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キネマの天地

久しぶりに山田洋次監督の映画「キネマの天地」(1986年公開)を見た。

「松竹大船撮影所50周年記念」と銘打たれたこの映画は、松竹オールスターキャストの、「お祭り映画」である。年2回のペースで制作されていた「男はつらいよ」を、1回分休んで、この映画が制作されている。

1930年の「松竹蒲田撮影所」を舞台に、映画に情熱を燃やす人たちの群像を描く。ストーリーは、新人女優の田中小春(有森也美)の成長物語を軸にして進んでいく。

この映画はもうひとり、中井貴一演じる助監督・島田健二郎の成長物語でもある。

あらためて見直して私のツボだったのは、島田(中井)と、その先輩である小田切(平田満)の対話の場面である。

松竹蒲田撮影所で助監督として映画の見習いをしている島田は、撮影所が不満でならない。自分はいつか、社会派の重厚なドラマを作ろうと考えているが、撮影所の監督たちは、誰もが胡散臭く見え、作る映画も低俗な娯楽作品ばかりである。島田はそんな撮影所がたまらなくイヤだった。

あるとき、先輩の小田切と久しぶりに会う。小田切は、政治活動家として特高警察に追われる身であった。

島田が小田切に、撮影所の不満を言うと、小田切は笑いながら言う。

「君はいつでも不満を言うんだな。…島田君、不満なんか言ってないで、作り出せよ、何かを。大変な時代なんだからな」

いつも現状に不満ばかりを言う島田は、今の私そのものではないか、と、思わず苦笑してしまった。

それに、権力に不満を持っているはずの小田切が、「不満を言うな」と説得しているところが、そこはかとなく可笑しい。

もう一つ、この映画で秀逸なのは、小春の父・喜八を演じた渥美清である。

この映画では、当然ながら「寅さん」を演じているわけではない。しかし、どことなく「寅さん」を感じさせる。

それは、山田洋次監督が渥美清を演出するときに、必ず「自虐的な一面」を描いているからではないか、ということに気づいた。

喜八と屑屋(笹野高史)のやりとりは、この映画の中でもかなり秀逸な場面である。

「ねえ親方、何かありませんかぁ?金目のもの糸目のもの、穴の空いたやかん、古新聞、役に立たねえものなら何でももらいますよ」

「じゃあ、俺でも持っていくか」

「ええ?」

「この家で、一番役に立たねえのは、この俺だ。…メシ食っちゃクソたれるばっかりだ…」

「そういう気持ちになることもあるねえ」

この後、喜八と屑屋は、秀逸なやりとりを展開していくのだが、それは映画を実際に見てみなければ伝わらない。

次に、喜八が、ひそかに思いを寄せている隣の奥さん(倍賞千恵子)と、小春のことについて話をする場面。

「やさしい子ねえ。小春ちゃんは」

「だけどね、奥さん。いつまで黙っているわけにもいかねえし」

「え?」

「いずれ、例のことをちゃんと話して、別れ別れになって、俺は隅田川に身を投げて死ぬ、と。…そんな考えが一番いいんじゃないかねえ」

「なんてバカなこと言うの!そんなことしたら、小春ちゃんがどんなに悲しむか、わかんないわよ!」

「そうかねえ」

「冗談にもなりゃしない」

「やっぱり、話さねえほうがいいかね」

「当たり前ですよ!」

隣の奥さんはすっかり呆れてしまう。

ここでいう「例のこと」というのは、小春の出生をめぐる秘密である。

それはともかく、喜八が極端に自虐的なことを言って、隣の奥さんを呆れさせる、という構図は、寅次郎が自虐的なことを言って妹のさくらを呆れさせる、という構図と、まったく同じである。

山田洋次監督は、渥美清に対して、野放図な可笑しさだけではなく、どこか自虐的な一面を背負わせたのである。

たぶんそこが、多くの人の共感を呼ぶところとなったのだろう。

ちなみに、渥美清演じる人物の「自虐的な一面」は、心を許した人にしか見せない。この点も、一貫した演出のように思える。

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