ひとり集中講義
11月20日(火)
昨年から、新しい師を得た。
いや、正確にいうと、「新しい師」とはいえない。今から20年以上前、大学でその先生の講義を履修登録したのだが、当時ふまじめだった私は、途中で履修放棄してしまって、「不可」をいただいたのだ。
昨年9月、職場で「発見」された資料の調査を依頼したことがきっかけで、その先生と再会する。「眼福の先生」こと、T先生である。
もちろん、私が学生時代に「不可」をいただいたことは、先生には申し上げていないが、あの時授業を履修放棄してしまったことが、ずっと心残りだった。
昨年9月以降、調査をご一緒したり、講演会でお話しいただいたり、シンポジウムをご一緒したりして、そのたびに私は、先生からいろいろなお話をうかがった。
そして今日、うちの職場にある「資料」を調査にお見えになるというので、まる一日、先生のもとで、勉強させていただくことにした。
朝10時半から、調査をはじめるが、最初はなかなか調査が進まない。
理由は、お話し好きの先生がさまざまなお話しをされるからである。それらのお話しは、どれも私にとっては興味深いのだが、
(はたしてこの調査、今日中に終わるだろうか…)
という不安がよぎる。
お話をうかがいながら、いかにスムーズに調査を進めていくか。
弟子としては、そこに手腕が問われるのである。
1対1で、先生のお話をうかがいながらの調査。これほど贅沢な時間はない。
先生は、この方面の第一人者である。先生を師と仰ぐ人は数多くいる。しかし、研究手法があまりにもマニアックで面倒なためか、先生の研究手法に寄り添って、これを受けつごうとする人は、ほとんどいない。ごく最近になって、私と私の妻が「入門」したのである。
調査されているときの先生は、じつに楽しそうである。私もこうありたい、と、先生を見るたびに思う。
「この前、自分がかつてやった研究の中で、誤りをみつけてねえ。撤回しましたよ。いつまでたっても私はダメだなあ」と頭を抱えられる。
昼食時間も、先生のお話は止まらない。麻婆豆腐定食を食べながらも、先生は立て板に水のごとく、さまざまなお話しをなさる。それらはいずれも、凡百の研究者にはまねのできない、先生が生涯をかけて取り組んできた研究に関するお話しなので、文字どおり「貴重」なお話ばかりである。
昼食中、ある研究に生涯をかけた研究者の日記について、お話しになる。その研究者の日記を、徹底的に読み込んだ先生は、
「その日記に記載があったおかげで、研究上でいろいろなことがわかったんですよ」
とおっしゃった。そして、ポツリと、おっしゃった。
「私が経験してきたさまざまなことは、ひょっとして誰にも伝わることのないまま、終わってしまうかもしれない」
さて、朝10時半から、途中1時間の昼食休憩をはさんだだけで、休むことなく調査は続き、夕方5時半、調査は終了した。
さながら、ひとりで先生の集中講義を受けたようなものである。
先生を最寄りの駅までお送りしたあと、今日のうちに調査成果をレポートにまとめて、先生に郵送で提出しなければならない。
これで、学生時代にいただいた「不可」を、少しは挽回できるだろうか?
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