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2012年11月

スウィングする人

11月30日(木)

年明けの1月、職場を会場にしたイベントを開催することになり、広く参加を呼びかけようとしている。

私なりに、けっこう本腰を入れて企画したイベントである。

企画協力者というべきか、仕掛け人というべきか、世話人代表のKさんと一緒に、色々なところに呼びかけているのだが、

「こうしてみると、我々って、思ったより友だちが少ないですねえ」

と、ため息をつくばかりである。

そうだよなあ。たしかに「知り合い」は多いが、こういうときに「来てください」と言って本当に来てくれそうな人って、指折り数えてみると、いないものだ。

こんなとき、いつも思い出すのは、むかしのドラマ「高原へいらっしゃい」(1976年)のワンシーンである。

八ヶ岳にある高原のホテルを立て直そうと、東京から集められた若者たちが、ホテルの従業員として住み込みで働いている。

しかし無名の小さなホテルなので、まったく宿泊の予約が入らない。

ホテルで下働きをしている、地元のおばちゃん(北林谷栄)が、若者たちを見かねて、彼らを集めて言う。

「おまいら、東京に友だちいねえのか?」

「…そりゃあいますけど」

「だったら1人ずつその友だちに電話かけて、このホテルに泊まってもらえるようにお願いしてみたらいいでねえか!それくらいの友だちは、いるだろ!」

「そんなこと、できるわけないでしょう」

「やってみなけりゃ、わからねえでねえか!」

おばちゃんにハッパをかけられた若者たちは、ひとりひとり電話の前に立つ。

しかし、ことごとく失敗する。結局、誰ひとり友だちをよぶことができないまま、終わるのである。

細部は忘れたが、たしかこんな感じだった。

このシーン。子供の頃にはよくわからなかったが、大人になってみると、けっこう身につまされる。

さて夕方、いつものように「丘の上の作業場」に行く。

「1月にお招きする方は、『この人のお話を聞かなかったら、いったい誰の話を聞くのだ?』というくらい、重要な方ですからね。こちらとしても、本気を出さなければなりません」世話人代表のKさんが言う。

そう、そうなのだ。

「この人のお話を聞かなかったら、いったい誰の話を聞くのだ?」という人を、お招きすることにしたのだ。

しかし私には、トラウマがある。

2年ほど前、「職場環境の改善」というテーマで、ある有名な先生を職場の講演会にお呼びすることにした。「この人のお話を聞かなかったら、いったい誰の話を聞くのだ?」というくらい、有名な先生である。まさに、満を持してお呼びしたのである。

しかし結果は、ほとんど聴衆が集まらず、さんざんな結果に終わった。

そのときのことは、このブログにも書いた。

ほとんどの人が無関心だったのである。現状に多少の窮屈さがあっても、一見物わかりのよさそうな者同士が集まって、ささやかなうわさ話に興じながら暮らしている方が気楽だからだろう、と私は解釈した。

これ以後私は、「打てば響く人」と「そうでない人」という目で、人間を見るようになった。

映画「スウィングガールズ」の中で、私の大好きなセリフに、

全ての人間は二つに分けられる。『スイングする人』と『スイングしない人』に!」

というのがあるのだが、このセリフを私は、世界には、「心を揺さぶられる人」と「心を揺さぶられない人」がいる、と解釈している。

できれば私は、「スウィングする人」でいたい。ジャズも好きだし。

でも、どうせ周りの知り合いに声をかけたってムダなんだろうなあ。そんな悲観的なことばかり、頭の中をぐるぐる回っていたのだが、「丘の上の作業場」で、世話人代表のKさん、同い年の盟友Uさん、卒業生のT君などと話しているうちに、だんだん心がほぐれてきた。

「せっかくですから、講演会の会場は、もっと大きな教室をおさえたらどうです?」

卒業生のT君が提案する。

「それもそうだな。…じゃあ、会場を大きな教室に変更することにしようか」

いっちょやってみるか。明日、会場の変更の手続きをとることにしよう。そして少しずつでも「スウィングする人」を見つけていこうではないか。

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幕末大学生

11月27日(火)

今年初めての、まとまった雪である。

午前中、研究室に見慣れない学生2人がやってきた。

「あのう…これを拾ったんですが」

見ると、1枚の古銭である。かなり朽ちている。

「江戸時代のお金だねえ」と私。「『寛永通宝』って読めるね」

「やはりそうですか」

「どうしてこれを私に?」

「私たち、先生の授業を受けている者です」

今期は、1年生向けに「むかしのお金」についての授業をしていたのだった。

「どこで見つけたの?」

「中庭です。あの食堂があるところの」

構内の中庭、といえば、人通りの多いところではないか。

「ふつうに落ちてたの?」

「ええ。道に落ちてました。拾ってから先生の授業を思いだして、もしや先生が落とされたのではないか、と思いまして…」

なるほど、そういうことか。

普通の人なら、こんな朽ちはてた古銭など、落ちていてもまったく気づかないようなシロモノである。彼女たちは、私の授業でさんざん古銭の写真を見せられていたから、それで道に落っこちていた古銭を認識できたのだろう。

「よく見つけたねえ」私は感心した。「でも私はべつにコレクターではないからねえ。私が落としたのではないよ」

「そうですか」

それにしてもよくわからない。あのあたりは、べつに土を掘り返しているわけでもないから、土の中から古銭が出てきた、というわけではない。

では、コレクターが、あの辺を歩いていて、うっかり落としたのだろうか?

それも考えにくい。この古銭はすっかり朽ちてしまっていて、コレクターが集めるような古銭とは思えないからである。

では江戸時代からあの場所に落ちていた1枚の「寛永通宝」が、100年以上も誰にも気づかれずに、ずっとその場所にあったまま朽ちはててしまったのか?

それは絶対にありえない。

ふと、頭をかすめる。

まさか、タイムスリップか?

幕末あたりの人間が、現代にタイムスリップして、この大学にあらわれる。

そのときに、懐に持っていた「寛永通宝」をうっかり落とした、とか。

…とすると、ひょっとしていまこの構内のどこかで、幕末からタイムスリップした人間が闊歩しているのではないだろうか?

そう!「仁 -JIN-」の逆バージョンだ!題して「逆仁 -GYAKU JIN-」。

あるいは、むかしのドラマ「幕末高校生」の逆バージョン!

そんな妄想が広がった。

うっかりその妄想を学生に言いかけたが、学生にバカにされそうなので、言わなかった。

学生たちが帰ったあと、よし!これをもとに、幕末の浪士がタイムスリップして現代の大学生になる、という小説を書いてみようか、と、一瞬思ったが、あまりにもありふれた展開になりそうなので、思いとどまった。

そんなおバカなことを妄想している暇があったら、本業の原稿を書かなければならないのだ!〈原稿零枚〉

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原稿零枚週末

博士の愛した数式』でお馴染みの小川洋子さんの小説に、『原稿零枚日記』という小説があって、最近読んだのだけれど、これがとても面白い。長編小説の原稿を抱えている作家が、肝心の原稿が一枚もかけないまま、日々のさまざまな出来事を書きつづる、というもの。

なぜ面白いと思ったかというと、まさに今の私がそうだから。まるでこのブログのようではないか!

とにかく原稿が全然書けない。

11月24日(土)

昨日は久しぶりに実家に泊まる。早めに帰ろうと思ったが、つい長居をしてしまい、お昼ごろ実家を出る。

お昼は、学生時代によく通った神保町のカレー屋さんで、久しぶりにカツカレーを食べる。店員の世代はすっかり変わってしまったけれど、店の作りとカレーの味はまったく変わらず、お店も繁盛していて、安心する。

昼食後、久しぶりに神保町の古本屋街をうろうろする。今やインターネットで古本も注文できる時代になったので、古本屋をまわる体力や根気も、すっかりなくなってしまった。時間が有り余っていた大学院時代は、それこそ丸1日歩いたものだが。

福永武彦『風土』(新潮文庫)が200円で売っていたので、思わず買ってしまう。

福永武彦の小説は、学生時代に耽読した。

廃市」という短編小説が好きで、何度も読み、小説の舞台となった福岡県の柳川にも足を運んだ。短編小説でいうと、「未来都市」も好きで何度も読み返した。長編小説では、『風のかたみ』『海市』などが好きだった。とくに『風のかたみ』の構成力には、舌を巻いた。

『風土』は、福永のデビュー作である。まだ読んでいなかった。

福永武彦の小説は、ひと言でいえば「甘っちょろい小説」である。いま読むと、なんとも面はゆいセリフばかりが並んで、「(自分が読む)柄の小説ではないなあ」と、いつも思う。

ではなぜ福永の小説が好きなのか?それは、小説の技法を徹底的に追及しているからである。私は彼の小説の技巧性が好きなのだ。

折りしも最近、福永武彦が戦後すぐに書いた日記が公刊された(『福永武彦戦後日記』新潮社)。

この日記がすばらしい。「愛」や「孤独」といった心情がこれほどまでに克明に綴られた日記があるだろうか。

最近、ポツリポツリとこの日記を読み、また福永の小説が読みたい、と思うようになったのである。

目下『神聖喜劇』も読んでいるところで、こちらもやめられない。困った。

神保町の喫茶店で、しばし『神聖喜劇』と『風土』を交互に読む。

夕方の新幹線で、帰宅。

11月25日(日)

今日は、やることが多い。

洗濯する、背広をクリーニングに出す、新しい背広を買う、散髪に行く。

それだけではない。

今日で最終日の美術展があり、その近くの博物館でも、特別展をやっているので、見に行かなければならない。

ということで、美術展を見に行くことにする。

「冷泉為恭」という人の作品が出品されているのに、目がとまった。

冷泉為恭は、幕末に生きた京都の絵師である。御所に出仕している一方で、京都所司代にも通じていたことから、最後には攘夷派の長州藩に暗殺されてしまう。

昔のドラマ時代劇「新選組血風録」(NET、現テレビ朝日、1965年)に、「刺客」と題するエピソードがある。司馬遼太郎の原作にはないエピソードだから、たぶん、脚本家の結束信二が書いたオリジナル作品である。

このエピソードの主人公は、冷泉為恭である。彼は御所にも京都所司代にも通じ、幕末の政治的混乱を「食い物」にして生きている「唾棄すべき」人物として、描かれている。結束信二の脚本や、冷泉為恭を演じた小柴幹治、女中お清を演じた御影京子、新選組の大石鍬次郎を演じた林彰太郎の演技はいずれもとてもすばらしく、私はこのエピソードがとても好きだったのだ。たぶん、冷泉為恭がこれほどクローズアップされるドラマは、後にも先にもこれだけだっただろう。

「これが、あの冷泉為恭か…こんなところで、あの冷泉為恭の作品に出会えるとは…」

ドラマのことを思い出しながら、しばし感慨に浸っているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまった。

(いかんいかん、岩盤浴と散髪屋と、スポーツクラブにも行かなくては!)

スポーツクラブにも行かなければならないと思った理由は、一昨日、50㎏も激やせした友人を見たのがショックだったということもあるが、もう一つ、理由がある。

それは、昨日の朝、実家で見ていたテレビで、激太りしたグルメレポーターが出ていたからである!

大昔、アイドルとしてデビューした彼は、途中からグルメレポーターとして活躍するようになり、いまや、かつての面影がまったくないくらい激太りしてしまった。しかも私とほぼ同い年!

これにもショックを受け、「運動しよう!」と誓ったのである。

あれ?せっかく買ってきた『風土』を読む暇がないぞ!

仕方がないので、スポーツクラブでエアロバイクをこぎながら、『風土』を読むことにする。

たぶん、『風土』を読むのに、いちばんふさわしくないシチュエーションである。

だって『風土』は、「芸術と愛と孤独」について書いた、純文学作品だぜ。

それを、体を鍛えながら読むというのは、まったくもって失礼な話である。

洋服を買って、展覧会を見て、散髪をして、岩盤浴に行って、スポーツクラブに行く、という休日の過ごし方。

このように書くと、まるで世間でよくいわれる「自分へのご褒美」みたいな休日である。

しかも、どんだけ自分にご褒美をあげてるんだよ!みたいな。

そんなこんなで、あっという間に夜になってしまった。

週末の原稿、零枚。

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「青い山脈」と「花は咲く」

11月23日(金)

「昨年の震災は、老人の身にはこたえました」

傘寿をお祝いする会の最後の挨拶で、恩師はそうおっしゃった。

「津波が、人命だけでなく、営々と築き上げてきた歴史や文化までをも、一瞬にして飲み込んでしまった」

恩師が、ポツリポツリとお話になる。

「いったい俺は、いままで何をしてきたのだろう。将来に何を残せるのだろう…そんな思いにとらわれました」

折り目正しい紳士である恩師が、ご自身を「私」ではなく「俺」とおっしゃっているのが、はっきりとわかった。

「先日、私の故郷の高校に行ってきました」

恩師は、東北地方の内陸部の出身である。

「そこで、コーラス部が、『青い山脈』と『花は咲く』を歌ってくれたんです」

「青い山脈」は、作家の石坂洋次郎が書いた青春小説で、のちに映画化され、そのときの主題歌(西條八十作詞、服部良一作曲)も国民的な流行歌になった。石坂洋次郎は、青森県弘前市の出身だが、戦前は恩師の郷里の高校で教師をしていた。

「ちょうど、映画が公開されたときに、私は高校生でして、地元の映画館に見に行きました。池辺良、原節子が出ていました」

まさに恩師にとっての「青春映画」である。しかも、母校にゆかりの深い石坂洋次郎の原作である。そこから私は、「青い山脈」に対する恩師の思い入れの深さを想像したのだった。

「あの歌の2番の出だしが『古い上衣よ さようなら さみしい夢よ さようなら』という歌詞でして、まさにあの歌詞が、当時の私自身そのものだったのです」

恩師は「学究肌」という表現がピッタリの厳格な先生で、私は学問をしているとき以外の先生のお姿を知らない。いつも背広姿の紳士で、ふだんは余計なことをおっしゃらない、物静かな先生であった。実を言うと、私は恩師と、ほとんど会話を交わしたことがない。だから私にとっては、恩師のいまお話になっている内容は、意外だった。

「もう一曲の、『花は咲く』。こちらの方は、震災の後につくられた歌でして…」

震災後、テレビをほとんど見ていない私は、恥ずかしながらこの歌のことを知らなかった。

「この中に、『花は咲く いつか生まれる君に 花は咲く 私は何を残しただろう』という歌詞がありましてね。この歌詞が、老人の身にはこたえました。いったい私は、何を残したのだろう、と」

会場は静寂に包まれた。

「…近ごろ、そんなことを考えては思い悩むのです。でも結局は、自分がいままでやってきたことを伝えていくしかないのだろう、と。いまはそんなふうに考えて、残りの人生を生きようと思っています」

唐突に思えた「青い山脈」と「花は咲く」のエピソードは、恩師の「青春時代」と「今」の心境を知るに的確かつ十分なものであった。何より、恩師の人柄を十二分にあらわしていた。恩師の学問の基礎に「人間に対する深い共感」があることに、私は今さらながら気づいたのである。

この恩師に、人間性という意味で越えることのできる弟子は、この会場には1人もいないだろう、と私は思った。

恩師の言葉を正確に再現することはできなかったが、私自身の心覚えのために、ここに記しておく。

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今度は旅先で会いましょう

11月23日(金)

大学時代の恩師がめでたく傘寿を迎えたというので、お祝いの会に出席した。

会場の受付で名前を書き終わり、会場の中に入ろうとすると、私の方を見てにこやかに手をふる男性がいる。

今日のこのお祝いの会は、弟子を中心にした集まりなので、「一門」の兄弟子たちの顔と名前はだいたいわかっていたつもりだが、私に向かって手をふっている男性の顔は、思い出せない。

とりあえず会釈するがやはり思い出せない。

近づいていって、背広の胸ポケットにつけている名札を見て、驚いた。

U君だ!私と同期のU君!

U君を含めた同期の仲間とは、大学時代、しょっちゅうつるんでいていたのだが、大学卒業後に彼が一般企業に就職し、数年たつうちにすっかり会う機会がなくなってしまった。だから会うのは20年ぶりくらいである。

20年ぶりであっても、たいてい顔くらいは覚えているものなのだが、なぜ私はU君であると気がつかなかったのか?

それは、U君が、ビックリするくらい痩せていたからである!

「激やせ」どころの話ではない。

「見違えちゃったよ」と私。

「そうだろう」

「いま、体重何キロなの?」

「70キロ」

な、な、70キロ??!!!

私は驚いた。

だってU君は、大学時代に体重が120㎏あったんだもの。

50㎏の減量である!

50㎏といったらあーた、人1人分くらいの体重ではないか!

つまりU君の減量により、この世から人1人が消えてなくなった、ということになる。

いまや私の方が、かつてのU君に近くなっている。

「どうやって痩せたの?」私は聞いた。

「うーん、食事を気をつけたことかな」それだけしか言わなかった。

会場にはもう1人、大学を卒業してから公務員になった同期のO君も来ていた。彼とも約20年ぶりである。

学部時代、恩師の薫陶を受けた同期は、私を含めて5人いた。I君、U君、E君、O君、そして私である。このうちI君と私が、大学院に進み、あとの3人は就職した。

「E君はいまどうしているの?」私はU君に聞いた。

「E君はいま、会社で部長だぜ」

E君が部長?!!これもまた驚きである。なぜならE君はビックリするくらい内気な性格で、大学時代は私たち同期の4人くらいとしか心を開いて話さなかったからである。こんなに内向的で大丈夫なんだろうか?と、心配したものだが、いまやその彼も一流企業の部長なのだ。

「…で、いま、婚活しているそうだ」U君は続けた。

なるほど、まだ独身なのか。

思い出したぞ。E君が就職して1年目くらいのときだったか。E君があまりにも内気で、女性と話すこともできないというので、彼のために一度「合コン」を企画したことがあった。…といっても、私を含めた同期の面々は、「合コン」というものがどういうものかわからなかったので、結局その合コンは大失敗に終わったのだが…。

「…で、あなたは?」

「私も同じだよ」とU君。彼もまだ独身なのだ。

「O君は?」

「おかげさまでなんとか」

I君は独身だし…ということは、私の同期5人のうち、独身者が3人もいる、ということか…。高校時代の友人といい、相変わらず私の周りは、独身率が高い。

お祝いの会が無事終わり、U君とO君と私の3人で、喫茶店でささやかな同窓会、というか、「男子会」である。

大学時代のことはほとんど忘れていたが、お互い話しているうちに、ぼんやりと思い出してきた。

彼らとは、ほんとうによく貧乏旅行をした。とくに、関西のとある村里には、何度も一緒に旅行した。U君のお気に入りの村である。

U君はいまでも1人で、その村を1年に何度も訪れているという。

その村がいかにすばらしいかを力説するU君。その語り口は、20年前のままである。

あっという間に時間がたち、コーヒー1杯だけの「男子会」は終了した。

「それじゃあまた」と私。

「また、みんなで一緒にあの村に行こうよ」

「そうだな。今度は旅先で会おう」

再会を約束した。

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「道ばたの猫」は冬を越せるか

11月21日(水)

職場に行く道すがら、歩いていると、こんな貼り紙を見つけた。

121121_1346010001 「犬のふんをさせたら持ちさる様に」。

住宅地などでよく見かける貼り紙である。

しかし驚いたのは、この貼り紙が、家の塀ではなく、道路の真ん中、つまり地べたに、直接貼られていたことである。

家の塀にこの種の貼り紙があるのはよく見かけるが、道路の地べたに直接貼ってあるのを見たのは、初めてである。

住民の方が、よっぽど腹に据えかねたのだろうな、と思う。だって、インパクトが強いもの。

「飼い主は犬の糞をちゃんと始末しろ」という趣旨の貼り紙の写真を撮るのが趣味、という人の話によると、ある場所を定点観測していると、貼り紙のメッセージが、だんだんエスカレートしていくのだという。

最初は、「犬の糞は飼い主が後始末をしてください」という丁寧な言葉を使っていたのが、だんだんヒートアップして、「犬の糞を後始末できない人間に犬を飼う資格はない!」とか、「犬の糞をそのままにしておくのは、テロ行為です!」とか、正確な表現は忘れたが、とにかく表現がヒートアップしていくのだという。

そこに住んでいる人たちからしてみたら、犬の糞をそのままにしておくのは迷惑この上ない行為なのだから、このようにヒートアップするのも、無理のないことである。

…それで思い出した。

数日前の夜、とても冷たい雨が降った。今にも雪に変わりそうなくらい、冷たい雨である。

夜、家に帰る途中、一匹の小さい野良猫を見つけた。

その野良猫は、私に気がつくと、ササッと道路に駐車している車の下にもぐり込んだ。

しばらく見ていたが、その野良猫は、車の下でジーッとしているのみである。

ふだん、野良猫のことなど考えたこともなかったのだが、考えてみれば、野良猫って、この寒い雨の中を、どうやって過ごすのだろう。

だって、すげえ寒いんだぜ。

あの車の下で、ずっと雨宿りするのだろうか。

それより何より、野良猫たちは、これからの寒い冬をどうやって乗り越えるのだろうか。

そう考えると、東京の家で家族と一緒に暮らしている、うちの猫なんて、恵まれているよなあ。だって、寒い冬の日でもぬくぬくと暖かいところで、三度三度食事が出てくるのだから。

そう思うと、野良猫が、とたんに哀れに思えてきた。

それに、「野良猫」という言葉の響きが、なんとなく好きではない。もっと他にいい呼び方はないものか。

韓国では、「野良猫」のことを「도둑고양이」という。直訳すると「泥棒猫」。なんともひどい呼び方である。

韓国では、猫はつい最近まで不吉な存在と考えられていて、ペットにするという発想がなかったと聞いたことがある。猫に対してあまりいいイメージを持っていないから、「泥棒猫」などという表現が使われているのだろう。

ところが最近になってようやく、猫をペットとして飼うようになる人が増えたのだという。だから最近では、「泥棒猫」ではなく、「길고양이」(道端の猫)という言い方がされるようになってきている。

日本だって、ほんの数十年前までは、猫は不吉な存在だった。戦前の大映の「化け猫映画」シリーズなんて、ほとんどの人は知らないだろう。

それに、楳図かずお先生の描く1970年代の怪奇漫画の中にも、猫は不吉な存在として登場する。

むかし「恐怖劇場アンバランス」(1973)という怪奇ドラマシリーズがあった(今でいう、「世にも奇妙な物語」みたいなドラマ)のだが、そのエンディングの映像は、黒い猫が歩きまわる、というものだった。当時はそれが不吉なイメージを暗示させていたのだが、いま見ると、猫の動きがとてもかわいい。

「野良猫」という言葉も、そんな時代のイメージがつきまとっているような気がする。本人、というか、本猫には罪もないのに、何ともかわいそうである。

私が出会ったあの「道ばたの猫」は、無事に冬を越せるのだろうか。

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ひとり集中講義

11月20日(火)

昨年から、新しい師を得た。

いや、正確にいうと、「新しい師」とはいえない。今から20年以上前、大学でその先生の講義を履修登録したのだが、当時ふまじめだった私は、途中で履修放棄してしまって、「不可」をいただいたのだ。

昨年9月、職場で「発見」された資料の調査を依頼したことがきっかけで、その先生と再会する。「眼福の先生」こと、T先生である。

もちろん、私が学生時代に「不可」をいただいたことは、先生には申し上げていないが、あの時授業を履修放棄してしまったことが、ずっと心残りだった。

昨年9月以降、調査をご一緒したり、講演会でお話しいただいたりシンポジウムをご一緒したりして、そのたびに私は、先生からいろいろなお話をうかがった。

そして今日、うちの職場にある「資料」を調査にお見えになるというので、まる一日、先生のもとで、勉強させていただくことにした。

朝10時半から、調査をはじめるが、最初はなかなか調査が進まない。

理由は、お話し好きの先生がさまざまなお話しをされるからである。それらのお話しは、どれも私にとっては興味深いのだが、

(はたしてこの調査、今日中に終わるだろうか…)

という不安がよぎる。

お話をうかがいながら、いかにスムーズに調査を進めていくか。

弟子としては、そこに手腕が問われるのである。

1対1で、先生のお話をうかがいながらの調査。これほど贅沢な時間はない。

先生は、この方面の第一人者である。先生を師と仰ぐ人は数多くいる。しかし、研究手法があまりにもマニアックで面倒なためか、先生の研究手法に寄り添って、これを受けつごうとする人は、ほとんどいない。ごく最近になって、私と私の妻が「入門」したのである。

調査されているときの先生は、じつに楽しそうである。私もこうありたい、と、先生を見るたびに思う。

「この前、自分がかつてやった研究の中で、誤りをみつけてねえ。撤回しましたよ。いつまでたっても私はダメだなあ」と頭を抱えられる。

昼食時間も、先生のお話は止まらない。麻婆豆腐定食を食べながらも、先生は立て板に水のごとく、さまざまなお話しをなさる。それらはいずれも、凡百の研究者にはまねのできない、先生が生涯をかけて取り組んできた研究に関するお話しなので、文字どおり「貴重」なお話ばかりである。

昼食中、ある研究に生涯をかけた研究者の日記について、お話しになる。その研究者の日記を、徹底的に読み込んだ先生は、

「その日記に記載があったおかげで、研究上でいろいろなことがわかったんですよ」

とおっしゃった。そして、ポツリと、おっしゃった。

「私が経験してきたさまざまなことは、ひょっとして誰にも伝わることのないまま、終わってしまうかもしれない」

さて、朝10時半から、途中1時間の昼食休憩をはさんだだけで、休むことなく調査は続き、夕方5時半、調査は終了した。

さながら、ひとりで先生の集中講義を受けたようなものである。

先生を最寄りの駅までお送りしたあと、今日のうちに調査成果をレポートにまとめて、先生に郵送で提出しなければならない。

これで、学生時代にいただいた「不可」を、少しは挽回できるだろうか?

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「四」はいつから「よん」と読むようになったのか?

大西巨人の小説『神聖喜劇』を読みながら、高校時代のことを必死に思い出していた。

高校時代に、東堂二等兵と同じようなことを、したことがあっただろうか?

ひとつ、ぼんやりと、本当にぼんやりと思い出したことがある。

私は高校時代、クラス選出の図書委員をしていた。図書委員というのはたぶん、各種委員会の中で、いちばん地味な委員である。

そのとき、私に『神聖喜劇』の存在を教えてくれたKさんも、隣のクラスで図書委員だった。

Kさんが図書委員会の委員長で、私が副委員長だった、と思う。

委員会の仕事はといえば、図書館の広報誌を作ったり、読書会を企画したり、といったようなことだった。Kさんも私も凝り性だったので、広報誌はけっこう力を入れて作っていた。読書会は、たしか太宰治の作品をとりあげたように思うが、人が集まらずに、結局その1回で終わってしまったと記憶する。

さて、図書館には2人の司書の先生がいた。

1人は、ほとんど定年に近いと思われる老齢の女性の先生で、もう1人は、若い女性の先生だった。

2人のうち、老齢の先生の方は、かなり問題のある先生で、若い先生を理不尽なことを言っていじめたり、私たち図書委員にも、かなり高圧的な態度で接していたため、図書館の雰囲気は、あまりいいものとはいえなかった。

そのことを、いちばんに感じていたのは、図書委員長のKさんである。

Kさんは、その老齢の先生の言動を事細かに観察していた。それは、若い先生に対する理不尽な仕打ちであったり、生徒たちに対する高圧的な態度であったりした。時には委員長であるKさんに、直接に攻撃がおよぶこともあった。

「…ひどいでしょう?どう思います?」

Kさんは、その老先生の悪行をひととおり説明した後、私にそう言うのだが、同級生なのに、なぜか私には敬語を使っていた。たぶん私はその当時、まじめで近寄りがたい存在、と思われていたからかもしれない。

「ひどいねえ。それ、絶対に言った方がいいよ」

ただ、その先生にストレートに意見を言ったところで、相手はムキになるだけである。そこで、何かその先生がうろたえるようなことを考えて、言いに行ったような記憶がある。

その後もしばしば、理不尽なことを言う司書の先生と闘った。

高校時代の記憶を必死にたぐり寄せて、東堂二等兵に近い体験をさがすとすれば、それくらいだなあ。

Kさんはそれを見て、『神聖喜劇』の主人公と私をダブらせたのか?

まさか、そんな程度でねえ。私ですら、『神聖喜劇』を初めて読んだ20歳そこそこの時点で、すでに忘れていたことだもの。

…いや、今回書きたいのは、そんなことではない。

大西巨人の小説『神聖喜劇』の中に、次のような記述がある。

「『番号』は、さしあたり新兵たちを最も多く悩ましている事柄の一つに数えられた。というのも、砲兵の『番号』は一般のそれと少し違っていて、われわれ砲兵は、『砲兵操典』の『数ニ関スル称呼』規定によって、『四』を『ヨン』、『七』を『ナナ』、『九』を『キュウ』と発唱せねばならなかったからである。そのことがなくても、新兵のなかなかうまく行きにくかった『番号』を、この新規発唱法が、さらに困難にし、いっそう混乱させていた」(光文社文庫第一巻124頁)。

これによると、「四」を「よん」、「七」を「なな」、「九」を「きゅう」と読むのは、当時は一般的な読み方ではなく、この『砲兵操典』なる規則によって定められた、ということになる。新兵たちが、この番号の読み方に慣れておらず、混乱していたという記述からも、これらの読み方がぜんぜん一般的ではなかったことを示している。

ということは、「よん」「なな」「きゅう」という読み方は、軍隊における数字の読み方が、そのルーツである、ということになる。

これって、常識なのか?

大学時代、先生から、「『四』は『よん』と読んではいけない。『し』と読むべきである。『よん』と読むのは、本来の読み方である『し』の音が『死』に通ずることを忌避したことによる俗な読み方である」と教わり、それ以来、つとめて「四」を「し」と読んできた。私は今、学生たちにもそう教えている。

「四」を「よん」と読むのが一般的になったのは、いつからなのだろうか?大西巨人が書いていることが正しいとすれば、軍隊における数字の読み方が、しだいに一般化していったのだろうか?

重ねて問う。これって、常識なのか?

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脳の中

11月18日(日)

昨日、大西巨人の『神聖喜劇』のことを書いたら、久しぶりに読みたくなり、市内の本屋を探し回って手に入れ、近所にできた喫茶店で読みはじめることにした。

もう、完全に現実逃避だな。書かなければならない原稿をほっぽり出している。軽く死にたい気持ちになる。

だが読み進めると、これがじつに面白い。

20代の頃に読んだときは、難解に思えたのだが、いま読むと、主人公・東堂太郎二等兵の感情の動きが、手にとるようにわかる。

『神聖喜劇』は、主人公・東堂二等兵の一人称という形がとられている。軍隊の中における東堂のそのときどきの思考や行動が、余すところなく書かれている。余すところなく、である。

いってみれば、東堂の「脳の中」を覗いているといっていいくらい、東堂自身の感情の動きに関する叙述は精緻を極めているのだ。だからこれほどの長編小説になるのである。

そして東堂の感情の動きは、ほぼそのまま、私自身にもあてはまる、と感じた。

つまりこの長編小説は、私自身の「脳の中」がさらけ出されている、ともいえる。

小説の冒頭、軍隊の内務班に配属された東堂が最初に受ける試練は、軍隊における「返答の仕方」に関することであった。

東堂ら数名の新兵が、朝の呼集に遅れた。東堂は呼集の時間を聞いておらず、上等兵に「知りませんでした」と答える。だが、軍隊で「知りません」という言葉を使うことは許されない。「忘れました」と、答えなければならない。そのことを東堂は、このとき初めて知るのである。

なぜ「忘れました」と答えなければならないのか?理由は明白である。「忘れました」と答えれば、それは下級の兵たちの責任となり、「知りません」と答えれば、それは監督責任者たる上級の兵の責任になるからである。軍隊では、いかなることも、「下級の兵に落ち度がある」世界なのである。

だから下級の兵は、何でもかんでも「忘れました」と言っていれば、組織の中では波風が立たない、というわけである。

しかし東堂は、これが腑に落ちない。なぜなら、朝の呼集の時間を「知らなかった」わけであり、断じて「忘れた」わけではないからである。

東堂は、かたくなに「忘れました」とは言わず、「知りません」と言いつづける。上司もこれにいったんは目くじらを立てるが、うやむやのまま、この問題は雲散霧消してしまう。

東堂はこれにも腑に落ちない。いったい私の「知りません」という発言は、上司にどのように処理されたのか?

東堂は意を決して、あるとき上司に質問する。

「東堂たちは、入隊して今日まで、まだ一度も、部隊の日課に関する纏まった教えを受けていません。……東堂たちは、教えられもせず実行もしてこなかったから、知らなかったのであります。仁多軍曹殿は、『朝の呼集時間を、お前は忘れたのか』と何度も東堂にたずねられましたけれども、東堂は、忘れたのではなく知らなかったのでありますから、まっすぐにそう答えました。それから、内務班を外出する兵に行き先を告げさせる目的の一つは、その不在中に何事かが起こった場合、緊急の連絡を可能にするにある、これはそのとおりであるのかどうかをおたずねします。終わり」

質問の後半、「外出する際には、必ず行き先を告げなければならない」という規則に対しても、東堂は腑に落ちない。そこで、その規則の根拠を合わせて尋ねたのである。

ひるがえってみるに、いかなる組織においても、根拠なき規則や慣習は存在し、組織の構成員たちの多くは、その慣習の根拠を考えることなく、従うのみである。

しかしひとたびその根拠や不条理性を追及されると、上司はうろたえるのみである。実際、東堂のこの質問を受けた神山上等兵は、回答がしだいにしどろもどろになっていく。

東堂の質問とそれに対する上司のうろたえぶりは、私も職場の会議で何度も経験してきたので、よくわかることなのだが、この小説で大事なのは、そこではない。

実際の小説には、この質問をするに至る東堂の感情の動き、そして、この質問をしている最中、さらにはその後の感情の動きが、じつに微に入り細を穿ち記述されている。

東堂は、決して上司に対して堂々と抵抗しているのではない。発言の言い回し1つ1つについて吟味し、逡巡しながらも発言し、発言したあとも、その表現の妥当性について再検証し、ときに反省し、後悔するのである。その感情の動きこそが、私に共感をもたらすのである。

といっても、まだ読みはじめたばかりである。これから少しずつ、東堂二等兵の脳の中を覗いていくことにしよう。

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神聖喜劇

ボージョレーヌーボーを飲んでいて、思い出した。

正確に言うと、ボージョレーヌーボーを飲みながら、映画「戦争と人間 完結編」を見返していて、思い出した。

むかし、高校の同学年だったKさんに言われたことがある。

それが、いつ言われたことなのかは、覚えていない。高校時代か、あるいは、大学4年の時に、母校での教育実習で再会したときに、打ち上げの席で言われたことなのか、いずれにしても、もう20年以上も前のことである。

正確な表現は覚えていないが、

「鬼瓦君って、大西巨人の小説『神聖喜劇』の主人公みたいな人だね」

だったか、

「大西巨人の小説『神聖喜劇』を読んでいたら、主人公が鬼瓦君みたいな人だった」

だったか、たしかそんな感じのことを言われたのだと思う。

20歳前後の男子が、女子にそんなことを言われたら、気にならないはずがない。

(俺って、どう思われているんだろう…)

さっそく、大西巨人の『神聖喜劇』なる本を買って読んでみることにした。

しかし、この小説はビックリするくらいの長編小説だった。それに、当時の私にとっては難解であった。

苦労して読み進めてみたが、どうも今ひとつ、どこがどう私と似ているのか、わからない。

小説だから、外見でないことだけは、たしかである。

Kさんとは高校時代、部活や委員会などで一緒になる機会が多かったので、私という人間を比較的よく知っていた。そのKさんに言われたということは、何か意味があるに違いない。

眼を皿のようにして小説を読むが、それでもよくわからない。

ただ、主人公がどんな人物であるか、というのはわかる。

『神聖喜劇』は、太平洋戦争中の日本軍を舞台にした小説である。主人公の陸軍二等兵・東堂太郎は、「こんな世界は生きるに値しない」というニヒリストでありながら、軍隊で不条理な支配関係に巻き込まれ、「抵抗」がまったく許されない軍隊という組織に対して、孤独な戦いを挑むことになる。

彼は驚くべき記憶力で軍規や軍法を暗記し、軍隊内の理不尽な支配関係に対して、軍規や軍法を逆手にとって、徹底的に抵抗していく。つまり、「理屈」を武器に合法的に抵抗していくのである。

…と、よく言えば、理不尽な組織に抵抗する「反骨精神」の持ち主だが、つまりは「理屈っぽいひねくれ者」ということである。

(へえ、俺はこんなふうに思われていたのか…)

ただこの小説を読んだ時点では、高校時代を思い返してみても、理不尽な権威に対して理屈を武器に抵抗した、などという記憶はなかったので、そう思われていることを、少し意外に感じた。だいいち私は、東堂二等兵のような抜群の記憶力など、持ち合わせていない。

しかしその後、いまの仕事をするようになって、業界の権威にかみついたり、職場の不条理な問題に関して会議で発言したりと、たしかに東堂二等兵がやっていたようなことと似たようなことをやっている。

ということは、Kさんはもう20年も前から、私の性格を見抜いていた、ということなのか?

それにしても、当時20歳前後だった女子が、長編戦争文学の金字塔である『神聖喜劇』を、読破するものだろうか?そのほうが、よっぽど奇特である。

Kさんは、都立高校の国語の先生をしていると、風の便りで知った。私に対して言ったことなど、とっくに忘れているだろう。

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ひとりボージョレーヌーボー

11月16日(金)

そういえば、昨日はボージョレーヌーボーの解禁日だった。

今までまったく興味がなかったが、毎年、何やらみんなが大騒ぎしていて、なかにはみんなで連れ立って飲みに行ったりしているので、

「そんなに大騒ぎするってことは、きっとすごく美味しいワインに違いない」

と思い、スーパーで買ってみることにした。

こういうのを、「ボージョレーヌーボー・デビュー」っていうのか?

家で飲んでみたが、どうもよくわからない。

もともとワインを飲み慣れていないのが原因だが、そもそも、1人で飲んでも、面白くも何ともないのである。

ワインって、どうやって飲むのが正解なの?

私のワイン知識のすべては、アメリカのドラマ、刑事コロンボの「別れのワイン」というエピソードから得たものである。だから私にとっては、赤ワインといえばイタリアワインなのである。

この「別れのワイン」こそは、「刑事コロンボ」シリーズ中の最高傑作ともいわれる。

「殺し」の犯人は、ワイン工場の経営者で、当代随一のワインコレクターとして知られるエイドリアンであるとコロンボはにらむ。しかしコロンボには、ワインに関する知識がまったくなく、犯人にとても太刀打ちできない。そこでワインに関する知識を得ようと、ワイン専門店に行って店の主人に質問する。

「ねえ、あんたならワインについてはたいていのことは誰より知ってるって聞いたんだが…」

「違うね。すべてを知ってるよ」

「知ってること全部教えてくれない?」

「フフッ…わしは40年かかって道を究めたんだよ」

「それじゃあ…1時間半でどれくらいできる?」

「ほんの基礎だけだね」

「それじゃまずねえ…並の酒と上等のと、どこで見分ける?」

「それは……値段だね」

…てな感じでワインを勉強したコロンボは、最後はその知識で、犯人のエイドリアンを罠にかけ、自供に追い込むのである。

しかしコロンボは、自分の命を削るようにして集めたワインを手放さなければならなかったエイドリアンに、同情する。コロンボは、彼を憎むべき犯人としてではなく、ワインに人生のすべてを捧げた、誇り高く気高い人物として、敬意を表していたのである。

最後の場面。逮捕された犯人が、コロンボの車で警察に出頭する。

エイドリアンが手塩にかけて育てたワイン工場の前で車をとめるコロンボ。彼が捕まれば、この工場がこの先どうなるかも、わからなくなるのだ。

「あとはいったい、どうなるだろう…。ぶどう園や、工場は…」エイドリアンがつぶやく。

「なんとか続きますよ…」コロンボはそう言って彼をなぐさめる。

「全生涯を通じて私が真に愛したのは、ここだけだった…」

車の中でコロンボは、1本のワインを取り出す。

「勝手ですが、こんなものを持ってきたんです」

それを見たエイドリアンの顔がゆるむ。

「モンテフィアスコーネ…。最高のデザートワインだ」

「お気に召してよかった」

「…それに…別れの宴にも…ふさわしい…。よく勉強されましたな」

「…ありがとう。…なによりも嬉しいお褒めの言葉です」

そして2人は乾杯する。

シリーズ中、屈指の名ラストシーンである。

…そうか!ボージョレーヌーボーを飲みながら「別れのワイン」を見れば、ワインを楽しめるかもしれない。

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長恨歌

11月15日(木)

職場で開催されている「書」の特別展に、期間中は何度か足を運んだ。

展示会場の一番奥には、6枚の屏風に仕立てられた、「長恨歌」の書が、凛としたたたずまいで立っている。

「長恨歌」とは、中国唐代の詩人・白居易(白楽天)が、玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを歌った長編の漢詩である。七言のフレーズが120句からなる、七言古詩の形をとる。

縦長の和紙6枚に書かれた840字にもおよぶ長恨歌は、私の背丈ほどある六曲半双の屏風に仕立てられており、その迫力は、見る者を圧倒する。

展示の解説パネルによれば、地元出身の書家のS氏が、昭和23年(1948)に制作し、日展で入選した作品であるという。

当時、「奇をてらうことなく、ストレートな表現の書である」と、この作品は高く評された、という。

私は「書」のことはド素人でまったくわからないが、たしかに、まったく無駄のない、それでいて力強い文字である。

しかも、最初から最後まで、まったく緊張感がとぎれることなく、筆の勢いは、衰えることを知らない。

恐るべき集中力によって書かれている。

私は何度か、しばらくこの屏風の前に立って、ぼーっと、この「長恨歌」を眺めた。

見ているうちに、なにかこう、頭の中がスッキリとしていく感じになるのである。

解説パネルの説明で、私の注意を最も引いたのは、この作品が、彼の43歳の時の作品である、ということである。

つまり、いまの私と同じ年齢の時に、この「長恨歌」は制作された。

「これは、最初から最後まで、一気に書き上げたもののようです」と、「書」に詳しい方が言う。

「休むことなく、ということですか?」と私。

「ええ。墨の色を見ればわかります」

「つまり、最初から最後まで、まったく緊張感がとぎれることなく、この『長恨歌』を書き上げた、ということでしょうか」

「そういうことです。最初から最後まで、まったく乱れることがない」

「そうですね。たしかに、筆の勢いはまったく変わっていません」

「それに、この作品には、欲がない」

「欲、ですか」

「ええ、無欲だ、ということです。だからこれだけストレートな表現ができる」

「なるほど」

「43歳…。ちょうど、書家として脂がのりきった時期です。この年齢だからこそ、これほど無欲に『書』に取り組めたんでしょうな」

「……」

私は言葉を失った。

自分の今の仕事に置きかえてみる。

今の自分はこれほどまでに、集中力と緊張感を持続させて、研究をしているだろうか?

自分の研究を、つまらぬ「欲」が邪魔をしていないだろうか?

この「長恨歌」は私に、そう語っているように思える。

制作されて60年以上たつこの作品がこうして日の目を見るのは、今回で2回目だという。

つまり60年のうち、この屏風が開いたのは、たったの数十日しかないのだ。

しかしこの「長恨歌」は、確実に今も、多くの人の胸を打つ作品である。

たとえ日の目を見る機会がごくわずかであっても、それが確実に人の心に形見を残している。

作品とはまさに、一期一会である。

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冬のはじまり

11月14日(水)

めっきり寒くなった。いよいよ冬支度が必要になってきた。

タイヤ交換、灯油の購入、1人鍋の材料の準備…。

またあの長い冬がやってくるのか。

「冬」のはじまるこの時期に思い出すのが、南木佳士の短編小説「冬への順応」である。

前にも書いたように、この小説は、「浪人ノスタルジー小説」である。

主人公の「ぼく」と千絵子は、小学校時代の同級生で、18歳の予備校生のとき、2人は偶然に再開する。2人とも、浪人生だった。

そこから2人は、何となくつきあい始める。といっても、2人は自分たちを恋人どうしと意識していたわけではない。いや、意識していたのかも知れないが、それをお互いが表立って口にすることはなかった。

1浪の末、千絵子は「教会のある私立大学」の文学部に合格する。「ぼく」は、東京の国立一期校の医学部に落ち、一度も見たことのない、東北の二期校に新設された医学部に入学することになる。

日本海に面した、寒々とした土地で暮らすことになった「ぼく」は、東京の大学を受験しなおすための勉強と、千絵子からの手紙を待つだけの下宿生活にあけくれることになる。

二週に一度の割合でやってくる千絵子からの手紙には、大学生活の近況と、その最後には毎回異なったデザインの診療所の絵が丁寧に描かれていた。「山の診療所の医者になる」のが、「ぼく」の夢だった。千絵子はその「ぼく」の夢を、絵に描いてくれたのである。

だが次第に2人の距離は離れていく。千絵子はテニスサークルに入り、夏休みには語学ツアーでイギリスに行くなど、忙しい大学生活を謳歌するようになる。1年生の夏休みが終わり、秋が来ると、千絵子からの手紙はめっきり減り、枚数も少なくなる。手紙の最後には、診療所の絵ではなく、イギリスの大学の時計台や、テニスラケットの絵が描かれるようになった。

そして冬休みに「ぼく」が東京に戻ったとき、ある「決定的な出来事」が起こり、「ぼく」は、千絵子の目の前から、姿を消すことにするのである。

最初は頻繁に来ていた千絵子からの手紙が、次第に減っていき、その内容も乾いたものになっていく。そこから「ぼく」は、千絵子の無意識ともいえる心境の変化を敏感に感じとり、自分から身を引くことにする。おそらく千絵子には、何のことやらまったくわからないままに、である。このあたりが、私が「浪人ノスタルジー小説」と評するゆえんである。

2人は互いの気持ちがすれ違ったまま、10年後、思わぬところで再会することになる。

そしてまた、「冬」の別れがおとずれる。

「冬」がはじまると、この小説を思い出し、思わず手にとって、読みかえしてしまう。

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腕を上げたか

11月12日(月)

先週、授業のコメント欄に1年生たちが描いた私の似顔絵は、全然似ていなかった

たぶんこれには理屈があって、たとえば、私をよく知る4年生が私の似顔絵を描くと、じつによく特徴をつかんだ似顔絵を描いたりする。

つまり、私のことをよく知っている人は、たぶん、私の似顔絵を描くのが上手いのである。

反対に、私のことをよく知らない人は、あまり似ていない似顔絵を描く。

「上手い似顔絵を描く」秘訣は、その人物に関心を持つかどうか、にかかっているのだ。

その点、1年生たちは、私のことを全然知らないし、私にさしたる関心があるわけでもない(もっとも、私に関心のある人など、そもそもいないのだが)。

「ものまね」だってそうである。

上手いものまねをする秘訣は何か?

それは、その人に興味を持つことである。

清水ミチコさんが、なぜ、矢野顕子やユーミンのものまねが上手いのか?

それは、清水さんが、矢野顕子やユーミンを、心の底から信奉しているからである。

…そんな話を、今週の授業のマクラでした。

「ですから、いいですか。もうコメント欄に、似てない似顔絵を描いてはいけませんよ!」

そう釘を刺した。

しかしこれが学生たちには、ダチョウ倶楽部の「危ないから押すなよ!絶対に押すなよ!」というギャグだと勘違いされたらしい。

「描くな」ということは、逆に「描け」ということか、と勘違いして、コメント欄に似顔絵を描いてくる学生が何人かいた。

やれやれ、と思いつつ、見てみて少し驚いた。

(前回より、少し似ているんじゃないだろうか…)

いや、間違いなく、前回よりも腕を上げている、ような気がする。

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とくに下の絵は、左手にマイクを持ち、右手に汗ふきタオルを持って、顔の汗をぬぐいながら授業をしている私の特徴をじつによくつかんでいる。

ただし今回これらを描いた学生たちは、必ずしも前回描いた学生たちとは一致しない。はじめて描いた、という学生もいるのだ。つまり、ひとりの人間が徐々に腕を上げていく、というのではなく、集団で上達している、ということなのである。

このまま腕を上げていくと、授業の最終回の頃には、ビックリするくらいよく似ている似顔絵が完成するのではないだろうか?こうなるともう、一種の実験である。

…いや、待てよ。

肝心の授業は、ちゃんと聞いているのか?

次回こそは、「もう絶対に、似顔絵を描くな!」と、注意しよう。

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これぞ本物の愛なり!

友好ブログであるこぶぎさんのブログが、久々にK-POPアイドルの記事を書いていて、ご同慶の至りである。

私も負けずに、古い日本映画についての記事を書くことにしよう。

「DVDマガジン 男はつらいよ」が、あと少しで全巻完結というタイミングで、こんどは、「すべて私が選びました 吉永小百合 私のベスト20」というDVDマガジンが創刊されている。吉永小百合が自選した若い頃の映画を20本刊行する、というものである。

いったいどれだけオッサンの財布からお金を搾りとるつもりなんだ?K社は。

私は別に「サユリスト」ではないので、買うかどうかはわからないのだが。

20本のラインナップを見ていると、「戦争と人間 完結編」があがっていた。

1007771_l 映画「戦争と人間」は、五味川純平の原作を、山本薩夫が監督した、戦争大河映画である。1931年の満州事変から、1939年のノモンハン事件までの時代を生きたさまざまな人々の生と死を、壮大なスケールで描く。第一部「運命の序曲」(197分)、第二部「愛と悲しみの山河」(179分)、第三部「完結篇」(187分)と、その長さは、合計9時間23分にもわたる。

この映画の中で、吉永小百合は、満州利権を食い物にする「伍代財閥」の創始者・伍代由介の次女・伍代順子(よりこ)を演じる。

順子は、財閥の娘でありながら、左翼の運動家だった標耕平(山本圭)に惹かれ、やがて2人は結婚する。

財閥の娘が左翼の運動家に恋をする、というのは、いささか非現実的な設定のような気もするが、吉永小百合だと、それが不自然ではないから、不思議である。

第三部「完結編」は、この標耕平(山本圭)と、伍代財閥の次男で、やはり左翼思想にシンパシーを持つ伍代俊介(北大路欣也)を軸に、ストーリーが展開する。

この映画の中での吉永小百合の登場場面は、それほど多くはない。

だが、印象的な場面がある。

標耕平(山本)は、危険思想の持ち主として逮捕され、拷問を受けたあげく、軍隊に入隊させられ、満州に送られる。

伍代家と決別し、貧しい人たちを助けるためにセツルメント活動をしていた順子(吉永)のもとに、ある日、夫・耕平の戦死の知らせが届く。

耕平の戦死は、再び会えると信じていた順子にとって大変な衝撃だったが、それでも、その悲しみをこらえてセツルメント活動を続けていた。

ところがある日、順子のもとに、突然憲兵隊がやってきて、家宅捜索をはじめる。耕平に関するいっさいの資料を押収するためである。その中には、耕平が戦地から順子に宛てて書いた手紙も含まれていた。

それらをいっさいがっさい持っていこうとする憲兵隊の2人。

「あなた方はどうして今ごろになって、戦死した人のことを調べようとなさるんですか!?」

順子が問い詰める。

その問いかけに答えない憲兵は、やがて書棚から一通の手紙を見つける。軍の検閲を受けていない、耕平からの手紙である。

「何が書いてあるんだ!読んでみろ!…読めんのか!」

順子はやがて口を開く。

順子は、その手紙を、そらんじていたのだ。

そこには、軍隊の理不尽さに対する批判と、この戦争に対して自分のとるべき態度についての耕平の思いが、格調高い文章でつづられていた。

それを一言一句、憲兵隊の2人に聞かせる順子。

軍隊の理不尽さに対する痛烈な批判を聞かされる憲兵は、正論をつかれてバツが悪くなったのか、「やめろー!やめんか!」と順子を怒鳴りつけるが、それでも順子はやめることなく、耕平の手紙の内容を、一言一句、正確に語り続ける。

この場面は、見ている者の胸を打たずにはいられない。

なぜなら、順子が毎日毎日、くり返しくり返し、耕平からの手紙を読み返していたことがこの場面からわかるからである。耕平に対する順子の愛情の深さが、この場面を通じて知らされる。

そして順子は耕平に代わって、耕平の思いを憲兵たちにぶつけるのである。

このあと憲兵は、耕平が戦死しておらず、軍隊を脱走して抗日中国軍と合流したことを順子に告げる。耕平は「国賊」となったというのである。

耕平さんが、生きてる!

たとえ「国賊」と言われても、そして、もしそのために一生会えなくなったとしても、耕平さんは、世界のどこかで、生きているのだ!

そこに、順子は生きる希望を見いだすのである。

憲兵が帰ったあと、順子は夜空に向かって叫ぶ。

「耕平さ~ん!!!」

この一連の場面の吉永小百合の芝居はすばらしく、表情は本当に美しい。

主演作品でもなく、群像劇の中の1人として出演しているにすぎないこの映画を、吉永小百合自身がベスト20のうちの1つに選んだのは、この場面によるところが大きいのではないか、と、勝手に想像している。

だってこれを見たら、誰しも、吉永小百合を好きにならずにはいられないだろうから。

…うーむ。それにしても、映画の名場面を文章で説明するのは、本当に難しい、というか、野暮だな。

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鍋を囲んだ夜

先日の同僚との宴会で、隣にいた、私より10歳ほど年上の同僚が言った。

「若いってのはいいですねえ。学生との距離も近いし。僕なんか、年々学生との距離が離れていくばっかりで…」

このときの宴会の主役である、30代半ばの同僚に向けての言葉である。私も最近、そのことを痛感していたので、大きくうなづいた。

「君の年齢でそうかね?」と、その向かいに座っていた、私より15歳ほど年上の、ベテランの同僚が口をはさむ。「ボクなんてのはねえ、今でも学生との距離は近いよ」

そうやって自信をもって言える同僚を、うらやましく思った。とくにここ最近の私は、とてもそんなことを言えるような状況ではない。

そんな会話を聞きながら、10年近く前に在学していた、H君のことを思い出した。

H君は、バスケ部に所属していた体育会系の男子学生である。硬派で、最初は世の中を斜に構えて見ているような感じの学生だろうか、と、なんとなく近寄りがたい感じがしたのだが、実際に話してみると、人間に対する共感に溢れ、内側に熱い思いを秘めた学生なんだな、というのが、次第にわかってきた。学校の先生になることが、何よりの夢だった。

あれは、いつだったか。たぶん、卒業を控えた冬のことだったか、と思う。

学生たちが集まって、職場の一室で、鍋をしようということになり、私もその席に呼ばれた。ほんの10年ほど前までは、そんな牧歌的な時代だった。

お鍋をつつきながらお酒を飲んだりしていると、H君が私に言った。

「先生、ちょっと廊下に出て話しませんか」

お酒のグラスを持って、寒くて暗い廊下に出た。

「先生」

「どうした?」

「先生は大学時代、どんな恋愛をしたんですか?」

だしぬけに聞かれたので、ビックリした。

何と答えていいのか、考えあぐねていると、H君が続けた。

「じゃあ、先生は、奥さんとどうやって知り合ったんですか?どういうきっかけで、結婚しようと思ったんですか?」

こういう質問をする場合、たいていは、というか、ほぼ間違いなく、質問する側が現在「そういう悩み」を抱えている、ということである。

「なんだなんだ、最近、何かあったのか?」

そこから先の会話は、覚えていない。そのとき、そうとう酔っていたので、饒舌に何か喋った、という記憶だけはある。

鍋をやっている部屋からは明かりが漏れている。中では、学生たちがかなり盛り上がっている。

そのうち、トイレに行くために部屋から出て来た女子学生が、廊下で話し込んでいる私たちを見つけた。

「あらあら、2人で何話してるの?H君!先生になに相談してるのよ~」

「っるせえよ!…先生、そろそろ戻りましょう」

「そうだな」

何ごともなかったかのように部屋に戻り、ふたたびみんなでワイワイと盛り上がった。

卒業後、H君は隣県の学校の先生になった。誰よりも共感力の強い学生だったから、生徒に愛されている先生として、今も頑張っていることだろう。

そして昨年、職場で知り合った女性と結婚したと、風の便りで知った。

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続・芋煮会運

これまでのあらすじ。

芋煮会運

味のしない芋煮

11月10日(土)

今日は学生たちが企画した、芋煮会の日である。

午後3時から職場の近くの川原でやるというのだが、私は夕方まで職場で仕事があり、それが何時に終わるかわからない。おそらくは途中参加である。

午後5時少し前、仕事が終わり部屋に戻ると、携帯電話に留守番電話が入っていた。

「今回の芋煮会の場所は、例年と違って、川沿いにあるプール施設の近くでやっていますので、そちらに来てください」

見ると、10分ほど前に来た電話である。

急いで職場を出て、芋煮会場に向かうことにする。

この時期、5時を過ぎると、あたりは真っ暗になる。

それにくわえて、「川沿いにあるプール施設」は、例年芋煮会を行っている場所からは、さらに遠く離れている。職場から歩くと、20分以上はかかる場所である。

川沿いの道をずーっと歩いていくのだが、川原はまさに「漆黒の闇」で、とても芋煮会をやるような雰囲気ではない。

(本当に、芋煮会をやっているのだろうか…)

歩いているうちに不安になってきた。

早足で歩くこと20分、プール施設のある場所の付近に着いた。

芋煮会をやっているような様子は、まったく見られない。

電話をくれた学生に、電話をしてみる。学生が出た。

「いま、川沿いにあるプール施設の対岸まで来ているんだけど」

「先生、プール施設の対岸に来ているんですか?」

「芋煮会、どこでやっているんです?」

「ちょっと待ってください。いま先輩に代わります」

電話の向こうで、笑い声のような、困惑したような声が聞こえた。

やがて芋煮会を企画した学生が電話に出た。

「あのう…芋煮会、終わってしまいました」

えええええぇぇぇぇぇっ!!!!

終わっちゃったのぉぉぉぉぉ???!!!

電話をくれてからここにたどりつくまで、40分くらいしか経ってないぞ!

いかんいかん、と、私は平静を装った。

「あ、そう。それはご苦労さまでした」と私。

「あのう…このあと、2次会とかを企画した方がいいでしょうか」

「いや、寒いし、いいでしょう。どうもお疲れさまでした」

そう言って、電話を切った。

そしてまた同じ道を、自分の芋煮会運の無さをかみしめながら、職場に向かって歩きはじめる。

(ほんとうは芋煮会なんて、それほど行きたいとは思っていなかったのだ)

私はそう、自分に言い聞かせた。(完)

なぜだろう?書いていて涙がとまらない!

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潜入!オシャレなランチの店

11月9日(金)

若手のイケメン同僚たちがランチの時間によく通うという、オシャレなフレンチレストランが職場の近くにあると小耳にはさんだ。

(いったいどんなモノを食えば、あんなにオシャレでイケメンになるんだろう…)

興味津々の私は、小耳にはさんだ情報だけをもとに、その店を探すことにした。

ただし、万が一若手のイケメン同僚たちに出くわしてしまったらオオゴトである。ランチの時間を少し遅らせて行くことにする。

さんざん歩きまわって探したあげく、職場からけっこう近いところにあることが判明した。

店に入ると、「いらっしゃいませ」と、まるで絵に描いたようなコック帽をかぶった、紳士風のシェフがお出迎えである。

想像していたよりもとても小さい店で、いったん店に入ってしまうと、逃げ場がない、といった感じである。

(ここでイケメン同僚たちに出くわしてしまったら、オオゴトだなあ…)

幸い、お客さんは、一番奥のテーブルに見知らぬ若い女性が2人。たぶんうちの職場の女子学生だろう。

1人だったのでカウンター席に座ろうとすると、「テーブル席へどうぞ」とうながされる。2人の女性客のテーブル席の隣である。そもそもこのお店には、4人掛けのテーブル席が3つしかないのだ。

「何にいたしますか?」

今はランチタイムで、A、B、Cの3つのランチがある。値段は手ごろである。

Aランチのところを見ると「ホウボウのクリーム煮」とかなんとか、書いてある。

「ホウボウ」って、何だ?

うーむ。「ホウボウ」を知らないヤツは、ここに来る資格がない、ということか。

「…Aランチをください」

とりあえず「ホウボウ」がなんだかよくわからなかったが、頼んでみることにした。

やがて隣の2人組のところに、ランチが運ばれてきた。豚肉にパン粉をまぶしてオーブンで焼いた感じのもので、どうやらBランチである。

やはり「ホウボウ」が何かはわからない。

コック帽をかぶったシェフは、ランチを持ってきたついでに、かなりフランクに、その2人組の女性客に話しかけている。

うーむ。かなり「気さくな」シェフのようだ。うっかり常連にでもなってしまったら、話しかけられてしまうなあ。

幸い、私には話しかけられなかった。

そうこうしているうちに、Aランチが来た。

(ホウボウは、魚だったのか…)

素材も味付けも申し分がなく、一流フレンチレストランでいただくようなお料理である。…といっても、一流フレンチレストランに行ったことがないのでわからないのだが。

(若手イケメン同僚たちは、昼間っからこんな美味いものを食っているのか…。そうとう舌が肥えているんだな…)

(なるほど。若手イケメン同僚たちのあのオシャレで小粋な会話は、オシャレなランチから生まれる、というわけか…)

…などと、ひとりでわけのわからない理屈に納得して、Aランチを食べ終わった。こんなに緊張したランチも久しぶりだ。

たしかに味は美味しいし、値段も手ごろである。だが、若手イケメン同僚たちに会うことなく、しかもコック帽のシェフにも話しかけられることなく、ランチにありつくのは、今後はどうやら至難の業のようである。

潜入取材は、これにて終了!

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男の背広

作家・浅田次郎の語る「あるべき男性像」は、定型化された「武士道」の延長線上にあるような気がしていて、どうにも抵抗感があるのであるが、そのことをさし引いても、彼の語り口は読んでいて引き込まれるものがあり、文章に共感する部分も少なからずあり、悔しいがついつい、読み耽ってしまう。

短いエッセイ「男の背広」(『ま、いっか』集英社文庫所収)を読んで、思わず笑ってしまった、というか、考えさせられてしまった。

浅田次郎によれば、男は、何でもかんでも背広やズボンのポケットに持ち物を入れてしまう。財布、手帳、携帯電話、名刺入れ、車や家のカギ、等々。

男が何でもかんでもポケットに持ち物を入れるのは、とっさの有事に対していつでも対応できるように、手ぶらで歩くことが美徳とされているからだ、と、浅田次郎は言う。

そういえば、「マスターキートン」(漫画の主人公)も、何でもかんでもポケットにモノを入れていたなあ。彼の場合は、イギリスの特殊部隊にいた経験を持っている、という設定だから、文字どおり、有事に対する即座の対応が求められていたのだろう。

私自身はべつに、武士でも特殊工作員でもないので、そんなことは求められてはいないのだが、それでも、やはり、背広やズボンのポケットに何でもかんでも入れるタイプである。

妻は、私がポケットに何でもかんでも入れているのを見ると、必ず、ポケットにモノを入れないようにと注意する。理由は「かっこ悪い」からだという。ポケットに財布とか汗ふきタオルを入れておくと、ポケットがふくらんで、外見がとても不細工に見える、というのだ。

しかし、これは私の父の「教え」なのである。

私の父は、私に対して教訓めいたことは何も教えてはくれなかったが、2つだけ、教えてくれたことがある。

ひとつは、無駄な散財をしてしまったなあ、と思ったときには、「競馬で負けたと思え」。

もうひとつは、「財布はズボンの尻ポケットに入れろ」。

この2つである。

いまでも私は、この2つの教えを守っているのである。

しかし妻からしてみたら、ポケットにモノを入れる、というのは、どうも許されないことのようなのである。

一時期、黒い色のセカンドバッグを持ってみたことがあるが、かなり怪しい。まるで借金の取り立て人のように見えてしまう。

腰に巻きつけるタイプのウエストポーチも考えてみたことがあるが、どうもあれをしている人を見ると、あんまり信用できない人のように見えてしまうので、やはり抵抗がある。

結局、肩からかけるタイプの小さなバッグに落ち着いたが、妻の見ていないところでは、相変わらずポケットにモノを詰め込んでいる生活である。

その上に私は、背広を着て出張に出かけたりするときには、つねにリュックを背負っている。それも、ビックリするくらい重いリュックである。

「いったいその中に何が入っているのか?」と、出張先に行くと、先方の人にいつも聞かれるくらい、重たいリュックである。

浅田次郎はそのエッセイの中で、「背広姿にリュックを背負って歩く姿」は、「論外」「最悪」であると書いている。つまり、「男」として、もう最低最悪だ、というのである。

背広やズボンのポケットにいっぱいモノをつめた上に、リュックを背負って歩く。

つまりこの姿は、私の妻から見ても、浅田次郎から見ても、どちらから見ても、「最低最悪」の姿なのである。

ポケットにモノを入れることなく、しかもリュックサックを使わずに、手ぶらで歩くには、どうしたらいいか?

答えは一つしかない。

持ち物を風呂敷につつんで、それを頭の上にのせて、ほっかむりすることである。

しかし想像してみたまえ。

頭の上に風呂敷包みをのせてほっかむりしながら、背広姿で歩いている男の姿を。

それこそが、最低最悪な姿ではないか!

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地方大学あるある

11月7日(水)

地方大学のある地方都市の「あるあるネタ」として、

「至るところで学生がアルバイトをしている」

というのがある。

スーパーのレジ、お弁当屋、喫茶店、居酒屋、本屋…。

とにかく、ありとあらゆる店で、学生がアルバイトしているのである。

そういう店に行くのは、かなり気恥ずかしい。そこで、知っている学生には、それとなくどこでアルバイトしているか、というのを聞いて、そのお店にはなるべく行かないようにする、という防衛策をとる。

だが、こっちが知っている学生ならまだいい。こっちが顔を知っていなくても、学生のほうが私の顔を知っている場合は、こっちが油断している分、なおさら恥ずかしい。

スーパーで、お惣菜が半額になるのを待って、たっぷり買いこんだりして、それをレジへ持っていくと、

「先生!私、1年生の時授業をとってました!」

とアルバイトの学生に言われたりして、

(絶対「セコくて欲張りなやつだ」と思っただろうな…)

と、被害妄想が膨らむ。

さて、この日の夕方。

私が幹事となり、職場の同僚たちと宴会をすることになった。職場の同僚たちとの宴会で、私が幹事をするなんてことは、おそらくはじめてである。

個室のお座敷がある、少しこじゃれた日本料理屋さんを予約した。

聞くところによると、このお店も、うちの職場の学生がよくアルバイトをしているらしい。

たしかに見ると、料理やお酒を運んでくる女性のアルバイト店員が2人いるが、どうやら2人ともうちの職場の学生のようである。

格好つけるわけではないが、こういうとき、私が決めていることがある。

それは、私があくまでも「客」の役割を演じる、ということである。

同僚の中には、アルバイトの若い女性店員をつかまえて、

「キミ、ひょっとして○大の学生?」

「はい」

「ふーん。じゃあうちの学生だ。この中にいる教員の授業を受けたことがあるかもね」

とかなんとか言う者がいたりして、

(何もこんなところでわざわざ教員と学生の関係を確認しなくてもいいのになあ…)

と、思ったりするのである。

私はあくまでも客、アルバイト学生はあくまでも店員である、と、まずは自分に言い聞かせる。

だが、客だからといって、店員に対して大きな態度をとることはできない。なぜなら、アルバイトの学生に不快な思いをさせたら、あとでそのことが評判になる可能性があるからである。だから、慎重に進めなければならないのだ。

同僚たちが集まったので、いよいよ宴会のはじまりである。

今日は幹事なので、お酒の注文をまとめなければならない。

「生ビール10本と、それからジュースを1つお願いします」

「かしこまりました」

…ところが、待てど暮らせど、生ビールが来ない。

それだけでなく、料理もなかなか来ないのである。

夕方6時半開始ということで予約して、料理のコースもあらかじめ指定しているのだから、とりあえず前菜くらいは来るだろう、と思っていたが、なかなか来ない。

ビールも料理も来なければ、「座持ちの悪い」私では、とてもではないがこの場は持たないのである。

(遅いなあ…)

他の同僚たちは、ビールも料理も出ないまま、手持ちぶさたな感じでお話しをしているが、私は気が気でなく、ふすまを開けて、何度も出たり入ったりして、厨房に聞きに行く。

「あのう、生ビールを頼んだんですけど…」

「ただいまご用意しております」

よくよく観察すると、段取り、というか、手際が悪いようである。

冷静に見れば、べつに言うほど手際が悪くないのかも知れないが、幹事の立場からすれば、スムーズに会をすすめなければならないという気持ちが先に立って、どうしてもそのように見えてしまう。

(ちょっと手際が悪いなあ…)

とヤキモキするが、しかし、それを責め立てるわけにもいかない。

その学生が私に対して「超横柄なやつ!」というイメージを持ってしまっては困る。さらにはツイッターとかに「ちょっとくらい料理を出すタイミングが遅れただけで文句言ったりして、あいつ、超横柄!」とかなんとか書かれたら、もう軽く死にたくなる。

…と、例によって被害妄想がふくらんで、終始「ピクニックフェイス」を装うことにした。

なお、その店の名誉のために言っておくと、いったん料理とお酒が出はじめてからは、その後はスムーズな流れになり、宴会じたいは、とても和やかな雰囲気になった。

私だけが、ひとりでヤキモキして、空回りしていただけかも知れない。

…ということで、2時間の宴会だったが、とても疲弊してしまったのでありました。

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似てない似顔絵

11月5日(月)

1年生向けの午後の授業では、いつも、何かしらハプニングが起こる。

授業の最初、オープニングトークで例の「さかなクン」の話をしていたら、授業のために用意していたパワーポイントの映像が突然消えてしまった。

いくらパソコンを操作しても、パソコンの画面は真っ暗のままである。どうやらノートパソコンじたいが壊れてしまったらしい。

とくにこの1年生向けの授業では、ちょっとしたハプニングで授業が停滞したりすると、130名もの学生を待たせることになってしまう。例によって焦りの汗が出てきた。

急いで事務室に走っていって、別のパソコンと交換してもらう。

別のパソコンを立ち上げ、ようやく画面が復旧した。かなりの時間のロスである。

「時間がかかってしまってごめんなさい」まず私がみんなに謝る。

「たぶん、ムダ話をした罰だと思うんですよ」私は、授業の本筋とはなんの関係もない、さかなクンの話をしたことをひどく後悔した。

「それか、私、この職場で嫌われているので、地味な嫌がらせなのかもしれません」例によって、被害妄想がはじまった。

さらにマイクの接触が悪いのか、マイクの音もとぎれとぎれである。

「ほら、このマイクも、音がとぎれとぎれでしょう。絶対、私に対する嫌がらせです」

学生たちは失笑していた。

無事に授業が終わる。

毎回、出席カードの裏にコメントを書いてもらって、授業の最後に提出してもらっているのだが、

「先生、機械にめげないでください」「先生ポジティブになってください!」「大丈夫、きらわれてなんかいませんよ」「先生元気出してください」「さかなクンの話、おもしろかったです」「先生負けないで!」「先生、どんまい!」

と、なんと、ビックリするくらいたくさんの励ましのコメントが!

出席カードの裏に書かれたコメントはすべて、ノーカットで、私がパソコンに打ち込んで、翌週の授業のときに、プリントアウトしてみんなに配布することにしている。これは、むかしから一貫して続けている、私の方針である。だから、どんな言葉が書かれていても、カットせずに、打ち込まなければならない。

自分に対する励ましの言葉を自分でパソコンに打ち込んでいて、情けないやら、恥ずかしいやら、である。

そして、もうひとつ恥ずかしいことが。

先週くらいから、出席カードの裏に、コメントとともに、私の似顔絵とおぼしき絵が、ちらほらと見られるようになった。

困るのは、その扱いである。

「すべてのコメントをノーカットで掲載して、翌週の授業で配布する」という方針からすれば、この絵も掲載しなければならない。さてどうしたものか。

私は先週の授業で、こう言った。

「出席カードの裏に、私の似顔絵らしきものが描かれてあるのがありましたが、あまりにも似ていないので、掲載しませんでした。似ている絵でないと、掲載しません」

この発言が、逆効果となった。

今週は、さらに似顔絵を描く人が増えたのである。

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それにしても、似てない似顔絵ばかりである。なかには、悪意があるんじゃないか?と勘ぐりたくなるような似顔絵もみえる。

学生たちの目には、私がこんなふうに映っているのか、と思うと、落ち込むばかりである。

しかし、「すべてのコメントをノーカットで掲載する」という方針は、貫かなければならない。

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「おすすめの店」と「ここだけの話」

先週の疲れが全然とれないので、とりとめのない雑感を二つほど。

1.

「こんど○○に行くので、そのあたりのどこか美味しいお店を紹介してください」と、いろいろな人によく聞かれる。

仕事柄、けっこういろいろなところに行くので、そんなふうに聞いてくれる人がいるのは、素直にありがたいことである。

ただ、聞かれた時点では調子に乗って答えるのだが、後になって、激しく後悔する。

なぜならその人の味覚と、私の味覚は、同じではないからである。もちろん、私と近しい人間は、私の好みをよく知っているからまだ安心だが、そうでない場合は、私の味覚とその人の味覚が同じである保証は、どこにもない。

そんなわけで、私の「おすすめのお店」はたいてい、すすめられた人にとって、残念な結果に終わる。

すすめられた方にしたら、すすめられたとおりに行ってみて、さほど自分の口に合わなかったりすると、これはかなり不幸である。

すすめた方にしても、すすめた店が、他人にとってはそうでもなかったことを知ると、なんとなく落ち込んでしまう。

つまり、双方にとって、不幸な結果をもたらすのである。

先日も、こんなことがあった。

一流企業に勤める遠い親戚から、突然メールが来た。今まで数回しか会ったことのない親戚である。

「こんど、仕事でそちらにうかがいます。午後には別のところに行くので、滞在時間はほとんどありませんが、ランチには、同行の者を、地元ブランド牛の美味しい店に連れていきたいと思っています。ついては、地元ブランド牛の美味しい店を紹介してください」

おまえは地元だから美味しい店をよく知っているだろう、ということなのだろう。同行の人には「地元に住んでいる親類に聞いたのだから、間違いない」とかなんとかいって、そのお店に連れていくつもりなのだろう。

しかし、たぶん地元の人間は、地元のブランド牛など、ほとんど食べない。とくに私は貧乏なので、そういう店にも、行ったことがないのだ。

以前、東京の出版社の編集者がわざわざやってきて、地元のブランド牛のステーキを食べさせる店に連れていってもらったことがあったが、それだって、東京の編集者が、インターネットのグルメサイトで見つけてきた店である。

だから一番安心できるのは、インターネットのグルメサイトなのだ。

メールの返事に、「私は、地元のブランド牛をほとんど食べないので、わかりません」と前置きしたあと、インターネットのグルメサイトで紹介されているお店を、2つ3つ紹介してお茶を濁した。

これからは、「おすすめの店」を聞かれても、「本当におすすめの店」は、答えないようにしよう。

「本当におすすめの店」は、他人におすすめしてはいけない。自分の中に大切にしまっておくべきものである。

これは、「おすすめの音楽」「おすすめの本」「おすすめの映画」「おすすめの日本酒」についても、言えることかもしれない。

2.

「ここだけの話」とは、多くの場合、信頼できる人にのみ話す話のことである。

以前、こんなことがあった。

私は、自分が信頼するkさんという人に「ここだけの話」をした。

Kさんは、自身が信頼するNさんという人に、その話を「ここだけの話」として話した。

Nという人は、自身の上司であるHさんという人に、その話を「ここだけの話」として話した。

あるとき、さほど親しくないHさんという人に言われた。

「あの○○という話、本当ですか?」

私はHさんという人に向けて「ここだけの話」をしたわけではなかったのだが、すでに「ここだけの話」は、私の手を離れて、一人歩きをはじめたのである。

そのルートをたどっていくと、それぞれが、信頼できる人に「ここだけの話」をしているのだ。つまり、各人は、まったく悪気がなかった、ということになる。

こうして「ここだけの話」は、私のあずかり知らぬところで、共有されてゆく。

まあ、こんなことはよくあることで、とくに驚くに値しないし、たいていは、そんなこともおりこみ済みで「ここだけの話」を話すことにしている。

私自身は、「ここだけの話」と言われて聞いた話は、絶対に「ここだけ」にとどめることにしているが、わが身をふり返ってみると、それが貫徹されているかどうかは、自信がない。

ここでも痛感するのは、「本当にここだけの話」は、誰にも話してはいけない、ということである。

「本当にここだけの話」は、自分の胸にしまっておくべきである。

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さかなクンは偉大だ!

「クニマス」は、かつて秋田県の田沢湖にのみ生息していた、マスの固有種である。1940年代に田沢湖の水質の変化により絶滅したとされていた。

しかしそれ以前に、人工孵化の実験のため、富士五湖の本栖湖や西湖などに卵を送ったという記録が残っており、田沢湖以外で、クニマスが生息している可能性が残されていた。

2010年、「幻の魚」といわれたクニマスが、山梨県の西湖で発見された。当時の報道によると、クニマスを「発見」したのは、「さかなクン」である。

京都大学の教授から、クニマスのイラストを描いてほしい、とさかなクンに依頼があった。イラストレーターとしても活躍するさかなクンは、絶滅したクニマスを正確に描こうと思い、残されているホルマリン漬けの標本だけでなく、各地からクニマスに似たヒメマスを取り寄せ、それを参考にイラストを描くことにした。

送られてきたヒメマスの中に、ひときわ黒色を呈するマスが混じっていた。山梨県の西湖から送られてきたヒメマスである。地元の漁師たちは、これを「クロマス」と呼んでいた。

これはクニマスではないか?さかなクンは、京大の教授のもとをたずね、この西湖のマスを見せた。すると、教授の顔色が変わった。

これはまさしくクニマスである!

かくして、京大の調査チームが、西湖にクニマスが生息していることを確認したが、忘れてはならないのは、たぐいまれなる観察眼を持つさかなクンにより、「幻の魚」クニマスは発見された、ということである。

さかなクンの功績は、いくら強調してもしすぎることはない。

「さかなクンのことを、もっと評価してもいいんじゃないの?なんか、釈然としないよねえ」と妻。

「そうだよねえ」と私。

「さかなクン、さる高貴なお方の前でも、あの魚のかぶり物、被ったままだったらしいよ」

「立派だねえ。尊敬するね」

「高貴なお方の前だったから、かぶり物の魚も高級魚だったりして」

「そういう問題かい!?」

11月3日(土)、京都のまちなかを歩いていて交わした会話である。

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レンタサイクルと旅行カバン

11月2日(金)、実習4日目、最終日。

細かいことを書き出すと、きりがない。

いつも頭を悩ませるのは、最終日、どのようにしてスムーズに行動するか、である。

ネックとなるのは、各自の荷物である。

朝、荷物を宿泊先に預けて行動するとなると、荷物を取りに、いったん宿に戻らなければならない。

かといって、朝早くチェックアウトしたあと、いったん京都駅に出て荷物をロッカーに預けてから行動するとなると、かなりの時間のロスとなる。

宿泊先でレンタサイクルを扱っていることがわかった。

レンタサイクルを使えば、午前中にまわる予定の、御所と二条城を、ストレスなくまわることができる。宿泊先から徒歩で移動するには遠すぎるし、といってバスや地下鉄を利用するとなると、何度も乗り換えなければならず、かなり面倒だからである。

で、お昼に宿に戻ってレンタサイクルを返すついでに、荷物を受けとって京都駅に向かえばよい。

我ながら妙案である。

前日の夜、宿泊先の職員さんに聞いた。

「明日、レンタサイクルを利用したいんですが」

「大丈夫ですよ。ただし、うちには10台しかありません」

しかし今回の実習参加者は、私を含めて11名である。

学生10名だけでもレンタサイクルを使わせて、私はそのあとを走ってついていこうか、とも思ったが、それではどう考えても、私が死んでしまう。

「10台ですか…あと1台あればいいんですがねえ」私が言うと、

「手がないわけではありません」と職員さん。

「どういうことです?」

「この近くに、まちかどミナポートというのがあります」

「何です?それは」

「京都市内の各所にある、レンタサイクルの拠点です。ミナポートに行くと、レンタル用の自転車が置いてありますから、所定の手続きをすれば、借りることができます。返すときは、他のミナポートに乗り捨てることもできます」

「はあ」

よくわからないが、とにかくそこに行けば、自転車が借りられるらしい。

さて翌朝8時。

宿泊先から少し歩いたところに「まちかどミナポート」があった。ふつうの駐輪場の一角に、レンタサイクルが置いてあって、それを無人の案内板にしたがって手続きをすると、自転車が借りられるという。

宿で借りるレンタサイクルが1日500円であるのに対し、こちらが1日1000円というのは、少し高いが、背に腹は代えられない。

ようやくこれで、宿泊先から御所、二条城へと、快適に移動することができる。

御所の見学のあと、二条城に到着して驚いた。

駐輪場に「料金200円」と書いてある。

に、200円???

自転車をとめるのに、お金を取るのか?しかも、見学時間は、正味のところ1時間半程度である。

駐輪場を担当しているおじさんがやってきた。

「とめはりますか?おひとり200円かかりますよ」

「二条城に見学に来たんです」

「じゃあ、とめなあきませんねえ」

「あのう、ここ、有料なのでしょうか?」

「そうですよ」

「二条城を見学する人間も、有料なのですか?」

「そうです。うちは、二条城さんとは関係ありませんから」

つまり、たまたま、二条城の隣で、駐車場や駐輪場を経営しているに過ぎない、というのだ。

「でも、二条城の駐輪場、というのは、ないんですよね?」

「ありません」

つまり、自転車で二条城に来た一行は、もれなくこの駐輪場にとめなければいけないということである。

なんか、腑に落ちないなあ。二条城の入場料は600円。それとは別に、200円の駐輪料金。さらに、自転車は1日1000円で借りているのだ。なんで、駐輪料金に200円も取られなければならないのか?

せこい人間、と思われるかも知れないが、腑に落ちないものは、腑に落ちないのだ。

仕方ない、といわれればそれまでである。京都は観光客に冷たい、とは聞いていたが、京都を訪れれば訪れるほど、そのことを実感する。

御所と二条城の見学を終え、自転車を宿に返却する。もちろん私も、「まちかどミナポート」に返却した。

宿に預けていた荷物を受けとって、市バスに乗って、京都駅に向かう。午後は京都駅のコインロッカーに荷物を預けて、駅近くのお寺を見学することになっているのだ。

小旅行用のスーツケースを持ってバスに乗ろうとすると、バキッ、と、イヤな音がした。

スーツケースの取っ手が、コントのように取れてしまい、スーツケースを引っぱることができなくなってしまったのだ。

なんだかなあ。

夕方、実習自体は無事に終わったが、私の中には、何だか腑に落ちない感じが残った。

やっぱり、京都とはウマが合わないのかもしれないなあ。

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定点観測

11月1日(木)、実習3日目。

京都自由行動の日である。

実習の初日と2日目が、かなりハードな集団行動のため、学生たちと私のストレスを軽減するために、3日目はいつも自由行動としているのである。この「自由行動の日」があることにより、最終日は、学生たちも私も復活するのである。

京都自由行動の日の午前中における、私の行動パターンは決まっている。それは、喫茶店めぐりである。

京都で唯一好きなところは、喫茶店の数が多いことである。だから、ひと休みする場所に困らない。

私が、半分冗談、半分本気で夢見ていることは、いまの仕事を少し早めに引退して、喫茶店を開いて、その一角に自分の書斎スペースを設けて、そこで小説とかラジオドラマの脚本を書くことである。

それで、どんな喫茶店がいいか、などを夢想するのである。

モーニングセットを食べる喫茶店は、もう10年近くも同じ店である。三条通と烏丸通の交差点近くにある、小さな喫茶店である。

そこは、家族で経営しているらしく、スキンヘッドで眼鏡でヒゲの、ジャン・レノみたいなおじさんと、その奥さんらしき人、そしてジャン・レノのお母さんらしき人が、いつも店にいる。

常連さんらしいお客さんも、けっこういるようだが、ほどほどに空いているのがよい。

そこで新聞を読みながら、モーニングセットを食べる。

「せっかく1年に1度、京都を1人で自由行動できるチャンスがあるんだったら、いろいろな場所に行けばいいじゃん!」という批判が出るかも知れぬ。しかし私は、同じ場所を何度も訪れるのが好きなのである。

ああ、今年も、あのジャン・レノは元気に喫茶店を続けているんだな、と思うと、こちらも元気が出てくるのだ。

言ってみれば私は、「定点観測」が好きなのである。

さて、そこでの朝食が終わると、こんどは三条通にある有名な喫茶店に行く。やはり、年に1度の年中行事である。

そこは、カウンターが円形になっていて、その円形のカウンターの中で、店員さんがコーヒーを作っている。つまり店員さんは、客に囲まれるような形で、コーヒーを作っているのである。

そこでも、(ああ、あの店員さん、まだ頑張っているんだな)と、「定点観測」をする。

Photo_2 ミルクと砂糖の入ったシンプルなコーヒーを飲みながら、そこでしばし、本を読んだりして時間をつぶす。

(さて、午後はどこに行こうかな…)

だいたいその喫茶店で、午後に行く場所を決める。

今日の午後はまず、昨年こぶぎさんにすすめられた本屋さんに行くことにした

三条駅から電車を乗りついで、K社I店という本屋さんに到着する。

ふつうの本屋さんとは違い、「本好き」「本マニア」にはタマらない品揃えの店である。もちろん、ふつうの本屋さんでも買える本がほとんどなのだが、店内に並んでいる本のチョイスが、タマらないのだ。

しばし時間を忘れて、店内を歩きまわる。こんなにときめきながら本屋の中をうろうろしたのは、久しぶりである。

20121007202906『はじめてのコーヒー』という本を見つけた。最近出たばかりの本のようである。

帯に「(たぶん)世界でいちばんやさしいコーヒーの本」とキャッチコピーが書いてある。つまり、コーヒーに関する知識がまったくないこの私にもわかる本、ということだ。老後に喫茶店をはじめたいと思う私には、うってつけの本である。将来のために、さっそく買うことにする。

…というか、そこからはじめるのか?道のりは遠いなあ。

あともう1冊、鶴見俊輔の『ちいさな理想』という本を買った。これは、ふつうの本屋さんではなかなか手に入らない本のようである。

あとは博物館をまわり、京都自由行動の1日は終わった。

…おっと、もう1カ所ありました。夜は何年かぶりに、高台寺に行ってきました。高台寺のライトアップは、やはり美しいなあ。以下はそのときに私がふつうのデジカメで撮った写真でございやす、っと。

しばし京都気分を味わってください。

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