老先生にばかりなぜモテる
2月16日(土)~18日(月)
先週に引きつづき、3日間、「眼福の先生」ことT先生と調査旅行である。
現地では、私と妻にとって「姉」のような存在のSさんに、調査の段取りや交渉を一手にお願いしてしまった。
Sさんは、私にとっては「しっかり者の姉」のような存在で、私はいつも助けられてばかりいる。今回の調査旅行が実現したのも、調査先の現地にSさんが住んでいたからである。
T先生の飛行機や宿の手配は、すべて妻がおこなった。T先生には、身一つで来ていただこうと思ったからである。
行きの飛行機の中で、T先生がおっしゃった。
「あなた、イブ・モンタンという歌手を知っていますか?」
「ええ、知っています」
「そのイブ・モンタンが、俳優として出た映画に『恐怖の報酬』という映画があります」
「ええ、それも知っています。むかしテレビで放送されていたのを見ました」
「あなた、よく知ってるねえ。あの映画の中で、ある重要なものが出てくるでしょう?」
「はい、ニトログリセリンですね」
「そう、それだ。私はもしもの時のために、そのニトログリセリンに近い名前の薬を持ち歩いているのです」
先生は、その薬の用法について、ひととおり説明された。
齢80に近づこうかという、ご高齢のT先生にとって、飛行機による移動や、現地での3日間の調査が、かなりハードではないかと心配した。
しかし先週に続いて、T先生はたいへんお元気だった。
おかげで3日間、T先生の汲めど尽きぬお話を、間近でお聞きすることができた。
T先生は、まじめなお話から雑談に至るまで、とにかくよくお話になる。そのお話がどれも魅力的で面白い。
先生のお話が面白いのは、先生ご自身が、好奇心のカタマリのような人だからである。いつまでも若いことの秘訣は、この「好奇心」なのだろう、と思う。
そしてよく話が脱線する。その点はご本人も自覚しておられて、
「あ、…いま、話が脱線しましたね。どうしましょうか。脱線した話の方を続けましょうか、それとも、本筋の話の方に戻しましょうか」
脱線したお話があまりにも面白そうだったので、
「脱線したお話の方をお願いします」
というと、延々と、本筋から離れたお話の迷宮に入りこむ。そのお話がまた、面白いのである。
おかげで、本筋の話の結論が不明のまま終わってしまうことがしばしばである。
観察していて、気がついたことがある。
T先生はまくし立てるようにいろいろなお話をなさるのだが、不用意な発言というのを、いっさいしない。
どんな場合でも、慎重に言葉を選び、不見識な発言をしないのだ。
根底には、人間に対する深い洞察力がある、と気づいたのは、3日目の午後のことである。
3日目(18日)のお昼に、2日間続いた室内での調査がようやく終わり、午後は、地元の老先生にお話をうかがうことになっていた。
しかし、事前にSさんから聞いていたお話によると、そのお会いする予定の老先生は、かなり気むずかしいお方で、他の人も、そのあまりの気むずかしさに、ちょっと近づきがたいと思っている、とのことであった。
さてこのお話を、T先生のお耳に入れておいた方がいいかどうか、Sさんは直前まで迷っていた。先入観を与えてしまうことが必ずしも良いわけではないからである。だがお会いする場所に移動するまでの車の中で、Sさんは意を決して、これからお会いする先生についての情報を、T先生のお耳に入れたのである。
T先生は少し考えたあと、おっしゃった。
「まあ、やれるだけやってみましょう。その方は私と同じ世代の人間でしょうから、旧知の人間に会ったつもりで話をしてみますよ。そういうタイプの方にお会いするのは久しぶりですから、楽しみです」
その言葉は、さまざまなタイプの人と正面から向き合ってきたという先生ご自身の経験と自信に裏打ちされたものであろうと、私は即座に理解した。
私たちは緊張の面持ちで、その老先生とお会いすることになったが、T先生は、実に慎重に言葉を選びつつ、まるで旧知の間柄のように、その老先生に接した。
そのことが功を奏したのか、その老先生は、気むずかしい部分を微塵も見せないまま、私たちにいろいろお話くださった。
蛇足だが、私に対しても、とても機嫌よくお話くださった。
私たちはホッと胸をなで下ろした。
初日のフィールドワーク、2日めと3日めの午後までに至る室内調査、そして、3日め午後のインタビューと、予定していた調査は、すべて無事、終了した。
調査じたいはとても地味なもので、決して日の目を見るようなものではないかも知れない。しかしそこで得たものは、はかりしれないほど大きい。
羽田空港での別れぎわ、T先生がおっしゃる。
「記憶に残る3日間でした。まるで夢のようでした。ありがとう」
T先生と別れたあと、妻が言う。
「不思議だねえ」
「何が?」
「どうしてあなたは、おじいちゃんばかりにモテるんだろうねえ」
「T先生のこと?」
「それだけじゃない。午後にお会いした老先生も、あなたの顔を見て、嬉しそうに話していたし」
うーむ。たしかに、私は本当におじいちゃんにモテるのだ。
というか、おじいちゃんにしかモテないのが、悲しい。
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