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2013年3月

My Dear Life

金子哲雄『僕の死に方』(小学館)に触発されて、考えてみた。

私はたぶん、金子哲雄さんのようにしっかりと自分の死を迎えることはできないと思うが、

たった一つだけ、望むことがある。

もし、自分が人生の最後を迎えるとき、

最後に聴きたい曲は何か?

それは、渡辺貞夫さんの「My Dear Life」である。

高校生の時、毎週土曜の夜12時から、FM東京の番組「渡辺貞夫マイ・ディア・ライフ」を聴いていた。

そのテーマ曲が、この「My Dear Life」である。

ナベサダさんの音楽は、いつも、暖かい。

いろいろあった人生の最後に浮かぶのは、ありふれた言葉ではなく、

このメロディなのではないか。

高校生の頃から、ずっと、そんなことを思ってきた。

陳腐な言い回しだが、この曲は、ナベサダさん流の「人生賛歌」なのだ。

かなり照れくさい書き方をするが、この曲を聴くたびに、

「ご苦労さん。よく頑張ったよ」

とか、

「人生って、捨てたもんじゃないんだぜ」

とか、そんな気持ちになる。

だからこれからも、何度でも聴くだろう。

この曲にふさわしい人生をおくっているだろうか、と、たしかめながら。

(以下、蛇足)

…と、ここまで書いて、この曲を作ったときのナベサダさんの年齢を調べてみると、

今の私と同じ年齢の時であることがわかった。

997dc467200828ab54597b13ddf36c9c 同名タイトルのアルバム「マイ・ディア・ライフ」が作られた1977年、ナベサダさんは44歳だった。

このアルバムをきっかけに、ナベサダさんは、ジャズからフュージョンへと、大きく舵をきる。

ナベサダさんにとっても、人生の転換点となるアルバムだったのだ。

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僕の死に方

ちょっと前のことだが、

私と同世代のラジオDJが、生放送のラジオでさんざんくだらないことを喋ったあとの、エンディングの35秒で、次のようなことを言った。

「東京タワーを見て思い出してほしいって人がいて、

で、その後最初にみた東京タワーが、特撮博物館でのミニチュアの東京タワーだったんですけど、

ミニチュアの東京タワーを見て「モスラ対ゴジラ」を思い出すかと思ったら、

ラジオを聴いててくれたというあなたのことを思い出しました。

今後ちょくちょく思い出してはいこうと思いますけど…

お疲れ様でした。

いつか、追いかけます」

最初聴いたときは、何のことかわからなかったが、これが41歳の若さで亡くなった流通ジャーナリスト・金子哲雄さんに対するメッセージであることに気づいたのは、だいぶ後になってからである。

私は最近、ほとんどテレビを見ないのでわからないが、それでも、ときおり見るテレビに金子哲雄さんが出ていたから、当時、そうとう売れっ子だったのだろう。

私とほぼ同世代の人の死。いやがおうでも、気になってしまう。

9784093965200ふと思い立ち、金子哲雄『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』(小学館、2012年)を読んでみた。

余命を宣告され、絶望の淵に立たされた彼は、やがて、「自分の死に方」を、徹底的にプロデュースし始める。

自分の墓を、東京タワーのふもとのお寺に用意する。「東京タワーを見たら思い出してほしい」ためである。

死ぬ前に、すべての仕事を片付ける。お世話になった人に、きちんと別れを告げるのである。

そして自分の「死にざま」を、しっかりと記録する。

この本の性格上、読みながら涙が止まらなくなるのは、仕方のないことである。

私がこの本を読んで思ったことは、

「きちんと死ぬためには、ちゃんと生きなければならない」

ということである。

だからこの本は、死の準備のための本ではない。

「ちゃんと生きる」ための本である。

ただ、僕にはとてもできない。

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甘いものは続く

3月26日(火)

予定していた明日(水曜)の出張が延期になり、ぽっかりと時間が空いた。

時間が空いた、といっても、やることはたくさんある。

耐震工事が終わり、仮の仕事部屋から本来の仕事部屋に戻ったときに運んできた本のダンボールが、実はまだ荷解きされないまま、職場の各所に100箱ほど置いてある。

それを早く、本来の仕事部屋の本棚に配架しなければならない。

ええぇぇぇぇ???まだやってなかったの?

と、このブログの読者からお叱りを受けるかも知れないが、「得意の先送り」でそのままにしておいたものを、いよいよ新年度がはじまるので、その前に片付けなければならなくなったのである。

ブログの読者、で思いだしたことだが。

私は、「こんなブログを書いているんで、ぜひ見てください!」と宣伝したことは、始めたばかりのころに、自分の受け持っていた学生たちと、ごく親しい友人数人に宣伝したほかは、いっさいない。

ところがどういうわけか、この「地下秘密ブログ」が、自分のあずかり知らぬところでも広まるようになった。ま、今のところ実害がないので、そのままにしているが。

一昨日(24日)のボランティア作業のあとの帰りの車の中で、同い年の盟友・Uさんに、何かのはずみで私がブログを書いていることを知られたのであった。

「ちょっとショックだなあ」とUさん。「オレ、Mさんのこと、けっこう友達だと思っていたのに、ブログ書いていたなんて、知らなかったぜ」

「同業者には言わないことにしていたんですよ」

たしかに、盟友のUさんに教えていないのは、まずかったかも知れない。

しかし、顔の広いUさんに知られると、知られたくない人にまで広まってしまうのではないかと、つい心配してしまい、今の今まで黙っていたのだった。だがそれでは、Uさんにあまりにも失礼である、と思い直した。

私は自分のブログのタイトルをUさんに教えた。

ただ、Uさんのことだから、すっかり忘れているかも知れない。

「お詫びに、お宅まで送りますよ」

車で来ていた私は、Uさんを家まで送ることにした。

「なんか、タクシー代わりみたいで悪いなあ。この借りは、絶対返しますよ」

Uさんらしい義理堅さである。私はこのUさんの義理堅さに惚れ込んだのだ。

…それが一昨日の出来事。今日書きたいのは、そんなことではない。

憂鬱で原稿を書く気も起きないし、本のダンボールを荷解きして部屋を整理しようと思っていたところ、「今日は、職員のSさんの最後の出勤日ですよ」と聞いた。

この職場で3年間勤めたSさんは、4月から新天地で専門を活かした職に就くことになった。

Sさんには、本当にお世話になった。私が企画したイベントが成功したことの何割かは、Sさんの作ったポスターやチラシの効果であることは間違いない。

本来の仕事ではないにもかかわらず、私が企画するさまざまなイベントに「楽しんで」つきあってくれたことは、私にとってはありがたいことであった。

午後、Sさんの勤務する部局に顔を出すと、

「午前中は、入れ替わり立ち替わりお客さんが来て、タイヘンだったんですよ」と、Sさんの上司のTさん。

職場の内外の人たちに愛されていたSさんだから、それはそうだろう、と思った。

「T君も来てくれたんですよ」

そうか、卒業生で職員のT君も来てくれたのか。彼もまた、Uさんと同じでとても義理堅い人間なのだ。

「一つ困ったことが」とTさん。

「何です?」

「今日はお客さんがみんな、Sさんのためにケーキを買ってきてくれたんです」

「はあ」

「それで、私たち職員2人では、とても食べきれませんから、先生にも食べていただきたいんです」

「いいですよ」

「ノルマは2つです」

「2つ???!!!」

いくら甘いものが好きだと言っても、ケーキを2つ食べるというのは、かなりきつい。

それに、昨日卒業生からもらった「カフェ・オ・レ大福」も、賞味期限が今日までなので、それも今日中にひと箱全部食べきらなければならない。

しかしどうしても、と言われたので、「sugar尿illness」を覚悟でケーキを2ついただくことにした。

さしずめ「甘いものを処理する機械」だな。

甘いものというのは、どうしてこう「続く」のだろう。以前も同じようなことがあった

すっかりお邪魔してしまったので、仕事に戻ることにした。

部局を出てから、

(そう言えば、ちゃんとお別れのご挨拶をしなかったなあ)

と思った。いつものように、「ではまた」と言って、出てきてしまったのである。

大人なんだから、ちゃんと気の利いた挨拶をすればよかったなあと思ったが、そこが私の限界である。

別れ、というのは、なかなか実感がわかない。

それが、予定されたものであっても、不意のものであっても、である。

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世界に一つだけのネクタイピン

3月25日(月)

卒業祝賀会の日。

もちろんおめでたい日であるが、儀式ばったことが嫌いな私には、どことなく憂鬱である。

たいていの場合、いたたまれなくなって、早引きしてしまう。

今年もその予想が的中した。

2012祝賀会が行われる大きなパーティー会場には円卓がいくつも並べられており、一つの円卓に10人程度が座るようになっている。

困るのは、席が自由席になっていることである。今年は知っている学生がほとんどいなかったせいもあり、ボーッとしている間に、全然知らない保護者の方々の間に挟まれて座る羽目になった。

いつも思うのだが、卒業祝賀会に保護者が出席するという感覚が、私にはよくわからない。娘の親ならまだ何となくわかるのだが、息子の卒業祝賀会に母親が一緒に出るって、どうなのだろう?

私が息子だったら、「来んじゃねえよ!」と絶対に拒否するところだが、どうも時代は変わったらしい。一生に一度のことなのだから、やはりお祝いしたいということなのだろう。

まあ、そんなヒネクレたことを思ってばかりいるから、誰に話しかけることもなく終わってしまうんだな。今年もまたいたたまれなくなり、デザートが出たあとでそそくさと帰ることにした。

今年のメインは、むしろ祝賀会が始まる前である。

3階の祝賀会場の前で手持ち無沙汰で立っていると、Cさんがやって来た。

「うちの両親が先生にご挨拶したいと、1階のロビーで待っています」

1階のロビーに降りていって、ご両親にご挨拶する。

絵に描いたような、ナイスミドルのご夫婦である!

世の中に、こんなナイスミドルのご夫婦がいたんだなあ。

「うちの娘がお世話になりました。これ、うちの地元のお酒と、お菓子です」

と、紙袋をいただいた。

Img20090426_3_p_2あとで開けてみると、和菓子は以前、Cさんが持ってきてくれた、Cさんの地元のお菓子屋さんの「カフェ・オー・レ大福」である!

初めて食べたとき、あまりの美味しさに衝撃を受けた。

「あの大福が、もう一度食べたいなあ」と、先日Cさんに言ったところ、なんと、ご両親がわざわざお持ちいただいたのである。私はひたすら恐縮した。

考えてみれば、Cさんの「甘いお菓子」に対するセンスは抜群であった。これから、その情報が聞けなくなるかと思うと、少し寂しい。

再び3階に上がるが、祝賀会はまだ始まらない。

こんどはCさんを含めて、私が卒論を指導した学生4人がやってきた。

すでにN君は泥酔状態である。

「大丈夫か?どこで飲んだの?」

「卒業式が終わったあと、公園で飲みました。ヒック」

N君の周囲半径2メートルくらいはすでに酒臭く、N君はまるでコントに出てくる酔っ払いのような千鳥足である。

「大丈夫か?」

「大丈夫です。全然酔ってませんから。ヒック」

やはりコントに出てくる酔っ払いだ。

N君は4月から東京の都心に移り住み、生き馬の目を抜く業界で、たぶんこれからもこんな感じでやっていくのだろう。

「先生、お世話になりました」4月から地元の近くの銀行に勤めるO君。

「本来だったら、(この学年のリーダーの)Nから渡すべきなんですが、ご覧の通りこんな感じなんで、代わりに僕からです」

「ヒック」

たしかにN君では無理だな。

「開けてみてください」

小さな箱を受け取り、中を開けてみると、ネクタイピンが入っていた。

「そこに字が彫ってあるでしょう。何て書いてあるか読んでみてください」

「ちょっと待って。オレ、老眼なんだよ」

だが絶対に眼鏡を外すもんか!と、ネクタイピンに彫られている小さな文字を、目を凝らして見てみると、だんだん焦点が合ってきた。

「キョスニム」!

20130325155430_61870782ネクタイピンには、「キョスニム」と彫ってあるではないか!

世界に一つしかない、「キョスニム」と彫られたネクタイピンである!

「キョスニム」とは、韓国語で「教授様」の意味である。韓国留学中、私はずっとそう呼ばれ、これがあだ名のようになっていた。カタカナで書く「キョスニム」は、日本でももう完全に、私のあだ名である。

「ありがとう」

私は汗を拭くふりをして、涙を拭いた。

「この話、絶対にブログに載せてくださいよ」とCさん。

Cさん、約束通り、ブログに載せましたからね。

卒業おめでとう!

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体調を崩す世代

3月24日(日)

ボランティア作業2日目。朝9時から作業開始である。

朝7時すぎ、「前の職場」の元同僚のKさんから電話があった。

「急に体調が悪くなって、これから病院の救急外来で診察を受けるところです。9時からの作業、進めておいてください」

昨晩、こぶぎさんと3人で午前1時まで「ガスト会議」をしていたときは、とくに何ともなかったKさんが、翌朝、救急診療の病院に行かねばならぬほど、体調が悪くなったという。

「わかりました。こちらの方は心配いりませんから、どうかお大事にしてください」

そう言って電話を切ったが、そうは言ってみたものの、この2日間は、「前の職場」を作業場として、県内外から20人以上のメンバーが集まっている。作業場の管理人は、この「前の職場」に勤務するKさんであり、Kさんがいなくなれば、いわば「家主」がいない状況で作業を進めなければならなくなる。

それでもなんとか、朝9時前から作業をはじめることができた。

この2日間の作業は、一つの区切りとなる重要なものであり、Kさんは、作業場所の確保から、参加人数の把握、作業当日の弁当の注文に至るまで、準備の段階でかなり神経を使い、そのストレスは相当なものだったと想像される。

おそらく体調不良の原因は、そこにあるのだろう。

それに加え、午前1時まで「ガスト会議」をしていたのだから、疲労は頂点に達したのであろう。

「Mさん(つまり私)の責任ですよ。MさんがKさんを追いつめるようなことを言うから」

これは、作業仲間たちの、おおかたの見解である。

どうも私は知らず知らずのうちに、繊細なKさんに対して軽口をたたいたつもりが、Kさんを追いつめるようなことを言っていたようである。

私はいつもそうである。親しい友人であればあるほど、つい気を緩めてしまい、相手の事情を考えない発言をしてしまうのだ。これが知らず知らずのうちに相手にストレスを与えてしまう。この点は、猛省しなければならない。

そしてもう一つ考えなければならないことは、私たちの世代は、無理をすると、とたんに体が拒否反応を示し、体調を崩す、ということである。若い頃には考えられなかったことである。

午後、Kさんの体調は回復し、作業場に戻ってきた。

2日間の作業も、多くの人たちの結束によって、無事終了した。

大事に至らなくて、本当によかった。

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午前1時のドリンクバー

3月23日(土)

週末の2日間は終日、「前の職場」でボランティア作業である。

せっかく50㎞離れた「前の職場」に来たので、夜は久しぶりにこぶぎさん、Kさんと3人で、「ガスト会議」をしようということになった。

こぶぎさんのひとり旅の話は、相変わらずバカバカしくておもしろい。

「以前、醤油パスタの美味しい店に行ったでしょう?」

「ええ」

「あそこで使われていた醤油、北隣の県の『小京都』とよばれる町で作られていることを知ってね。すごい大雪の日だったんだけど、買いに行ったんだよ」

「わざわざ?」

「うん。お店に行ってみたら、『特撰』とか『本醸造』とか、いろいろな種類の醤油が並んでいてね。なんと試飲コーナーがあるんだ」

「醤油が試飲できるんですか?」私は驚いた。むかし、徴兵を忌避するために醤油を飲む人がいた、というのを聞いたことがあるが、そのことを思い出した。

「で、試飲してみたんだが、飲んでみても、基本的には醤油の味しかしなくて、醤油パスタに使われている醤油がどれだか、よくわからない」

「そりゃあそうでしょう」

「で、お店にいた女性店員さんに聞いてみたら、『よくぞ聞いてくださいました!』みたいな感じで案内されて、『これです』と紹介されたのが、なんと『そばつゆ』だったんだ」

「え?醤油パスタの醤油は、『そばつゆ』を使ってたんですか?」

「そう。それで、仕方ないから1リットル入り700円のそのそばつゆを買って、帰ってきたの」

「1リットルも?」

「で、そのそばつゆを使って、そばを食べてみたんだ」

「どうでした?」

「ちょっと僕にとってはしょっぱくてねえ。そばのつゆにはあまりむいていないと思った」

こぶぎさんの口には、あまり合わなかったらしい。

「それじゃあダメじゃないですか」

「でも、それで醤油パスタを作って食べてみたら、やっぱり美味いんだ」

「じゃあ、いっそのこと『そばつゆ』として売り出さずに、『醤油パスタ用の醤油』で売り出したらいいのにねえ」

「そうだよねえ」

醤油パスタの醤油を求めて、大雪の「小京都」を旅するバカバカしさに笑ったが、あとでハタと気づく。

醤油パスタの醤油ひとつにもこだわり、ホンモノを買い求めて風情ある町を旅するという姿勢は、考えようによっては『サライ』とかに出てくるナイスミドルのライフスタイルにも通じるのではないだろうか?!

…いや、それはないな。

ナイスミドルだったら、オッサン3人がガストで午前1時まで、ドリンクバーだけでねばっているはずはないもの。

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昭和史発掘

3月22日(金)

職場で、中学生を対象にしたワークショップを開催した。

年明け頃、上司から、

「今年度中に、小学生とか中学生とかを対象に、何かイベントをやってくれ」

みたいなムチャブリをされ、

「ええぇぇぇ!!あと2ヵ月しかないじゃん!」

と困惑しながら、急ごしらえで考えた企画。

幸い市内の中学校から、7名の中学生が参加してくれて、無事に終了した。

なかにはけっこうマニアックな中学生もいて、

(ああ、オレもたぶんこんな感じの中学生だったかもな)

と、中学生のころの自分を思い出した。

あれは、小学校6年のころか、中学に入ってからのことだったか。定かではない。

自分の書いた作文が何かの賞をとって、けっこうまとまった賞金をもらった。

その賞金を持って、ひとりで神田神保町の古本屋街に初めて行った。

そこで初めて買った本が、松本清張の『昭和史発掘』全巻である。

文庫本ではなく、ハードカバーで、全冊揃えでたしか5000円だったと思う。

それを、えっちらおっちら抱えながら、家まで帰った。

考えても見たまえ。小6か中1くらいの「クソガキ」が、神保町の古書街で『昭和史発掘』全巻を買ったんだぜ?

みんながガンダムで盛り上がっているときに、

「石田検事の怪死」

とか、

「佐分利公使の怪死」

とかいったエピソードを、ワクワクしながら読んでいたなんて、どう考えても、かわいくないやつだろ!

さすがに、そのとき読破できたわけではなかった。二二六事件のあたりになると、すっかり挫折してしまった。

でも、いまだに『昭和史発掘』は、私にとって特別な本である。

私は、自分の中学生のころをふり返るたびに思う。

中学生だからといって、バカにしてはいけない。

ナメてかかっては、いけないのだ。

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渥美清とハナ肇

またか、と思われるかも知れないが。

616295v6w1l 初期の山田洋次監督作品は、ハナ肇を主役にすえた喜劇、いわゆる「馬鹿シリーズ」が大当たりした。「馬鹿まるだし」「いいかげん馬鹿」「馬鹿が戦車(タンク)でやって来る」である。

しかしある時期から、山田洋次監督は、渥美清を主役にすえた喜劇を作り始める。「男はつらいよ」の第1作が公開されたのは、1969年のことであった。それ以降、ハナ肇を主役とする喜劇作品は、まったく作らなくなる。「男はつらいよ」シリーズに、ハナ肇が出演することもなかった。

このあたりから、渥美清とハナ肇の確執、というのが生まれる。

このへんの細かな人間模様については、小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)に詳しい。

想像するに、山田監督は、ハナ肇の演ずる、豪快で粗暴な人物を喜劇の主役にすえることから、渥美清の演ずる、内省的な人物を喜劇の主役にすえることへ、方向転換をはかったのではないだろうか。

しかし、山田監督は、ハナ肇をまったく使わなくなったのかというと、そうではない。

123572577713616129451_harukanaru 映画「遙かなる山の呼び声」(1980年公開、高倉健主演)で、ハナ肇は、実にすばらしい芝居をする。彼でなければできない芝居である。ラストシーンの彼のセリフは、この映画の最大の見せ場であり、日本の映画史に残る感動的なものである。

ちなみにこの映画では、渥美清も特別出演しているが、ほんのワンシーンだけで、ほとんど記憶に残らない。それに、ハナ肇とのからみも、当然ながら、ないのである。

Img_903909_34489330_0 山田監督の映画ではほかに、「キネマの天地」(1986年)で、渥美清とハナ肇が出演しているが、この映画は、渥美清の映画であり、ハナ肇は、ほんのワンシーンだけの出演である。ここでも2人がからんでいるシーンはなく、のちのちまで、2人の確執は続いたのだろうと想像される。かくして、渥美清とハナ肇は、同じ画面で「共演」することはなかった。

しかし、たった1度だけ、2人が同じ画面で「共演」したことがある。

それは、1966年公開の「運が良けりゃ」である。

Img_254957_7473864_0 江戸の古典落語を下敷きにした時代喜劇で、山田監督初の時代劇作品である。

このときの渥美清の芝居は、「怪演」ともいうべきもので、主役のハナ肇を完全に凌駕しようとする「野心」が見てとれる。

このとき、ハナ肇と渥美清の間には、どんな火花が散ったのだろうか?

その2年後の1968年、「ハナ肇の一発大冒険」を最後に、山田洋次監督によるハナ肇喜劇映画は作られなくなり、さらにその翌年の1969年、「男はつらいよ」の第1作が始まるのである。

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モリカワさんの息子さん

3月20日(水)

高校のブラスバンド部の1年下の後輩、モリカワさんから連絡が来た。

「恒例の春の飲み会をしたいと思います。先輩の都合はいかがですか?」

昨年末に、忘年会と称して集まったばかりである。何の懐かしさもヘチマもない。

「誰が来るかによって出欠を考えるよ」と、相変わらず傍若無人な返事を送ったら、

「誰が来るかによって出欠を考えるなんて、そんなのサイテーです。幹事に失礼です!」

とたしなめられた。ま、こんな軽口をたたけるのも、ここくらいなものである。

モリカワさんからのメールの続きに、

「それから、息子が大学に現役合格して、M先輩の後輩になりました」

と、嬉しそうな「顔マーク」とともに書いてあった。つまり、私の出身大学に合格した、ということである。

そうか…モリカワさんの息子さん、いよいよ大学生になるのか。早いものだ。

高校時代のモリカワさんは、やることなすことがトンチンカンで、頼りない感じの子だった。いまでもその印象は変わらない。

大学院修了後、ほどなくして結婚し、自分の専門を活かした仕事を続けながら、子育てをしたのだと思う。そういった話はあまりちゃんと聞いたことがないので、ただ想像するのみだが。

少しだけ、モリカワさんのことを見直した。

「間違っても私のようなわがままな人間にならないように、息子さんによく言い聞かせなさい」

私はモリカワさんに、そう返信した。

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雲をつかむような話

職場での雑談。

「この前、出張先の本屋で、浅田次郎のおもしろそうな小説が平積みされていたんですよ。私は買わなかったんですが」

「新刊ですか?」

「さあ、『店員のおすすめ』というコーナーにあったので、新刊かどうかはわかりません。でも文庫本でした」

「何ていう小説です?」

「それがタイトルを忘れてしまったんですよ。別の本を買ってしまったもので」

おもしろそうな小説だと思ったにもかかわらず、買わなかったらしい。

「浅田次郎って、軍隊ものとか、幕末ものとかを書かせると、じつに面白いでしょう?}

「そうですね」

「たぶん、そんな小説です」

「はあ」

「なんとなく、『プリズンホテル』みたいなテイストのような気がします。タイトル、何だったけなあ…」

気がします、という言い方も曖昧である。それにしても、タイトルが気になる。

「長編小説ですか?それともシリーズものですか?」

「長編もの…シリーズもの……、うーん。なんか下巻が出るような感じでした」

下巻が出るような感じ?すると、上下巻か?あるいは上中下巻?

「とにかく、とてもおもしろそうな小説だったので、ぜひ読んでみてください。」

「はあ」

「おもしろかったから読んでみてください」ではなく「たぶんとてもおもしろそうな小説だから読んでみてください」という薦め方は、初めてである。

それに、情報があまりにも漠然としすぎている。たしかな情報がなにひとつない。

浅田次郎の小説で、

軍隊ものか幕末ものっぽくて、

『プリズンホテル』みたいなテイストのような気がする本で、

下巻が出るような感じのボリュームで、

文庫本で、

店員が薦める本にあげられているもの。

ただし新刊とは限らない。

…うーむ。これだけでは、なんとも雲をつかむような話だ。

気になったので、書店に行って探してみるが、それらしい小説はみつからない。そもそも私は、浅田次郎の小説をそれほど読んだことがないせいもあり、なかなか見つけられないのだ。

Yahoo!知恵袋さま!いったいこの小説は何なのでしょうか?

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ナカヤマさん

中2のころの話をしましょうか。

ラジオを聞いていたら、私と同世代のラジオDJが、つい最近中学校のクラス会に初めて出た、という話をしていて、そのときの話がとても面白かったんですよ。

被害妄想の激しいそのラジオDJは、自分がクラス会に行っても、なんとなく居心地が悪い。

クラス会に参加する人たちは、どちらかといえば学校で主導権をにぎっていた人たちで、そういう人たちに何となくなじみにくかった彼は、実際にはクラス会に来なかった人たちの方が気になる、と言っていたんです。それを聞いて、わかるわかると。

私も、10年ほど前に中学校のクラス会に出たことがあるんですが、そのときに来ていた人たちは、やはり中学時代にやんちゃをしていた人たちがほとんどで、私はかろうじて、生徒会長をしていた、ということだけで、何とかみんなに覚えられていた、という程度でした。

何しろ私の中学時代は、校内暴力とかが問題化していた時期で、私が通っていた中学校も、市内では「問題校」として、目をつけられていたくらいでしたから。

クラス会で、ふと思い出したことがあります。

中学の時に、3年間いじめられ続けたTさんという女の子がいました。その子の家はとても貧乏で、いまから思うと貧乏に対する「差別」に起因するいじめだったと思うのですが、1人だけ、そのTさんに、最後まで味方をしたナカヤマさんという女の子がいました。

ふだんは明るい子ですが、男子がその子をいじめようとすると、

「いじめんじゃねえよ!」

と、すごい剣幕でTさんを守るのです。

「S子!こんど何かされたら、私に言いなさいよ!」

ナカヤマさんは、Tさんのことを何かと気にかけていました。

ナカヤマさんはバスケ部の女の子で、バスケをしている時の姿がとてもかっこよかったんです。中1と中2のときに同じクラスだった私は、そのナカヤマさんに、ひそかに好意を寄せるようになりました。ま、中学生にはよくあることですね(笑)。

ここで、かなりヘビーな読者は覚えているかも知れないけれど、中1のときに、やはり同じクラスだったチバさんというバスケ部の女の子に好意を寄せていた、と書いたことがあります。チバさんとは、2年生になってクラスが違ってしまったから、中2になってからは、もっぱらナカヤマさんと話をするようになったんです。ま、中2のころなんて、そんなものです(笑)。

あるとき、ナカヤマさんがクラスの仲間を集めて、「お昼休みに体育館に忍び込んでバスケをしよう!」という提案をしました。

運動音痴だった私は、バスケとは縁遠い生活をしていました。なにしろ、ボールをパスされて、ドリブルしながら走っていると、走っている自分の足でボールを蹴ってしまう、というくらいでしたから(笑)。

でもそれからというもの、ナカヤマさんと一緒にバスケをするために、お昼休みになると体育館に忍び込んでバスケをするようになったのでした。これも、中2にありがちなことです(笑)。

これもやはり中2のときですが、ナカヤマさんが、中学校のマラソン大会で2位になり、ゴールしたときに、「2位」と書かれた札を先生からもらったんですね。そうしたら、ナカヤマさんは、なんと私にその「2位」と書かれた札をくれたのです。

どうして私にくれたのかはわかりません。たぶん私が、「自分も足が速くなりたいので、お守り代わりにその札がほしい」みたいなことを言ったのではないかと思います。なんか、私が言いそうなことでしょう?(笑)。

実際、私はその札を、しばらくのあいだ、お守りのように大事にとっておきました。もちろん、いまはもうありませんが。

さてそれから15年以上が経ち、30歳を少しすぎたころ、中学校の同窓会がありました。そのとき、いじめられっ子だったTさんが姿を見せ、そこでようやく彼女は、みんなとふつうに話をしたり、お酒を飲んだりすることができたのでした。

Tさんはみんなの前で、カラオケでZARDの歌を歌って、感極まって泣き出してしまいました。それまでのいろいろなことが頭をよぎったんでしょうね。

そして彼女の傍らには、ナカヤマさんがいました。ああ、この2人の関係は、中学生のときから、ずっと変わらなかったんだな、Tさんは、ナカヤマさんに、ずっと信頼を寄せていたんだな、と、そのとき思いました。

いじめられていた子がクラス会に出ようと思うのは、なみたいていの決心ではなかったはずです。それができたのは、彼女にとってナカヤマさんがいたからだろうな、と、そのとき思ったのでした。

ナカヤマさんとは、そのとき二言三言話しただけで、いまはどこで何をしているのか、わかりません。

いまふり返って思うことは、「結局、バスケはちっとも上達しなかったなあ」ということです。

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マイナスをゼロにする仕事

3月16日(土)

たぶん誰にも理解されないと思いますけど、偉そうなことを書きますよ。

ここ数年、「マイナスをゼロにする仕事」というものが、自分のやるべき仕事ではないかという気がしてきた。

たとえば、「ゼロをプラスにする仕事」は何か、というと、「ハコ物を建てる」とか、「大きな事業を立ち上げる」とか、「華やかな表舞台に立つ」とか。

それに対して、「マイナスをゼロにする仕事」とは?

たとえば学校で問題になっている「いじめ」とか「体罰」とかは、学校にとってはマイナスの出来事である。これを、少しでもなくそうと努力したり、ゼロに近づけるシステムを作ったりする仕事。

これが私のイメージする、「マイナスをゼロにする仕事」である。

しかしこの数年私が痛感したことは、ほとんどの人は、「ゼロをプラスにする仕事」にばかり注目し、誰もが「ゼロをプラスにする仕事」をしたい、と思っている。

「マイナスをゼロにする仕事」は、誰もやりたがらない。誰かがそれをやったとしても、誰も注目しない。日の目は見ないし、損することばかりなのだ。業績にもならないし。

しかしだからこそ尊いのではないか、と、自分に言い聞かせながら、日々、職場では「マイナスをゼロにする仕事」について、考えている。誰にも理解されないんだけどね。

「日の目を見る」「表舞台に立つ」仕事は、それにふさわしい人に任せればよいだけの話だ。

同じように、2年前の震災以降、仲間たちと一緒に続けてきたボランティア活動も、言ってみれば「マイナスをゼロにする仕事」である。失われかけたものを、取りもどそうという作業なのだから。

だとすればこれは、私がやるべき仕事である。

ほら、やっぱり偉そうでしょう?軽く死にたくなるね。

…ま、そんな理屈をつけながら参加し続けて2年。この日は年に1度、これまでの活動をふり返り、今後の活動を考える会合の日である。

この活動に参加を続けている一番大きな理由は、同い年の盟友、Uさんの存在である。

私とUさんは、私がこの地に来てから知り合い、同い年ということもあり、ことあるごとに張り合っている。

「あいつが出続けているんだったら、オレも負けられねえ」みたいな。

そんなUさんを突き動かしているのは、徹頭徹尾「人間に対する共感」である。

「むかしの仲間が困っているのを黙って見ているわけにはいかねえ」

「むかし仲間たちと一緒に勉強した場所が、いま立ち入り禁止だなんて、オカシイよ!」

言葉は荒削りだが、ストレートな言葉は、私のような理屈をつけながら参加している人間よりも、はるかに心に響く、と思う。

会合の後は、打ち上げである。

Uさんの職場仲間で、一緒にボランティア活動に参加していたAさんとYさんが、この4月から新天地で仕事をすることになった。Aさんは隣県、Yさんは東京にである。

Uさんにとってみれば、ボランティア活動に参加しているUさんのよき理解者であった2人の「若い衆」が抜けてしまうのは、大きな痛手である。職場で孤軍奮闘しているUさんを支えていたのは、この2人だったのだ。

「Uさん、両腕をもがれた感じだね」私はUさんに言った。

「その通りだよ」

しかしUさんは、うなだれているわけではない。「若い衆」2人が新天地で活躍することを、素直に期待していた。

「Y君が東京に行ったらさあ、AKBの握手券をもらってくるようにお願いしたんだ」

Uさんらしい、はなむけの言葉である。

「春は別れの季節」であることを、リアルに感じた1日である。

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会うは別れの始め

3月15日(金)

「春は別れの季節」とは、あまりに陳腐な言葉だが、真実なのだから仕方がない。

午後、3年生のXさんが訪ねてきた。目を真っ赤に腫らしている。

最初は花粉症なのかな、と思ったが、そうではなかった。

「昨日、サークルの4年生の追いコンがあったんです。これで4年生の先輩たちとお別れかと思うと、もう涙が止まらなくなっちゃって」

「いろいろと面倒見てもらったんだろうね」

「ええ。もう本当にお世話になっちゃって。で、絶対に追いコンを成功させようと、一生懸命に準備して、サプライズ企画も考えたんです。そしたら、4年生の先輩方が号泣しちゃって、それを見て、私も泣きそうになっちゃって」

「でも、あなたのことだから、そこでは泣かなかったんでしょう?」

「そうです。で、全部終わって、家に帰って1人になったら、急に悲しくなっちゃって、涙が止まらなくなって。朝起きても、ずーっと泣いていて」

なんか、青春だなあ。

「こんなにたくさんの人といっぺんに別れるなんて、生まれて初めてのことなんです。就職して大阪に行く人がいたり、九州に行く人がいたり、そうなると、もうほとんど会えないでしょう?」

そう言いながら、感極まったのか、Xさんの目は真っ赤になった。

「人のために泣けるというのは、大切なことだよ。これから社会に出たら、そんなことのくり返しだよ。『会うは別れの始め』って言ってね」

「会うは別れの始め」とは、映画「男はつらいよ 僕の伯父さん」の中で、寅次郎が泉ちゃん(後藤久美子)に言う台詞である。

「4年生に渡す色紙に、書きたいことが多すぎて、何を書こうか迷っちゃって、…で、結局平凡な言葉しか書けなくて…。そのときに思ったのは、私も、色紙にたくさん書いてもらうような4年生になろう、と。後輩に私のことを覚えてもらうために、まだまだ頑張らなくっちゃって。だから、来年になっても、サークル活動は続けるつもりです」

次第にXさんの顔が晴れやかになった。

「すみません、先生にこんなことお話しして。でも、すっきりしました」

そう言って、Xさんは帰って行った。

私の周りでも、別れの季節である。

遠く離れた部署に異動することが決まった人、新天地で新たな仕事につく人、仕事の都合で、他県に移る人…。

今年度は不思議なことに、知り合ってまだ1年~3年くらいしか経っていない人たちばかりが、去ってゆく。それも、これからも一緒に仕事をしたいと思っていた人たちばかりである。

やはり「会うは別れの始め」なのだ。

新天地で、幸あれ。

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冷凍庫の中の発見

3月14日(木)

体調が悪いせいか、どうにも気が滅入って仕方がない。

午前10時。ある調査を依頼されて、車で一時間ほど行った町にある古刹を訪ねる。1月22日(火)に続いて2度目である。

まだ雪が境内に残っている。それにどういうわけか今日は、ひどく寒い。

お堂の中は、さらに冷え切っていた。靴を脱いで、スリッパを履くが、足下から冷えてくる感じである。

右足はまだ痛いし、コンディションとしては最悪である。

薄暗いお堂の小部屋に入ると、まるで冷凍庫の中のような寒さだが、凍えながら調査を続けていくうちに、次々といろいろな発見があった。

とくに、午後から地元の老先生がいらしてからは、寒さと時間と足の痛みを忘れて調査に没頭する。老先生のご教示をいただきながら、次第に疑問が解決していく。調査の醍醐味である。

予定の時間を過ぎて、ひとまず調査は終了。時間は午後4時近くになっていた。

調査をコーディネートした市の職員さんも、地元の老先生も、思わぬ発見に興奮したようだった。もちろん私もである。いつもそうだが、こういう調査はワクワクするのだ。

「毎日こんな調査ができればいいんですけどねえ」

ふだん、デスクワークが多い職員さんの言葉である。

「まったくですよ。時間を忘れますから」

私はそう答えた。

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妄想の翼を広げる

私がかなり妄想の激しい人間だということは、私をよく知る人ならば誰でも知っている。

たいていの人は、私の妄想力に舌を巻くか、呆れるかのどちらかである。

「自分は妄想が激しい」と思っている人からですら、呆れられるほどである。

最近も、身のまわりで起こるいろいろなことを分析したあげく、

「ああ、俺ってやっぱり、遠回しに避けられているんだ」

とか、

「ああ、結局、ご縁がなかったんだな」

とか、結論づけて、勝手に落ち込んだりするのである。

こういう時の私を人は、「妄想の翼を広げる」と評する。

こういう妄想に縛られているから、まわりに呆れられるのである。

私が映画「男はつらいよ」の寅次郎に共感するのは、この「妄想力」の部分である。

映画「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」に、こんな場面がある。

資金繰りに困った裏の印刷工場のタコ社長が、思いつめた表情で「金策に行ってくる」と出かけようとしたところに、寅次郎がフラッととら屋に帰ってくる。

寅次郎はタコ社長を見かけるなり、「この前、竜宮城におとひめ様に会いに行く夢を見たんだが、お前そっくりのタコが出てきて大笑いした。お前の工場はとうとうつぶれたか」などと軽口をたたいたことがきっかけで、寅次郎とタコ社長は大げんかをする。タコ社長は寅次郎の言葉に傷ついたまま、金策に出かける。

ところが、夜遅くになっても、社長は帰ってこない。心当たりのところに連絡をとってみるが、タコ社長はどこにもいない。とらや一家は、寅次郎が社長をからかったばかりに、社長をますます追いつめたのではないか、などと、話しはじめる。

「一つの言葉が、人間を死に追いやることだってあるからなあ」とおいちゃんがつぶやく。

それを聞いた寅次郎。

「…警察に届けたか?」心配そうに聞く。

「…さ、ご飯にしよう」とおばちゃん。どこかでビールでも飲んでいるんだろ、と、とら屋一家は高をくくっているのである。

それに対して、慌てて外に出ていこうとする寅次郎。

「お兄ちゃん、どこ行くの?ご飯よ」妹のさくらがひきとめる。

「お前たちはよくそうやってメシなんか食ってられるなオイ!今ごろ社長は……、そうだ、江戸川だ!」

何か思い立ったように再び外に出ていく寅次郎。弟分の源公(佐藤蛾次郎)と、提灯を持って江戸川一帯の捜索をはじめるのである。

「社長!早まるなよー!」提灯を持ちながら江戸川の土手をさがしまわる寅次郎と源公。

「オイ源公、おまえな、「矢切の渡し」で向こう岸に渡り、対岸をずーっと下って東京湾で落ち合おう!」

かくして、江戸川一帯の大捜索が始まるのである。

しかし実際のところ、タコ社長は、金策がうまくいき、酒を飲んでいた。

そうとも知らず、江戸川の大捜索から寅次郎が戻ってくる。

「お前生きてたのか」脱力する寅次郎。

「生きてますよ。冗談じゃねえよ。そう簡単に死にやしねえよ。オレは」

酔っぱらって気分が良いタコ社長に、寅次郎が激怒する。

「なんだこの野郎!酒なんか飲みやがって!」

「オレが酒飲んで悪いかよ!」

「あたりめえだ!てめえは江戸川の水でも飲んでろ!」

ここでまた大げんかが始まる。

「無事で帰ってきたんだから、『社長よかったな、みんな心配してたんだぞ』ってどうして素直に言ってあげられないの!」さくらが寅次郎をたしなめる。

それを聞いた寅次郎はうなだれて、語りはじめる。

「そうかいそうかい。オレが悪かったよ。オレは早っとちりでおっちょこちょいだからな。…てっきり社長は江戸川に身を投げて土左衛門になったものだと思ってな。あの江戸川をどんどんどんどん、月明かりを頼りに下っていったんだ。

…塩崎水門まで行くと、…社長、お前と同じ姿の白いものがぽっかりと浮かんでるんだ。…オレは竹竿でもってな、突っついてみたんだ。…そしたらおめえ、腹にガスのたまった、子ブタの死骸だったの。

…それからどんどん下がって江戸川大橋だ。あそこまで行くと、川幅がぐーんと広くなる。向こう岸の、浦安の灯が心細くチラホラチラホラ見えるんだ。暗い川の面(おもて)を見ていると、…そうだ、今ごろこの底の方で社長は…ボラの餌になってんのかなあと思うと、何だかオレは悲しい気持ちになってなあ(涙ぐむ寅次郎)…。

『社長!社長さーん!』お前の名前を呼んでるうち、涙がポロポロポロポロこぼれてきてなあ…。

『そうだ、オレの言葉のせいで社長は死んだんだ!だったらオレも死のう!南無阿弥陀仏』江戸川に身を投げようとするこのオレを、源公が袖をつかまえて、『アニキ!早まっちゃいけねえ!』『いいから離せ!』、『早まっちゃいけねえ!』『離せ!』」

「それでどうなった?」おばちゃんが身を乗りだして聞く。

「ドボーン!とそのままオレは…そうなったらオレはここにいねえんだな…」

「ほんとだ。ああ、よかった」

「ほんとに、無事でよかった」とつぶやいて、寅次郎は自分の部屋に戻っていく。

自分の言葉がきっかけで、親友を死に追いやってしまったのではないか、という妄想にとらわれ、江戸川の大捜索に走る寅次郎。恐るべきマイナス思考だが、そこに垣間見られるのは、実は親友に対するいたわりである。

マイナス方向の妄想だけではない。「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」では、「オレにふんだんに銭(ぜに)があったら、リリーを大舞台に立たせてあげるのに」と、不遇の歌手、リリーを思いやるあまり、リリーが歌手として大成功する「妄想」が語られる。「寅のアリア」と言われた、シリーズ屈指の名場面である(採録したいところだが、疲れたのでまたの機会に)。

寅次郎は、マイナスの方向にもプラスの方向にも、極度の妄想を働かせるのである。

私にとって映画「男はつらいよ」は、「妄想の教科書」ともいうべきものである。

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韓国料理か?イカナゴの釘煮か?

3月12日(火)

朝起きたら、突然右足の甲の部分が痛かった。例の発作である。

(困ったなあ。今日は大事な仕事があるのに…)しかも立ち仕事である。

気力だけで通勤する。

妻にメールをすると、「意地を張って早めに病院に行かなかったからだ」と叱られたが、昨日までは何ともなかったのだから、どうしようもない。

午後、かかりつけの病院に行こうと思って、電話をすると、

「今日は予約でいっぱいで、診察をお受けできません」

「いつだったら大丈夫なんですか?}

「明日の夕方以降だったら大丈夫です」

「明日の夕方???急を要するんですが」

「そう言われましても…」

しばらく押し問答が続いたが、埒があかなかったので、病院に行くのをあきらめた。

歯医者といい、まったく、どうしてこう、病院運がないのだろう。

あとは気力で治すしかない。

それにしても、どうして急に足が痛くなったのだろうか?

先月からの立て続けの出張が一段落して、気を抜いたからなのか?ストレスがたまっていることには違いないのだが。

それとも、食べ物のせいだろうか?

ということで、恒例の、先日の韓国滞在で食べたものをふり返ってみる。

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左上:6日の午後、忠武路の有名な冷麺屋さんの冷麺。

右上:6日の夕食、仁寺洞(インサドン)のお店で食べたボッサム。

左下:7日の昼、S大学の学食。野菜中心のビュッフェ形式で、肉料理が一つもない!健康になること間違いなし。「ここの子になろう」と思ったくらいだ。

右下:7日の夜:明洞(ミョンドン)で食べた、安東(アンドン)チムタク。辛い鶏料理である。

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左上:8日の朝食。クァンジャン市場の食堂で食べたジャンチグクス。

右上:8日の夕食。江南(カンナム)駅の近くのオサレな焼き肉屋で食べた、サムギョプサル(豚の三枚肉)。奥に写っているのは、韓国の大学に留学中のOさん。

左下:9日の朝食。クァンジャン市場の屋台で食べたカルグクス。手打ちうどんである。

右下:9日の昼食。土俗村(トソクチョン)の参鶏湯(サムゲタン)。

…おかしいなあ。こんな質素な食事しかしていないのだから、足が痛くなるはずはない。

はたと気づく。

原因は、「イカナゴの釘煮」ではないだろうか?

義理の母から、「イカナゴの釘煮」をいただいた。それが美味しいので、もりもり食べていたのである。

イカナゴは小さな魚だが、1匹1匹に内臓がある。つまり数十匹、いや、数百匹の魚の内臓を食べたことになる。

それが私にとってはよくなかったのではあるまいか?

そのことを妻にメールすると、

「そんなことはない」と一蹴された。

やはり違うのか。

…ということで、いまのところ、足痛の原因はわかっていない。

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2つの後日談

3月12日(火)

1.「仮の仕事部屋」の書類紛失事件

昨日午後、私の執拗な聞き取り調査の結果、「書類はすべて捨てられた」ことが明らかになった。

重要な調査データを記したノートや、韓国の研究者からいただいた資料などが含まれていたのだが、今となっては嘆いてみても仕方がない。

当初は「知らぬ存ぜぬ」の一点張りだった清掃担当の方々も、最後には「捨てた」ことを認めた。

こちとら子どもの頃、刑事ドラマを見て育ったからね。私が刑事になったら、「落としの名人」として出世したのではないだろうか。

このトラブルでの唯一の救いは、卒業生で現職員のT君である。

韓国に向けて出発しようと、空港に向かっていた6日(水)の朝8時前、携帯電話が鳴った。T君からである。

「いま、職場のゴミ置き場にいるんですけど、先生の仕事部屋にあった書類とかダンボールというのは、どれくらいのものですか?」

なんと!T君は、私の書類が処分されたという話を聞いて(前日のブログを読んだからか?)、早速、翌朝の出勤前に職場のゴミ置き場で捜索してくれていたのである!

それにしても、なんという共感力だろう。私のためにここまでしてくれる人は、この職場にはほかにいないだろう。

たとえ書類が捨てられ、見つからなかったとしても、自分の職場に自分を支えてくれる仲間がいることがわかっただけで、もう十分である。失ったものとひきかえに、必ず、得るものがあるのである。

「T君には頭が上がらないね」

とは、横で聞いていた妻の言葉である。

さて、捨てられてしまったことを嘆いても仕方がない。私がやるべきことは、ただひとつ。

今回のトラブルは、単なる人為的なミスではなく、背景に組織の構造上の問題が潜んでいる。二度とこのようなトラブルが起きないように、今回起こった出来事をきっちりと分析して、対策を立ててもらえるよう、上層部にお願いした。

どれだけ通じたかはわからないが。

2.ソウルの景福宮駅で別れた学生たち、その後どうなったのだろう?

帰国後、まずN君からメールが来た(無断転載申し訳ない)。

「無事日本に帰ってきました!

翌日もちゃんと水原(スウォン)の華城(ファソン)に行ってヨンボカルビで昼食を食べたあと八達門(パルダルムン)まで行って、そのあと城壁を歩きました。

城壁は一周せずそのあとシンサで女性陣の買い物に付き合い、その後ミョンドンの街を楽しみながらお土産を買いました。

本当にありがとうございました。おかげで楽しい旅になりましたし、留学中のOも久々に先生にお会いできて喜んでました。

奥様にも「大変お世話になりました。おつきあいいただきありがとうございました」とお伝え下さい」

続いて、留学中のOさんからもメールが来た(こちらも無断転載申し訳ない)。

「先生、無事に日本に戻られたでしょうか?

私たちも無事に旅を終えました!今日の朝2時にK市に戻りました。

Nたちも先ほど無事に日本に到着したみたいです。

ソウルでは本当にお世話になりました!久々に先生たちと会うことができて本当によかったです。わざわざ来てくれた二人にも感謝しないとですね!笑

2日目も景福宮(キョンボックン)の案内ありがとうございました!卒業旅行、少しでも先生とともにすることができ、3人ともいい思い出ができました。奥様にもありがとうございますとお伝えください。

先生と別れた後、宗廟を見に行ったり仁寺洞(インサド ン)で伝統茶を飲んだり、観光したり、韓服を着てプリクラを撮ったりしました!夜はチキンを買って食べました。

翌日は鉄道で水原(スウォン)まで行き、スウォンでは八達門(パルダルムン)までバスで10分ほどで行けるのに1時間かかっていったというような事態も発生しましたが(先生の予想が的中したでしょうか?笑)、無事に先生おすすめのヨンポカルビも食べられました。

ソウルに戻ってお土産買おうとしたらロッテマートがまさかの休業で焦ったり、カロスキルではNたちよりも買い物に夢中になったりなど・・・でも雰囲気のいいカフェに行ったりなどカフェ文化も学びました。

最後に明洞(ミョンドン)にも行って、この3日間にいろいろつめこみすぎた感はありますが充実した旅行となりました!

二人には迷惑をかけたと思いますが、通訳は頑張ることができたと思います!笑

また韓国に行きたいと言ってくれたので、とりあえずよかったです。

半年後に先生やみんなに会えるのを楽しみに、最後の留学生活を満喫したいと思います」

二人からのメールで、別れた後の旅の様子が、手に取るようにわかった。

なあんだ。すっかり満喫したんじゃないか。

心配することなんて全然なかった。よかったよかった。

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別れを言えなかった別れ

3月11日(月)

Honposter 映画「ライフ・オブ・パイ」をひと言でいえば、「少年が虎と漂流する物語」である。

漂流譚であり、少年の成長譚でもある。

少年時代の出来事を、大人になった主人公が回想する、という話は、たとえば、「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い起こすがよい。

あの映画では、少年「トト」の演技の巧みさに話題が集中したが、大人になった主人公「トト」を演じた役者も、きっちりと演じていた。だからこそ、名作になったのである。

20130128141647b4c 同じようにこの映画でも、主役は「虎と漂流した少年」であるが、少年時代の出来事を回想する大人のパイを演じた役者(イルファン・カーン)もすばらしい。

この役者、どこかで見たことがあると思ったら、「スラムドッグ$ミリオネア」に警察官役で出演していたんだね。印象に残る役者である。

この映画は、主人公の回想により物語が進んでいくが、実は主人公が語った内容の、何が真実なのかは、よくわからない。それこそが、この映画の最大の仕掛けである。

しかし、たった一つだけ、真実があるように思う。

それは、「別れを言えないまま「永遠の別れ」を迎えてしまったことへの悲しみ」である。

こんな場面がある。

長い漂流の末、少年「パイ」と虎「リチャード・パーカー」は、陸地に漂着する。

船から降りたリチャード・パーカーは、ジャングルを見つけると、パイの方をふり返ることなく、ジャングルの中に去ってゆく。

長い漂流の間に、リチャード・パーカーと心を通わせたと思い込んでいたパイは、実はそうではなかったことに気づき、愕然とするのである。

それまで淡々と語ってきたパイは、このときだけ、感極まって、声を詰まらせてしまう。

考えてみれば、主人公パイは、愛する恋人に「さよなら」を言うことなくインドを発ち、家族たちを突然の海難事故で失い、心を通わせたと思い込んでいた虎からも、何も言わずに去っていかれたのである。

パイが実際に経験した出来事がどのようなものであったにせよ、ちゃんとした別れを言えないまま「永遠の別れ」を迎えてしまったことへの悲しみだけは、彼にとっての揺るぎない真実だったのではないだろうか。

2年前の今日のことを思い返しながら、そんなことを思った。

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3Dなのか?3Dじゃないのか?

3月10日(日)

「ライフ・オブ・パイ」という映画がおもしろいから絶対見に行った方がいいよ。3D映画だから、映画館で見ないと意味がない」

と妻に言われ、調べてみると近くの映画館で朝9時45分から上映開始だというので、旅の疲れが残っていたが、3Dメガネを妻から借りて、ひとりで見に行くことにした。

いよいよ映画が始まるが、3D映画だとは聞いたものの、周りを見渡すと、3Dメガネをかけている観客が一人もいない。

そもそも、3Dメガネをかけなくても、そのままでちゃんと映像を見ることができるのだ。

(おかしいな…。3D映画なのに)

私が3D映画を見るのは、なんと「アバター」以来である。それ以降、技術が飛躍的に進歩して、3Dメガネなしでも3D映像が楽しめるようになったのだろうか?

だが、そのまま見ても、あんまり3Dという感じがしない。

(おかしいな…。やっぱり3Dメガネをかけた方がいいのだろうか?)

そう思って、持ってきた3Dメガネをかけてみることにした。

メガネを外したりつけたりしながら、3D映像の効果のほどを確かめてみることにする。

うーむ。あんまり変わらないなあ。

でも、ほんの少し、3D映像になった気がするぞ。

このまま、3Dメガネをかけないで見ていると、けっきょく3Dにならないまま映画が終わってしまうのではないだろうか。この際、少しでも3D映像を見るためには、やはり3Dメガネをかけ続けていた方が得策である。

ということで、持ってきた3Dメガネをかけて見続けることにした。

(ほかの人たちはかわいそうだなあ。きっと3Dメガネを忘れてきたんだな)

私は、ひとり3Dメガネをかけた優越感に浸っていた。

しかし、である。

いったいどこかどう3Dなのか、正直なところ、あまりよくわからない。

(あ!いま映像が飛び出した気が!…でも、アバターを見たときほどの飛び出し方ではないなあ。きっと、監督は奥ゆかしい3D効果を狙っているに違いない)

などと自分を納得させた。

結局、3Dメガネをかけ続けて見ても、映像はほとんど飛び出さなかった。

(なんだよ。あんまり3Dじゃなかったなあ)

映画のエンドクレジットが終わり、3Dメガネを外して立ち上がると、後ろに座っていた女性客の会話が聞こえた。

「やっぱり3D映像で見たかったね」

えええええぇぇぇぇぇっ!!!!

3D映像じゃなかったのかあぁぁぁぁぁぁ!!!

いったい私は何のために2時間以上も3Dメガネをかけ続けていたのか?

そして、3D映像ではなかったのにもかかわらず、3Dメガネをかけると何となく3D体験をしたような気になったのは、いったいどういうわけだったのか?

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卒業旅行に合流する

3月6日(水)~9日〈土〉

ソウルの町は、歩いていて飽きない。

今回泊まったところは、「忠武路4街」の近くのホテルなのだが、このホテルの周りには、ビックリするくらいの数の「椅子屋」さんが並んでいる。さながら「椅子屋街」である。

前回、ソウルで泊まったときのホテルは、「トロフィー屋」が並んでいる「トロフィー屋街」の中にあった。トロフィーしか売っていない店が、数十軒と軒を連ねているのだ。

一つの町に、ある特定の商品を売る店ばかりが並んでいる、というのは、ソウルではふつうの光景なのだ。 「椅子屋街」を歩いていると、どれが売り物の椅子で、どれがお店の主人が座る椅子なのかも、わからない。

椅子と一緒に、テーブルがほしい場合はどうするのだろう?というか、ふつうは、机と椅子をセットで買う場合がほとんどなのではないだろうか? おそらくソウルのどこかに、おびただしい数の「テーブル屋」さんが軒を連ねている「テーブル屋街」があるに違いない。

「あのう、椅子と一緒にテーブルがほしいんですけど」

「うちは椅子しか扱ってないからねえ。テーブルがほしいなら、テーブル屋街に行きなさいよ」

みたいな会話が、客と店員の間で日常的に交わされているに違いない。

さて、私の指導学生である4年生のCさんとN君の二人が、3月8日から11日にかけて、卒業旅行でソウルに行く、と聞いたのは、かなり直前になってからのことである。

一番の目的は、昨年の9月から1年間の予定で韓国の地方都市に留学している、やはり私の指導学生のOさんに会いに行くことであるという。3人は同級生なのだ。

「もし予定が合えば、先生もご一緒できませんか」という。 相変わらず無計画な連中だなあ、と苦笑しながらも、たまたま私もこの期間、所用でソウルにいるのだから、彼らの「引きの強さ」というのもまた、相変わらずである。生きていくのに必要なのは、「引きの強さ」だな、と、彼らを見ているとそう思う。

Oさんは、8日(金)の午後に大学の授業が終わるから、そこから長距離バスに乗ってソウルに着くのが午後7時。その頃に江南(カンナム)に待ち合わせて、一緒に夕食を食べようということになった。

Oさんは江南(カンナム)のオサレなサムギョプサル屋(焼き肉屋)さんをあらかじめ調べていて、そこに行くことになった。

ところで、彼らはソウル滞在中、どのあたりを観光するのだろう?

私がソウル初心者を案内するときの「テッパンコース」というものがある。

まず、1日目は、午前中に景福宮を見て、お昼に景福宮の近くの土俗村(トソクチョン)でサムゲタンを食べて、午後は仁寺洞(インサドン)を歩き、時間があれば、世界遺産の宗廟とか昌徳宮とかに行く。で、夜は明洞(ミョンドン)。

2日目は、ソウル郊外の水原(スウォン)という町に行って、これまた世界遺産の華城(ファソン)を歩き、お昼にはスウォン名物の「カルビ焼き肉」をたらふく食べる、というコース。

「どうだろうね」同行した妻に聞くと、

「あんまり口出すもんじゃないよ。彼らに考えさせればいいんだよ」という。

そりゃそうだ。留学中のOさんにしても、会いに来てくれる2人の友人のためにしっかりと計画を立てているに違いないのだ。

午後7時過ぎ、日本から来たCさんとN君、そして地方都市のK市から長距離バスで駆けつけたOさんと、紆余曲折ありながらも会うことができ、何とかカンナムの焼き肉屋で夕食にありつけたのであった。

焼き肉を食べながら、旅行の予定を聞いてみたところ、3人ともどうもあまり考えていないらしい。Oさんに至っては、「2人の行きたいところを聞いて、それに合わせます」という。やはり予想は的中した。

そういうのを見ると、つい、口を出したくなる。

「じゃあ、明日は午前中に景福宮を見て、お昼に土俗村(トソクチョン)でサムゲタンを食べて、午後は仁寺洞(インサドン)をぶらぶら歩きなさい。そのあと、世界遺産の宗廟とか昌徳宮を見たらいい。お昼くらいまでは私たちもつきあえるから」

「2日目は、ソウル郊外の水原(スウォン)に行って、これまた世界遺産の華城(ファソン)を見ること。お昼は当然、水原名物のカルビ焼き肉だぞ」

「最終日は、宿所の最寄りの駅から空港行きのリムジンバスが出ているはずだから、あらかじめリムジンバスの停留所の位置を確認しておくこと。朝5時くらいのバスに乗れば、飛行機のチェックインに間に合う」

相変わらず口うるさい教員である。

これでは、せっかく学生たち水入らずで楽しもうとしている卒業旅行に、水を差すことになりかねない。そもそもこの「テッパンコース」とは、完全に私の趣味に過ぎないではないか。私はひどく反省した。

それでも行きがかり上、翌日のお昼まで、つまり、景福宮の見学と、土俗村(トソクチョン)のサムゲタンまで、彼らと一緒に行動することになった。

9日の午後2時、土俗村を出て、景福宮駅でお別れである。私はこの日の夕方に帰国しなければならない。

これでよかったのかなあと逡巡していると、

「先生、いろいろとありがとうございました」と別れの挨拶。「今度は卒業祝賀会で会いましょう」 そう言って、彼らは景福宮駅から地下鉄に乗って、仁寺洞に向かった。

私たちはこのあと金浦空港に向かい、帰国した。

「あいつら、ちゃんと観光しているだろうか…」帰りの飛行機の中で妻に言うと、

「大丈夫でしょう。彼らの旅行なんだから」と妻。

そうだよな、あまり気を揉む必要もないよな、と思い直した。

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新作落語「断捨離長屋」

3月5日〈火〉

毎日、本当にいろいろなことが起こる。

このブログをこまめにチェックしていただいている人は覚えていると思うのだが、昨年、職場の建物の耐震工事のため、仕事部屋が仮の仕事部屋に移転し、今年になって耐震工事が完了したので、また元の仕事部屋に戻ることになった。

しかし私の場合、本だの書類だのがあまりにも多かったため、業者による移転作業が終わった後も、まだ若干の書類や本が、仮の仕事部屋に残っていた。

暇を見つけては、それらを元の仕事部屋に移したりしていたのだが、最近は忙しくて、仮の仕事部屋にいく時間がなく、そこには、雑多な書類がまだ相当残っていた。まだ「引き払え」とも言われていなかったし。

さて、今日。

午後の会議が終わり、久しぶりに仮の仕事部屋から荷物を運んでくるか、と思って行ってみると、そこに驚くべき光景が広がっていた。

もぬけの殻である!

私が残していた、雑多な書類の一切が、消えてなくなってしまっているのだ!

いったいどういうことだ?

慌てて担当の職員に聞いてみると、

「ああ、最近床をワックスがけしましたからね」

という。

いやいやいや。それは関係ないだろ!

まだ引き渡していないのにもかかわらず、勝手に鍵を開けて床にワックスをかける。

その時点でかなり気分が悪い。

しかしそれ以上に、その部屋にあった重要な書類一切を、処分してしまったというのは、どういう了見か?

いろいろな職員さんに聞いてみるが、得意の

「知らぬ存ぜぬ」

の一点張りである。

思い出しても見たまえ。

私は中学か高校の時、自分のお気に入りだった楳図かずお先生の漫画すべてを、同居していた祖母に、断りもなく捨てられたことがある。

それからというもの、私と祖母の関係は最悪になったが、そのとき以来の衝撃的な出来事である!

そりゃあ確かに、まるでゴミくずのように、テーブルの上に書類が置いてあったから、10人8人くらいの人は、その様子を見たら「ゴミ」だと思うだろう。

しかし、何にせよ、何の断りもなく捨ててしまうというのは、全く理解できない。これは嫌がらせなのか?

職場のためにこんなに一生懸命働いているオイラが、何でこんな目に遭わなきゃならないんだ?こんな理不尽なことってあるか?

すっかり心が折れてしまった。今度ばかりは、本当である。

「いつ壊れてもおかしくありませんよ。それが明日かもしれません」

という、一昨日に同世代の研究仲間のAさんのが言った通りになった。

あまりにやり場のない怒りを覚えたので、何人かの人に、この仕打ちのことを言うと、

「それはひどいですねえ」

と言ってくださるが、どことなく、

「でもおまえ、ゴミに間違われるくらい、散らかしていたんだろ」

「早く持って行かないお前が悪い」

と、心のどこかで他人事のように思われているような気がして、例によってまた被害妄想が広がった。

うーむ。しばらくは立ち直れない。

このまま韓国出張というのは、何とも耐えがたい。

そうか!

こういうときは、この酷い出来事を、落語にしてしまえばいいんじゃないか?

題して「断捨離長屋」

八っつぁんが仕事から帰ると、長屋の自分の部屋がもぬけの殻である。

大家さん!

おお、どうした、八っつぁん

オレんとこの荷物、どうしやした?

どうしたって、どうしもしないよ。

もぬけの殻じゃねえですか

知らねえよオレは。…そう言えば、さっき屑屋が来て、なんかいろいろ持ってったぞ。昨晩らくだが死んだだろ。それで、らくだの部屋のものを持ってくんだとか言ってた。

あの屑屋、間違ってオレんとこのもの持って行きやがったな。

屑屋のところに行く八っつぁん。

やい!屑屋

へえ、毎度。

毎度じゃねえや。おいお前、オレんとこの荷物、全部持って行きやがったな。

違いますよ旦那。あっしは死んだらくださんの荷物を持っていったんでさあ。

馬鹿野郎。らくだの荷物はそっくりそのまま残ってるじゃねえか。おい、本当のことを言えよ1

実は旦那。らくださんのご友人とやらが、えらく怖い方でやんしてね。何にも持ってくもんがねえなら、隣の八っつぁんのところのを持ってったらいいじゃねえか、持ってかねえと、らくだの死体を担がせてカンカンノウを踊らせるぞ、と、こう凄まれましてね。

それで持ってったのか。

へえ。…それと

それと?

大家さんも。

大家さんも?大家さんがどうした?

最近は「断捨離」がブームで、うちの長屋にもなかばゴミ屋敷みたいなやつがいるから、これを機会に持ってってやれと。

ゴミ屋敷みたいなやつってオレのことか?

へえ。どうもそのようで。

どいつもこいつもオレをコケにしやがって。

再び大家さんのところに行く八っつぁん。

酷いじゃねえか。勝手にオレの部屋に上がり込んで、いっさいがっさい屑屋に持って行かせるなんて!

八っつぁん、俺はお前のためを思って屑屋に持って行かせたんだぞ。大家といえば親も同然、店子といえば子も同然と、昔から言うだろう。いわば親心だ。

それとこれとは話が違うやい。いくら親同然でも、勝手に人の部屋に上がり込んで捨てるなんて、人間のやることじゃねえ!けえしてくれ!オイラの荷物、すべてけえしてくれよ!

それはできないな。屑屋が全部持って行ってしまった。

だったら屑屋から取り返してくれよ。

それもできない。

どうして?

あれはらくだの荷物だと言って持って行ったんだ。今ごろはエジプトあたりをさまよっているだろうよ。

…うまくオチたかな?「らくだ」という落語を知っていないとわからないかも。

ということで、しばらく韓国で今後の人生について考えることにします。

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学ばない歯医者

3月4日(月)

私も含め、同世代の仲間たちはみな、満身創痍である。

「いつ壊れても不思議ではありませんよ。それが明日かも知れません」

昨日の講演会を企画した、同世代のAさんの言葉。まったく同感である。

たぶんこの肉体的、精神的な「追いつめられ方」は、誰にも理解されないだろうな。

さて、歯の詰め物の話である。

先日の土曜日、とれてしまった歯の詰め物を奇跡的に詰め直すことができたものの、今朝、再びとれてしまった。

たぶん朝ご飯をほおばっているうちに飲み込んでしまったのだろう。

仕方がないので、歯医者に行くことにした。

かかりつけの歯医者に電話をかけて、6時半ということで予約する。

ぎりぎりまで仕事をして、6時半に歯医者に駆けつけると、例によって、受付には耳の遠いおばあさんが座っていた

「どれくらい待ちますか?」

「え?」

「ど・れ・く・ら・い・待・ち・ま・す・か・?」

「さあ、わかりません」

「じゃああと何人くらいですか?」

「え?」

「あ・と・何・人・く・ら・い・で・す・か?」

「ああ、あと5人です」

ご、ご、5人?

ということは、あとゆうに1時間以上はかかるということではないか!

以前もそうだった。この歯医者は、予約を入れた時間から、約2時間後くらいに、ようやく診察がはじまるのだ!

これって、歯医者では普通なのか?

歯医者の先生は、仕事が丁寧なのだが、やたらと話しかけてくるのである。たぶん、時間がずれ込んでいく最大の原因は、それであろう。

だったらなぜあらかじめ、予約の時間にもっと余裕を持たせないのか?

「学ばない」とはこのことである。

もう一つ不思議なのは、そんな仕打ちにあっていながら、患者の方は、何一つ文句も言わず、じーっと黙って座っているのである。決して、居心地のいい待合室、というわけでもないのに。

そのすべてが、私にとって、不思議なのである。

「じゃあ、1時間後にまた来ます」

「え?」

「1・時・間・後・に・ま・た・来・ま・す」

「ああ、わかりました」

いったん職場に戻り仕事をして、1時間後にまた歯医者に行った。

「あとどのくらいですか?」

「え?」

「あ・と・ど・の・く・ら・い・で・す・か・?」

「ああ、あと3人です」

さ、さ、3人?

1時間かかって、2人しか診療しなかったということか。

待合室にいる2人も、よくもまあ黙ーって待っているものだ。

イライラしているオレの方がおかしいのか?

「また出直してきます」

「え?」

「ま・た・出・直・し・て・き・ま・す!」

「ああ、どうぞ」

8時過ぎ、みたび歯医者に行くと、待合室には1人。

ということは、あと2人ということである。

ほどなくして、待合室にいた1人が、診察室に行く。

この歯医者さんは、歯科医が1人で診察室が2つである。一人の患者を診察している間、次の患者は、もう一つの診察室で待機するのである。

30分くらいたっただろうか。いよいよ私の前の患者の診察がはじまり、ほどなくして今度は私が、もう一つの診察室で待機することになった。

「どうぞここでおかけになってお待ちください」

さっきの受付のおばあさんが、私を診察台に座らせ、前掛けをかけた。

私は前掛けをかけられたまま、前の患者の治療が終わるまで、診察台に座り続けなければならない。そもそもこの診察台は、全然くつろげないのだ!

これって、歯医者では普通のことなのか?

その上、待てど暮らせど、前の患者の治療が終わらない。座りづらいいすに座り続けるのは、ほとんど苦行である。

ようやく前の患者の診察が終わり、私の診察がはじまったのが…、

9時15分ですよ!9時15分!

これって、歯医者では普通のことなのか?

「お待たせしました~。今日はどうしました?」

医者の先生は、私と同世代くらいのおじさんである。

「詰め物がとれてしまいましてねえ。明日から出張なので、今日のうちに詰め直してもらえませんか」

「了解しました~。口をお開けくださ~い」

あーん、と口を開けると、

「出張は、どちらに行かれるんですか?」と聞いてきた。

「はんほふへふ」

「え?」

「…か、韓国です」

どうして口を開けているときに質問するのかなあ。

「韓国ですか~フフフ、大変ですよねえ」

しまった!この先生、「政治談義」が大好きだったのだ!うっかり話題を提供してしまったようなものだ。

ここから、医者の先生の「国際政治談義」がはじまる。

さんざん自説を開陳されたあと、例の決めぜりふ、

「…そう思いませんかぁ?」

「はぁ…、ほうへふへえ。ふんがぁ…」

だからどうして口を開けているときに質問するのか?

「はい、終わりました」

9時30分、診察終了。

受付を済ませてから、3時間が経過していた。

学ばないのは、この歯医者さんなのか?

それとも、そこに通い続ける私なのか?

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老住職の毒舌

3月2日(土)

28日の夜遅くに勤務地にもどり、翌1日の朝9時半から絶対に休めない仕事がある。

というのも、その作業ができるのが、私しかいないためである。 それも、かなり細かい作業なので、少し頭が痛くなった。

1時間半ほどの作業が終わり、仕事部屋に戻ってからメールを確認すると、仕事の依頼主から、

「てめえ、ふざけんじゃねえ!早く原稿をよこせって言ってんだろ!」

的なメールが来た。もっとも、そんな書き方はしていないのだが。

私はすぐさま、「すみません。今日明日中に何とかします」と返事を書いた。

といっても、その仕事にはまったく手をつけていない。日曜日(3日)には、新幹線を乗り継いで3時間以上もかかる隣県で、講演をしなければならない。そのためには、前日、すなわち土曜日(2日)の午後6時の新幹線に乗って前乗りしなければ、当日の講演会には間に合わないのである。 そうやって逆算していくと、私に残された時間は、3月1日の午後から翌2日の夕方までである。

仕方がない。残された時間で仕上げるしかない。

さて午後2時すぎ、所用があってある部局に行くと、1人のおじいさんがお客さんとしてきていた。 何でもそのおじいさんは、地元でも有名な老住職だそうである。

横に座ったとたん、その老住職は堰を切ったように私に話しはじめた。 しかも、その話のほとんどが、世の中をバッタバッタと斬りまくるような、毒舌である。

(住職さんなのに、こんなに毒舌を吐いていいのか?)

話を止めるわけにはいかない。止めようとすれば、攻撃の矛先はこちらに向かってしまう。

仕方がないので、うなずきながら聞いているうちに、次第に、気分が悪くなった。 ひどく寒気がして、お腹がゴロゴロと鳴りだしたのである。

(これは、やばいな…)

しかし、途中で失礼するわけにもいかない。 結局、2時間近く、その老住職のお話をうかがうことになった。どうしてこう、おじいちゃんにばかり好かれるのだろう?

老住職がお帰りになり、ふと時計を見ると、午後4時過ぎである。

「先生大丈夫ですか?顔が土気色になっていますよ」 一緒に老住職の話を辛抱強く聞いていた職員のSさんが私の顔を見て言った。

「大丈夫ではないようです。これで失礼します」

ひどい寒気がして、慌ててトイレに駆け込んだ。

久しぶりの、ビックリするくらいの下痢である。

原因は何だろう?

先ほどの老住職の毒気にあてられたのだろうか?

それとも前日までの出張の疲れが出たのか?はたまた、そこで食べた瀬戸内の美味しい魚介類にあたったのか?

とりあえず事務室に駆け込み、風邪薬をもらった。

(困ったなあ。日曜日の講演会は絶対に休めないし…。その前に絶対に仕上げなければならない仕事もあるというのに…)

しかしこんなに体調が悪ければ、仕事ができるはずもない。仕方がないので、家に帰って休むことにした。

翌日(2日)のお昼ごろ、布団から這い出るようにして起き出し、仕事部屋に向かう。寒気と下痢は、相変わらず治らない。

(残された時間は、4時間くらいか…)

仕事部屋に到着して、何とはなしにガムを食べると、ガチッと何かがあたる音がした。

ガムを噛んでいるうちに、歯の詰め物がガムにひっついて、取れてしまったのである!

(何だよこんなときに!困ったなあ…)

「弱り目に祟り目」とは、このことである。

いまから歯医者に行って詰め直してもらうか?いやいや、とてもそんな時間はない。

といって、このまま放っておいても、これから1週間以上は、予定がギッシリ詰まっているのだ。

こうなったら、自分で詰め物を歯に詰め直すしかない。

(うんがあぁぁぁぁぁ)

口を大きく開けて、詰め物を歯に詰め戻そうとするが、詰め物が小さいこともあって、なかなかうまくジョイントしない。 何度詰めても、詰め物がヘンなふうに歯の間に挟まってしまい、噛み合わせが悪くなってしまうのだ。

その上、

(うんがあぁぁぁぁぁ)

と口を開けているうちに、アゴがはずれそうになった。

(これ以上口を開けっぱなしにしていると、アゴがはずれて、もっと取り返しの付かないことになってしまう。もはやこれまでか…)

とあきらめたその瞬間、

スルッ!

あれ???飲み込んでしまったか???

……? ……!

いやいや、見事、詰め物が歯にジョイントしたぞ!

20分ほどの格闘の末、ようやく詰め物は、元通り歯に戻ったのであった。

そうこうしているうちに、残された時間は、あとわずか。

はたして原稿は送ることができるのか?

そして、隣県での講演会は、無事に終わるのか?

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旅の続き

2月26日(火)~28日(金)

旅の続きを書こうと思ったが、今日の午後から急に寒気と腹痛がひどくなったので、簡単に書くにとどめる。

27日夕方、四国から中国地方へ、高速船で移動する。

途中、瀬戸内海の夕日がとてもきれいだった。

Photo

この風景を見ると、茶木みやこの「まぼろしの人」という歌を口ずさみたくなる。

どうだ、わからないだろう。わかったらたいしたもんだ。

翌朝(28日)、訪問先に行くまでに少し時間があったので、学生時代に訪れて以来実に25年ぶりくらいに、この場所を訪れる。

Photo_2

25年ぶりくらいに、ここで手を合わせた。

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もう一つの再会

2月27日(水)

E県のX大学の購買部で、もう一つ出会ったもの。

Ws000059thumbそれは、私たちが「クリーニング作業」で関わっている、R市の名前が入った木製のマグネットである。

東北地方の太平洋岸に位置するR市は、先の震災で、津波による甚大な被害を受け、町は壊滅した。

江戸時代以来、津波に備えて海岸に植えてあった有名な松原は、これまでいくたびの津波から町を守ってきた。それは景観としても、すばらしく美しいものだった。だが先の震災で、そのほとんどが、津波により流されてしまったのである。

なぎ倒された松の木の材は、その後、復興のシンボルとして、さまざまなものに加工された。その一つが、このマグネットである。

X大学の学生がボランティアでR市に行ったことが縁で、この松林の松の木を、当地でマグネットに加工したのだという。売り上げの一部が、被災地に届けられるという。

(おまえ、ここにいたのか…)

私はその松林を見たことがなかったが、なぜか、再会した、という気分になった。

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