師と呼んだら怒られるかもしれない
前回の続き。
大竹まことのエッセイ集『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』(角川書店、2004年)の中に、「師と呼んだら怒られるかもしれない」というタイトルのエッセイがある。
引退した芸人、上岡龍太郎について書いた文章である。
本文中には、上岡龍太郎のことを「師」と呼んでいる箇所は一箇所もない。だが、このタイトルだけで、大竹まことが上岡龍太郎を師と仰いでいることがわかる。
芸人・上岡龍太郎の繰り出す「屁理屈」と「話術」は、ほとんど天才的ともいうべきものであった。私はどれほどその「屁理屈」に笑い、「話術」に魅了されたことだろう。
上岡龍太郎と大竹まことを、リアルタイムで追いかけていた私にとって、大竹まことが上岡龍太郎を師と仰ぐ過程が、テレビを通じて手にとるようにわかった。
大竹まことが上岡龍太郎と番組で共演するようになったのは、1990年頃からだったと思う。大竹まことは当時、40歳をすぎたばかりであった。
テレビを通して見ている私にも、大竹まことが上岡龍太郎を尊敬のまなざしで見ている様子が、よくわかるほどだった。
それ以降、芸能界における大竹まことの「立ち位置」は、明らかに変わっていった。上岡龍太郎のような「立ち位置」をめざしていったように思えたのである。
それは、2000年に上岡が芸能界を引退して以降、ますます顕著になっていった。
上岡の引退以降、テレビで「屁理屈」と「話術」を武器に、「反骨精神をうまく笑いに変える」芸人は、不在となった。私がテレビに興味を持たなくなったのも、この頃からである。
大竹まことは、かなり意識して、テレビやラジオにおける上岡龍太郎の「立ち位置」を、継承しているように思える。
その意味でやはり、二人は師弟関係なのである。
大竹まことは四十をすぎて、新たな師を得たのである。師と思える存在に出会えたのである。
私がすごいと思うのは、そこである。
それで思い出した。
今から10年ほど前、私が今の職場に赴任したときのことである。私がこの職場で初めて受け持つことになった学生は、3,4年生合わせて7,8人くらいいた。
その中に、当時3年生だったK君がいた。バスケ部に所属している彼は、スポーツに打ち込む一方、学業にも真面目に取り組んでいた。
…なんか、むかしっから何かとバスケ部に縁があるなあ私は。まあそれはよい。
K君は、自分がやりたい専門分野の教員とそりが合わず、私のところにやってきた。
一生懸命勉強して、ある有名な大学の大学院に進学して、研究者になりたい、という。彼の父が研究者であることも、影響していたのかもしれない。
ずば抜けて優秀な学生だったので、彼なら大丈夫だろう、と思った。私もできる限りお手伝いしたが、ただなにぶん専門分野が異なるので、あまり適切なアドバイスができないのが、申し訳なかった。
結果、大学院入試は不合格であった。
私は、自分の非力を恥じた。もしこの職場に、彼にとって「良き師」がいたならば、もっと彼に実力をつけることができたかもしれない、と悔やんだ。
申し訳ない気持ちになり、その後、なんとなくK君とは話しづらかった。
卒業式が終わったあとくらいに、K君から、卒業後は高校の教員になるための勉強をするという決意と、これまでの感謝の気持ちが書かれたメールが送られてきた。大学院入試に落ちて、踏ん切りがついた、とも書いてあった。
私は返事に、次のようなことを書いた。
「卒業して社会に出たら、良き師にめぐり会いなさい。あなたにとっての本当の師は、これから出会うのだと思います」
根拠はなかったが、少なくとも私自身は、彼にとっての良き師ではなかったという思いだけはあった。
1年後、猛勉強の末、K君は地元の高校の教員として採用された。それは、彼自身が実力で勝ち取ったものだった。
K君からはその後、毎年年賀状が送られてきた。就職してからほどなくして結婚し、子どもも生まれたという。彼が充実した生活を送っている様子が想像できた。
昨年、やはり地元の教員になることが決まった卒業生が、卒業祝賀会の席で私に言った。
「Kさんに教育実習でお世話になったんですよ。いま僕の母校で先生をされていますから」
「へえ、K君にかい。元気そうだった?」
「ええ。先生のお話を、懐かしそうにされていましたよ」
私はK君が卒業してから、一度も彼に会っていない。だがその話を聞いただけで十分だった。
ときどき、ふと思う。
彼は、本当の師を見つけただろうか、と。
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