屋台ラーメンノスタルジー
1月30日(水)
屋台のラーメン、で思い出したことがある。
私が小学校高学年のころ、1週間に一度、チャルメラ、いわゆる「夜泣きそば」が家の近所にやってきていた。
毎週土曜日の夜9時、そう、ちょうど「8時だよ!全員集合」が終わる頃になると、どこからともなくチャルメラの音が聞こえてくるのである。
「試しに一度食べてみようか」
母の提案で、どんぶりを持って、そのチャルメラの音を頼りに、家を出た。
軽トラを改装した屋台のラーメン屋は、我が家のすぐ近くにとまって、店を開いていた。
繁華街でも何でもない、ふつうの住宅街の一角である。
その屋台で食べる客よりも、私たちみたいに、近くの家からどんぶりを持って買いに来るという客の方が多かったような記憶がある。
家に帰って食べてみた。チャーシュー、半裁されたゆで卵、メンマ、なると、きざんだ長ネギ、焼きのりが乗った、きわめてオーソドックスな醤油ラーメンである。
これがメチャクチャ美味かった!
私はたちまち、そのラーメンの虜になった。
それからというもの、毎週土曜日の夜9時が待ち遠しくて仕方がなかった。ドリフが終わるとそわそわし出すのである。やがてチャルメラの音が聞こえてくると、母と一緒にどんぶりを持って屋台のラーメン屋まで出かけていった。寸胴の鍋から上がる湯気や、その湯気が醸し出すにおいが、食欲をそそった。
屋台のオヤジは、黙々とラーメンを作り続ける。私はそのオヤジが手際よくラーメンを作っている様子を、ずーっと見ていた。
ラーメンを受け取るやいなや、すぐに家に戻り、「Gメン75」を見ながら、ラーメンを食べる。
ラーメンに対する私の味覚は、このときに完全に形成されたのである。
さて、どれほど時間が経過したか、覚えていない。1年くらいだろうか。
突然、そのチャルメラは、来なくなった。
一説には、近所の小うるさいオバチャンが、「チャルメラの音がうるさい!」とクレームをつけたため、そのラーメン屋さんが来なくなったのだという。
こうして私の週に1度の楽しみは、奪われてしまったのである。
それから大学生くらいになって、夜に町を出歩いたりしたときに屋台のラーメン屋を見つけるたびに、屋台に入ってラーメンを食べたりした。子どもの頃のあの味に、再会できるのではないか、と思ったからである。
しかし、どの店も、私が子どもの頃に食べた味とは違っていた。あのときの屋台のラーメンの味を超えるものに出会うことはなかった。今でもそうである。
90年代半ば頃までは、東京の郊外でも、けっこう屋台のラーメン屋を見かけたと記憶するが、それ以降、ほとんど見かける機会はなくなってしまったような気がする。
もちろん、福岡など、屋台のラーメン屋が軒を連ねて一つの文化になっている場所は、まだある。しかし、住宅地の一角に、一軒ポツンとあるような屋台のラーメン屋。それこそが、私が探し求めている屋台のラーメン屋なのである。
屋台のラーメン屋は、日本の映画やドラマでも、かつては欠かせない存在だった。
シリーズ中の最高傑作といわれる、映画「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」で、寅次郎(渥美清)とリリー(浅丘ルリ子)が偶然再会するのが、函館の屋台のラーメン屋なのである。
屋台のラーメン屋で、二人が偶然隣り合わせたことから物語が始まる、という展開が、かつての日本の映画やドラマでは、よく見られたことだったのだ。
私の経験的な印象からすれば、90年代の半ば以降、屋台のラーメン屋は、福岡のように文化として定着した地域を除くと、急速に減っていったように思う。
渥美清の死とともに「男はつらいよ」シリーズが終わったのも、90年代半ばである。屋台のラーメン屋が町の片隅から姿を消し、携帯電話の登場によって公衆電話を見つけるのが難しくなったこの時期に、奇しくも「男はつらいよ」は、終焉を迎えたのである。
それは、「一時代の終焉」に匹敵するくらいの意味を持つものだったというのは、言い過ぎだろうか?
…あれえ?ひょっとして本当は、「屋台とラーメン文化」について、テレビで語りたかったんじゃないの?
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