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M氏の宝物

少しだけ、この週末に調査した「もの」をめぐるドラマについて、書いてみる。うまく伝わるかどうか。

T先生は、市井に生きるMという人の研究に出会い、惚れ込み、M氏の没後、M氏の日記を徹底的に読み込む。ちなみにM氏の年齢はT先生よりも40歳ほど上で、T先生はM氏に直接お会いしたことがないという。T先生と私の年齢差に近い。

M氏は、日常生活の細かいことから、自分の研究に関することに至るまで、実に詳細な日記を残していた。その量は膨大であった。

T先生はそれを、10年かけて書きおこす。なにしろM氏の書く文字は独特で、というより乱雑であったために、読み解くのに難儀したという。

だが日記をすべて読み通したおかげで、M氏に関することは、M氏の家族以上に知ることになる。T先生は、M氏のことを、日記を通じて、徹底的に惚れ込んだのである。

その日記には、こんなくだりがある。

M氏はある日、古本屋で「想像もできぬ」ような「宝物」を得た。

それからというもの、M氏は朝な夕なに、その「宝物」を徹底的に分析することになる。折りしも戦争中である。空襲警報が鳴ると、M氏はその「宝物」を抱えて、自分で掘った防空壕に避難した。こうしてこの「宝物」は、M氏とともに戦争を切り抜けたのである。

家族や親族の目には、脇目もふらず「宝物」の分析に没頭するM氏が、どのように映っていたのだろうか?だがM氏の研究の基礎は、この「宝物」によってつちかわれたのであった。

ところがあるとき、やむを得ぬ事情で、この「宝物」を手放さなければならなくなった。

それは、自らの研究を進展させるためにやむを得ない決断であったが、自分が長年愛用していた「宝物」を手放すことは、やはりたえがたいことである。日記には、神田の古本屋に手放したあとの「宝物」の行く末を案ずる記述が何度も見られる。終生、気にかけていたのだろう。

そしてその後、その「宝物」は、古本屋の店頭から姿を消す。誰かがこれを買ったのである。誰のもとに渡ったのかわからないまま、所在不明となってしまった。

その「宝物」のことを気にかけていたのは、M氏だけではない。M氏の日記を読み込んでいたT先生もまた、同様であった。T先生は、わずかに残されていた「宝物」の写真から、M氏がこのとき、何を分析しようとしていたのかを、つきとめようとした。そのことが、M氏の研究の原点を知ることにつながるからである。

だが、実物が見つからないことがやはり悔やまれた。T先生もまた、M氏の「宝物」が所在不明になってしまったことを悔やむ文章を学会誌に書いたのである。

さて昨年。

その「宝物」が、中国地方の小さな町の図書館で、見つかったのである。所在不明になってから、実に60年ぶりである。これもまた不思議な縁で、私の妻が発見し、妻と私が、T先生にそのことを一番にお知らせしたのであった。そして、調査が実現した。

「自分の親に会ったような気分です」

T先生は、その「宝物」を前にしてそうおっしゃった。私にはむしろ、T先生はM氏とお会いしたのだ、と思えた。

この週末、T先生は、目を皿のようにして、この「宝物」を分析した。

それは、この「宝物」を通じて、T先生が師と仰ぐM氏と対話をしているようにもみえた。

そこで気づく。

齢八十に近づこうとするT先生を、いまでも突き動かしているもの。

それは、M氏に対する「共感」なのだ、と。

実はこの「宝物」は、「唯一至高のもの」というわけではない。

市場価値、という点からいえば、同じものでもっと価値の高いものはいくらでもある。

しかしこれは、M氏が生涯をかけて研究に没頭したきっかけを作った、「宝物」である。

人間にとっての「宝物」とは、何か?

それは、価値が高いとか、稀少であるとか、そんなことではない。

そのものが持つ「物語」こそが、「宝物」なのである。

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