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見ず知らずの人のために戦う

前にも少し紹介したことがあるが、三谷幸喜脚本のテレビドラマに、『合い言葉は勇気』(2000年)という作品がある。

東京の西隣の県にある、のどかな村に、ある大企業が産廃処理場を建設することを計画する。村の人たちは、村の自然が破壊されることに反対し、建設差し止めの訴訟を起こそうとする。

村の青年(香取慎吾)は、東京に行って弁護士を探すが、弁護士たちは、大企業を相手にたたかうことに尻込みし、誰も引き受けようとはしない。

うちひしがれた青年は、あるとき、弁護士の役を演じていた売れない役者、暁仁太郎(役所広司)の姿をテレビで目にし、青年は、この役者を弁護士ということにして、村に連れてきてしまう。ひょんなことから弁護士のふりをすることになった仁太郎は、村の人たちとふれあっていく中で、大企業と法廷で争う決意をする。…そんな内容である。

民事裁判をテーマにした、とても地味なドラマだったが(視聴率も悪かった)、三谷作品の中でも、最高傑作の部類に入るのではないだろうか。

それに、法律に疎い私も、このドラマを見て、民事裁判とはどういうものかを、勉強したものだった。

このドラマのシナリオが文庫本になっていて、今でも読めるのであるが、興味深いのは、作者自身が書いた「まえがき」である。

この中で、プロデューサーから「感動できる話にしてください」とだけ注文をつけられた作者が、「自分にとって感動できる話とはどういうものだろう?」と考えたあげく、これまで見た映画や小説をふり返り、次の4つの要素が盛り込まれている話が、自分にとって感動する話だった、としている。

・ニセモノが本物以上に活躍する話。

・自分とは関係ない人たちのために命を賭ける話。

・仲間を集めていく話。

・知恵くらべ -できれば法廷が望ましい。

そしてこの4つの要素を1つにまとめてできあがったのが、「合い言葉は勇気」であった、と述懐している。

さて、お気づきと思うが、この4つの要素を満たす映画は、いうまでもなく、「七人の侍」である!(また始まった)。

三谷幸喜自身はそうは書いていないが、このドラマは明らかに映画「七人の侍」を意識して書かれたものなのだ。

「ニセモノが本物以上に活躍する」、これは三船敏郎が演じた菊千代そのものである。農民出身でありながら、侍のふりをして、侍以上の活躍をする菊千代。つまりドラマの暁仁太郎は、菊千代なのだ。

「仲間を集めていく話」、これは「七人の侍」の前半の見せ場である。

「知恵くらべ」、これは、映画の後半で、侍が知恵を絞りながらいくさをする、という場面にあたる。

そして最も重要なのは、

「自分とは関係ない人たちのために命を賭ける」。

これこそが、「七人の侍」の全体を貫くテーマである。

ひょんなことから、行きがかり上、百姓の村を守る羽目になってしまった七人。

同じように、縁もゆかりもない村に連れてこられて、大企業を相手に裁判でたたかうことになってしまったニセ弁護士・暁仁太郎。

暁仁太郎は、縁もゆかりもない村の人たちと、次第に心を通わせ、やがて、自分のことのようにその村を思うようになる。

最終回、最後の裁判で、仁太郎が、原告代理人の弁護士(杉浦直樹)の「代理」で、最終弁論を読み上げる羽目になる。

「…人はみんな、生まれ故郷を持っています。誰にでもお袋がいて、親父がいて、誰にでも名前があるように、みんな、生まれた場所がある。それは一生つきまとうもんだ。だからこそ俺たちは、それを守る権利がある。子どもの頃に遊んだ山を、川を、池を…。この裁判はこの村だけの問題じゃない。人間の本質の部分を、根っこの部分を守る戦いなんだ。だから、それを踏みにじる奴らを俺は許せない。どんな人間にも生きる権利がある。どんな人間にも故郷を守る権利が。だから俺は戦った。そして、これからも。…確かにこの村は、俺の村じゃない。…でも、この村に住む奴らは、俺と何も変わらない。だから俺は…。だめだ、言葉が出てこねえや。だって何も書いてねえんだもんなあ」

白紙のノートを突然渡された仁太郎が、自分の言葉で述べた最終弁論。

「この村に住む奴らは、俺と何も変わらない」

「自分とは関係のない人たちのために命を賭ける」ことの意味が、ここで初めて明らかにされる。

「自分とは関係ない人たちのために戦う」とは、「自分と何一つ変わらない人たちの存在」に気づくことなのだ。

作詞家・阿久悠は、

「ひとりひとりが思うことは 愛する人のためだけでいい」

と歌に書いたが、愛する人のために戦うことの尊さは、誰でも容易に気づくことである。

「見ず知らずの人のために戦う」ことが、時にはそれ以上に尊いこともあるような気がする。

震災以降、漠然と感じてきたことである。

さてその後、「自分とは関係ない人たち」のために戦った人たちはどうなったか?

野武士との戦いでは、七人の侍のうち、三人だけが生き残った。勘兵衛は

「勝ったのは百姓たちだ。わしたちではない」

と、結局いつもと同じ「負け戦だった」と述懐する。

暁仁太郎は、裁判で村が勝訴したあと、東京に戻って、今まで通り売れない役者を続ける。

結局、何も変わることのない生活に戻るのである。

「見ず知らずの人のために戦う」とは、そういうものなのだろう、と思う。

今年度も、見ず知らずの人のために、自分のできる範囲で頑張ろう。

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