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2013年2月

世界は広く、世間は狭い

2月27日(水)

柑橘類で有名なE県のX大学に出張である。私はこのX大学を、初めて訪れた。

X大学で、Yさんという方に初めてお会いし、職場でとりくんでおられたお仕事についてのお話をうかがう。

いろいろとお話をうかがっているうちに、共通の知り合いがいることが判明した。

それ自体は、よくある話である。とくに私とYさんは、ほんの少しだけ専門分野が近いので、共通の知り合いがいることは、さほどめずらしいことではない。

さて、お昼。

構内の食堂で昼食をとっていると、Yさんが私に言う。

「あそこに座っている方、最近この職場に移ってこられた方なんですよ。今回のお仕事とも少し関係がある方ですので、ご紹介しましょうか?」

「はあ」

その方の席まで行き、挨拶をした。Eさん、という方である。

「はじめまして」

「はじめまして。以前は、隣のK県でMという職場につとめておりました」

「Mという職場ですか?!」

私は驚いた。その職場には、私の大学時代の1年先輩のSさんが勤めているからだ。Sさんはいまから15年ほど前、東京からはるか離れたK県に就職したのだった。

その先輩が就職するとき、私が引っ越しの手伝いをしたこと、そして、K県でおこなわれた結婚式の披露宴でカラオケを歌ったことについて、過去にこのブログで書いたことがある。だがSさんには、もう10年くらい会っていなかった。

「Sさんのこと、ご存知ですか?」私は聞いた。

「ええもちろん。元同僚ですから」

「私、大学でSさんの1年後輩でした。15年近く前、K県でおこなわれたSさんの結婚式にも出席したんです」

「思い出しました」とEさん。「たしかそのときのスピーチで、Sさんの引っ越しを手伝って大変だった、というお話をされていましたね」

「ええ」

「それに、カラオケで歌も歌ってらした」

「そうです!よくご記憶ですねえ」

私はますます驚いた。何と、15年近く前のSさんの結婚式に当時同僚として参加していたEさんは、私が披露宴でスピーチした内容や、歌を歌ったことなどを、覚えていたのである!

ふつう、知り合いの披露宴で、ぜんぜん知らない人間が、どんなスピーチをしたかなんて、覚えているか?

私の過去の行動について、それがたとえどんな些細なことであっても、どこで誰が、どんなことを覚えているかもわからないのだ。人間の記憶というのは、つくづく不思議なものだ、と思う。

さて、もう1人、思わぬ人と再会する。

数年前、このX大学を卒業した後、韓国のK大学に留学していた、Mさんである。

4年ほど前、私が韓国のK大学に1年間ほど留学していたときに、Mさんも大学院生として、K大学に留学していた。

私とMさんとは専門分野が少し異なるが、滞在中、学会発表の通訳などで、Mさんに大変お世話になった。とくに「携帯電話紛失事件」のときには、Mさんがいてくれたおかげで路頭に迷わずにすんだのである。「消えた携帯電話」というエピソードに登場する「大学院生」とは、Mさんのことである。

私はそのことを思い出し、案内役のYさんに聞いてみた。

「数年前、この大学の大学院生だったMさんて方、ご存知ですか?韓国留学中に大変お世話になりまして」

「もちろん知っていますよ。日本に戻って、いまうちの職場で研究員をしています。構内にいると思いますから、いまから連絡をとってみましょう」

そういうと、Yさんは携帯電話でMさんに連絡をとった。

ほどなくして、Mさんがやってきた。

「お久しぶりです」

「お元気でしたか」

専門分野も異なるし、帰国後はもう会う機会などないだろう、と思っていたが、人間の縁、というのは不思議なものである。

「いま、韓国のK大学に出す博士論文を書いています」とMさん。

「そうですか。厳しい先生ばかりですからね、あの大学は」

「そうですね」

「がんばってください」

「ありがとうございます」

短い時間だったが、思わぬ再会、というのは、何にせようれしいものである。

世界は広いけれど、世間は狭い。

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ヨンジュさん

2月26日(火)

たしか、ヨンジュさん、という名前だったと思う。

韓国のある分野で、「孤高の天才」「学界の異端児」といわれた人。

前の職場の同僚だったOQさんの親友だった。「異端」の二人だっただけに、おたがいに共感するところがあったのかも知れない。

ものすごい頭のいい人だ、と聞いていたが、いささか、というか、かなり常識に欠ける人だった。ま、えてして天才とは、そういうものである。

そんなヨンジュさんに、OQさんはいつも振りまわされていた。ヨンジュさんが日本に来るたびに、OQさんは忙しいにもかかわらず、彼のきまぐれな注文につきあい、彼との予定を最優先させていた。

私とこぶぎさんも一度、ヨンジュさんに振りまわされたことがある。

OQさんがゼミの学生を引率して韓国に行った、最後の実習(2005年)でのこと。

初日の夜、ソウルでヨンジュさんにお会いすると、OQさんは「どこか美味しい夕食の店を紹介してよ」と、ヨンジュさんに頼んだ。なにしろ、初めての海外旅行だという学生がほとんどなのだ。食事の印象が悪ければ、その後の旅の印象も悪くなる。地元のヨンジュさんならば、きっと美味しい店を見つけるだろう、と思ったのである。

しかしヨンジュさんは、いまから考えれば、「食」に関して無頓着な方だったのだろう。なにしろ天才なのだから。

美味しい店などまったく知らないヨンジュさんは、探し回ったあげく、ある食堂に私たちを連れていった。だがそこは、とても美味しい店とはいえなかった。学生たちからも、大ブーイングである。

韓国には美味しいお店がたくさんあるのに、よりによって何でこんな店を選んだのだろう。だがハズすことも、それはそれで一つの才能なのだろうと、私は自分に言い聞かせた。

そんな浮世離れしたヨンジュさんだったが、7年前のOQさんの告別式に、ヨンジュさんは韓国から駆けつけた。それは、突然のお別れだった。

告別式が終わったあと、こぶぎさんとヨンジュさんと、私と妻、そしてOQさんの研究仲間の方の5人で、OQさんが生前によく通っていた喫茶店に行って、思い出話をすることになった。

そのとき、ヨンジュさんはこんな思い出を語った。

OQさんと最後に日本で会ったとき、二人で映画を見に行った。その映画は、「博士の愛した数式」という映画だった。

だが、見ているうちに、OQさんはグーグー寝てしまった。結局彼は、その映画をちゃんと見なかったのだ、と。

OQさんらしいエピソードだと、そのときは笑ったが、OQさんが映画を見ながらグーグー寝てしまった、というのは、もともと忙しいOQさんが、親友のヨンジュさんとの予定を最優先したために、かなり無理をした結果ではないだろうか、と、あとで思った。

もう一つ思ったのは、「博士の愛した数式」は、OQさんが劇場で見た最後の映画だったのではないだろうか、ということ。その映画は、当時公開されたばかりだった。

それからというもの、映画「博士の愛した数式」をくり返し見るたびに、寺尾聰演じる「博士」が、OQさんとタブって見えてしまう。全然似てはいないんだけど。

だから「博士の愛した数式」は、私にとって特別の映画なのだ。

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キネマの天地

久しぶりに山田洋次監督の映画「キネマの天地」(1986年公開)を見た。

「松竹大船撮影所50周年記念」と銘打たれたこの映画は、松竹オールスターキャストの、「お祭り映画」である。年2回のペースで制作されていた「男はつらいよ」を、1回分休んで、この映画が制作されている。

1930年の「松竹蒲田撮影所」を舞台に、映画に情熱を燃やす人たちの群像を描く。ストーリーは、新人女優の田中小春(有森也美)の成長物語を軸にして進んでいく。

この映画はもうひとり、中井貴一演じる助監督・島田健二郎の成長物語でもある。

あらためて見直して私のツボだったのは、島田(中井)と、その先輩である小田切(平田満)の対話の場面である。

松竹蒲田撮影所で助監督として映画の見習いをしている島田は、撮影所が不満でならない。自分はいつか、社会派の重厚なドラマを作ろうと考えているが、撮影所の監督たちは、誰もが胡散臭く見え、作る映画も低俗な娯楽作品ばかりである。島田はそんな撮影所がたまらなくイヤだった。

あるとき、先輩の小田切と久しぶりに会う。小田切は、政治活動家として特高警察に追われる身であった。

島田が小田切に、撮影所の不満を言うと、小田切は笑いながら言う。

「君はいつでも不満を言うんだな。…島田君、不満なんか言ってないで、作り出せよ、何かを。大変な時代なんだからな」

いつも現状に不満ばかりを言う島田は、今の私そのものではないか、と、思わず苦笑してしまった。

それに、権力に不満を持っているはずの小田切が、「不満を言うな」と説得しているところが、そこはかとなく可笑しい。

もう一つ、この映画で秀逸なのは、小春の父・喜八を演じた渥美清である。

この映画では、当然ながら「寅さん」を演じているわけではない。しかし、どことなく「寅さん」を感じさせる。

それは、山田洋次監督が渥美清を演出するときに、必ず「自虐的な一面」を描いているからではないか、ということに気づいた。

喜八と屑屋(笹野高史)のやりとりは、この映画の中でもかなり秀逸な場面である。

「ねえ親方、何かありませんかぁ?金目のもの糸目のもの、穴の空いたやかん、古新聞、役に立たねえものなら何でももらいますよ」

「じゃあ、俺でも持っていくか」

「ええ?」

「この家で、一番役に立たねえのは、この俺だ。…メシ食っちゃクソたれるばっかりだ…」

「そういう気持ちになることもあるねえ」

この後、喜八と屑屋は、秀逸なやりとりを展開していくのだが、それは映画を実際に見てみなければ伝わらない。

次に、喜八が、ひそかに思いを寄せている隣の奥さん(倍賞千恵子)と、小春のことについて話をする場面。

「やさしい子ねえ。小春ちゃんは」

「だけどね、奥さん。いつまで黙っているわけにもいかねえし」

「え?」

「いずれ、例のことをちゃんと話して、別れ別れになって、俺は隅田川に身を投げて死ぬ、と。…そんな考えが一番いいんじゃないかねえ」

「なんてバカなこと言うの!そんなことしたら、小春ちゃんがどんなに悲しむか、わかんないわよ!」

「そうかねえ」

「冗談にもなりゃしない」

「やっぱり、話さねえほうがいいかね」

「当たり前ですよ!」

隣の奥さんはすっかり呆れてしまう。

ここでいう「例のこと」というのは、小春の出生をめぐる秘密である。

それはともかく、喜八が極端に自虐的なことを言って、隣の奥さんを呆れさせる、という構図は、寅次郎が自虐的なことを言って妹のさくらを呆れさせる、という構図と、まったく同じである。

山田洋次監督は、渥美清に対して、野放図な可笑しさだけではなく、どこか自虐的な一面を背負わせたのである。

たぶんそこが、多くの人の共感を呼ぶところとなったのだろう。

ちなみに、渥美清演じる人物の「自虐的な一面」は、心を許した人にしか見せない。この点も、一貫した演出のように思える。

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再会の夜

2月23日(土)~24日(日)

5年ぶりくらいに、隣県で開催される研究集会に出席した。年に1度、2日間にわたって開かれ、100人以上が出席する大規模な研究集会である。40年近くも続いている伝統的な会でもある。

とっくに忘れられているだろうな、と思っていたが、いろいろな人に挨拶され、ホッとした。

1日目の夜はホテルの宴会場で懇親会である。

北隣の県に住む、同世代の「50あらし」さんとも再会する。

「今日、Mさんが来ると聞いていたので、地元からとびきり美味しい地酒を持ってきました。飲んでみてください」

いただくと、たしかに美味しい。

「美味しいですね」

「そうでしょう。また一緒に仕事をしたいという気になったでしょう」

「ええ」

「また一緒に仕事しましょうよ」

「そうですね、ぜひそうしましょう」

たとえお世辞だとしても、私のためにとびきり美味しい日本酒を持ってきた、と言ってくれたことは、なにより嬉しい。私は「50あらし」さんの心遣いに感謝した。

「しかし、あのブログ」

しまった!「50あらし」さんは、このブログの読者だったのだ。

「あれだけの分量を書く時間があったら、もう少し本業に力を入れたらどうです?」

「おっしゃるとおりです」

反論の余地なしである。そろそろこのブログも潮時か。

次にお会いしたのは、中部地方からやってきたTさん。出身も職業も異なるが、まるで兄のように、学生時代から何かと気にかけていただいた。最近はこの研究集会でしかお目にかかることがなかった。だからお会いするのも5,6年ぶりである。

1次会、2次会と、日本酒を飲み続けながら、いろいろな話をする。こんなに日本酒を飲んだのは、本当に久しぶりである。

Tさんは前と少しも変わらず、仕事に対して情熱的で、ひたむきだった。お酒を飲みながら、私をさまざまに励ましてくれた。

「今回の最大の収穫は、あなたに会えたことだよ。今日は来てよかった」とTさん。

不義理を重ねてばかりいる私には、過分の言葉だった。

「また近いうちにうちの県においでよ」

「はい、近いうちに必ず行きます」

「あなたの気づかないところで、あなたに期待している人はたくさんいるんだぜ。頑張れよ」

私には荷が重すぎる言葉である。

それでもやはり、私の居場所は此処なのかも知れない、と、5年ぶりに来て、そう思う。

翌日、Tさんにお会いすると、

「いやあ、昨日は久しぶりに日本酒を飲みすぎました」

と反省していた。たぶん昨日言ったことは、忘れているだろう。

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泣ける映画

2月21日(木)

追いコンの2次会で、いちばん泣ける映画は何か、という話題になった。

同僚の一人は、「レインマン」をあげた。

私が「砂の器」と「ニュー・シネマ・パラダイス」の二つをあげたところ、

「その二つは、反則です」

「反則?」

「その二つの映画は、誰が見たとしても、絶対に泣きますから」

「つまり、殿堂入りということですね」

「そうです」

たしかに、「砂の器」と「ニュー・シネマ・パラダイス」は、別格なのだ。

いろいろとあげているうちに、思い出したことがあった。

むかし、「志村けんのだいじょぶだぁ」というコント番組があって、5,6分の短いコントを延々と見せる、という番組だったのだが、何年かに一度、本当に不意に、そのくだらないコントに混じって、コントではなく、シリアスな無言劇が流れたのだった。演じているのは、もちろん、志村けん自身である。

最初は「笑い」とか「オチ」を期待して見ているのだが、どうも様子がおかしい。ずーっと見ているうちに、ものすごく感動的なドラマとなって、気がついたら、号泣しているのだ!

つまり、「笑い」のいっさいない、「泣ける話」なのである。それが何年かに一度、不意におとずれるのである。

これを見ていたのが、私が高校生か大学生くらいだったと思うのだが、たぶん、膨大なコントに混じって、何年かに一度、「泣ける話」が挟み込まれていた、という事実は、あまり知られていないのではないだろうか。

そのことを急に思い出したので、2次会の席で話したところ、

「それ、知ってますよ。たしかに、何年かに一度、コントに混じって「泣ける話」が不意に放送されてましたよね」

と、4年生のN君が言った。

私は驚いた。4年生のN君が、「志村けんのだいじょうぶだぁ」をリアルタイムで見ているはずはないからである。たぶんさまざまな事情で、ソフト化もされていないはずである。

「どうしてそれを知っているの?」

あまりに不思議だったので問い詰めたところ、

「実は、親父に頼まれて、親父がむかし録画したビデオを、DVDに焼き直す、という作業をしていたら、『志村けんのだいじょうぶだぁ』の録画が大量に出てきて、それをDVDに焼きながら見ているうちに、その「泣ける話」が突然出てきて、僕もビックリしたんです」

なんと!彼は、父親に頼まれて膨大な「志村けんのだいじょうぶだぁ」コレクションをDVDに焼き直す作業を続けているうちに、追体験をしていたのである!

というか、「志村けんのだいじょうぶだぁ」をビデオ録画していて、それをDVDに焼き直そうと考えたお父さんが、面白すぎる。そしてそれを息子に頼むあたりもまた面白い!

今度は、前に座っていた4年生のCさんが言った。

「泣ける動画といえば、「鉄拳」という芸人が作った「振り子」というパラパラ漫画が泣けますよ。動画サイトで「鉄拳 振り子」で検索してみてください」

見てみましたよ。

…これは反則である。こんなもん、泣くに決まっているよ!

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味方はこの5人

2月21日(木)

「Mさんのアウェイ感、半端ないっすよねえ」

最近の私をよく知るある人の言葉である。とくに最近は「羅生門」状態なので、なおさらその感を強くする。あまり人と話す気が起こらないのもそのためか。

この日、朝9時に始まった卒論発表会が、夕方5時過ぎに終了した。7時からは「追いコン」である。学生40名、私を含む同僚6名が参加する、大所帯である。

追いコンでは、4年生が一人一人挨拶をするが、私の指導学生はみんな、私に対して「迷惑をかけてすみませんでした」と謝罪した。迷惑をかけられた覚えはない。むしろ、口うるさく卒論の書き直しをさせた私の方が、彼らにとっては迷惑だったのではないだろうか。

「では次に、先生方からご挨拶をいただきます」

私が最もイヤな瞬間である。

ほかの同僚たちは、いずれもすばらしいメッセージを学生たちに伝えたが、私は例によって、自己嫌悪に陥るほどの挨拶しかできなかった。

一通りの挨拶が終わり、一段落すると、学生たちは思い思いの場所に行って歓談をする。私はひどく落ち込んで、一人でビールを飲んでいた。

すると私の指導学生5名が、私の前にやって来た。

「先生、卒論の際には、ありがとうございました」

不意の挨拶に驚いた。

「いや、むしろ私の方が申し訳ない気がしてねえ。みんなにずいぶんひどいことを言ったんじゃないかと」

「そんなことはありませんよ」

Photo そう言うと、彼らは私に、大きな花束を渡した。いままで私がもらったことのない、大きな花束である。

「あと、これお菓子です。めっちゃおいしいんで、食べてください」とCさん。時節柄、このところいろいろな方から甘いお菓子をもらっていたが、たぶんこれで打ち止めだろう。

「ありがとう」私は彼らに感謝した。

ふと思う。

最後まで私の味方なのは、この5人だったのではないか、と。

そのことに、今更ながら気づいたのである。

なかでも、比較的よく仕事部屋に来たのは、Cさんである。

たまに仕事部屋に来ると、昨今の大学生事情について、その感情の機微に至るまで解説してくれた。私にとっては、得がたい味方だった。

あの、他愛もない「イマドキの大学生」の話が聞けなくなるのかと思うと、少し寂しい。

「…で、そのジェットコースター、出発したかと思ったら、2秒ほどでいきなり時速172キロになるんですよ」

「うそだろう」

「本当ですよ!カウントダウンが始まって、『3,2,1、ドーン』みたいな」

Cさんのその言い方が可笑しく、2次会で何度も大笑いした。

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隙のない1日

2月20日(水)

ビックリすることに、朝9時半から2時間半の会議、午後1時半から夕方5時まで、3時間半の会議である。落ち着いて昼ご飯を食べる暇もない。

合間には、学生との面談やら、出版社から原稿の催促が来たりで、まあ、なんと隙のない時間の使い方でございましょう。われながらビックリである。だって、おもしろいくらいに、空いている時間に次々と予定が入ってくるんだもの。

夕方5時からは、3年生を対象にして、来るべき卒論に向けた「出陣式」である。会議がぎりぎり5時に終わり、急いで教室に向かう。

「もうヘトヘトだよ。だって会議が9時半から5時まであったんだもの」と学生たちに言うと、

「私たちと同じですね」という。

「どういうこと?」と聞くと、

「私たちも、公務員講座が朝9時半から夕方5時までぶっ通しだったのです」

なるほど、いまの3年生は、公務員講座でかなり追い込まれているのか。

「お互い大変だねえ」と、なんだか湿っぽくなってきた。

すべてが終わったのが、6時半。完全に疲弊した。

そうそう、それで思い出した。

先日、ある宗教法人のところに、調査に行った。

そこでは、毎朝3時過ぎから、教主様がお堂にお出ましになり、参拝者の願いを神様に届け、神様の言葉を参拝者に伝えるという「取次」をおこなう。参拝者はひっきりなしに訪れるので、遅いときには夜8時頃まで教主様は「取次」のおつとめをされるのだ、という。

毎日ですよ!毎日!土日も関係なくですよ!毎日朝3時過ぎからお堂に出仕して、夜8時頃まで、どこにも行かずに、お堂の中にじっと座って、ひたすら参拝者の話を聞き、それに答えるのである。

並大抵の力でできるものではない。

それを考えれば、オレなんか、まだまだ修行が足りないよなあ。

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羅生門的事象

ある一つの出来事も、視点を変えてみれば、まったく違った様相を呈する。

これは、黒澤明監督の映画「羅生門」(1950年)が生みだした、映画的手法である。

「羅生門」が嚆矢となり、このあと、一つの出来事を複数の視点で描く手法の映画が、数多く作られるようになった。ニコラス・ケイジ主演の「スネークアイズ」(1997年)なども、そのひとつである。

考えてみれば、私の身のまわりは「羅生門的事象」に満ちている。そのことに気づいたとたん、これまで信じていたものが揺らぎはじめ、大いなる疑念が生まれる。

「羅生門」の冒頭で、ある事件の裁判を見た杣売が「わからねえ…さっぱりわからねえ」と何度もつぶやくのは、人間社会の本質を言い当てた言葉だと、私は思う。

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老先生にばかりなぜモテる

2月16日(土)~18日(月)

先週に引きつづき、3日間、「眼福の先生」ことT先生と調査旅行である。

現地では、私と妻にとって「姉」のような存在のSさんに、調査の段取りや交渉を一手にお願いしてしまった。

Sさんは、私にとっては「しっかり者の姉」のような存在で、私はいつも助けられてばかりいる。今回の調査旅行が実現したのも、調査先の現地にSさんが住んでいたからである。

T先生の飛行機や宿の手配は、すべて妻がおこなった。T先生には、身一つで来ていただこうと思ったからである。

行きの飛行機の中で、T先生がおっしゃった。

「あなた、イブ・モンタンという歌手を知っていますか?」

「ええ、知っています」

「そのイブ・モンタンが、俳優として出た映画に『恐怖の報酬』という映画があります」

「ええ、それも知っています。むかしテレビで放送されていたのを見ました」

「あなた、よく知ってるねえ。あの映画の中で、ある重要なものが出てくるでしょう?」

「はい、ニトログリセリンですね」

「そう、それだ。私はもしもの時のために、そのニトログリセリンに近い名前の薬を持ち歩いているのです」

先生は、その薬の用法について、ひととおり説明された。

齢80に近づこうかという、ご高齢のT先生にとって、飛行機による移動や、現地での3日間の調査が、かなりハードではないかと心配した。

しかし先週に続いて、T先生はたいへんお元気だった。

おかげで3日間、T先生の汲めど尽きぬお話を、間近でお聞きすることができた。

T先生は、まじめなお話から雑談に至るまで、とにかくよくお話になる。そのお話がどれも魅力的で面白い。

先生のお話が面白いのは、先生ご自身が、好奇心のカタマリのような人だからである。いつまでも若いことの秘訣は、この「好奇心」なのだろう、と思う。

そしてよく話が脱線する。その点はご本人も自覚しておられて、

「あ、…いま、話が脱線しましたね。どうしましょうか。脱線した話の方を続けましょうか、それとも、本筋の話の方に戻しましょうか」

脱線したお話があまりにも面白そうだったので、

「脱線したお話の方をお願いします」

というと、延々と、本筋から離れたお話の迷宮に入りこむ。そのお話がまた、面白いのである。

おかげで、本筋の話の結論が不明のまま終わってしまうことがしばしばである。

観察していて、気がついたことがある。

T先生はまくし立てるようにいろいろなお話をなさるのだが、不用意な発言というのを、いっさいしない。

どんな場合でも、慎重に言葉を選び、不見識な発言をしないのだ。

根底には、人間に対する深い洞察力がある、と気づいたのは、3日目の午後のことである。

3日目(18日)のお昼に、2日間続いた室内での調査がようやく終わり、午後は、地元の老先生にお話をうかがうことになっていた。

しかし、事前にSさんから聞いていたお話によると、そのお会いする予定の老先生は、かなり気むずかしいお方で、他の人も、そのあまりの気むずかしさに、ちょっと近づきがたいと思っている、とのことであった。

さてこのお話を、T先生のお耳に入れておいた方がいいかどうか、Sさんは直前まで迷っていた。先入観を与えてしまうことが必ずしも良いわけではないからである。だがお会いする場所に移動するまでの車の中で、Sさんは意を決して、これからお会いする先生についての情報を、T先生のお耳に入れたのである。

T先生は少し考えたあと、おっしゃった。

「まあ、やれるだけやってみましょう。その方は私と同じ世代の人間でしょうから、旧知の人間に会ったつもりで話をしてみますよ。そういうタイプの方にお会いするのは久しぶりですから、楽しみです」

その言葉は、さまざまなタイプの人と正面から向き合ってきたという先生ご自身の経験と自信に裏打ちされたものであろうと、私は即座に理解した。

私たちは緊張の面持ちで、その老先生とお会いすることになったが、T先生は、実に慎重に言葉を選びつつ、まるで旧知の間柄のように、その老先生に接した。

そのことが功を奏したのか、その老先生は、気むずかしい部分を微塵も見せないまま、私たちにいろいろお話くださった。

蛇足だが、私に対しても、とても機嫌よくお話くださった。

私たちはホッと胸をなで下ろした。

初日のフィールドワーク、2日めと3日めの午後までに至る室内調査、そして、3日め午後のインタビューと、予定していた調査は、すべて無事、終了した。

調査じたいはとても地味なもので、決して日の目を見るようなものではないかも知れない。しかしそこで得たものは、はかりしれないほど大きい。

羽田空港での別れぎわ、T先生がおっしゃる。

「記憶に残る3日間でした。まるで夢のようでした。ありがとう」

T先生と別れたあと、妻が言う。

「不思議だねえ」

「何が?」

「どうしてあなたは、おじいちゃんばかりにモテるんだろうねえ」

「T先生のこと?」

「それだけじゃない。午後にお会いした老先生も、あなたの顔を見て、嬉しそうに話していたし」

うーむ。たしかに、私は本当におじいちゃんにモテるのだ。

というか、おじいちゃんにしかモテないのが、悲しい。

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過剰なまでに感傷的に

2月15日(金)

興味のない人にとっては、興味のない話。

妻から「水道橋博士の『藝人春秋』(文藝春秋)って本、あったら持ってきて」とメールが来た。

私自身は、『お笑い男の星座』をはじめとして、水道橋博士が書く研ぎ澄まされた文体が心地よく、これまでも何冊か耽読していた。妻はそのことを知っていて、たぶん私が買っているのではないか、と思ったのだろう。

もともとこのブログをはじめようと思ったのも、「博士の悪童日記」という、水道橋博士のインターネット上の日記に影響されたところがある。

しかし、ビートたけしだの、立川談志だのにまったく思い入れのない妻が、なぜこの本に注目するのか。

まあいい。さっそく買って、今日の夜、東京に向かう新幹線の中で読んだ。

これは『お笑い男の星座』と同じく、芸人ルポルタージュである。自らを「お笑いルポライター」と位置づけているように、芸人の世界を、内部から、一方的な愛情と温かいまなざしで描き出す。その豊かな表現性は、健在どころか、ますます磨きがかかっている。

おもしろいことに、著者自身が心酔するビートたけしについての叙述は、読者(少なくとも私)には、それほど響かない。おそらく、著者の思い入れと、それを受けとめる読者との間に、バランスをとりがたいほどのギャップが存在するからだろう。

それにくらべ、石倉三郎、ポール牧、稲川淳二、児玉清といった人々とのエピソードは、読む者の胸を打たずにはいられない。これを読み、思わず笑い、思わず涙を流したのも、私だけではあるまい。

たとえば小林信彦の芸人論の文体が、冷静なまなざしで貫かれているのに対し、水道橋博士のそれは、過剰なまでに感傷的である。これもひとえに、対象との距離が関係しているのだろう。

考えてみれば、私が身を置いている業界も、芸能界と同じようなものである。

虚飾に身を飾る人もいれば、常人には理解できないような伝説を持つ人もいる。

私も、自分が身を置く業界で、私が見聞きした愛すべき人々の伝説を、なるべく書き残しておきたい、と思う。

そんな思いもあって、最近はT先生とのエピソードを書いたりしているのだが、考えてみればこれは、「お笑いルポライター」である水道橋博士の芸人に対するまなざしに、私自身が憧れていたからであることに、この本を読んで、あらためて気づいたのである。

つい最近書いた「M氏の宝物」は、言ってみればそんなようなものである。もっとも、水道橋博士の筆力には、及ぶべくもないが。

ということは、私もまた、「業界ルポライター」に憧れているんだな。

もう一つ、この本を読んで驚いたことがある。

著者が「いじめ問題」に書いた文章(2006年)で、つい先日私が思い出してこのブログに書いた、ラジオDJの発言(正確に言うと、ピエール瀧と伊集院光のやりとり)が、引用されていることである。何たる偶然であろう。

著者は、「いじめ問題」についていろいろと書いた最後に、このときのラジオのやりとりを引用して、次のように述べる。

「この放送、最近のいじめ問題を語る“言霊”の中で一番、しっくりきた。

いじめを、“爆笑”問題として最も腑に落ちる言葉で説いたのは、この二人だった。

今回、長々と書きつらねたが、結局は最後のラジオのやりとりを引用し、伝えたかっただけだ。

決して教科書には載らないような会話だけど、伊集院と瀧の話が、今、この文章を読む何処かの誰かの目に触れればいい。

あのころのボクに、ラジオからビートたけしの言葉が届いたように」

ほら、感傷的でしょう?

でも、私もリアルタイムでこのラジオを聞いていて、やはりこのやりとりには、少し身震いしたのである。だから私も、この言葉を、紹介したいと思ったのだ。

たんに、同じ世代のオッサンだから共感することなのかもしれない。

そう思うなら、思うがよい。

冒頭に、「興味のない人にとっては、興味のない話」と書いたのは、そういうことである。

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精神がない

2月14日(木)

以前にこのブログで書いたかどうか忘れてしまったが、韓国語に「精神がない」という言い回しがある。韓国滞在中に、よく聞いた言い回しである。

どういうときに使うのかというと、「最近仕事が忙しくて精神がなくて、あなたのことはすっかり忘れてました」とか、「家族に心配事があり精神がなくて、仕事どころではない」というように。

こなれた日本語で言うならば、「心に余裕がなくて」という意味だろう。

韓国の人たちは、本当にこの言い回しをよく使うのだ。

しかも「精神」という言葉は、もっぱら「精神がない」という言い回しでしか、出てこない。

日本語だと、「最近忙しくて、あなたのことはすっかり忘れてました」「家族に心配事があり、仕事どころではない」と言えば十分で、「心に余裕がなくて」とは、ふつう言わない。

そもそも「「忙しい」という漢字は、「心をなくす」と書くのである。

韓国語には当然、「忙しい」という言葉もあるのだが、「忙しくて」だけではインパクトがないからなのか、「精神がなくて」という言葉を、必ずつける。

韓国の人たちは、自分を追い詰めるほど働く場合が多いので、「精神がなくて」という言い回しは、たしかにそれにふさわしい表現である。ただし日本でも、「精神がない」ほど追い詰められている人も私の周りににいるので、一概にはいえない。

しかし一方で、この言葉は、とても便利な言葉である。

「精神がなくて」と言えば、たいていのことは納得してもらえる。私も韓国でこの言葉をよく使わせてもらった。

この慣用表現は、いつごろ、どのような経緯で人々に使われるようになったのだろう?

日本語に該当する表現がないのは、どうしてなのか?そこには、どのような文化的差異があるのか?

だれか、レポートを書いてくれないかなあ。

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「消せるボールペン」の敗北感

2月13日(水)

私の師匠は、.新しい文房具に目がない。

昨年の研究会の席のことだったか。議論が白熱し、私の持っている本を見て、

「ちょっと、それ貸して」

と言われるので、お貸ししたところ、

「ほら、ここにこう書いてあるでしょう」

と、なんと、赤いボールペンで、私の本に線を引き、メモを書き始めたのである!

「あああぁ!何するんですか!」

と、高価な本だったので、思わず私が声を上げると、

「これ、消せるボールペンだぞ。知らないのか?芯の反対側のところで、こすってごらん」

こすると確かに赤い字が消えた。

すると師匠はニヤリとお笑いになった。まるで、勝ち誇ったかのような笑顔である。

このときの私の敗北感といったら…。

そこで初めて私は、「消せるボールペン」なるものがあることを、知ったのであった。

「消せるボールペン」って、いまどのくらい普及しているの?

ホームセンターの文房具売り場に行くと、たくさん置いてあったので、そのうちの赤ボールペンを買ってみた。

仕事部屋で、さあ使おうと、芯を出そうとするが、芯の反対側のでっぱったところを、いくら押しても、芯が出ない。

ふつう、ボールペンって、芯と反対側のでっぱりをノックすれば、芯が出てくるよね。でもこれは、まったく押せない。このでっぱりは、シャーペンでいえば、消しゴムにあたる部分なのだ。

(いったいどうやったら芯が出るんだ???)

5分くらい悩んで、ようやく芯の出し方がわかった。

このときの私の敗北感といったら…。

うーむ。なんとかこれを、勝利に変えたい。

さて昨日、「文房具好き」を自認する同僚と話をした。

「これ、ご存じですか?」

そう言うと、その同僚は赤いボールペンを得意げに私に渡した。

「これ、書きやすいんですよ」

書いてみると、たしかに書きやすい。

この時期、我々の仕事で赤いボールペンはいちばんの必需品である。でもどうせ使うなら、、ストレスを軽減するために、少しでも書きやすいボールペンを使いたいものだと、誰もが「書きやすいボールペン」を探し求めているのだ。

「いいですねえ」と言ってみたものの、ちょっと悔しい。

そこで私はすかさず、背広のポケットから「例のもの」を出した。

「じゃあ、これ、ご存じですか?」

「何です…?ひょっとして、消せるボールペン?」

げげっ!すぐに認識されてしまった。

しかし、「文房具好き」を自認するその同僚も、まだ使ったことがないらしかった。

「どうぞ、使ってみてください」

同僚は、芯と反対側のでっぱりを押して芯を出そうとするが、当然、芯は出ない。

「あれ?あれ?どうやって芯を出すんだろ」

私が答えを言わずニヤニヤしていると、

「ああ、ここをこうするんですね」

と、わずか10秒ほどで、芯を出してしまった。

このときの私の敗北感といったら…。

結局私は、「消せるボールペン」に負けてばかりである。

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味方は外(そと)にいる

2月12日(火)

今から5年くらい前だろうか。学校での「いじめ」による自殺が問題になったときがあって、そのときに、私と同じ世代のラジオDJが、いじめを受けている子たちに、次のようなことを言っていたのを、急に思い出した。

「お前ら、ビックリするかもしれないけど、いまお前の周りにいる30人が全員敵だろ?だけど、その周りに300人いて、その周りの3000人が全員敵になる瞬間があって、でも、30000人が急に味方するときがあるから、その一層だけで判断するな!」

この言葉、大人になると、すごくよくわかる。

私はこの稼業についてから何度か、周りが敵になる瞬間、というのを経験したことがある。そのたびに、くさったりいじけたりした。いまでもたまに、そうである。

敵、とはいわないまでも、こちらの真意がまったく理解されず、相手にされない、ということは、いまでもよくある。

しかしその外側に、味方がいることを知った。

周りが全員、敵だとしても、くさることはない。

その外側には、ビックリするくらいの数の味方がいるかも知れないのだ。

それくらい、世界は広い。

だから、視野を広げた方が勝ちである。

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M氏の宝物

少しだけ、この週末に調査した「もの」をめぐるドラマについて、書いてみる。うまく伝わるかどうか。

T先生は、市井に生きるMという人の研究に出会い、惚れ込み、M氏の没後、M氏の日記を徹底的に読み込む。ちなみにM氏の年齢はT先生よりも40歳ほど上で、T先生はM氏に直接お会いしたことがないという。T先生と私の年齢差に近い。

M氏は、日常生活の細かいことから、自分の研究に関することに至るまで、実に詳細な日記を残していた。その量は膨大であった。

T先生はそれを、10年かけて書きおこす。なにしろM氏の書く文字は独特で、というより乱雑であったために、読み解くのに難儀したという。

だが日記をすべて読み通したおかげで、M氏に関することは、M氏の家族以上に知ることになる。T先生は、M氏のことを、日記を通じて、徹底的に惚れ込んだのである。

その日記には、こんなくだりがある。

M氏はある日、古本屋で「想像もできぬ」ような「宝物」を得た。

それからというもの、M氏は朝な夕なに、その「宝物」を徹底的に分析することになる。折りしも戦争中である。空襲警報が鳴ると、M氏はその「宝物」を抱えて、自分で掘った防空壕に避難した。こうしてこの「宝物」は、M氏とともに戦争を切り抜けたのである。

家族や親族の目には、脇目もふらず「宝物」の分析に没頭するM氏が、どのように映っていたのだろうか?だがM氏の研究の基礎は、この「宝物」によってつちかわれたのであった。

ところがあるとき、やむを得ぬ事情で、この「宝物」を手放さなければならなくなった。

それは、自らの研究を進展させるためにやむを得ない決断であったが、自分が長年愛用していた「宝物」を手放すことは、やはりたえがたいことである。日記には、神田の古本屋に手放したあとの「宝物」の行く末を案ずる記述が何度も見られる。終生、気にかけていたのだろう。

そしてその後、その「宝物」は、古本屋の店頭から姿を消す。誰かがこれを買ったのである。誰のもとに渡ったのかわからないまま、所在不明となってしまった。

その「宝物」のことを気にかけていたのは、M氏だけではない。M氏の日記を読み込んでいたT先生もまた、同様であった。T先生は、わずかに残されていた「宝物」の写真から、M氏がこのとき、何を分析しようとしていたのかを、つきとめようとした。そのことが、M氏の研究の原点を知ることにつながるからである。

だが、実物が見つからないことがやはり悔やまれた。T先生もまた、M氏の「宝物」が所在不明になってしまったことを悔やむ文章を学会誌に書いたのである。

さて昨年。

その「宝物」が、中国地方の小さな町の図書館で、見つかったのである。所在不明になってから、実に60年ぶりである。これもまた不思議な縁で、私の妻が発見し、妻と私が、T先生にそのことを一番にお知らせしたのであった。そして、調査が実現した。

「自分の親に会ったような気分です」

T先生は、その「宝物」を前にしてそうおっしゃった。私にはむしろ、T先生はM氏とお会いしたのだ、と思えた。

この週末、T先生は、目を皿のようにして、この「宝物」を分析した。

それは、この「宝物」を通じて、T先生が師と仰ぐM氏と対話をしているようにもみえた。

そこで気づく。

齢八十に近づこうとするT先生を、いまでも突き動かしているもの。

それは、M氏に対する「共感」なのだ、と。

実はこの「宝物」は、「唯一至高のもの」というわけではない。

市場価値、という点からいえば、同じものでもっと価値の高いものはいくらでもある。

しかしこれは、M氏が生涯をかけて研究に没頭したきっかけを作った、「宝物」である。

人間にとっての「宝物」とは、何か?

それは、価値が高いとか、稀少であるとか、そんなことではない。

そのものが持つ「物語」こそが、「宝物」なのである。

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上が下で、下が上

2月8日(金)~10日(日)

中国地方の中核都市にある新幹線の停車駅から、在来線に乗り換ること30分。Kという町に到着した。これから3日間、「眼福の先生」ことT先生と、資料調査である。

このブログで何度も書いているように、T先生の情熱あふれるマニアックな研究に憧れ、昨年、私と妻は先生に「入門」した。

齢八十に近づく先生は、現役を引退されてから10年近くが経つが、各地に残るある「資料」を求めて、いまでも全国を行脚しておられる。今回、T先生と私と妻を含めた総勢5名で、その資料を調査することになったのである。

Kという町は、実にのどかな田舎町である。この小さな町の図書館に、先生が長年探し求めていたものが発見されたのは、昨年のことである。発見したのは、私の妻である。

この「もの」をめぐっては、戦前から戦後にかけて実に壮大なドラマがあった。そして長らく所在不明のまま60年ほどが過ぎ、いろいろな偶然が重なって、昨年、妻がこの「もの」を発見することになったのも、言ってみればそのドラマの続きである。

ふつうの人にとっては、何の変哲もないものかも知れない。だが、その背後にあるドラマは、私の心を突き動かしてやまない。こういうことがあるから私は、今の仕事をやめることができないのだ。

何より、T先生がその探し求めていた「もの」を目の前にして感激している姿は、私に元気を与えてくれる。

「自分の親に会ったような気分です」

その「もの」を目の前にして、T先生はそうおっしゃった。

さて、調査開始である。

この調査がまた、マニアックで、奇妙なのだ。

たぶん、まわりから見たら、「いったいこの人たちは何をしているのか?」と、サッパリわからないだろう。

先生と私とで交わしている会話は、以下のようなものである。

先生「この部分はどうなっていますか?」

私「上が下で、下が上です」

先生「なるほど。ということは、上から下、ということですね。では縦はどうですか?」

私「左が上で、右が下です」

先生「なるほど。それも定石通りですね。右から左、ということか…次はどうですか?」

私「…こちらの方は上が上で、下が下のようです」

先生「上が上で、下が下…本当ですか?」

私「どうも自信がありません。ひょっとしたら裏テープの可能性も…」

先生「なるほど。その可能性もありますね」

会話だけ聞いていても、ナンダカワカラナイ。

こんな会話が、延々と続く。

2日目、地元のケーブルテレビが、取材に来た。

(こんなマニアックな調査風景を放送しても、誰もわからないのではないだろうか…)

私は心配したが、こっちが取材に来てくれと言ったわけではないのだから、知ったこっちゃない。

最後にディレクターは、T先生にインタビューをした。

先生は滔々と、この「もの」にまつわるこれまでのドラマをお話になった。その語り口は平明で、情熱的であった。

ディレクターにはどの程度内容が伝わったのかはわからないが、私は横で聞いていて、あらためてこの資料の持つドラマティックな運命に思いを馳せた。

そんなこんなで、3日間の、気の遠くなるようなマニアックな調査が終了した。

時間切れで、調査じたいをすべて終えることができなかった。またこの町を訪れる機会はあるだろうか。

来週末もまた、T先生と九州へ調査旅行である。

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入れ札

2月7日(木)

菊池寛の名作短編小説「入れ札」を久しぶりに読んだ。

いまはインターネット上に「青空文庫」という便利なサイトがあって、誰でも手軽に読むことができる。

代官を斬り殺した国定忠治が、幕府の役人に追われ、上州の赤城山から榛名山を越え、信州に逃げのびてゆく。

国定忠治にはそのとき11人の子分がついてきていたが、11人で逃げていては、目立って仕方がない。11人全員を、一緒に連れて逃げるわけにはいかない。

忠治は、3人だけを連れていきたいと考える。

だが、3人ならば誰でもよい、というわけではない。

11人の子分の中には、「使える子分(有能な子分)」と、「使えない子分(無能な子分)」がいる。忠治にしてみたら、当然、「使える子分」を連れていきたい、と考えるのである。

では、その3人をどのように選んだらよいのか?

忠治が意中の3人を「指名」するのが、最も簡単な方法である。

だがそれをやると、指名されなかった子分はいい気分がしない。角が立つのである。だから、忠治の口から、3人の名前をあげることは、避けなければならない。

そこで忠治は、「俺ひとりで逃げのびる」と、子分たちに言う。

そう言われてしまうと、子分たちも黙ってはいられない。親分をひとりにすることはできないからである。

そこで提案されたのは、「くじ引き」である。

この方法であれば、公正に3人を選ぶことができる。だが、これだと「使えない子分」が選ばれる可能性があり、忠治にとってはリスクが大きい。

考えた結果、「入れ札」、つまり投票によって、その3人を選ぼうということになった。

子分たちの間で、「誰が忠治親分についていくのにふさわしい人物か?」を投票するのである。もちろん、自分が自分に投票しないことは、暗黙の了解である。

この方法であれば、忠治は自分に責任がかかることなく、3人を選ぶことができる。責任は、選んだ子分たちの方にあるから、角が立たないのである。しかも、くじ引きにくらべれば、はるかにリスクが小さい。

いよいよ、11人の子分たちによる投票が始まる。

ここから小説は、「愚鈍な筆頭の兄分」である「九郎助(くろすけ)」の心理描写を中心に話が進んでいき、その心理描写は見事というほかないのだが、ここで考えてみたいのはそこではなく、「入れ札」そのものの話である。

さて結局、投票結果はどうなったのか?

投票の結果、忠治が連れていきたいと思っていた3人が選ばれ、忠治は安堵するのである。

つまり、忠治のためを思っての子分たちの投票行動が、忠治の思惑通りの結果となってあらわれたのである。

私自身が属する組織でも、しばしば「投票」によって物事を決めることがある。その人々の「投票行動」をこれまで見てきて、強く思うことは、

「投票には、良くも悪くも、人の善意が反映される」

ということである。

「入れ札」の結果が忠治の希望通りとなったのも、子分たちの善意が反映されたからにほかならない。

国定忠治は、そのことを見抜いていたからこそ、「入れ札」にかけたのである。そして菊池寛はそれを描くことで、一見「子分思い」にみえて、その実冷静で冷徹な忠治という人物像を示そうとしたのではないだろうか。

この小説の主人公は、冴えない子分の「九郎助」であり、この小説の妙味は、あくまで九郎助の心理描写にある。だが、物語の本筋ではない国定忠治の視点でこの小説を読んでみることもまた、おもしろいと思う、今日この頃である。

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会議にまつわるエトセトラ

2月6日(水)

今日も朝イチから忙しい。

時間がない時間がないといっても、昼ご飯を食べる時間はあるのだから、実際にはそれほど焦っているわけでもないのだろうが。

明日も午前と午後に大事な仕事があるし、明日の夜から週末にかけては出張である。今週やらなければならないことは、今日中に済ませなければならない。

だがこういう日に限って、午後2時半に始まった会議が終わったのが、夜7時。4時間半にわたる会議である。

完全に神様は、私に嫌がらせをしているな。

その会議では、いろいろなことがあったのだが、とてもここでは書けない。

ということで、会議にまつわる別の話。

別の職場に勤めるある人から聞いた、本当の話。

その人が、Aという会議に出席した。会議室に着くと、まだメンバーが揃っていない。

その人は、議長に質問した。

「この会議は、何の会議ですか?」

「1時間後に開かれる次の会議の議題を確認するための会議です」

「次の会議の議題を確認するために開くんですか?」

「そうです」

配付された資料を見た。

「次の会議の議題の中にある、『A会議の報告』というのは何ですか?」

「これから開くこの会議の報告です」

「…といいますと、次の会議では、『この会議の前に開かれたA会議では、この会議の議題についての確認を行った』という報告をするんですか?」

「そうです」

「では、その『この会議の前に開かれたA会議では、この会議の議題についての確認を行った』という次の会議の議題を、このA会議で確認する、ということですね」

「そうです。ですから、『この会議の前に開かれたA会議では、この会議の議題についての確認を行いました』という報告を、次の会議でしなければならず、その議題を、このA会議で確認しなければならないのです」

「はあ、なるほど」

「それにしても、○○さん、遅いですねえ」会議のメンバーが一人、まだ来ていない。

10分が経過した。

「…まだ、お一人来ていないけど始めちゃいましょうか。では、会議を始めます。お手元の資料にあるのが、次の会議の議題です。みなさん、ご異存はありませんでしょうか」

「ありません」

「ありがとうございました。ではこれで会議を終わります。では○○さん。次の会議で、『この会議では、次の会議の議題を確認した』と、報告してください」

「わかりました」

ええええぇぇぇぇっ!!!それで終わり?

さて問題です。この会議は、必要か?不要か?

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パワーダウン宣言、撤回!

2月5日(火)

昨日、これからしばらくは、ふだんの70%の力で仕事をする、と書いたが、どうもそういうわけにはいかない。

午前中は、さながらドラマ「高原へいらっしゃい」の「面川君と大貫君」のようであった。

ドラマ「高原へいらっしゃい」の中で、信州の高原にある無名で小さなホテルを多くの人に知ってもらい、お客さんに来てもらおうと、支配人・面川と、経理担当のやり手・大貫が、東京の企業をまわり、営業活動をする、という場面がある。

それを、思い出した。

もっとも、私は役立たずだったが。

午後は、半日かけて、学生6人と個人面談。結局夕方遅くまでかかり、そのあと、会合に参加、仕事部屋に戻って電話対応しているうちに、夜9時を過ぎてしまった。

なんだ、結局、フル稼働じゃないか。

「そんなもん、たいした仕事じゃないだろ」と思われるかもしれないが、愚鈍な私には、これで精一杯である。

所詮、私にできるのは、この程度なのです。

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パワーダウン宣言!

2月4日(月)

2週間ほど前から、首の後ろから背中にかけてのあたりが痛い。

最初は、寝違えたのかな?という感じの痛みなのだが、その痛みが引くどころか、日ごとに痛くなっていく。

まさか、毎日寝違えているわけでもないだろうに。

昨日は、隣県で開かれたある会合に出席したのだが、朝起きると、やはり痛みがひどく、行くのをやめようかと思ったくらいである。

結果的には行くことにしたのだが、行って正解だった。いろいろなことを考えさせられた。

だが、相変わらず痛いことには変わらない。

何しろ、横を向いたり、振り向いたりするのが億劫になるくらい、痛いのだ。

今朝もやはりそうである。

(何か重篤な内臓疾患なのだろうか?)

最近、忙しくて不摂生な生活をしているからなあ。

この先、しばらくは休みがないので、休むわけにもいかないし。

とすれば、あとは、自分をだましだまし仕事を続けていくしかない。

ということで、これからしばらくは、通常の70%くらいの力で、仕事をすることにします!

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生きる希望の原点

51grr1fjbol渥美清の死とともに、映画「男はつらいよ」シリーズは終焉を迎えるが、その後1本だけ、「特別編」と称して、再編集された作品が劇場公開された。それが、「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」である。

「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」は、浅丘ルリ子演じるリリーが登場する三部作(「忘れな草」「相合い傘」「ハイビスカスの花」)の最終作である。

ファンの間では、48作品のうち、なぜこの作品が、わざわざ再編集されて公開される1本に選ばれたのか、今でも謎とされている。

寅次郎にとって最も印象深い女性であるリリー(浅丘ルリ子)が登場する作品だからだ、というのはよくわかる。だが最高傑作という点でいえば、同じリリー(浅丘ルリ子)が登場する「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」の方であることは、万人が認めるところである。

それにリリーが登場する作品以外にも、「ハイビスカスの花」よりも評価の高い作品は、いくつもあるのだ。

ではなぜ「ハイビスカスの花」なのか?

ドサ回りの歌手・リリーが沖縄のキャバレーで歌っている最中に、血を吐いて倒れ、病院に入院する。生きる希望を失ったリリーは、せめて最後に寅さんに会いたいと、柴又の「とら屋」に速達で手紙を出す。

速達でリリーの病気のことを知った寅次郎は、居ても立ってもいられなくなり、苦手な飛行機を克服して、すぐさま沖縄に向かう。そしてリリーと再会する。

冒頭から始まり、寅次郎が沖縄の病院でリリーに再会するまでの展開は、じつに秀逸である。リリーに対する寅次郎の思い、そしてそれを後押しする、とら屋の一家や柴又の人たちが、細やかに描かれている。

この世でひとりぼっちだと思いこみ、死を覚悟していたリリーは、息をはずませて見舞いに駆けつけてくれた寅次郎と再会し、とら屋や柴又の人々の思いやりに気づき、生きる希望を見いだすのである。

寅次郎が静かに語りかける。

「お前も、沖縄まで来て、病気してよ。どんな苦労したんだ…。ん?」

「……」答えないリリー。

「…ま、あんまり喋ると病気に障るか…夢なんか見ねえでぐっすり寝ろよ」

このときの浅丘ルリ子の表情がまた、素晴らしい。

その後、病気が回復したリリーは、沖縄で寅次郎としばしの間、一緒に暮らすのだが、このあたりの展開は、中だるみみたいな感じになって、残念ながら私はあまり好きではない。

そして例によって、寅次郎とリリーは結ばれることなく終わりを迎える。

ラストシーン。

旅先のバス停で、寅次郎が偶然、リリーと再会する。

突然、目の前に現れたリリーに驚く寅次郎は、リリーに向かってゆっくりと語りかける。

「…どこかでお目にかかったお顔ですが、ねえさん、どこのどなたです?」

リリーの切り返しがまた、素晴らしい。

「以前おにいさんにお世話になった女ですよ」

「はて、こんないい女をお世話した覚えは…ございませんが」

「ございませんか?この薄情者!」

芝居じみた会話に大笑いする2人。

「何してんだお前、こんなところで」

「商売だよ。おにいさんこそ何してんのさ、こんなところで」

「俺はおめえ、リリーの夢を見てたのよ」

シリーズ中、屈指の名ラストシーンである。

居ても立ってもいられなくなり、駆けつける寅次郎。

それが、リリーに生きる希望を与えたのだ。

シリーズ最後の作品「寅次郎紅の花」で、寅次郎は阪神淡路大震災の被災地を訪れる。寅さんに来てもらうことは、被災地の人々のたっての願いだった、と言われているが、寅次郎が駆けつけることは、人々に生きる希望を与えたのかもしれない。

そしてその原点となった作品が、この「寅次郎ハイビスカスの花」だったのではないだろうか。

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和製コロンボ

2月1日(金)

忙しくて、練った文章を書くヒマがない。

祖母の思い出話を書こうかと思ったが、内容があまりにヘビーすぎて、今はとても書くエネルギーがない。

それに、最近はブログ本文よりもコメント欄の方に力が入りすぎていて、ブログ存亡の危機である。

ということで、とりとめのない話。

刑事コロンボの声、といえば、誰でしょう?

やはり、小池朝雄ですね。2代目の石田太郎もよいが、やはり小池朝雄である。

小池朝雄も、石田太郎も、本来は俳優である。どちらも、悪役とか、クセのある役を得意としている。

もし、韓国映画「トガニ」を日本でリメイクするとしたら、校長先生役は、ぜったい、石田太郎である。

まあそれはともかく。

小池朝雄も、俳優としてドラマに出演するときは、犯人役とか、悪役とか、とにかく、クセのある役が多かった。

この人こそ、演技を追及した個性派俳優、とよぶのにふさわしい。

子どものころ、小池朝雄がドラマに出ているのを見て、コロンボとのギャップに驚き、ショックを受けたものである。

ひょっとして、コロンボのイメージをくずそうと、本業の俳優では、あえてそういう役にいどんだのではあるまいか。

しかし、私は子どものころいちどだけ、小池朝雄が刑事役を演じたドラマを見たことがある。

TBSで放送されたドラマ、「森村誠一シリーズ 野性の証明」(1979年)である。

この中で小池朝雄は、主人公の味沢(林隆三)を執拗に追い続ける刑事を演じている。それだけでなく、ドラマ全体の狂言回しの役割も果たしている。

ドラマの狂言回しとして、画面に向かって事件の概要を視聴者に語りかける、その語り口は、コロンボそのものである!

しかも、みすぼらしい身なりで犯人を執拗に追い続ける、というキャラクターまでもがコロンボと同じである!

世に、「和製コロンボ」といわれるドラマは数多くあったが、これにまさる「和製コロンボ」はいない。だって、コロンボの声を担当している本人が演じているんだもの。

私は、これを見て感激してしまった。ドラマ自体は、その前年に放映された「森村誠一シリーズ 人間の証明」にくらべると、完成度が低かったが、それでも、小池朝雄の刑事役を見られただけでも、価値があった。

「和製コロンボ」と言えば、のちに、三谷幸喜が脚本を書き、田村正和が刑事を演じた「古畑任三郎」が、記憶に新しい。

このドラマは、「刑事コロンボ」に対する、完全なオマージュ作品である。

このドラマの中で、コロンボの声を担当した石田太郎が、いちどだけ、チョイ役で出演している、というのは、たぶん、マニアの間ではよく知られている話である(第1シリーズ第5話「汚れた王将」)。

しかし、これはどうだろう。

「刑事コロンボ」で、犯人役の声をつとめ、「古畑任三郎」でも犯人役をつとめた俳優が、1人だけいる。

つまり、「刑事コロンボ」と、「古畑任三郎」の両方で、犯人となった俳優。

さて、それはだれでしょう?

これも、マニアには周知の事実か?

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ポンコツなボーイ

1月31日(木)

あっという間に1日が過ぎる。

朝、妻からCメールが来た。

「Perfumeの不自然なガールのPVがカッコいい。動画サイトで。どうせ見ないでしょうけど」

最近の妻の口癖は、「どうせ見ないでしょうけど」である。

妻が面白いと思った動画やポッドキャストを私に勧めても、私が見たり聴いたりしないので、さすがの妻も呆れているらしい。

私はひどく反省した。全幅の信頼を置いている人が勧めるものを、忙しいことにかこつけて後追いしないというのは、人の道に反しているではないか。

自分の信頼している人が勧めるものには、飛びつかなければならない。

さっそく、妻の勧める動画を見ることにする。

Perfumeというのが女性アイドルグループだというのは知っているのだが、そのあとのメールの内容が意味不明である。

「PV」はたぶん、プロモーションビデオのことだろう。

「不自然なガールの」ってどういう意味だ?

昨年末の紅白歌合戦で見たが、たしかPerfumeは、私の若いころの言葉でいう「テクノ」、つまり、機械的な音楽とダンスを主としていたグループだったような。

そうか、不自然な(人工的な)感じのダンスをする女の子たちの、という意味か。

さっそく動画サイトで検索すると、筆頭に「Spring of life」という曲のPVが出てきた。

(これのことだな!)

さっそくこのPVを見て、見たことを早くメールで伝えることにした。なにしろ、「どうせ見ないでしょうけど」という言葉を、一刻も早く否定したかったからだ。

「Spring of lifeのPVのことでしょう?」

得意げに出した私のメールに、ほどなくして返事が来た。

「なにそれ?ふつうのミュージックビデオでしたけど。ダンスとかがすごいということなのですが」

絵文字もなく、かなりオカンムリな様子。ま、もともと絵文字はあまり使わないのだが。

しばらくして、ようやくわかった。

「不自然なガール」というのは、曲名だったのだ!

「不自然なガール」という曲のPVを見ろ、というのが、妻の言いたかったことで、私はてっきりそれを普通名詞だと思って、「不自然なダンスをする女の子のPV」と勝手に解釈して、「Spring of life」というぜんぜん違う曲のPVを見て、そのことをメールに書いたものだから、妻が「はあ?何を書いてきているのか、意味がサッパリわからん」ということになったのである。

ということで、またしくじってしまった(汗)。

ほんと、こういう芸能界のことに、めっきり疎くなったよなあ。

さて、今日の仕事をひととおりこなし、あっという間に夕方である。やるべきことを思い出した。

そういえば、世話人代表のKさんから頼まれていたことがあった。

「先日の講演会の講演録を作成したいので、そちらのICレコーダで録音した音声ファイルを、私(つまりKさん)のICレコーダで再生できるように、移してください。その際、できれば、前半のOさんの講演の部分と、後半のKさんの講演の部分を、分割して収めてくださるとなお助かります」

……ずいぶん難しい注文である。

ミッションは2つ。

一つは、講師2人のお話を連続して録音した音声ファイルを、分割してほしい。

もう一つは、その音声ファイルを、Kさんの持っているICレコーダで再生できるように移してほしい。

IT弱者には、サッパリわからん!

まず、「音声ファイルの分割」というのがよくわからん。

いろいろ試行錯誤してみたが、分割できないので、仕方ない、音声ファイルをそのまま、KさんのICレコーダに移すことにした。

ファイルを移すこと自体は簡単にできるのだが、移した音声ファイルをこんどはKさんのICレコーダで再生しようとすると、まったく聴くことができない。移したファイルはどこに行っちゃったんだ?

四苦八苦するも、結局できなかった。

そうこうしているうちに、午後6時をすぎてしまった。今日は「丘の上の作業場」で、今年度最後の作業である。

(とりあえず、音声ファイルについては、世話人代表のKさんに相談してみよう)

ということで、「丘の上の作業場」に行くことにした。

期末試験が直前であるせいか、今日は学生が1人もおらず、全員が社会人、しかもその多くは私と同じ世代のおじさんである。

世話人代表のKさんに聞いてみた。

「音声ファイルの分割とか、移動とか、うまくいかなかったんですけど…」

「そういわれても、私もIT弱者なのでわからないんですよ。もう少し、がんばっていただけますか?」

「はあ」

ということで、ボールが投げ返されてしまった。

作業をしながらの、同世代の仲間との会話は楽しい。とくにMさんの話は、そこはかとなく面白いのだ。

「むかし、金曜ロードショーの次回予告で、『特攻野郎Aチーム』が出てきたときのガッカリ感は、はんぱなかったですよねえ」

「そうそう!そうでしたよねえ。『なんだよ~』みたいな」

「同世代あるある」である。わっかるかな?わっかんねえだろうなあ。

…ということで、「丘の上の作業場」とも、しばしお別れである。また4月!

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