入れ札
2月7日(木)
菊池寛の名作短編小説「入れ札」を久しぶりに読んだ。
いまはインターネット上に「青空文庫」という便利なサイトがあって、誰でも手軽に読むことができる。
代官を斬り殺した国定忠治が、幕府の役人に追われ、上州の赤城山から榛名山を越え、信州に逃げのびてゆく。
国定忠治にはそのとき11人の子分がついてきていたが、11人で逃げていては、目立って仕方がない。11人全員を、一緒に連れて逃げるわけにはいかない。
忠治は、3人だけを連れていきたいと考える。
だが、3人ならば誰でもよい、というわけではない。
11人の子分の中には、「使える子分(有能な子分)」と、「使えない子分(無能な子分)」がいる。忠治にしてみたら、当然、「使える子分」を連れていきたい、と考えるのである。
では、その3人をどのように選んだらよいのか?
忠治が意中の3人を「指名」するのが、最も簡単な方法である。
だがそれをやると、指名されなかった子分はいい気分がしない。角が立つのである。だから、忠治の口から、3人の名前をあげることは、避けなければならない。
そこで忠治は、「俺ひとりで逃げのびる」と、子分たちに言う。
そう言われてしまうと、子分たちも黙ってはいられない。親分をひとりにすることはできないからである。
そこで提案されたのは、「くじ引き」である。
この方法であれば、公正に3人を選ぶことができる。だが、これだと「使えない子分」が選ばれる可能性があり、忠治にとってはリスクが大きい。
考えた結果、「入れ札」、つまり投票によって、その3人を選ぼうということになった。
子分たちの間で、「誰が忠治親分についていくのにふさわしい人物か?」を投票するのである。もちろん、自分が自分に投票しないことは、暗黙の了解である。
この方法であれば、忠治は自分に責任がかかることなく、3人を選ぶことができる。責任は、選んだ子分たちの方にあるから、角が立たないのである。しかも、くじ引きにくらべれば、はるかにリスクが小さい。
いよいよ、11人の子分たちによる投票が始まる。
ここから小説は、「愚鈍な筆頭の兄分」である「九郎助(くろすけ)」の心理描写を中心に話が進んでいき、その心理描写は見事というほかないのだが、ここで考えてみたいのはそこではなく、「入れ札」そのものの話である。
さて結局、投票結果はどうなったのか?
投票の結果、忠治が連れていきたいと思っていた3人が選ばれ、忠治は安堵するのである。
つまり、忠治のためを思っての子分たちの投票行動が、忠治の思惑通りの結果となってあらわれたのである。
私自身が属する組織でも、しばしば「投票」によって物事を決めることがある。その人々の「投票行動」をこれまで見てきて、強く思うことは、
「投票には、良くも悪くも、人の善意が反映される」
ということである。
「入れ札」の結果が忠治の希望通りとなったのも、子分たちの善意が反映されたからにほかならない。
国定忠治は、そのことを見抜いていたからこそ、「入れ札」にかけたのである。そして菊池寛はそれを描くことで、一見「子分思い」にみえて、その実冷静で冷徹な忠治という人物像を示そうとしたのではないだろうか。
この小説の主人公は、冴えない子分の「九郎助」であり、この小説の妙味は、あくまで九郎助の心理描写にある。だが、物語の本筋ではない国定忠治の視点でこの小説を読んでみることもまた、おもしろいと思う、今日この頃である。
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コメント
国定忠治の立場からみた「入れ札」評ですね。
「善意に支えられていること」は人の上に立つ者が忘れてはならないことなのでしょう。だから、人の上に立つ者は「善意」にあぐらをかいているのではなく、その善意に対して真摯に向き合い、それに報いる責任があるのだと思います。
これができるかどうか―――人間の器量が試されているような気がします。
投稿: とよ | 2013年2月 9日 (土) 17時39分
さすが、私の言いたかったことを見抜いてくれてますね。
投稿: onigawaragonzou | 2013年2月11日 (月) 07時39分