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2013年1月

屋台ラーメンノスタルジー

1月30日(水)

屋台のラーメン、で思い出したことがある。

私が小学校高学年のころ、1週間に一度、チャルメラ、いわゆる「夜泣きそば」が家の近所にやってきていた。

毎週土曜日の夜9時、そう、ちょうど「8時だよ!全員集合」が終わる頃になると、どこからともなくチャルメラの音が聞こえてくるのである。

「試しに一度食べてみようか」

母の提案で、どんぶりを持って、そのチャルメラの音を頼りに、家を出た。

軽トラを改装した屋台のラーメン屋は、我が家のすぐ近くにとまって、店を開いていた。

繁華街でも何でもない、ふつうの住宅街の一角である。

その屋台で食べる客よりも、私たちみたいに、近くの家からどんぶりを持って買いに来るという客の方が多かったような記憶がある。

家に帰って食べてみた。チャーシュー、半裁されたゆで卵、メンマ、なると、きざんだ長ネギ、焼きのりが乗った、きわめてオーソドックスな醤油ラーメンである。

これがメチャクチャ美味かった!

私はたちまち、そのラーメンの虜になった。

それからというもの、毎週土曜日の夜9時が待ち遠しくて仕方がなかった。ドリフが終わるとそわそわし出すのである。やがてチャルメラの音が聞こえてくると、母と一緒にどんぶりを持って屋台のラーメン屋まで出かけていった。寸胴の鍋から上がる湯気や、その湯気が醸し出すにおいが、食欲をそそった。

屋台のオヤジは、黙々とラーメンを作り続ける。私はそのオヤジが手際よくラーメンを作っている様子を、ずーっと見ていた。

ラーメンを受け取るやいなや、すぐに家に戻り、「Gメン75」を見ながら、ラーメンを食べる。

ラーメンに対する私の味覚は、このときに完全に形成されたのである。

さて、どれほど時間が経過したか、覚えていない。1年くらいだろうか。

突然、そのチャルメラは、来なくなった。

一説には、近所の小うるさいオバチャンが、「チャルメラの音がうるさい!」とクレームをつけたため、そのラーメン屋さんが来なくなったのだという。

こうして私の週に1度の楽しみは、奪われてしまったのである。

それから大学生くらいになって、夜に町を出歩いたりしたときに屋台のラーメン屋を見つけるたびに、屋台に入ってラーメンを食べたりした。子どもの頃のあの味に、再会できるのではないか、と思ったからである。

しかし、どの店も、私が子どもの頃に食べた味とは違っていた。あのときの屋台のラーメンの味を超えるものに出会うことはなかった。今でもそうである。

90年代半ば頃までは、東京の郊外でも、けっこう屋台のラーメン屋を見かけたと記憶するが、それ以降、ほとんど見かける機会はなくなってしまったような気がする。

もちろん、福岡など、屋台のラーメン屋が軒を連ねて一つの文化になっている場所は、まだある。しかし、住宅地の一角に、一軒ポツンとあるような屋台のラーメン屋。それこそが、私が探し求めている屋台のラーメン屋なのである。

屋台のラーメン屋は、日本の映画やドラマでも、かつては欠かせない存在だった。

シリーズ中の最高傑作といわれる、映画「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」で、寅次郎(渥美清)とリリー(浅丘ルリ子)が偶然再会するのが、函館の屋台のラーメン屋なのである。

屋台のラーメン屋で、二人が偶然隣り合わせたことから物語が始まる、という展開が、かつての日本の映画やドラマでは、よく見られたことだったのだ。

私の経験的な印象からすれば、90年代の半ば以降、屋台のラーメン屋は、福岡のように文化として定着した地域を除くと、急速に減っていったように思う。

渥美清の死とともに「男はつらいよ」シリーズが終わったのも、90年代半ばである。屋台のラーメン屋が町の片隅から姿を消し、携帯電話の登場によって公衆電話を見つけるのが難しくなったこの時期に、奇しくも「男はつらいよ」は、終焉を迎えたのである。

それは、「一時代の終焉」に匹敵するくらいの意味を持つものだったというのは、言い過ぎだろうか?

…あれえ?ひょっとして本当は、「屋台とラーメン文化」について、テレビで語りたかったんじゃないの?

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ダンボールの泉

1月29日(火)

昨日の「屋台とラーメン」についてのテレビコメントは、別の同僚が引き受けてくれたとのことでした。よかったよかった。

とにかく忙しい。

事務室から問い合わせが来た。

「次の引っ越し作業はいつですか?」

仕事部屋の移転作業は、7割方終わった、というところであろうか。ここでいう「7割方」とは、荷物をダンボールに詰めて移動させた、という意味である。荷とき作業までは含んでいない。

「次に引っ越し業者さんが来るのはいつですか?」

私は職員さんに聞いた。引っ越し業者さんが来るときに合わせてこちらで荷造りをして、荷物を運んでもらおうと思っていたのである。

「もう、業者は来ません」

「え?来ないんですか?」

「もうあらかた移転作業は終わりましたから。あとは業者なしでやっていただきます」

えええぇぇぇぇ!!

聞いてないよ~。さあ困った。

そうなのだ。大規模な移転作業はあらかた終わってしまったのだ。すでに同僚は、耐震工事が終わった建物に戻り、久しぶりに形成された隣近所の同僚たちとのコミュニティを謳歌しているのだ。唯一残されていたのが、私だったのである。

ま、私はどこに行っても孤独なので関係ないのだが。

「よかったら、うちらで手伝いますよ」職員さんが気を遣って言ってくれた。

「いえ、けっこうです。自分で何とかします」

「ご自分でって、無理ですよそれは」

「いえ、大丈夫です」

どうせ俺はここでは孤独なんだ。一人でやるさ、と、事務室を後にした。

そうはいってみたものの、やはり一人ではツライ。

前にも書いたかどうか忘れたが、私はおそらく、この職場で、最も蔵書数が多いと思われる。

軽くブックオフが一店舗開けるくらいの、蔵書数である。

「いや、私の方が多いぞ」と心の中で思っているそこの君!かかってきなさい。勝負してあげるから。

むかし、運動会で「玉入れ」っていう競技があったでしょう。高いところにあるかごに玉を投げ入れて、あとでかごに入った玉を「ひとーつ、ふたーつ」と数えながら、かごの中から一つずつ同時に玉を投げ出して、最終的に多かった方が勝ち、という競技。

あれを「本」でやったら、絶対勝つ自信あるぞ。「いっさーつ、にさーつ」って、数えていったら、たぶん私が最後まで残ると思う。

だって、工事が完了した部屋に、本を配架しようとしてギチギチに並べても、まだ未開封の本のダンボールが80箱以上もあるんだぜ。

今までいったい、どうやってこの部屋に本が入っていたのだろう?

一人で作業をしていくうちに、だんだん腹が立ってきた。

どうして俺だけがこんな目に遭わなきゃならないんだ?

俺が何したっていうんだよう!こんなに真面目に生きているのに!

ダンボールから本を出しても出しても、いっこうに減る気配がない。

あとからあとから、ダンボールが湧き出してくる。こりゃあ、ダンボールの泉だな。

「あのう、ちょっとよろしいでしょうか」

同じフロアの同僚である。

「何でしょう?」

「この廊下においてあるダンボール、お借りしてよろしいでしょうか」

私は本を取り出したダンボールを解体して、仕事部屋の外の廊下に積んでいたのだ。あっという間に背の高さになっていた。

「どうしたんです?」

「仮の仕事部屋からこちらの仕事部屋に本を移すのに使おうかと思って」

「どうぞどうぞ、いくらでもお使いください」

いつしか、同じフロアの何人かが、必要なダンボールを私のところから持って行くようになった。

しかし、である。

複数の人がよってたかって私のダンボールを持って行っても、いっこうになくならないのだ。

ダンボールの泉、ダンボール長者、ダンボールハウス…。

こんなことなら、1個いくらかで貸して、商売をすればよかったかな。

いっそ私の名前を「ダンボール」に変えようか、と思ったくらいだ。

…さて、そんな馬鹿なことばかり考えてはいられない。

今日は天気もいいし、一気に移転作業を進めてしまおう。

おりしも、新しいパソコンが今日、納品されるというのだ。

というわけで、途中、学生2人が来て手伝ってくれて(もちろんアルバイトですよ)、午後から夕方までかかって、9割5分くらいの荷物を、仮の仕事部屋から本来の仕事部屋に移すことができた。

新しいパソコンも設置できて、いよいよ拠点は、この本来の仕事部屋である!

まだ、本のダンボールは100箱ほど未開封だが、あとは時間を見つけて少しずつ整理していくことにしよう。

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ラーメンといえば思い出す顔

1月28日(月)

昼休み、職場に内線の電話が入る。同じ部局の年上の先生からである。

「ひとつお願いなのですが」

何だ?また仕事の依頼か?

「何でしょう?」

「あのう、…ラーメンお好きですか?」

「ラーメンですか?」

「ええ」

「好きですけど…」

「それはよかった!」

「一体どうしたんです?」

「実は地元のテレビ局から取材の依頼が来まして、そのテーマが、『屋台のラーメン』なのだそうです。で、うちの部局の誰かに、屋台とラーメンの文化について、短くてよいのでぜひコメントをほしいと言ってきたんです」

「屋台?ラーメン?どうして私なんです?」

「誰か紹介してくれ、という依頼が来たとき、どういうわけか真っ先に浮かんだのが、M先生の顔なんです。先生なら、たぶんラーメンが好きだろう、と思って…」

「そりゃあ、好きですけど…。たしかにラーメン屋にはよく行きますけど、屋台のラーメン屋には、ほとんど行きませんよ。第一、この地域に屋台のラーメン屋なんてあるんでしょうか?」

「実は私も行ったことがないのです」

この雪国で、ラーメンの屋台が出ているはずはないのだ。その番組は、いったいどういうコンセプトなんだ?

「でも、どうしてもうちの部局の誰かのコメントが欲しいそうで…」

何と私は、部局にいる80名ほどの同僚の中で、「ラーメンが好きそうな同僚」の栄えある第1位に選ばれたようなのだ!

「ラーメンだけじゃなくて、『屋台』というしばりがあるんでしょう?この地で、屋台のラーメン屋に入ったことのない人間が、コメントなんてしていいんでしょうか?」と私。

「他に適当な人が思い浮かばんのです。屋台文化とか、ラーメン文化について語ってもらえばいいと思いますよ」

よっぽど私は、「屋台通」「ラーメン通」に見られているらしい。

しかし私は「屋台通」でも「ラーメン通」でもない。そんな人間が、したり顔で屋台文化だのラーメン文化だのを語る資格などないのだ。

私は、他の人に矛先を向ける作戦に出た。

「あのう…隣のフロアの若い同僚たちの中に、適当な人材がいるんじゃないでしょうか?」

「誰です?…わかった!I先生でしょ!」

I先生は私とほぼ同世代で、しかも私と同じ体型である。

「いえ、…たとえば…N先生とか」

「N先生!そんなことありえませんよ!N先生が屋台でラーメンを食べるとは思えませんよ!I先生ならわかりますけど」

若くてイケメンでスマートなN先生は、ラーメンを食べないってか?

やっぱり、「体型」で選んでいるのだ。

「そうだ!」私は思い出した。「S先生はどうです?」S先生もやはり私と同世代で、同じ体型である。「そういえば以前S先生と、美味しいラーメン屋の話で盛り上がったことがあります」これは、本当の話である。

「S先生ですか。なるほど」どうやら納得されたようだった。

やっぱりぜったい「体型」で判断してるよな。

「とりあえず、S先生に連絡をとってみます。それでもし難しいようだったら、先生にまたお願いするかも知れません」

そういって電話は切れた。

その後、今に至るまで連絡は来ていない。

はたしてどうなることやら。

もし私が、テレビの中でしたり顔で「屋台」とか「ラーメン」について語っていたら、ごめんなさい、「あいつ、とうとう魂を売ったな」と思ってくださいまし。

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23年目の初仕事

1月26日(土)~27日(日)

この週末、東京の西隣の県でおこなわれるシンポジウムで、パネラーとして参加した。

誘っていただいたのは、このシンポジウムを企画したHさんである。私が大学3年の夏休みに参加した「山中の調査」で、たいへんお世話になった方である。

そのころの私は「クソガキ」で、「山中の調査」では、一緒に参加した仲間たちとかなりむちゃくちゃなことをしたりして、この調査を主催した職場につとめていたHさんに迷惑ばかりかけていた。当時、Hさんは20代の後半くらいだったのではないかと思う。

しかし、私にとっては結果的に、今の道を進むきっかけを与えてくれたひとりである。大学3年当時は思ってもみなかったことだが、その後私は、Hさんと同じような関心で、その後の仕事の方向性を定めるようになったのである。

この稼業についたあとも、たびたびHさんとお会いする機会があったが、そのたびに、私には実直に接してくださる。

(大学3年の時の私は「クソガキ」だったんですから、そんなに実直に接していただかなくてもいいんですよ)

と、何度も喉元から出かかった。

今回のシンポジウムにも、丁寧なご依頼をいただいた。

私からすれば、いや、むしろ私の方が、喜ぶべきことである。

ようやく23年経って、一緒に仕事ができるのだ。

やっとここまできたか。

しかし、である。

私はこのところ、ずっと忙しすぎた。

とりあえず、発表当日に配布する原稿は昨年末に送ったものの、それから、まったく準備をしていない。

前日の金曜日、仕事の合間をぬって、慌てて準備をする。

準備をするうちに、以前送った原稿が、いかに不備なものであるかに気づく。

「あちゃー!」

という言葉が、口をついて出るほどだった。

(仕方ない、あとは自分の出番の直前まで準備しよう)

ドタバタで新幹線に乗り込む。

そして当日を迎えた。

1日目のパネラーのみなさんの発表は、じつに周到で、面白かった。そのことが私を、ますます不安にさせた。

(困ったなあ…)

初日の懇親会もそこそこに、私は、職場から山ほど持ってきた資料を、翌日の自分の発表の直前まで読み続けた。

2日目(日曜)の午前。

なんとか50分の発表を終えた。うまくいったのかどうかはわからなかったが、精一杯のことはしたつもりである。

午後はパネラーが壇上に上がって、討論の時間である。

ほかのパネラーの方々のお話が刺激的で面白かった。私も少しだけ発言したが、あっという間に討論が終わった。

こうして2日間のシンポジウムは、無事終了した。

電車の時間があったので、挨拶もそこそこに、会場を出発して駅へと向かう。

私はあまり役に立たずに終わってしまったが、他のパネラー方々の発表が力のこもったものばかりだったので、企画者のHさんは安堵されたことだろう。

私は、いつかまたリベンジだな。

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火をつける仕事

1月23日(水)

部局の同僚たちの前で、研修会という名目で、あるテーマについて話をすることになった。

怠惰なこの私でも、職場の中で、自分が取り組むべきライフワークというのを、勝手に決めていて、その仕事だけは、自分がどんな立場にいようと、真剣に取り組もう、と心に決めている。

しかしその仕事は、どれほど熱心にしたとしても、ほとんどの同僚の関心をよぶものではなく、多くの場合、理解されないまま、見過ごされてしまうのである。だから、ときどき心が折れてしまう。

今回、自分が今まで取り組んできたその仕事の話を、同僚たちの前で話すことになった。どれだけ理解されるだろうか、と、直前まで不安で不安で仕方がなかった。

話の冒頭に次のように言った。

「今日、お配りしたチラシを、ぜひ、みなさんの仕事部屋の前に貼ってください」

私は、同僚の全員に、今回のテーマに直接関わるチラシを配布したのであった。私が以前作成に関わった啓発用のチラシである。もし、これから話す私の話に、少しでも心が動かされたら、そのチラシをドアの前に貼ってもらえるだろう、と思ったのである。

…なんか、「幸福の黄色いハンカチ」みたいだな。

とにかく、わずか20分だったが、自分が思っていることを同僚たちの前でお話しした。

どれだけ伝わっているか不安であった。研修会が終わってからも、誰ひとりねぎらいの言葉をかけてくれなかったことが、さらにその不安を増大させた。私は誰とも目を合わせることなく、終わるとすぐに会議室を出た。

翌日(24日)。

午前、廊下を歩いていると、ある職員の方とすれ違った。

「昨日はお疲れさまでした」その方も、昨日の私の話を聴いていた。

「勝手な話ばかり言ってすみませんでした」

「何を言うんです。…あのあと、先生からもらった講演録、読みましたよ」

昨日の研修会では、私が以前まとめた、ある方の講演録を参考資料として配布していて、「あとで必ず読んでおいてください」と、同僚たちにお願いしたのだった。だが「あとで必ず読んでおいてください」と言って、読んだ試しはないから、たぶんほとんどの人は、読まないだろうなあ、と、すっかりあきらめていたのである。

「そうでしたか。ありがとうございます」

少なくとも1人は読んでくれた、ということである。

さて、夜になった。

ほとんど誰もいない部局の建物で、私にはやるべきことが残っていた。

それは、「いったい何人の同僚が、あのチラシをドアの前に貼ってくれたか?」について、調べることである!

「あたしも悪い男でねえ」

というセリフは、たしか「刑事コロンボ」のどこかの回で、犯人に罠をかけて自白させたコロンボが、最後に言うセリフだったと記憶しているが、記憶違いかも知れない。

「ぜひ仕事部屋の前に貼ってくさい」とお願いしたのは、私の話にいったい何人の人が共感したかを、調べるためであった。つまり、同僚たちの「共感する力」をはかるためである。

先日おこなったイベントでは、告知のチラシを貼ってくれたのは、わずか2名であった。

それを考えると、今回も絶望的である。

夜回り先生のように、建物内を歩きまわって確認する。

全部で5名。5名か…。

同僚全体の数からすれば、1割にも満たない。だが、誰もチラシを貼ろうとしない中にあって、貼ってくれたというのは、むしろ勇気ある5人というべきであろう。私は5名の名前を胸に刻んだ。

この仕事に一緒にとりくんでいる同僚からメールが来た。

「昨日の研修会の資料を担当の上司に送ったら、来年度は、仕切り直してこの仕事に力を入れたい、とメールが来ました。この機会を利用しましょう」

そうか。

5名は決して多いとはいえないが、それでも、それまでゼロだったものが、5名に増えたのである。

そして、担当の上司の心にも火をつけた。避けられがち、埋もれがちなこの仕事に、もう一度本腰を入れてとりくもう、と言ってくれたのである。

はじめて気づく。この職場では、火をつけることが私の仕事なのだ。

それが、この職場で私がやるべき仕事なのだ。

しかし、風が吹けば、簡単に火は消えてしまう。

消えないように、しつこくしつこく、火をともさなければならない。

消えてしまいがちな火であればあるほど、あきらめずにともし続けなければならない。

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國村準はソン・ガンホだ

ここ数日、いろいろなことがあったのだが、差し障りがあって書けないことばかりである。

こういうときは、とりとめのない記事を書くことにしている。昨日、一昨日と、とりとめのない記事を書いているのは、そのせいである。

Images 國村準、という俳優を初めてちゃんと認識したのは、三谷幸喜脚本のドラマ、「合い言葉は勇気」の時だったと思う。

非常に印象深い役者さんだなあ、と思っていたが、その後韓国映画を見るようになり、ソン・ガンホという俳優に注目するようになってから、「國村準は、日本のソン・ガンホではないか」と思うようになった。

誰にも賛同されないと思ったので、これまで言わなかったのだが。

Img56932542 ソン・ガンホは、韓国を代表する実力派の映画俳優である。コミカルなヤクザとか刑事とかを演じさせたら、右に出るものはいない。「悪役になりきれない男」という形容が、もっともふさわしいように思う。それでいて、彼の立ち居振る舞いは、じつに色気がある。

國村準もまた、「悪役になりきれない男」という形容が、もっともふさわしいように思う。最初に認識した「合い言葉は勇気」の役柄が、そうだったからかも知れない。

ソン・ガンホが演じてきたような役柄を國村準が演じたら、日本を代表する俳優として注目されるのではないか、と思うのだが、残念ながら、今の日本映画界の状況では難しいだろう。

賛同を得られないことは、わかってますよ。

ちなみに、國村準の人気を確立させたのは、朝の連続テレビ小説、「芋たこなんきん」である。

そこでは、主人公の田辺聖子(藤山直美)の夫を演じていた。私はほとんどこのドラマを見ていなかったのでストーリーはわからないが、妻と差し向かいでもって、お酒をちびちび飲みながら、妻の話を黙ってうなづきながら聞く、という場面がたびたびあって、それがとても印象的だった。そういうお酒が、いちばん美味しいのではないか、と思わせる場面である。

そのドラマの前後の時期だったか、ウィスキーのCMにも出ていた。

Wall02031 そういえばソン・ガンホも、韓国で「百歳酒」というお酒のCMに出ていた。「百歳酒」のソン・ガンホは、じつに絵になる。韓国でポスターを見るたびに、そう思う。

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新選組の組織論

私は、「むかしの刑事ドラマは、新選組を念頭に置いて組織が構成されている」という仮説を持っている。

新選組局長の近藤勇は、カリスマ的なリーダーである。自分から手を下すことはほとんどないが、最終的な責任はとる、「ボス」的な存在である。

総長の土方歳三は、近藤の右腕となって、実質的に新選組をとりしきる。新選組の「頭脳」でもある。

沖田総司は、若いが腕が立つ。

井上源三郎は、近藤よりも年上だが、近藤に忠誠心を誓い、若者に対する面倒見もいい。組織の「オヤジさん」的存在である。

これを、「太陽にほえろ」にたとえると、

ボス(石原裕次郎)=近藤勇

ヤマさん(露口茂)=土方歳三

ジーパン(松田雄作)=沖田総司

チョーさん(下川辰平)=井上源三郎

となる。

これを「Gメン75」にたとえると、

黒木警視正(丹波哲郎)=近藤勇

立花警部(若林豪)=土方歳三

速水涼子刑事(森マリア)=沖田総司

山田刑事(藤木悠)=井上源三郎

となる。

これを「特捜最前線」にたとえると、

神代警視正(二谷英明)=近藤勇

橘警部(本郷功次郎)=土方歳三

叶警部補(夏夕介)=沖田総司

船村警部補(大滝秀治)=井上源三郎

となる。

これを「西部警察」にたとえると、

木暮警視(石原裕次郎)=近藤勇

大門刑事(渡哲也)=土方歳三

巽刑事(舘ひろし)=沖田総司

谷刑事(藤岡重慶)=井上源三郎

となる。

まあ、沖田総司のところは、どれもかなりこじつけな部分もあるので措くとして、近藤=カリスマ的リーダー、土方=ナンバー2だが実質的なとりしきり役、井上源三郎=癒し系のオヤジさんという三点セットは、どの刑事ドラマにも必要不可欠な存在であったといえる。

1970年代以降に隆盛する刑事ドラマは、みなこの「新選組」的な組織を意識して作られたものだ、というのが、私の仮説である。

もっといえば、「新選組」的な組織論が、長くこの社会を支配してきただともいえる。

だから何なのさ?と言われれば、返す言葉はない。

ただ、むかしのドラマ「新選組血風録」(1965年)を見ていて、のちに隆盛する刑事ドラマに似てるよなあ、と思ったのがきっかけであります。

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うっかり脳体験

先月、職場の建物の耐震工事が終わり、いよいよ「仮の仕事部屋」から「本来の仕事部屋」に戻ることができるようになった。そして1月も後半を迎えた。

「引っ越しはもう終わったんですか?」とよく聞かれるのだが、

「まだ終わっていません」

ほかの同僚はとっくに引っ越しが終わっているが、私だけはまだ陸の孤島である。

それでも、「仮の仕事部屋」から、学生に手伝ってもらいながら、本のほとんどを箱詰めして「本来の仕事部屋」のある建物に移したのだが、なにしろダンボールにして100箱くらいあるので、自分の仕事部屋に置くスペースがない。仕方がないので、廊下をはさんだはす向かいにある空き部屋に、ダンボールを仮置きさせてもらうことにした。

いまは、はす向かいの部屋に置いてあるダンボール箱から本を取り出しては、自分の仕事部屋の書棚に配架する、という単純作業を、延々とくり返しているところである。

つまり作業中は、はす向かいの部屋と、自分の部屋を、かなりの頻度で行ったり来たりするわけである。

これをくり返していくと、だんだん方向感覚がおかしくなる。

俺は今、どっちの部屋にいるんだ?とわからなくなり、トイレが廊下を左に進むとあるはずだと思って、部屋を出て左の方に歩くと、実は逆方向だったり。

トイレの位置は、自分の仕事部屋から見て左だが、はす向かいの部屋から見たら右なので、「自分の仕事部屋」にいるつもりで「はす向かいの部屋」にいると、まったく逆方向に廊下を進むことになるのである。

なんかややこしいな。説明、わかりますかな?

こういうのを、脳がうっかりする「うっかり脳体験」というのか?あるいは「空脳(そらのう)」というのだろうか。

「うっかり脳体験」をしてみたい方は、ぜひ、私の引っ越し作業を手伝ってみてください。

さらに最近は、自分が「仮の仕事部屋」にいるのか、「本来の仕事部屋」にいるのか、わからなくなることがある。

いまは、おおかたの本が「本来の仕事部屋」にあり、パソコンや仕事に必要な書類が「仮の仕事部屋」にある、という状態なので、両方の部屋を、行ったり来たりしなければならない。

そんなことをしているうちに、自分がどこにいるかわからなくなってしまうのである。

夜、仕事が終わり、帰ろうとする。

(今日は、この廊下を通って、この階段を下りて、この出口から出て帰ろう…)

と、自分は「本来の仕事部屋」にいるつもりで、その帰り道を漠然とシミュレーションしながら部屋を出ると、自分がいた部屋は「仮の仕事部屋」であり、愕然とすることがあるのだ。

部屋の作りも広さもぜんぜん違うし、部屋のある建物もぜんぜん違うのに、どうしてこんな錯覚をしてしまうんだろう?

しかしこうした「うっかり脳」は、めったに体験できるものではない。

引っ越しが終わるまでのあと少しの間、この「うっかり脳体験」を楽しもう。

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指サックに市民権を!

1月19日(土)

「絶対に枚数を数え間違えてはいけない仕事」というのをやりながら、思ったことがある。

人間には、年をとった証拠であるとして認めたくないものが2つある。

一つは「老眼」。これは以前に書いた

もうひとつ、それは、

そう!「指先の脂がなくなること」である!

若い人にはわからないかも知れないが、だんだん年を重ねてくると、指先の脂がなくなってくる。

それでどうなるかというと、本のページを2ページ一緒にめくってしまったり、紙の枚数を数えるときも、なかなかうまく数えられなかったり、さらには、スーパーでもらったレジ袋を、うまく開けなかったりするのである。

そんな時にはどうするか?

昔の人だったら、指先をペロッと舐めて、指に水分をつけてから、ページをめくったり、紙の枚数を数えたり、レジ袋を広げたりするのである。

これを、何の抵抗もなくやり出すようになったら、もう完全なおじさんおばさんである。

だから、年をとったことをまだ認めたくない人は、指先を絶対にペロッと舐めないように必死で抵抗するのである。

そういえば、私が子どものころの学校の先生は、プリントを配るときに、もれなく指をペロッと舐めていたぞ。今の私と同じくらいか、それよりも若い先生がふつうに指をペロッと舐めていた。

いま、学生の前でそれをやったら、絶対にキモチワルがられるはずである。しかし、いまから20年ほど前までは、それが当たり前だったのだ。

昔のドラマ、そうねえ、たとえば、私の好きな刑事ドラマ「特捜最前線」をいま見返してみると、いまでは絶対にあり得ないことを、平気でやっていたりする。

一つは、「たばこのポイ捨て」。

たとえば刑事がたばこを吸いながら張り込みをしていると、そこに突然犯人が現れる。刑事は犯人を見つけると、吸っていたたばこをそのまま路上に捨てて、その犯人を追いかけるのである。

おいおい、火のついたたばこを路上に投げ捨てるなんて、ダメじゃないか!と、いまなら思うのだが、当時は何の疑問も持たなかったのである。

そしてもう一つが、「指舐め」である。

刑事たちが、犯人の名前を特定することに成功し、その犯人の住所をさがすために、みんなで手分けをして、全国の電話帳をかたっぱしからめくる。

そのこと自体も、いまからみると「ええぇぇぇ???」という感じなのだが、当時はインターネットなんかなかったのだから、仕方がない。

そのときに、刑事たちは、いっせいに指をペロッと舐めて、電話帳のページをめくっていくのである。

老練な刑事となると、眼鏡をおでこにずらし、そのあと指をペロッと舐めて、電話帳をめくりはじめる。こうなるともう、「老眼」と「指舐め」のダブルパンチである。

老練な刑事は別としても、「特捜最前線」に出てくる刑事の多くは、いまの私の年齢と同じくらいか、あるいは若いくらいである。その彼らが、何の抵抗もなく、指をペロッと舐めていた時代だったのである。

たとえば、福山雅治が、本のページをめくるのに、指をペロッと舐めていたとしたらどうだろう?百年の恋も冷めるのではないだろうか。…いや、福山雅治だったら、何をしてもサマになるのか?

まあそんなことはどうでもよい。

では、指舐めをしないで紙の枚数を数えるにはどうすればよいか?

答えは一つ。指サックを使うことである。

指サックなら、会社の若い事務員さんだってふつうに使っているのだ。

しかし、私のみるところ、指サックはあまり市民権を得ていない。

先日、ある方に紙を数える仕事をお願いして、指サックをお渡しすると、「いままで使ったことがありません」という。

「便利ですよ」と私が言うと、

「どの指につけるんです?」

「人差し指とか、親指とか、薬指とか、いろいろです。紙をめくる指につければいいのです」

「そうですか…」

その方は指サックをはめたのだが、いざ紙を数える段になると、なんと指サックをはめていない指で紙の枚数を数えはじめたのである。

「それでは意味がありませんよ」と私が言うと、

「やっぱり慣れていないとダメですね」と、結局指サックを使うことをあきらめ、素の指で紙の枚数を数えはじめたのであった。

なるほど、当たり前のように指サックを使っている人から見れば何でもない作業なのだが、まったく使ったことのない人からみれば、かえって効率の悪いものになってしまうらしい。

つまり、それほど指サックは市民権を得ていないのである。

考えてみれば、うちの職場で「絶対に枚数を数え間違えてはいけない仕事」の際に、指サックが支給されることはあまりない。仕方がないので、「マイ指サック」を持ってくるしかないのである。

ん?うちの職場だけなのか?

ともかく、「指サック」に対する認識は、まだまだ低いといえよう。

「指舐めからの紙めくり」が、市民権を得なくなったいまこそ、指サックに市民権を与えるべきである!

学校の授業で、「指サックを使った紙のめくり方」を教えるべきである!

抵抗なく指サックが使える社会を目指すべきである!

「指サック」という言葉に抵抗があるなら、「フィンガーキャップ」でもいい。

みんながふつうに指サックを持ち歩いているような社会をめざそうではないか。

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新作落語「IT長屋」

昨日の日記に、さっそくこぶぎさんがファンタジーなコメントを書いてくれた、ということは、そこそこ記事の反応がよかった、ということだろうか。

こぶぎさんのフリのコメントに対して、『解体新書』で落としてみたのだが、どうも今ひとつである。

で、よく考えてみたところ、これは落語ではないか、と。

会社でIT企業の社員のプレゼンを聞いた八っつぁん。ところがIT弱者の八っつぁんは、IT社員が言っている言葉が、サッパリわからない。困った八っつぁんは、長屋のご隠居に相談に行くことにした。

「ご隠居!ご隠居!いらっしゃいますか?」

「おお、誰かと思えば八っつぁんじゃないか。どうしたんだい?」

「実は困ったことがありまして。長屋のご隠居なら、物知りだとうかがったもので」

「何でも聞いてみなさい」

「ええ、それが、ITのことなんで」

「IT?」

「ええ」

「ああ、イットのことだな」

「イット?イットって言うんですか?…まあ何でもいいや。今日、会社で、そのイットとかいう会社の社員が来ましてね、いろいろと説明するんですが、言ってることがサッパリわからないんでさあ」

「どんなことだい?」

「メインのコンテンツが何たらとか。メインのコンテンツって、何です?」

「メインは『主要な』、コンテンツは『記事』。つまり、主要な記事のことだな。その会社は新聞社に違いない」

「はあ、そうですか。…それに、ランニングコストって、何です?」

「ランニングのコスト、つまり、走るのに必要な費用だよ」

「ランニングに必要な運動靴とか、Tシャツのことですかい?」

「そうだ」

「するってえと、連中の商売はスポーツ用品店かな?」

「そうとも言える」

「じゃあ、『クラウドにアップする』は?」

「『雲の上に上げる』、つまり、『棚上げにする』、という意味だな」

「へえ、ご隠居は何でも知っていらっしゃる。じゃあ、サーバーって何です?」

「サーバーは、鯖のことだよ」

「鯖?魚の鯖ですか?」

「そうだ」

「じゃあ、サーバーがしっかりしている、というのは?」

「鯖の脂がのっている、という意味だ」

「するってえと、あの連中は魚屋さんですか?」

…と、こんな珍問答が延々と続く。知ったかぶりのご隠居の話を素直に聞き入れる八っつぁん。

翌日、八っつぁんが会社に行き、昨日のIT社員に、ご隠居さんから聞いた知識をひけらかすが、どうも言っていることがちんぷんかんぷん。IT社員も呆れてしまった。

自分の言っていることが全然伝わらないことに気づいた八っつぁんが、IT社員に言う。

「やい!これだけ言ってわからなかったら、この契約、クラウドにアップするぞ!」

おあとがよろしいようで。

以上、新作落語「IT長屋」のあらましでございました。

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IT弱者の憂鬱

1月17日(木)

ここのところの寒さで、どうやら風邪をひいたらしい。

身体がだるいのだが、引っ越しの作業は少しでも進めなければならない。学生に手伝ってもらって、1時間半ほどばかり寒い部屋で引っ越し作業を進めたせいか、ますます具合が悪くなってしまった。

夕方、所用があってある部局に行くと、お客さんが来ている様子である。

「出直しましょうか?」

「いえ先生、ちょうどよかった。先生も一緒に聞いてください」

「何です?」

「プレゼンです」

東京からIT関係の大企業の社員が、3人もやってきて、パソコンを使ってプレゼンをする、というのだ。見ると、服装といい、雰囲気といい、いかにもIT企業の社員、といった感じである。ただ、もっぱらプレゼンをしているのは1人だけで、あとの2人は、どんな役割の人なのかはわからない。

「続けてください」と職員さん。

「はい、当社といたしましては、これをメインのコンテンツとしてアピールすれば、ユーザーのニーズに応えることができると思っております」

…のっけから、何を言っているのか、まったくわからない。

「ランニングコストは、どのくらいなのですか?」(職員さん)

「一度このコンテンツを立ち上げてしまえば、あとはブラウザのバージョンアップにともなってシステムを若干チェンジする程度です」(IT社員)

「………?」(私)

「たとえばですね。これをクラウドにアップするというのはどうでしょうか?」(職員さん)

「クラウドにアップすることも考えたのですが、ランニングコストがかかるのです。こちらのサーバーがしっかりしているので、パッケージとして買い取っていただくのがよろしいかと」(IT社員)

…ますます何だかわからない。

「仮想メモリによるコンテンツのバージョンアップも考えてみたのですが、それをやるとなるとなかなかコンテンツがユーザーのニーズの問題で…」(IT社員)

…もはや、ちゃんと聞きとれない。

「そうですか。それでは、その方向でお願いします。マックスでお願いしますよ」(職員さん)

「わかりました。ではその方向で見積もり書を作ってみます」(IT社員)

「その方向」って、どの方向なんだ?

ひととおりプレゼンが終わり、職員さんが、IT社員に私を紹介した。

「こちら、○○先生です。○○がご専門です」

「それはそれはどうも、私、こういう者でございます」

そういって、IT社員の3人と名刺交換をする。まるで、サラリーマンコントのような名刺交換である。

手持ちの名刺があっという間になくなってしまった。

それにしても、どこのウマの骨だかわからない、IT弱者の私と名刺交換したところで、何のメリットもないのになあ。

ところで、残りのお二人は、どんな役割だったんだ?

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世界が違って見えるとき

1月16日(水)

私には、「あること」と「あること」に対して感情的、情緒的に過ぎるきらいがあって、この数日間、たまたまその2つのことが重なったものだから、感情をまわりに押しつけすぎて不快な思いを与えなかっただろうか、という加害妄想にとらわれ、ひどく鬱になった。

あまり文章を書く気力もないので、以前あるところに書いた文章を、かなり手を加えて転載する。

韓国滞在中、へこたれそうになると思い出すエピソードがありました。

むかし、TBSという放送局の社員が、日本人で初めて、ロシアのロケットに乗って、宇宙に行きました。そのときまったく無名だった、ひとりの記者のおじさんが、突然、宇宙飛行士として一躍有名になりました。たぶん、今の私と同じくらいの年齢の人だったと思います。

TBSでは、社をあげて、宇宙飛行士になった社員を取り上げ、もりたてました。だってそうでしょう。TBSからしたら、社員が宇宙飛行士になったわけですから、その話題を独占することができるのです。

その社員は、宇宙から帰還したのちも、しばらくテレビでひっぱりだこでした。何たって、日本人で初めて宇宙に行った人なのですから。

ところが、です。

その社員は、それからほどなくして、TBSをやめて、田舎に移り住んで、お百姓さんになりました。

私は最初それを聞いて、なんてもったいないのだろう、と思いました。

そのままTBSにいれば、宇宙飛行を体験した記者として、華々しい出世もできただろうに、と。でも彼は、それをしなかったんですね。

では彼は、宇宙へ行って、何も得なかったのでしょうか?

いいえ、違います。彼は、数年経って、自分がやるべきことに、ようやく気づいたのです。たぶんそれは、宇宙へ行ったからこそ、気づくことができたことだったのだと思います。

世俗で得られる地位や名声など、宇宙に行ったことにくらべれば、何ほどのものでもなかったのです。

私は韓国留学中、

「ひょっとして、留学中の1年間は、その後の自分のキャリアにまったく生かせないまま終わってしまうのではないだろうか?」

その不安が、いつもありました。なにしろ、いろいろなところから、「成果」を求められていましたから、そのプレッシャーに押しつぶされそうになったのです。

でもそんなとき私は、このエピソードのことをいつも考えました。

たとえこの先、目に見える成果が上がらなくとも、韓国で感じたことは、必ずどこかで生きてくる。

むしろ、韓国で感じたことが、その後のものの考えの基準になるのだ、と。

一生懸命に勉強することもたしかに大事ですが、もっと大事なことは、韓国でどんなことを感じるか、なのです。

韓国から帰ってからすぐの段階では、成果が目にみえないことへの不安が常に付きまとっていましたが、しばらくたって、私が身を置く業界の潮流とか、職場のゴタゴタとか、そんなことはどうでもよくなりました。宇宙に行った記者の心境と、少し似たところがあります。

「水曜どうでしょう」という番組に出ていたタレントの鈴井貴之、という人が、数年前、「映画監督の勉強」のために、韓国に1年間留学したのですが、自分の無力さを痛感し、このまま表現者としてこの道を歩むべきかどうか、帰国後もしばらくの間悩んで、何もできなかった、と、彼の著書『ダメダメ人間』の中で書いています。私もその気持ちはよくわかりました。

周りも、そして自分自身も、知らず知らずのうちに何らかの「成果」を求めてしまっているのだと思います。しかし「成果」などというのは、そんなに早く出るものではありません。帰国後に、長い時間をかけて頭の中を整理して、ようやくわかるものです。

さて、いま鈴井さんは、何をしているかというと、北海道の田舎に移り住んで、田舎暮らしをしているそうです。荒れ地を整地する、という作業は、すぐに成果が出るわけでもなく、誰に評価されるわけでもない。強いて言えば、「お天道様」のみが知っている。

韓国留学と田舎暮らしは、直接関係ないのかもしれないけれど、意識の深いところで、影響を与えているように思うのです。

世界がそれまでとは違って見えたとき、それまでの価値観がくずれ、ゆるがない価値観、つまり、「お天道様が見ている」という価値観に、憧れるのかもしれません。

翻ってみると私は、韓国の留学体験と震災を通じて、それまで見ていた世界が、まるで違うものに見えてきました。

さあ、私はこれからどうしましょうかね。

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「レ・ミゼラブル」からの「飢餓海峡」

1月13日(日)

最新作の映画「レ・ミゼラブル」(トム・フーパー監督)、もちろんご覧になりましたよね?

え?まだ見てない?!絶対に見るべきですよ。

かくいう私は、まったく何の予備知識なく、この映画を地元の劇場で見た。

そしたらあーた。この映画、ミュージカル映画だったのね。それだけで度肝を抜かれました。

私は過去に、1957年版のジャン・ギャバン主演の映画「レ・ミゼラブル」をテレビで見たことがあり、1989年版のリ-アム・ニーソン主演の映画「レ・ミゼラブル」を劇場で見ている。とくに1957年版の印象は強く、私の中では、ジャン・バルジャンは完全にジャン・ギャバンなのである。

しかし不思議なことに、「レ・ミゼラブル」の細かなストーリーは、すっかり忘れていた。

覚えているのは、次の3つの場面だけであった。

1.教会から銀器を盗んだジャン・バルジャンが警察につかまると、教会の司祭は、「それは盗まれたのではなく私がさしあげたものです。さあ、いちばん大事な銀の燭台を忘れていきましたね」と、司祭が銀の燭台をジャン・バルジャンに与える場面。

2.市長になったジャン・バルジャンが、馬車の下敷きになった市民を助けようと、馬車を持ち上げたのを見て、ジャベール警部が、かつて見た怪力の囚人、ジャン・バルジャンを思い出す場面。

3.物語の最後のほうで、ジャン・バルジャンが誰かを担いで、地下の排水路の中を逃げまわる場面。

…なんか「落語リハビリ」みたいだな。それはともかく。

とくに1は、映画「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾」の中に、寅次郎のポン友である「ポンシュウ」(関敬六)が教会の銀器を盗んで警察につかまったが、神父さんが「それは盗まれたのではなくさしあげたものです。さあ、いちばん大事な銀の燭台をお忘れですよ」とポンシュウに高価な銀の燭台を与える、という場面があり、「レ・ミゼラブル」とまったく同じエピソードをパロディとして盛りこんでいることでも有名である。

今回の映画でも、この3つの場面は当然描かれていた。

それにしても、俳優陣はみな歌唱力がすばらしい(ラッセル・クロウは微妙だが)。この歌を聴くだけで価値がある。とくにアン・ハサウェイ演じるファンティーニの歌声には感動する。考えてみれば、一流のミュージカルが、映画なみの料金で見られるのだから、絶対に見るべきなのである。

しかし、この映画の中で特筆すべきは、

そう!エポニーヌである!

ストーリーをすっかり忘れていたので、こんな登場人物がいたことじたい、忘れていたが、エポニーヌは、じつに切ない役柄であることに気がついた。エポニーヌを丁寧に描いたこの映画は、やはりすばらしいのだ。

さて、罪を犯した者が、その後ひそかに悔い改め、名前を変えて生まれ変わり、人々のために尽くす、しかし、その人物を刑事が執拗に追う、というジャン・バルジャンとジャベールの物語と似た物語が、日本にもある。

水上勉の小説『飢餓海峡』である。

『飢餓海峡』こそは、日本版『レ・ミゼラブル』といってよい。犬飼多吉(のちの樽見京一郎)が、ジャン・バルジャンで、弓坂刑事が、ジャベール警部なのである。ただし、「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンは、改名後は完全な善人になるが、『飢餓海峡』の犬飼は、改名後も邪悪な心の持ち主のままである。

私はこの小説の映像化作品を、これまで3本見ている。

一つは、有名な内田吐夢監督、三國連太郎主演の映画「飢餓海峡」(1965年)。犬飼多吉(樽見京一郎)を三國連太郎、弓坂刑事を伴淳三郎が演じた。

二つめは、1978年にフジテレビで放映された連続ドラマ「飢餓海峡」。浦山桐郎などが演出した。犬飼多吉(樽見京一郎)を山崎努、弓坂刑事を若山富三郎が演じた。

三つめは、1988年にフジテレビで放映された単発ドラマ「飢餓海峡」。犬飼多吉(樽見京一郎)を萩原健一、弓坂刑事を仲代達也が演じた。

1965年版の三國連太郎は、1957年版「レ・ミゼラブル」のジャン・ギャバンを思わせる風格である。ひょっとしたら1965年版の「飢餓海峡」は、1957年版の「レ・ミゼラブル」を意識していたのではないか、と想像したくなる。

意外とよかったのは、1978年版のドラマである。何たって、寡作で知られる浦山桐郎が演出していますからね。浦山監督は、「キューポラのある町」とか、「青春の門」とか、戦後のゴチャゴチャした雰囲気を、かなりリアルに描くことに関しては秀逸で、このドラマでも、それが遺憾なく発揮されているのだ。犯人を執拗に追い続ける若山富三郎はもちろん、杉戸八重を演じた藤真利子も、かなりよかった。ちなみに杉戸八重は、「レ・ミゼラブル」でいうところの、ファンティーニとエポニーヌを合わせたような、切ない女性である。

ただ、1978年版で唯一不満なのは、犬飼多吉が最後、青函連絡船から海に飛び込んで自殺するのではなく、留置場で毒を飲んで自殺するというふうに、原作から改作している点である。この場面だけは、興ざめだった。

あれ?「レ・ミゼラブル」の話をしているつもりが、いつの間にか「飢餓海峡」の話になってしまったぞ。

そういえばむかし、テレビで放映していた1957年版の「レ・ミゼラブル」をビデオ録画していたはずだ。家の中にあるビデオテープを探して、久しぶりに見ることにしよう。

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スウィングする人たち・2日目

1月12日(土)

翌朝、9時に、R市からお招きしたKさんとOさんを車でお連れして、駅前の公共施設に向かう。午前中は、ここで意見交換会である。

土曜日の午前中にもかかわらず、のべ23人もの人が来てくれた。震災復興がかかえているさまざまな問題を聞くことができた。

お昼過ぎ、「丘の上の作業場」の近くにあるおそば屋さんでおそばを食べる。

昼食後、「丘の上の作業場」をみていただき、2時半過ぎ、50㎞離れた「前の職場」に向かう。ここでもまた、作業場を見てもらうのである。

午後4時、大雪が降る「前の職場」に到着し、1時間ほど、作業場を見ていただいた。

午後5時、「前の職場」を出発し、午後6時半、市内の駅前のホテルに到着した。お二人は今日ここにお泊まりになり、明日朝、R市にもどられるのである。

「2日間、どうもありがとうございました」とKさん。

「こちらこそ、ありがとうございました」

「みなさんとお会いできて、本当によかったです」

「私もお呼びすることができて、夢が実現しました」

「今後とも、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

長かった二日間が終わった。

とても疲れたが、お二人には、来てよかったと思ってもらえたと思う。

「無事に終わって、よかったねえ」

二日間の一部始終を見ていた妻が言った。

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スウィングする人たち

1月11日(金)

大部分の人にとっては些細なことかも知れないが、私にとっては、1月11日のイベントは、絶対に成功させなければならなかった。

一昨年の震災で激甚被災地となったR市で被災され、いまも自ら復興の最前線で奮闘しておられるkさんをお呼びしてお話を聞くことは、世話人代表のKさんや私の悲願であった。しかしそれは同時に、私にとって、とても「重い」仕事だった。

R市で津波にかぶった資料をお預かりして、クリーニング作業のお手伝いをしていたご縁で、R市のKさんにお会いしたのは、昨年6月のことであった。そのとき、「ぜひ一度、こちらに来てご講演ください」とお願いしてはみたものの、震災後に一度お会いしただけの私ごときが、依頼する資格などあるのだろうか、と逡巡した。復興の現場では、毎日がいまも戦いである。わざわざ来ていただくからには、「来てよかった」と思っていただけるようなイベントにしなければならないのである。

当日の12時半、講師としてお招きした、KさんとOさんのお二人を駅までお迎えにあがる。

「お昼はおそばでいいですか?」私はお二人に聞いた。

「もちろんです。美味しいそばを楽しみに来たようなものですから」

「じゃあ、山の上のおそば屋さんなんですけど、いいですか?私の、とっておきの店です」

「いいですよ」

私の運転する車は、どんどん山に登っていく。

「本当に山の上なんですねえ」Kさんは驚いていた。

おそばに満足してもらい、2時過ぎに職場に到着した。

そこから、作業仲間のSさんと合流して、お二人を職場の各所に案内する。

お二人をSさんにおまかせして、2時半に私が会場に着くと、すでに何人もの仲間や学生たちが待機していた。

「さあ、設営しましょう」

多くの人たちの協力を得て、お客さんを迎える態勢をととのえた。

新聞記者も取材に来た。

開始直前、ぞくぞくと人が集まってきた。その多くは、職場の同僚や学生ではなく、一般市民の方である。最終的には、70名近くなった。

「敵は身内にいる」という言葉があるが、私の場合、正確には「味方は外にいる」というべきか。

そして4時20分。講演会が始まった。

お二人の講演は、合計でスライド130枚を使った、とても力のこもった講演だった。

講演の最後にKさんは、「震災が遺したものの一つは、Mさん(つまり私)やKさん(世話人代表)といった仲間たちとの強いネットワークをきずけたことだったのではないでしょうか」と言っていただき、その言葉で、私自身が救われた思いがしたのだった。

考えてみれば、このイベントは、多くの「スウィングする人たち」によって初めて実現し得たことだった。

企画を全面的に後押ししてくれ、「絶対に成功させましょう」と励ましてくれた世話人代表のKさん。

印象的なポスターをデザインしてくれた、職員のSさん。

昨日(10日)の配付資料印刷にはじまり、当日は、私が動きやすいようにと、いちばん地味でたいへんな仕事をかってでてくれた、作業仲間のSさんと卒業生のT君。

「当日はどんなお手伝いでもします」と申し出てくれて、当日の講演会でビデオ撮影を担当してくれた、作業仲間のTさん。

50㎞離れた豪雪地帯から学生を2人連れて駆けつけてくれた前の職場の同僚のKさん。

仕事を早めに終わらせて、講演会に駆けつけてくれた同い年の盟友・Uさん。

半日かけて、I県から、盟友のKさんの講演を聞きにはるばる来てくれたMさん。

「手伝ってください」とSOSのメールを出したら来てくれた、たくさんの学生たち。

講演会に来てくれた、約70名のみなさん。

講演会には来られなかったけれど、そのあとの懇親会や二次会に駆けつけてくれた作業仲間たち。

そして、東京から駆けつけてくれた妻。

みんな、私にとっては「スウィングする人たち」である。この講演会で、「スウィングする人」と「スウィングしない人」を、はっきりと見きわめることができた。

あ、もう1人いた。

芳名帳の名前のところに、「湯たんぽラグビー」、そしてその横に「今日は「兄弟船」のマル秘話、たのしみに来ました」と、意味不明な珍文を書いた、こぶぎさん!!

めちゃくちゃ忙しいにもかかわらず、例によってこぶぎさんは、豪雪地帯から往復100㎞かけて人知れずやってきて、講演会が終わっても私に声をかけることなく、帰っていったのである。こぶぎさんなりの、ダンディズムである。

この友情には、感謝してもしつくせない。

さて、講演会が無事終わり、お二人を囲んで懇親会を行った。ふだんの作業仲間15人ほどが集まった。

「みんなで記念写真を撮りましょう。みんな並んでくださ~い」

懇親会の終わりに記念写真を撮ることにした。

私がkさんの横に並んでいると、

「これでどうだ!」

といいいながら、なんとKさんが私に抱きついてきたのである。

ことわっておくが、Kさんは私とほぼ同い年のオッサンである。しかもKさんも私も、お酒を一滴も飲んでいない。さらには私もKさんも、本来はシャイなオッサンなのである。

カシャッ!

かくして、Kさんが私に抱きついている写真が、撮られたのであった。

私はこのとき、Kさんは私を信頼できる仲間として認めてくれたんだな、と安堵した。

この絆は、これからも大切にしていかなければならない。

Aさんのはからいで2次会が企画され、そこでも話が盛り上がった。気がつくともう深夜0時である。

車でお二人を宿泊先までお送りする道すがら、Kさんは、

「今日は楽しかった。本当に楽しかったです。こんなに楽しくていいんだろうか」

何度もそう、おっしゃった。

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反省

1月10日(木)

反省することしきりである。

昨日は、かなり人間性の歪んだ文章を書いてしまった。

何が自己嫌悪って、「がんばってるのは自分だけ」みたいな書き方をしてしまったことだ。このイベントには、じつにたくさんの人々の力が結集しているというのに、である。ひと晩明けて、その浅はかな自分の考えを反省した。

今朝、11日のイベントについて、職場の部局全員に、メールを出して宣伝した。選挙でいうところの「最後のお願い」である。

すると、尊敬する同僚のSさんからさっそく返信が来た。

「11日のイベント、当初は学生の実習と重なり行けないことになっていましたが、実習の日程が変更になり、聴きに行けることになりました。楽しみにしています。授業でも、再度宣伝します」

おおっ!Sさんが聴きに来てくれるのか!ありがたい。

Sさんは、私の企画したイベントに過去2回とも聴きに来てくれた。私にとっては、「私の企画したイベントをSさんがどう評価してくれるか」が、けっこう重要なポイントになっていたのだ。

次に、6月のイベントでお話しいただいたMさんからメール

「明日、フラッと聴きに行きます」

こちらにおいでいただくのに半日はかかるはずだから、フラッと訪れる、という程度の距離ではないのだが、今回お呼びするKさんとは、いわば同志なのである。その信頼関係があればこそなのだろう。

そのほか、今回のイベントの告知記事を書いてくれた新聞記者。

「短い時間ですが、ローカルニュースの中で告知させてください」と電話をくれたテレビ局。

「明日、取材させてください」と電話をくれた、他県の新聞記者。

そして、お手伝いを申し出てくれる、仲間たち。

今日1日だけで、これだけの人たちが、明日のイベントのことを考えてくれた。

「スウィングする人」たちが、共鳴しあいながら、吸い込まれるように、会場に足を運ぶ。

もし明日、そんな光景が見られたら、どんなに素晴らしいだろう。

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共感する力

1月9日(水)

朝の会議から始まり、仕事部屋の引っ越し作業、午後の会議、11日のイベントの下準備、各方面へのメール、などとしているうちに、あっという間に夜になり、気がついたら朝から何も食べていないことに気づいた。

昨日、夜中までこぶぎさんとコメントの応酬をしている場合ではなかったのだ。

さて、部局の建物で会議があったついでに、久しぶりに建物の中をぐるっと歩きまわってみて、ひどく落ち込んだ。

もう1カ月近く前になるが、来る11日に行われる、私が企画したイベントのチラシを、、同僚全員をに配って、ぜひ宣伝してください、とお願いしたのだが、誰ひとりとして、仕事部屋の前に貼ってくれる人がいなかったことには、さすがにこたえた。

私は少しでも宣伝になればと、同僚からいただいたチラシを仕事部屋の前に貼ることをふだんから心がけているだけに、そのショックは大きい。

私はよっぽど同僚に嫌われているんだな。

私のことを嫌うのは別にかまわない。だが、あのチラシを見て、誰も何も感じなかったのだろうか?心を動かされなかったのだろうか?

そのことに落ち込んだのである。

…いや、ここまで書いてあらためて確認してまわったら、2人貼ってくれていたぞ!この2人には、感謝である。

11日にお呼びする方は、「この方のお話を聞かずして、誰のお話を聞くのか?」「このお話を聞かずして、震災からの復興を本当に考えることができるのか?」というほどの方である。

私は半年前、この方にお会いし、ぜひ、私の職場でお話しをしていただきたい、と思った。そして、この地に住む、できるだけ多くの人たちにこの方のお話を聞いてもらいたい、と思った。

そのために、いかなることでもしよう、と、この1カ月以上もの間、準備を重ねてきた。

いよいよ、そのイベントは、2日後となった。

このイベントで私たちに試されるのは、「共感する力」である。

共感なくして、復興はありえない。

はたして、どれくらいの人々が、共感してくれるだろう。

私はこのイベントを通じて、「スウィングする人」と「スウィングしない人」を、見きわめるつもりである。

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そして誰もいなくなった

1月8日(火)

これって、アガサ・クリスティの推理小説のタイトルでしたっけ?舞台が孤島だったことも、今日のこの話にはうってつけのタイトルである。

原稿の締切に追われる日々である、と書くと聞こえはいいが、そんな言葉がサマになるのは、売れっ子作家とか、売れっ子脚本家である。こちらは単に、要領が悪いだけなのである。

先週末から昨日にかけて、懸案の「大物の原稿」2つのうちの1つにかかりきりになり、昨晩遅く、ようやくメドがついたので、とりあえず担当者に送った。その間にも、別の知り合いから頼まれていた原稿を昨日1日のうちに何とか仕上げた。

そんなわけで今日、憔悴しきって職場に行くと、周囲が慌ただしい。

そうだ!今日は耐震工事が完了した建物に仕事部屋を移すための、引越業者が来る日だった!

とにかく昨晩までは原稿のことで頭がいっぱいで、とても引っ越しの準備ができる状態ではなかった。

それに加えて、来る11日には、自分が企画したイベントが控えていて、精神的にも、引っ越しの準備をするという気分ではなかった。

いちおう職場には、「引っ越しの時期を少し待ってもらえませんか」と交渉していたのだが、しかし、まわりがすでに引っ越しの準備をしているのを見ると、自分も何かやらなきゃ、とせき立てられてしまう。

私が今いる建物には、同じ部局から私のほかに3人の同僚が避難していた。部局から少しだけ離れたところにあるので、私はひそかにここを「陸の孤島」と呼んでいたが、別の同僚は、「アルカトラズ刑務所」と比喩していた。

私はこの建物の中でいちばん大きな仕事部屋をいただいていたので、さしずめ牢名主といったところか。

しかし困った問題がある。

一つは、尋常ではない本の量である。

なにしろ、こちらの「陸の孤島」に引っ越す際にも、3カ月の準備期間を必要としたのである。

単純計算で行くと、いまから引っ越し準備を始めると、完了するのは3月末、ということになる。これではいくらなんでも、担当のK係長から怒られる。

もう一つは、尋常ではない部屋の散らかり方である。

私は原稿を書くときに、周囲に資料を散らかしながらでないと書けないのである。追いつめられれば追いつめられるほど、そうである。

昨晩まで、追いつめられながら原稿を書いていたせいもあり、その状況はますますひどくなっている。

これでは永久に引っ越しできないではないか!

パニックになった私は、学生たちに「SOS」というタイトルのメールを一斉送信した。本の箱詰めを手伝ってほしい、という内容のメールである。

すると、急なお願いにもかかわらず、2人の学生が駆けつけてくれた。ありがたいことである。

しかし実際には焼け石に水で、ほとんど進まない。そうこうしているうちに、3人の同僚たちは、晴れて「出所」したのである。

(とうとう1人になっちまったか…)

正真正銘の牢名主になってしまった。

いや、それをいうなら、やはり「日本沈没」の田所博士である!

ここで体調が急変して倒れても、誰にも気づかれまい。たとえば、本を詰め込んだダンボールを持ち上げたとたんにギックリ腰になってのたうちまわっても、しばらくは誰にも気づかれないまま放っておかれることになってしまうわけだ。

ということは、ここが人生の終焉の地か?嗚呼!オレはここで人生を終えるのか。

…などと、例のマイナス思考がどんどん進んでいく。

いかんいかん。もっと前向きに考えないと。

そもそも「そして誰もいなくなった」というタイトルがよくない。タイトル変更!

「お楽しみはこれからだ」

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湯たんぽが先か、やかんが先か

1月7日(月)

職場で、湯たんぽの話になる。

「昨日、寒くて朝方まで眠れなかったんですよ」

「湯たんぽを使ったらどうです?」

「ええ、もちろん湯たんぽはあるんですがねえ(しかも2つも)。どうも面倒くさくって」

「どうしてです?お湯を入れるだけでしょう。もしかして、家にやかんがないとか?」

「いえいえ、ありますよ。やかんでお湯を沸かして湯たんぽにお湯を入れようとすると、1回ではどうしても足りなくて、もう1回やかんに水を入れてお湯を沸かさないといけないんです。つまり2回もお湯を沸かさなくちゃいけないんです。ほら、湯たんぽって、めいっぱいお湯を入れないといけない、って書いてあるでしょう」

「そうですよ。お湯をめいっぱい入れておかないと、冷めたときに、湯たんぽの形が歪んだりしますからね」

「とにかく、たかが湯たんぽにお湯を入れるのに2回もお湯を沸かすのが、面倒なんです」

「ヘンですねえ。うちはやかん1回で大丈夫ですよ。どんな湯たんぽなんです?」

「楕円形で、オレンジ色した、プラスチックのやつです」

「ああ、じゃあ、湯たんぽが大きすぎるんじゃないですか?」

「そうでしょうか」

「うちのもプラスチックですけど、楕円形の一方が直線にカットされていて、いわゆる「立つ」タイプの湯たんぽです。「立つ」タイプの湯たんぽを買えば、一方がカットされている分、少し小さめですから、やかん1回分でお湯が全部入ると思いますよ。だって、そういうことを見越して作っているはずですから」

「はあ」

「とにかく、いま大事なのは、この寒さをしのぐために湯たんぽを使うことです。風邪をひいたら元も子もありませんからね。2回お湯を沸かすのが面倒なら、1回ですむ「立つ」タイプの湯たんぽを買ったらいいじゃないですか」

「はあ、そうですね」

「さっそく、今日の帰りがけにでもホームセンターに寄って、買っていらっしゃい」

「はあ」

背に腹は代えられない、ということで、さっそくホームセンターに行って、「立つ」タイプの湯たんぽを買うことにする。

思っていたより大きい気がしたが、気のせいだと思い、レジに向かった。

さて家にもどり、やかんにめいっぱい水を入れて、お湯を沸かすことにした。

お湯が沸いたので、今日買ったばかりの「立つ」タイプの湯たんぽに入れることにした。

ドクドクドクドク…。

イヤな予感がした。

予感は的中した。

やかんのお湯1回分では、やはり少し足りない!

どういうこっちゃ?

楕円形の湯たんぽの一方の側が、直線にカットされているので、見た目は少し小さめにみえるのだが、中に入るお湯の量はほとんど変わらないのである。

つまり目の錯覚だったのだ!

ここでハタと気づく。

湯たんぽが大きいのではない。やかんが小さかったのだ!

では、いまから大きいやかんを買うべきか?

いや、私のことだ。見た目は大きそうにみえて実は容量の少ないやかんをうっかり買ってしまうだろう。

これではいつまでたっても問題は解決しない。

というか、何でもかんでもモノを買って解決しようするのが、私の悪い癖である。

そもそも、2回もお湯を沸かすのが面倒くさい、という考え方を改めればすむことなのだ。

仕方ない。今回の湯たんぽは、自分をいましめるための誕生日プレゼントだと思い込むようにしよう。

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8号のバースディケーキ

1月7日(月)

今日は誕生日。例によって、「誰にも言わない作戦」。

午前、妻が私にメールの返信をしてきたついでに、

「誕生日って、明日でした?今日でした?とりあえずおめでとうございます」

と書いてきやがった。

まあ昨年はすっかり忘れられていたから、それにくらべたらマシである。

今年は海の向こうからのお祝いメッセージもない。

ということで、妻はギリギリ合格。あとは全員不合格。

…と思っていたら、夕方5時、3年生のTさんが仕事部屋にやってきた。

見るとTさんだけではない。3年生の女子が8人もいるではないか。

「あけましておめでとうございます!そして誕生日おめでとうございます!」

Tさんは、大きなケーキを持ってきていた。

「どうして、私の誕生日が今日だって知ってたの?」

「だって先生、授業で言ってたじゃないですか」

…記憶にない。よっぽど祝ってもらいたくて、無意識に口をついて出たのだろうか。

「ハッピーバースディの歌を歌った方がいいですか?」3年生のTさんが聞いた。

「そりゃあ歌ってもらいたいねえ」

「でも、近所迷惑になりませんか」

「べつにたいしたことないでしょう」

8人でハッピーバースディの歌を歌い始めた。いざ歌を歌ってもらうとなると、めちゃくちゃ恥ずかしい。

「ずいぶん大きなケーキだねえ」

「これ、8号です」

「8号!!??こんな大きいの1人では食べきれないよ」

「あたりまえです!そのためにケーキ用のナイフと人数分の紙皿を持ってきましたから」

なあんだ。たんに私の誕生日にかこつけて、ケーキを食べたかっただけなのか。

「仕事部屋ではスペースがないから、1階のロビーに行きましょう」

1階玄関のロビーに移動した。

「ろうそくは?」

「あるにはありますけど、火をつける道具がありません。ろうそくをつけますか?」めんどくさいなあ、という感じで、Tさんが言う。

「そりゃあ、せっかくだからろうそくを吹き消したいさ…。そうだ、事務室のK係長はタバコを吸う人だから、ひとっ走りして、ライターを借りてくる!」

えええぇぇぇぇ、めんどくさいなあ、早くケーキを食べたいのに!という学生たちの顔をよそに、事務室に行って、ライターを借りてきた。

…一番ノリノリなのは、オレなんじゃないか?

10本のろうそくをケーキに立て、ろうそくに火をつける。

「早く吹き消さないと、ロウがたれてきますよ!」学生たちは、早くケーキが食べたい一心で言う。

「いやいやいや、ちょっと待て。ろうそくを吹き消すのは、ハッピーバースディの歌が終わるタイミングの時だろう」

「えええぇぇぇぇ!!!またハッピーバースディの歌を歌うんですかぁ」

ということで、1階のロビーで、2回目のハッピーバースディである。早く食べたい一心からか、心なしか2回目の歌はテンポが速かった。

2 「はあっぴばあすでい、とぅ、ゆう~」

フッ!

パチパチパチ!!!

準備の周到なTさんは、ケーキ包丁、取り分けるための紙皿、使い捨てのフォーク、紙ナプキンなど、一式を揃えて持ってきていた。

さっそくケーキにかぶりつく学生たち。

「本当はあれだろう?ケーキが食べたいだけだったんでしょう?」例によって私が疑心暗鬼になって聞くと、

「そんなことありませんよ。本当に先生をお祝いしようと思ったからですよ」

と、Sさんがケーキをほおばりながら答えた。

「そんな、ケーキをほおばりながら言われてもなあ、説得力がない」

「どこまで疑うんですか!」

さすがにSさんも呆れていた。この被害妄想の癖は、なおさなければならない。

「どうもありがとうございました」ケーキを食べ終わった私は、8人の3年生に感謝した。

「たぶん、来年はないとおもいます」

「どうして?」

「私たち、来年の今ごろは卒論の大詰めでしょう。それどころではないと思うんです」

「そうか。それもそうだな」

それで今年、こんなに盛大に祝ってくれたのか。

彼女たちにしてみても、正月明けからさっそく公務員講座で勉強漬けの日々である。少しは息抜きになったのだろう。

ケーキを食べた8人は、満足して帰っていった。

…ということで今年は、妻と、3年生女子の8人の、合計9人が合格です!

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崎谷教授の言葉

このブログでまだ書いてませんよね?ドラマ「すいか」の話。

木皿泉脚本、小林聡美主演のドラマ。2003年放送だから、もう10年も経つのか。

日本テレビ土曜夜9時の枠は、かつて「土曜グランド劇場」と銘打たれ、「熱中時代・刑事編」(水谷豊主演、1979年)とか、「ちょっとマイ・ウェイ」(桃井かおり主演、1979~80年)とか、、「池中玄太80キロ」(西田敏行主演、1980年)とか、「あんちゃん」(水谷豊主演、1982~83年)といった、ハートウォーミングドラマの名作が次々と生まれた時間帯である。「すいか」も、この流れをくむ。

Img_1512169_64379961_0 東京の三軒茶屋の下宿「ハピネス三茶」を舞台に、30代半ばで独身の銀行員(小林聡美)、ちっとも売れない漫画家(ともさかりえ)、風変わりな大学教授(浅丘ルリ子)、といった女性たちが、それぞれにさまざまな「過去」や「事情」や「悩み」をかかえながら、些細なことに生きる価値を見いだし、少しずつ前に進み、自分らしさを取り戻していく、という内容である。とくにストーリーめいたものはなく、基本的には、コミカルかつハートウォーミングなエピソードがちりばめられる。

とても地味なドラマで、放送当時は、視聴率はあまりよくなかった。だがこのドラマで、脚本家の木皿泉は向田邦子賞を受賞している。ちなみに向田邦子賞を受賞したドラマにはほかに、「淋しいのはお前だけじゃない」「二本の桜」など、このブログでも紹介したことのあるドラマが名を連ねている。

念のため説明しておくと、木皿泉は一人の脚本家ではない。男女二人の脚本家の共同ペンネームである。つまり男女二人組の脚本家である。寡作だが、心に残る名台詞をちりばめる名人である。

なかでも、浅丘ルリ子演じる崎谷(さきや)教授がすばらしい。

浅丘ルリ子は、「筋を通す女性」を演じさせると、絶品である。映画「男はつらいよ」シリーズで演じた「リリー」が、まさにそういう女性だった。シリーズ中、リリーが最も印象深い「マドンナ」になったのも、「筋を通す女性」というリリーのキャラクターを、浅丘ルリ子が実に自然に演じたからであろう。

「決して媚びないが、それでいて可愛らしい」

これこそが、浅丘ルリ子の真骨頂である。

「すいか」の崎谷教授も、少し風変わりだが、「筋を通す女性」である。しかもその根底には、人間に対する深い「共感」がある。ドラマとはいえ、ああいう人間になりたい、と思う。

私が理想とする「教授」は、漫画「マスターキートン」のユーリー・スコット教授と、ドラマ「すいか」の崎谷教授なのだ。

数ある名台詞の中でもとりわけ印象深いのは、ふられた女性に書いたラブレターを土に埋めている若者(金子貴俊)に、崎谷教授がかける言葉である(第2話)。

「安心して忘れなさい。私が覚えておいてあげるから」

「つらいことは忘れていいんだ」という救いとか、「自分が忘れてしまっても覚えてくれている人がいるんだ」という心の支えとか、これって、とても救われる言葉のように思うのだが、そう思うのは、私だけだろうか。

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タクシーの運転手と客の会話

昨年末、東京に帰省するときの話。

雪が降っているのと、足が痛いのとで、家からタクシーに乗って、駅に向かうことにした。

「帰省ですか?」と運転手さん。

「ええ。東京に」

「都内ですか?」

「いえ、都下の方です」

「そうですか。…完成したスカイツリーはご覧になりましたか?」

「遠くからは見ました」

「私も、建設途中のスカイツリーは見たんですがね。まだ完成した姿を見ていないんですよ」

「そうですか」

「むかしとくらべると、あの辺もずいぶん変わりましたよねえ」

「東京に住んでおられたんですか?」

「ええ、20代のころ、7~8年ほど、東京で会社勤めをしておりましてね」

「そうですか。どちらに住んでおられたんですか?」

「葛飾です」

「葛飾というと、柴又とか、亀有が有名ですね」

「私はそのあいだくらいのところに住んでいました」

「というと、金町ですか?」

「そうです!金町です。よくご存知ですね。あそこにむかし、○○という会社がありましてね。そこに勤めていました」

察するに、そのタクシーの運転手さんは、20代のころに地元から上京して東京の会社に勤めたが、何らかの事情で地元に戻り、いまタクシーの運転手をされている、ということらしい。

「いまでも、1年に1度くらい、東京に行くんですよ。建設中のスカイツリーも、そのときに見たんです」

「へえ、そうですか。なぜ1年に1度なんです?」

「会社勤めしていたころの管理人さんが、いま厚木に住んでおりましてね。会いに行くんです」

「管理人さんですか?」

「ええ」

管理人さん、とは、会社勤めのときに住んでいた社宅か何かの管理人さんだろうか。

「葛飾と厚木では、ずいぶん離れていますね」

「ええ。管理人をやめられてから、厚木に移られたんです」

「いまでも交流があるって、すごいですねえ」私は驚いた。「いま、おいくつくらいなんですか?その管理人さん」

「たぶん、70歳は超えていると思いますよ」

おそらくは10年以上は経っているのに、いまだに、当時東京でお世話になった管理人さんに会いに行く、というのは、なかなかできることではない。

「お別れするときに、『またお会いしましょう』なんて、たいていの人は社交辞令を言って、年賀状とかで済ませたりしますよね。でも私があるとき、遊びに行ったら、たいそう喜ばれましてね。で、1年に1度、カミさんと一緒に顔を見せに行くんです」

「そうですか。なかなかできることではありませんね」

「ただ、今年は忙しくってねえ。なかなか行くヒマがないので、せめて電話だけでもと思って電話したら、電話口で、管理人さん、泣いてたんですよ」

「そうですか…。よほど会いたかったんじゃないでしょうか」

「そうでしょうかねえ。もう年齢(とし)も年齢ですからねえ」

タクシーが駅に着いた。

「いい話を聞かせてもらいました。ありがとうございました」

タクシーを降りて、駅に向かう。

歩きながら、思い出した。

私が通っていた大学は、3年生になると、学部に進学して、それぞれの専門の勉強をはじめる。

3年生のときに、私と同じゼミに、1人のおじいさんが入ってきた。Mさんである。

Mさんは、長らく会社を経営されていたが、引退を機に、自分が若いころに勉強したかったことを勉強したいと思い、私のゼミの先生の門をたたいたのである。

つまりMさんは、私と机を並べて勉強した、同級生なのだ。

Mさんとたまにお酒の席で一緒になって、ことあるごとにお話を聞いた。それはそれはもう、壮絶な人生だった。

大学で勉強したい、という志もなかばに、学徒出陣で戦地に赴き、戦後はシベリアに抑留され、想像を絶する苦難を経験する。日本に戻ってからは、生きるために働き、会社を経営するまでに至る。

そして、引退後、ようやく、自分の好きな勉強ができたのである。

Mさんの人生にくらべれば、私など、なんと生ぬるい人生だろう。

Mさんは、それから10年以上、ゼミに出続けた。私が東京を離れたあとは、こんどは後輩である私の妻が、Mさんの話し相手になった。

そんなMさんも、もう80歳をとうに越え、かなり足腰も弱くなった、と聞いた。つい最近、奥さんを亡くされ、いまは1人で暮らしておられるという。いまはたまに、妻が手紙のやりとりをする程度である。手紙には、さびしい生活をしている、と書いてあったという。

妻と一緒に、Mさんに会いに行かなきゃなあ。

タクシーの運転手さんの話を聞いて、そんなことを、思った。

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たこ焼きを作ろう

1月3日(木)

妻の実家には、たこ焼き器がある。

大阪では、どの家にもたこ焼き器がある、というが、その話は本当らしい。妻の両親は、大阪出身なのである。

かなり寝坊して、昼ごろ起きると、お昼はたこ焼きだという。

タダ飯を食って、グーグー寝てばかりいるのも申し訳ないので、「手伝いますよ」と、たこ焼きを作ることにした。

といっても、食材はすべて義母が用意していて、あとは焼くだけである。

最初は難しかったが、何度かくり返し焼くうちに、なんとなくコツがつかめてきた。

「いつ今の仕事をクビになっても、たこ焼き屋としてやっていけるわねえ」「次の学園祭で、たこ焼き屋を出したら?」などとからかわれる。

で、完成品がこちら。

Photo

どうです?美味しそうでしょう。実際、焼き方が絶妙だったおかげか、とても美味しかったのです!

…と、このブログらしからぬ、ふつうの「報告」を書いてしまいましたが、たんに、たこ焼きの写真が美味しそうに撮れたので、それを載せたかったにすぎません。

ついでに、最近撮った写真をいくつか。

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昨年(2012年)11月30日、ディズニーシーに行ったときの写真です。タイトルは「タワー・オブ・テラーと月」

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翌12月1日、出張の折りに撮った写真です。タイトルは「宮殿と月」。

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今年(2013年)元日、わが実家の正月料理です。ちなみに、年末年始はお酒を一滴も飲みませんでした。

Photo_5 

元日の夕方、実家の近くの大きな神社に初詣に行きました。拝殿に到達するまでに1時間ほどかかりました。

私たちの1列前には、20代前半くらいの今どきのカップルが並んでいました。2人は、「2礼、2拍手、1礼」という決まりにしたがって拝礼していましたが、女性の方があっという間に拝礼を終えて、さっさと列から離れたのに対し、男性の方は、手を合わせたまま1分間ぐらい、なにかお願い事をしているようでした。

「あんなに長い時間お願い事して、まあ、欲の深い人だこと」

と、妻は言っていましたが、私にはその若者の気持ちが、なんとなくわかるような気がしました。もちろん私は、欲深い人間だと思われたくなかったので、あっさりと拝礼をすませましたが。

…たこ焼きの話とは関係なかったですね。

以上、報告でございました。

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いまさら「英国王のスピーチ」

12月30日(日)

200 いまさらながら、映画「英国王のスピーチ」を見た。

とてもいいね。絶対見るべき映画である。

いまや私も妻も、TBSラジオ「ウィークエンドシャッフル」のパーソナリティ、ライムスター宇多丸さんの映画評を、もっとも信頼しているのだが、その宇多丸さんは、この「英国王のスピーチ」を、

「『ベストキッド』と『ゴッドファーザー』を合わせたような映画なので、面白くないはずがない」

と評していた。

この映画は、第2次世界大戦直前の1930年代、吃音に悩むイギリス国王の王子・ヨーク公アルバート王子(のちのジョージ6世、コリン・ファースが演じる)が、植民地(オーストラリア)出身の平民である言語療法士、ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)と知り合い、吃音を克服して、国王としてのスピーチを成功させていく、という史実に基づいたストーリーである。

自らの弱点に悩む主人公が、最初は自暴自棄になりながらも、師を得て、弱点を克服し、己に勝つ、というストーリーは、まさに「ベストキッド」である。つまりこの映画は、スピーチ版「ベストキッド」なのである。

また、「自分はその器ではない」と思い込んでいた主人公が、やがて「国王」の座に就くことになり、国王として成長していく、というストーリーは、まさに「ゴッドファーザー」そのものである。

なるほど。この映画の説明は、この2点に尽きる。

個人的には、この映画には私が好きな要素が盛り込まれている。

1.「師弟」の物語である。

この場合、その「師」というのは、かなり「異端」の人物である点が重要である。ライオネルは、自称・言語療法士だが、実際には資格など持っていない、売れない役者であった。

2.「やんごとなき人」と平民の友情の物語である。

このパターンも好きである。ソン・ガンホ主演の韓国映画「大統領の理髪師」とか、「男はつらいよ 寅次郎と殿様」みたいな設定が、けっこう好きなのだ。あ、古くは「ローマの休日」があったか。

3.屈折した人間の物語である。

ジョージ6世は、子どものころから吃音に悩まされ、それがきっかけで、自分に自信を失っていた。吃音を克服しようとしながらも、日々悩み続ける。コリン・ファースは、その屈折ぶりを見事に演じている。マイナス思考の人こそ、見るべき映画である。

4.紆余曲折した友情の物語である。

2人の友情は、決して盤石なものではないものとして描かれているのがいい。相手に行き過ぎたことを言ってしまったり、相手の思いやりを受けとめられなかったりして、2人の関係は、ときに脆弱になり、そのことに2人は思い悩んだりする。この点をちゃんと描いているのがいいのだ。

いいなあ、イギリス映画。私の気質に合っているのかも知れない。

Hinonagori 私の中では、「日の名残り」(1993年)に匹敵するくらい好きなイギリス映画となった。

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