K田君のこと
高校時代の友人で、今もつきあいのある者は何人かいるが、その後の友人関係を考える際の教訓となったという点では、3年間同じクラスだったK田君のことが、やはり思い起こされる。彼とはもう15年くらい会っていないのだが。
K田君については、前に書いたことがある。みんなに推薦されて級長をつとめたほど人望があり、飄々とした性格で、誰からも気安く話しかけられるような存在だった。
ただそうした表向きの印象とは裏腹に、K田君は誰に対しても心を開くといった性格ではなく、日ごろの悩みは、早弁(午前中の2時間目と3時間目の授業の間の15分休みに、弁当を食べてしまうこと)をしながら、もっぱら私に話していた。その意味では、何でも話せる親友、と呼ぶべき存在だった。
あるときK田君は、別の友人A君にちょっと違和感を感じるようになった、と私に相談してきて、私は「少し距離を置いたらどうか」とアドバイスした。
その後、K田君は私自身に対してもなぜか距離を置くようになり、しばらくの間、口をまったく聞かない状況になる。
なぜそのようなことになったのか、今となってはわからない。
前に書いたときも、その理由について思い出してみたのだが、最近になって、もう少し別の理由が思いあたったのである。
K田君がA君について私に相談したとき、私はA君のことをそれほど評価していなかったので、たぶんK田君の前で、A君の悪口か何かを、言ったのではないかと思う。
しかしK田君にとっては、そうはいってもA君も大切な友人の1人である。
私は、K田君と親しいことに慢心して、つい、A君を貶めるようなことを言ってしまったのではないだろうか。
結果的にはそのことが、K田君を不快にさせたのではないか。
親友であるならば、K田君をとりまく人間関係そのものを、まずは肯定すべきだったのだ。
今となっては「どうでもいいこと」かも知れない。もちろん、こんなことはK田君自身もすっかり忘れていることである。
しかし大人になった今でも、このような些細なところに人間関係を維持する本質があるのだ、ということに気づかないまま、過ごしてしまう自分がいる。
K田君のことをたびたび思い出すのは、そんな自分に対する、戒めなのではないか。
久しぶりに会ってみたいなあ。K田君に。
K田君をめぐる不思議な因縁についてはまだあるのだが、それはまた別の話。(つづく)
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