ごくろうさんでした!
12月28日(金)
『週刊文春』で小林信彦が連載しているエッセイで、小沢昭一について書いていたのを読んで、久々に思い出して、渥美清のことを綴った小林信彦『おかしな男』(新潮社)を手にとった。この本の中に、小林信彦と小沢昭一が渥美清について語っている対談が載っているからである。
『おかしな男』は、渥美清と交流のあった作家・小林信彦の目から見た、渥美清評伝である。小林信彦には、やはり小林自身の目から見た横山やすし評伝『天才伝説 横山やすし』があり、この2冊は名作である。
『おかしな男』の最後は、渥美清と小林信彦が最後に言葉を交わした時のことを綴っている。渥美が世を去る、10年ほど前のことである。
銀座で偶然、旧友の小林に会った渥美は、次のように小林に語りかける。
「朝、起きる前から身体が痛いんだよな、節々が。そンでもって、外を歩ってて、子供がちょろちょろしてるのを見ると、妙に腹が立つの。…で、ふっと考えるとさ。こっちが餓鬼のころ、町内に、なんだか知らねえけど、気むずかしくて、おれたちを怒鳴りつける爺さんがいたよ。ああ、あの爺さんが今のおれなんだって気づいた時には、なんか寂しいものがあったね」
渥美が自身の「老い」を語るこの場面を初めて読んだときは、ちょっとショックだった。
喜劇を演じなければならない渥美が、自分でも制御できない「苛立ち」と格闘しなければならなかった、という事実にである。
人間は老いると、誰でもそうなるのだろうか、という意味でも少しショックだった。
たしかにいま見ると、このころから映画「男はつらいよ」の寅次郎は、急激に衰えていったようにみえる。だがそれは、このころから渥美清が実は病に冒されていた、という事実を知った目で見ているからである。それでも十分、スクリーンから渥美清の「おかしみ」は伝わっているのである。
最終作では癌の痛みに気力をそがれながらも撮影をこなした、というエピソードは、すでにこのブログでも紹介したことがある。
そのとき、不遜にも私の持病の痛風になぞらえたが、痛風による足の痛みもまた、気力を根こそぎそいでしまう力をもつことには変わりない。
足の痛みが、ときには精神的な「苛立ち」をもたらすこともある。心をボッキリと折ってしまうこともある。
しかし、職場ではできるだけふだん通り通常の仕事をこなし、人とも接しなければならない。
たまたま私にとってはそれが「痛風」だが、誰もが、何かしらの「痛み」をかかえている。肉体的な痛みであったり、精神的な痛みであったり。
そんな「痛み」をかかえながら、人は日々を暮らしているのである。そんな中にあっては、私の個人的で肉体的な痛みなど、しょせん自分自身の問題なのだから、たいしたことではない。
さて、読者諸賢。
「この1年間、痛みに耐えてよく頑張った!」
…どこぞの総理大臣のセリフみたいで、この言葉で締めたくないなあ。
「ごくろうさんでした!」
これは、映画「男はつらいよ 紅の花」(最終作)での、寅さんのラストのセリフである。こっちの方が締めの言葉としてふさわしい。
(付記)
…とここまで書いてきて、伊集院静『大人の流儀』(講談社)を読んでいたら、こんなフレーズがあった。
「『いろいろ事情があるんだろうよ…』
大人はそういう言い方をする。
なぜか?
人間一人が、この世を生き抜いていこうとすると、
他人には話せぬ事情をかかえるものだ。
他人のかかえる事情は、当人以外の人には
想像もつかぬものがあると私は考えている」
「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」
私が漠然と考えていたことは、すでに伊集院静氏が胸にストンと落ちる言葉で書いていた。
来年は、伊集院静『大人の流儀』みたいなブログをめざそう。
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