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春の嵐に吠える

4月11日(木)

今日は新学期のオリエンテーションの日である。

昨日から今日にかけて、職場で腹の立つことが2つほどあったのだが、久しぶりに会った学生たちの顔を見たら、かなり救われた。

この仕事を続けていられるのは、このおかげである。

先日、薬をもらいに行った病院の待合室のテレビでたまたま国会中継をやっていて、ある政治家が、

「最近は若者のモラルの低下が著しい」

とか何とか言っていた。

バッカじゃねえの?

モラルが低下しているのは、政治家の方だろ!

世話人代表のKさんとよく話すことなのだが、

「Mさん(つまり私)、もし我々が学生だったときに震災が起きたら、ボランティア活動に行きました?」

「いえ、たぶん行かなかったと思いますよ。学生時代は自分のことしか考えてませんでしたから」

実際、阪神淡路大震災の時に学生だった私は、何もしなかったのである。

「そう考えると、いまの若者たちは、私たちの頃よりもはるかに立派ですよねえ」

政治家たちは、若者たちの、いったいどこを見ているのか?

妻から聞いた話で、私がとても印象に残った話があって、

東野圭吾、という作家が、『手紙』という小説を書いて、直木賞の候補になったことがあった。

この小説は、死刑囚が自分の弟に向けて獄中から書いた手紙をめぐる物語である。その内容は多くの人の感動を呼ぶところとなり、ベストセラーとなり、映画化もされた。

だが、結局この小説で、彼は直木賞は取れなかった。

選考委員の1人であるWという作家は、この小説を、次のように評して、この小説を直木賞にふさわしくないと断じたのである。

「…なによりも不満だったのは「手紙」というタイトルをつけながら、殺人を犯した兄からの手紙が、ほのぼのとしすぎて実感に欠けることである。

私の小説の愛読者にSという死刑囚がいるが、

彼からの便りは「ひたすら女とやりたい」と一点に尽きる。

小説を書く以上、この程度のリアリティは確保しておくべきだろう」

つまり、この小説に登場する死刑囚は、俺の知っている死刑囚とは違い、リアリティに欠ける、というのである。

「ね?ヒドイ話でしょう?」

「これはヒドイねえ」

「このWという作家は、自分自身がその程度のモラルの人間であるってことに気づいていないんだよ。自分の小説の愛読者だというその死刑囚が、作家のWがその程度の人間だということをわかっているから、そういう接し方しかしていないんだってことに、作家のWは気づいていないんだよねえ」

つまり、Wという作家自身が、死刑囚をそういった偏見の目で見ていることを、死刑囚は敏感に感じ取っているから、その作家に対してそういう接し方しかしないのである。

おそらくその政治家も、これに近い偏見をもって若者たちを見つめているのであろうことは、容易に想像できる。

若者が大人の鏡である、というのは、そういうことである。

…何だかわかりにくい話になっちゃったな。話を戻そう。

さて、オリエンテーションが終わってから、4年生のSさんがある用件で私の仕事部屋にやってきた。

Sさんは私の直接の教え子ではないが、私の授業は欠かさずとっている。まじめでひたむきで、責任感のある学生である。教師をめざして勉強しているという。

ひととおり用件が終わり、Sさんが言った。

「あのう、…ずっと気になっていたんですけれど」

「何です?」

「先生たちが毎週続けておられるボランティア、…私も来週参加してもいいでしょうか?」

「もちろんですとも」

「ずっと参加したいと思っていたんですけれど、いままでなかなか機会がなくって…。ようやく時間の調整がつきそうなので」

「ぜひ来てください」

そうか。あらためて気づく。

そうした活動に参加したくても、なかなかその一歩が踏み出せなかったり、その機会を逃したりする若者たちが、まだまだたくさんいるのかも知れない。

そうした若者たちの肩をたたき、背中を押すのが、大人たちの仕事ではないだろうか?

そして、若者にとって一番必要なもの。

それは、「居場所」である。

若者たちの居場所を奪うようなことがあってはならない。

大人たちは、若者たち(学生たち、子どもたち)の居場所を確保するために、全力を尽くさなければならない。

それが、オジサンオバサンの使命である。

…今日はちょっと変なテンションだな。きっと、春の嵐のせいだ。

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