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結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ

ふと思い立ち、家の本棚の奥から1冊の本を取り出して、久しぶりに読むことにした。

410zpsnaepl__sl500_aa300_タレント、大竹まことのエッセイ集『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』(角川書店、2004年)である。買ったことすら忘れていた、ということは、以前はちゃんと読んでいなかったのだろう。

水道橋博士が『本業』(文春文庫)という本の中でこの本の書評を書いていたと記憶するが、こちらの方は本棚のどこにあるのか、見つからない。

昔、「シティボーイズ」(大竹まこと、きたろう、斉木しげる)という3人組のコントユニットが好きで、よくライブを見に行っていた。

「シティボーイズ」をひと言で表現すれば、「ダメな大人たち」である。

もし、世の「ダメな大人たち」を、「大竹まこと」「きたろう」「斉木しげる」の3つのタイプに分けるとしたら、私自身は誰にあたるか?

そんなことをまじめに考えていた時期がある。

考えたあげく出した結論は、「大竹まこと」であった。

今回、エッセイを読み直して、その意を強くした。

「文は人なり」という。この人のダメさ加減、そしてそれを冷静にとらえる観察力、さらにそれを表現する抑えた文体。

私がこのブログでめざしている「世界観」というか、「ファンタジー」そのものである。

「好きで戦うか」というエッセイでは、「誰も悪くない」ことに、腹を立てる様子を書いている。

たとえば、飛行機が気流の関係で大きく揺れたとき、後ろの席にいた小さい子どもが、火がついたように泣き出すことがある。

子供は悪くない。では母親が悪いのか?いや、母親も、子供を何とかなだめようと必死である。

「誰も悪くない。誰も悪くないから余計に腹が立つのだ」

普通なら見過ごしてしまいそうなことに気づき、分析し、煩悶する。この人は、何でも気づいてしまい、いったん気づいてしまったことに呪縛される人なのだ。

私もまったく同じである。

「シティボーイズ」の日常を描いた「敵は外にいなかった」「ダメな人の前をメザシを持って移動中」は、きたろう、斉木しげるといった、おかしなキャラクターを、卓越した観察力とシュールな文体で読ませていく。そこはかとなく可笑しい世界観である。

これは、以前私が韓国の語学学校の様子を書いたときにめざしていた文体である。私は、こういう文章をめざしていたのだ。

マルセ太郎の葬式に訪れた時のことを書いた「家などいらんが」も印象的で、その文章構成がやはり、私がこのブログでめざしている文体なのだ。

最近私が読んでいる、浅田次郎、伊集院静、内舘牧子、といった、「エッセイの名手」といわれる作家のエッセイよりも、はるかにしっくりくる。まなざしも思考も文体も、私に最も近いのだ。

「あとがき」の、「私などが物を書いてよいのかの迷いは常にある」という一文は、大竹まことの人間性をあらわしている。

(そうか、俺はやはり大竹まことだったのか…)

しかし残念なことに、このエッセイ集はたぶん、全然売れなかったのだ、と思う。

文庫化されていない、というのが、それを物語る。

一般には受け入れがたいエッセイ集だったようである。

つまりは私の思考も、一般には受け入れがたい、ということなのだろう。

出版社はなぜこの本を文庫化しないのか、理解に苦しむ。

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