場のほかの誰かが参加できるよう、呼びかけてくれたりもしている。つまり、手を尽くしてくれている。

だが重要なのは、いま彼は、自分の持ち場で頑張っている、という事実である。

それだけで私は、勇気づけられる。

それぞれの持ち場で頑張っている人間が、知恵を出し合い、時間と力をやりくりしながら、この活動を続けようとしている事実。

その事実こそが、尊いのだ。

それぞれの持ち場で頑張っている人間は、それだけで美しい。

うちの職場でもそうだが、リーダーシップを発揮できる人材を育てるべきだ、という意見が喧しい。

リーダーシップ?

冗談じゃない。各自がそれぞれの持ち場で頑張ることの尊さをこそ、教えるべきなのだ。

何度でも書く。

この活動で救われているのは、私の方である。

|

« 俺は「すぎちゃん」か? | トップページ | つまらない意地 »

クリーニング作業」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 俺は「すぎちゃん」か? | トップページ | つまらない意地 »