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2013年6月

カーナビのない一人旅その3・一期一会

6月29日(土)

午後4時45分。

20130630010242_61870782

「震災資料館みたいなフリーコミュニティースペース 2F」

という看板が、目にとまった。

1階部分は、明らかに津波の被害を受けている。

私はおそるおそる、階段で2階に上がった。

すると、私より少し若いと思われる、茶髪で肌の浅黒いサーファー風の男性と、その奥さんらしき人、さらにはその息子らしき、小学生くらいの男の子がいた。

どうにも場違いな感じのところに迷い込んでしまったかな、と一瞬思った。

「どうぞ、お入り下さい」と、そのサーファー風の男性。

見ると、壁にはポスターほどに引き延ばされた写真がたくさん貼られていた。

そのどれもが、芸術性の高いものである。

「震災のあとに、写真を撮り続けたんです」とその男性。写真はいずれも、震災後の、港町の瓦礫や、陸に乗り上げた船の様子などを撮ったものであった。

「しかも、夜に撮ったものばかりです。震災直後は、町は真っ暗でねえ。月明かりと星だけを頼りに、写真を撮りました」

「どうしてまた、夜ばかりなんです?」私は質問した。

「昼間に瓦礫を撮ると、ちょっと生々しく写ってしまって、あまり気分のいいものではないんです。でも夜に撮れば、なぜか少し瓦礫が非現実的に写るでしょう」

「たしかにそうですね」

「まだ地元では瓦礫のショックが大きいですからね。もう少し時間があいたら、少しずつ昼間撮った写真も展示しようと思います」

「これは、この辺りを撮った写真ですか?」

「そうです。ほら、ここから漁港が見えるでしょう?」

「ええ」私は窓の外を見た。2階なので、見晴らしがいい。

「あの漁港のまわりを撮ったのです。例の有名な、陸に乗り上げた船も、この近くにあるんですよ」

「そうですか」

「このへんは津波の影響をもろに受けましてね。ほら、あそこを見てください」

男性はこんどは、道路をはさんだはす向かいの区画を指さした。今いる建物と道路をはさんだ向かい側の区画は、さまざまなお店があったところだったそうで、すぐ後ろが海ということもあって、ほとんど建物が流され、土台しか残っていなかった。

Photo_4 男性が指をさした場所は、先ほど私が写真を撮った、「2011,03,11 GROUND ZERO 風の広場」と書かれたプレートをはじめとするさまざまなオブジェが置いてある区画だった。ちょうどこの建物のはす向かいなのだ。

「ああ、あの場所、先ほど私、写真を撮りましたよ」

「あの場所は、私の家があったところです」とその男性。「私が開いていた美容室だったところです」

「そうだったんですか!」

私は驚いた。その男性は、先ほど私が写真を撮った場所の家主だったのである。

「じゃあ、あなたがあれを?」

「そうです。何もできないのが悔しくってねえ。だから、あそこに何か証になるものを置こうと」

「そうだったんですか」

「もとあった街がさら地になってしまうと、たちまち街の記憶が失われていくんです。どこに何があったんだろう?とか…。でも、ああやってオブジェを置いておけば、ああ、あそこは美容室があった場所だよな、となって、それがきっかけで街を思い出すことができるんじゃないかと。それで、芝を植えたり、毎日掃除したりしているんです」

「失礼ですけど、今はどちらにお住まいに?」

「今、別の場所でワインバーをやっていて、そこに住んでいます」

このあと、町の復興の話に及ぶ。

いまこの町で問題になっているのは、陸に上がった大きな漁船を、撤去すべきか、そのまま残すべきか、意見が割れている、という。

震災の記憶をとどめるためには、残しておいたほうがいい、とその男性はいう。

「地元にとっては微妙な問題なので、なかなか積極的に声を上げる人はいない。それに、最終的には残されないかも知れない。でも、どうせ残されないからといって声を上げないのはおかしい。だから僕が声を上げたんです」

「矢面に立たされているわけですね?」

「ええ。いろいろなところでいろいろなことを言われていますよ。批判されたりね。でもみんな、面と向かって言ってくれない。面と向かって言ってくれた人には、自分の考えをきちんと説明することにしています」

「これからこの町はどうなるんでしょうね」

「いつまでもクヨクヨしていられません。僕は、できることからいろいろなことを仕掛けていこうと思うんですよ」

「たとえばどんな?」

「震災の前は、うちの店のある地区で旧暦の七夕の日にお祭りをしていたんです。でも、震災後に、あのとおりぜんぶ流されてしまって、お祭りは行われなくなってしまった。でも僕は、もう一度みんなに呼びかけて、今年の夏祭りに合わせて、七夕祭りを復活させようと思っています」

不思議だとは思わないか?

考えてもみたまえ。

以前は美容室を経営し、今はワインバーを経営している茶髪で浅黒いサーファー風の男性なんて、ふつうに生活していたら、全然私のような愚鈍な部類の人間とは接点などないはずで、ましてや話をするなどということもありえなかったはずである。

だが今、初対面であるにもかかわらず、こうして1時間近くも話し込んでいるのだ。

たぶん震災という特殊な状況の中では、こうしたイレギュラーな出会いといったものが、相当あったんだろうな、と想像した。

「七夕祭り、成功するといいですね」と私。

「ぜひまた、おいで下さい」

「また来ます」

名前も連絡先もお互い聞かず、まさに「一期一会」である。

この町の夏祭りに行ってみようかな、と、かなり本気で考えはじめた。

帰りがけに男性が言った。

「ぜひ、陸に乗り上げた船を見に行ってください。ここから近いですから」

「わかりました。ありがとうございます」

建物を出て、教えられたとおりの道を車で走る。

やがて大きな船が見えてきた。

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時計を見ると、夕方6時になろうとしていた。

私は車に乗りこみ、海づたいにM町を経由して、帰途についた。(完)

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カーナビのない一人旅その2・生き抜いたお猪口

6月29日(土)

午後12時50分。

ようやくK市に到着した。

まずは、昼食である。

当然、海の幸を堪能しなければならない。

漁港に行ってみると、レストランがあったので、とりあえずそこに入ることにした。

お昼時で混んでいたのか、外で少し待たされ、中に入り、海鮮丼を注文した。

Photo 食べていると、およそこのレストランに似つかわしくないような、オシャレな人がお店を出ていった。

誰かと思って目で追っていくと…

藤原紀香だ!

…といっても、私はファンでも何でもないので、さしたる感慨はなかった。

あとで新聞記事を調べたら、たしかにこの日、藤原紀香は震災復興関連のイベントでK市に来ていたので、やはり私が見たのは藤原紀香で間違いない。

…そんなことはどうでもよい。

海鮮丼を食べ終わったのが1時半過ぎ。そこから、K市の町を歩くことにした。

ひとつ、訪れたい場所があった。それは、4年生のSさんに聞いたお店である。

古い建物や蔵を改装し、中では焼き物(陶磁器)や雑貨などを売っているそのお店は、建物じたいが文化財に指定されいているほどの貴重なもので、震災の津波で被害を受けた部分を改修して、最近、ようやくお店も再開できたのだという。

漁港近くの、観光客用の駐車場に車を停め、歩き始める。

Photo_2 途中、家が流されたと思われる一区画に、オブジェが置いてあるのを見つけた(写真)。

「2011,03,11 GROUND ZERO 風の広場」と書かれたプレートが置いてある。

さらに、地震が発生した2時46分の針をさしたままの時計も置かれている。

私はそれを、写真におさめ、再び歩き出す。

Photo_3 ほどなくして、目当てのお店が見つかった。 まわりに仮設の店舗が多い中で、もとの建物でお店が開けることは、奇跡に近いことである。

決して広くないその店内には、陶磁器やガラス工芸品、雑貨などが所狭しと並べられている。お店の中央にはテーブルがあり、そこに、お店の主人らしき人とその奥さんらしき人がいた。仕事をリタイアされたくらいの年齢の老夫婦、といった趣である。

しばらく店内をうろうろと見ていると、あやしまれたのだろう。

「どちらからおいでになったんですか?」とその奥さんがいう。

「県外です」

「そうですか。お茶でもいかがですか」

テーブルの席に座り、お茶をいただくことにした。

さあ、そこからが長い。ご夫婦によるお話がはじまった。

店のご主人と奥さんは、ご夫婦ともども、陶磁器やガラス工芸品や漆器、金工など、とにかくそういった工芸品に魅せられ、全国をまわって気に入った作家の作品を仕入れては、この店で個展を開いたり、店頭に置いたりしているのだという。ご夫婦ともども、というのがすごい。

その話は尽きることなく、聞いていて勉強になることばかりである。私もつい、質問したりした。

気がつくと、2時間半がたっていた。

あーた、2時間半ですよ!2時間半!時計を見たら4時半を過ぎていた。

老夫婦によっぽど気に入られたのか?あるいはこの店ではよくあることなのか?

最後に、奥さんがお店の奥から何やら持ってきた。

「もしよかったら、これお持ちになって下さい」

「何ですか?」

「お猪口です」

見ると、とても小さなお猪口である。

「このお猪口は、昔からうちの蔵にあったものなんです。蔵は、昭和4年の大火のときにも、太平洋戦争の空襲でも、奇跡的に残ったんです。このたびの地震と津波で、蔵のなかがメチャクチャになって、大事なものが全部壊れてしまったんですけど、このお猪口だけは、壊れずにそのままだったんです」

「つまり、昭和4年、太平洋戦争、そしてこの前の震災をくぐり抜けてきたお猪口、というわけですね」

「そうです。だからこれは、どんな災難が起こっても、命を助けてくれる、お守りみたいなものです。これを差し上げます」

「ええぇぇぇぇっ!いいんですか」

「ええ、どうぞ」

重い!重すぎる!だってこっちは、初対面の得体の知れないオッサンだぞ!

「まだうちにはいくつかありますので、どうぞ」

そんな大事なものをもらっていいものか?と逡巡したが、ありがたくいただくことにした。

「ありがとうございます」

「またおいで下さい」

「はい。唐津焼が趣味の友人がおりますから、こんど連れてきます」と私。「唐津焼が趣味の友人」とは、福岡に住む高校時代の親友、コバヤシのことである。

こうして、お店を出た。

さて、駐車場に戻ろうと、来た道を引き返すと、建物の看板が目に入った。先ほどもこの建物の前を通ったはずなのに、さっきは気づかなかったのである。私はその看板の前で、立ち止まった。(つづく)

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カーナビのない一人旅その1・シージェッターと自由の女神

6月29日(土)

隣県のK市に行くことを、昨日、ふと思い立った。

原稿が書けないことからの逃避である。

「悩みがあるなら 旅に行け

心を鍛えて 一人の旅に行け」(奥田民生作詞、坂本龍一作曲「鉄道員」より)

というがごとくである。

K市に行ってみたい、と思った理由は、先日、4年生のSさんから、出身地であるK市の話を聞いたからである。海沿いにある港町で、一昨年の震災で津波による大きな被害を受けた。

初めて訪れる町なので、カーナビのない車でたどりつけるのか不安であったが、このところ、車の遠出を無事にこなしているので、まあ大丈夫だろう。

朝7時、出発。

途中でまた、ふと思い立つ。

そういえば、震災後のI市にも行っていないなあ。I市もまた、震災で津波の被害を受けた町である。K市に行く途中だから、寄ることにしよう。

かくして、K市の手前にあるI市にも、行くことにした。

地図というより、道路の案内表示だけを頼りに、何とかたどり着いた。

I市に訪れた目的は、市内を流れる川の中州にある古い教会と、その教会に隣接する、漫画家・石ノ森章太郎の萬画館を訪れることであった。

午前9時、I市に到着した。

20130629224903_61870782_2 

I市の古い教会のことが気になっていたのは、震災の直後だったか、かつての同僚が、「あの教会、どうなったのかなあ。一度行ったことがあって、けっこう好きだったのになあ」と言っていたのを思いだしたからである。

古い教会は、津波に流されることなく、かろうじて外観をとどめたと聞いていたが、今は改修工事中であった(左上の写真)。

実際に見てみると、想像していたよりもはるかに小さな建物であった。

続いて、石ノ森章太郎の萬画館を訪れた(右上の写真)。

子どものころ見た仮面ライダーとか、とても懐かしかったのだが、いま、「仮面ライダーシリーズ」って、エライことになっているんだね。館内で映像を見たのだが、変身の仕方が複雑すぎて、もう全然わからない。あんなに面倒くさい変身をするんだね、今の仮面ライダーは。

あと、「シージェッター海斗(かいと)」という、ローカルヒーローがいるということも、初めて知った(左下の写真)。何より感動したのは、あの水木一郎さんが、震災後に、石ノ森さんへのご恩返しと復興への祈りをこめて、このシージェッター海斗のテーマ曲を自ら作詞作曲して、歌っていることである。

この歌が、昭和の変身ヒーローの主題歌のまさに王道!という感じで、とてもすばらしいのだ!

水木一郎さんがすごいと思うのは、自身に求められていることが何かを把握された上で、期待通り、あるいはそれ以上のものを生みだすことである。

CDがあればぜひ買いたかったのだが、なかったのが残念だった。

萬画館を出て中州を出ようとすると、自由の女神像があるのが遠くに見えた(右下の写真)。中州にあった公園のシンボルとして建てられていたものだそうである。

近寄ってみると、下半身部分がかなり壊れていて、痛々しい。これもまた、震災の爪痕である。

そういえば、萬画館のシージェッター海斗の人形も、津波から救い出されたままのものが館内で展示されていて、やはり痛々しかった。

しかし、シージェッター海斗も自由の女神も、復興のシンボルである限り、これからも立ち続けてほしい。

中州をあとにし、次に、以前一度だけ訪れたことがある、海の近くの文化センターを訪れた。

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気がつくと、午前11時近くになっていた。このあと、本来の目的地であるK市に向かった。

K市までの道のりは長い。旅はまだ、はじまったばかりである。(つづく)

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決意表明、ふたたび

6月28日(金)

ちょっと前に「私は踊らされているのか?」という記事を書いて、書いたあとに「調子に乗りすぎたな」と反省して、「やはり踊らされていたのか」という撤回の記事を書いたんだけれど、読んでくれた友人が「話芸を磨くという決意表明を読んで、自分も勇気をもらった」というメッセージをくれて、それならば「話芸を磨く」という決意表明は、撤回するんじゃなかったと、ひどく反省した。

それと関係するかわからないけれど、私の出身高校のはるか上の先輩に直木賞作家の志茂田景樹さんがいる。私が高校や大学のころ、奇抜なファッションでテレビに登場したりして、けったいなオッサンやなあ、と思ったんだけれど、最近、志茂田景樹さんのツイッターを読んでみたら、さすが作家だなあ、と思った。どれもが的確な表現で、当然のことながら、人を傷つけるような不用意な発言などない。そればかりか、短いフレーズの中で、読者に勇気を与えているのだ。

言葉のプロとは、こういう人のことを言うのか、と思い、「話芸」でなく「言葉芸」を磨こう、と、志茂田さんのツイッターを読んで思った次第。

ということで、今年度の目標は「言葉芸」を磨くことにします。

決意表明、というほどでもないが、ついでなのでもう一つ考えていることを書く。

私がこの稼業に就いてから、わりと強く意識していることに、「組織の中では孤高を貫く」というのがある。

なんとなく聞こえはいいが、もともと私は組織の中では「孤高」というより「孤独」であり、どちらかといえばナチュラルな形で、というか、結果的に孤高を貫いている状態になってしまった、という方が正しい。

もともと徒党を組むのが好きではない、ということも大きいが、いちばんの理由は、学生との関係において、である。

もし私が、特定の派閥に属していたり、特定のグループの同僚と仲がよかったりしたら、たぶん、学生は相談に来にくいのではないか、と思う。

「いまの話、ぜったいにほかの先生に内緒ですよ」

というような相談が、できなくなるからである。

学生にとってみたら、「B先生に漏れるリスクを考えたら、A先生には相談はできない」ということになる。たとえこちらにそのつもりがなくとも、である。

学生が気軽に相談に来てくれるためには、自分自身が特定の色に染まらないことが、重要だと思うのだ。

だから学生の前では、なるべく孤高の姿を見せようと意識しているのである。

もっとも、それがどれほど実践できているかは、わからない。ただもともと孤独なので、かなり実践できているとは思うのだが。

ということで、「孤高を貫く」こともまた、私の決意表明である。

…あまり面白くない話ですみません。そう毎日毎日、面白いエピソードが起こるはずはないもの。

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飲みニケ-ションの幻想

6月27日(木)

学生たちとお酒を飲まなくなったのは、いつからだろう。

もちろん、職場の公式行事でそういう場に参加はしているが、しかし以前のように、そこで会話がはずむということはなくなった。

私の記憶では、数年前までは、学生たちと飲みに行ったりすることがあったが、今ではほとんど、というか、全くない。

だんだん世代差が開いてきて、お酒の席で何を話していいのか、わからなくなったことも理由の一つであろう。

何より、酒の席で不用意な発言をして、学生を傷つけてしまうようなことがあってはならない。

最近は、心を許した人と飲むお酒が、いちばん美味しいのだ、ということがわかってきた。

人は、お酒を飲むから親しくなるのではない。親しいからお酒を飲むのだ。

その証拠に、社会人なら誰しも経験しているように、会社の上司とお酒を飲むことほど、苦痛なことはない。

少し前ならば、学生たちと飲むことが、学生たちとの距離を縮めることだ、と、あまり疑わずに考えていたような気がする。

だが今は、お酒を飲むことが距離を縮めることとは限らない、と思うようになった。それは、私と学生との間に、権力関係が存在していることを、強く意識し始めたからかもしれない。

だから、兄貴分面をしてやたら学生たちと飲みたがる大人を、私はあまり信じない。

お酒を飲むことで距離が縮まる、と考えることは、幻想なのだ。

お酒を飲むことで距離が縮まるわけではない。だがその代わり、距離が近い人と飲むお酒は、とても美味しい。

お酒とは、そういうものであると思う。

では、私は最近の学生からはまったく遠ざかってしまったのか?

いや、そうではない。

仕事部屋に学生が相談に来たり、話しに来たりすることが、たまにある。

今日も夕方、仕事部屋に学生がやって来た。

「先生、日本に戻ってきました」

4年生のNさんである。半年の海外留学を終えて、帰国したのだ。Nさんは、私の指導学生ではないが、私の授業を1つ2つとったことのある学生で、よく話をしに来てくれた。

その姿は元気そうで、表情は晴れ晴れしていた。

「どうだった?」

「留学できて、とてもよかったです。…先生のおっしゃったこと、やっぱり当たってました」

「何のこと?」

「語学力は、3カ月目くらいに突然上達するって話です」

「そうそう、たしかそんなこと言ったっけねえ」

「最初は、周りの人たちの話している言葉が、全然わからなかったんです。でも3カ月くらい経ったときに、ふと、『あれ、私、ちゃんとコミュニケーションとれてるじゃん』と。そのとき、先生がおっしゃったことを思い出したんです」

留学前にそんな話をNさんにしたことを、思い出した。

「これから就職活動です」とNさん。「でも、自分で何をやりたいのか、まだはっきりとわからなくて…」Nさんは、少し不安そうである。

「留学先から帰国したあと、自分の心の中を整理するのには、時間がかかるものだよ」と私。現に私自身がそうだった。

「そりゃあ、周りの人は、『留学したんだから、早く成果を出せ』みたいなことを言うかもしれない。でも、そんな簡単なものじゃないと思うんだよ。じわじわと時間をかけて、その時の体験が自分のものになっていったときに、初めて自分のやりたいことが見つかるんじゃないだろうか」これは私の本音だった。

「そういうものですか」

「そういうものです」

「なんか、それを聞いて少しホッとしました」

「だって、留学して、よかったんでしょう?」

「はい、私にとって、一生の思い出です」

Nさんは「また来ます」と言って、帰っていった。

お酒を飲みながら話すよりも、学生たちの思考の深い部分を知ることができる方法は、いくらでもあるのではないだろうか。最近、そんなことを思う。

もちろん、そう思うこと自体、私の幻想かもしれない。

だがこのことだけは確実に言える。

「飲みニケ-ション」は幻想である、と。

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ETC弱者の憂鬱

IT弱者の憂鬱

6月26日(水)

朝イチの授業が終わって、出張講義のため、隣県の高校まででかける。

公共の交通機関では時間がかかるため、今回は自家用車で行くことにした。

しかし初めて行く場所なので、よくわからない。

何しろ私の車には、カーナビがついていないのだ。

先日、車で2時間半ほどかかる「特急の止まる駅」の町に行ったときも、道路地図を頼りに、ほとんど「勘」でたどり着き、職員さんたちに「カーナビ、ついていないんですか?」と驚かれたほどである。

おまけに、ETCもついていない。

数日前、車が趣味の同僚とすれ違ったので、聞いてみた。

「○○高校、行ったことあります?」

「ありますよ。出張講義で」

「場所はわかりにくいところですか?」

「いえ、わかりやすいですよ。高速道路の○○パーキングに、ETC専用の出口があって、そこから出ればすぐです」

「あのう…」

「はい?」

「私の車、ETCがついていないんです」

「え?ないんですか?それじゃあダメですね」

心なしか、私をさげすむような目をした(被害妄想)。

かなりの敗北感である。

仕方がないので、インターネットで、高校までの道のりをルート検索することにした。

すると、ここでもやはり「○○パーキングで、ETC専用出口を出て…」という案内表示をしやがった。

それ以外のルートを、一切教えてくれないのである。

もはや、カーナビもETCもついていない車は、一顧だにされないということか?

私は悲しくなった。これほど、敗北感、屈辱、孤独、といったものを感じたことはない。

世の中には、イヤなこともいっぱいあるし、腹の立つこともいっぱいある。

「でも、あなたの車には、カーナビもETCもついているんでしょう?私にはついていないんですよ。そう考えれば、私よりもはるかに恵まれていますよ」

これから、もし悩める人たちから相談を受けたら、そう答えることにしよう。

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俺たちの、この情緒的なるもの

6月25日(火)

むかし見た映画に、「俺たちの交響楽」(1979年)というのがあって、私の嫌いな武田鉄矢が出ていたんだけど(当時は好きでも嫌いでもなかった)、原案が山田洋次で、監督が朝間義隆という「寅さんコンビ」による作品だった。現在ソフト化はされていない。

内容はほとんど覚えていないが、ふだんはいろいろなところで働いている若者たちが、「ベートーベンの第九を歌おう」と集まり、仕事が終わった夜とか、週末とかに、みんなで集まって練習し、対立や結束をくり返しながら、演奏会をめざす、という内容だったと記憶している。

震災後のボランティア活動が軌道に乗りつつあったころ、私はなぜかこの映画のことを思い出した。ふだんはいろいろなところで働く人たちが、週に1,2度、夕方に「作業場」に集まり、1つの目的に向かって作業をする、という姿が、その映画を連想させたのかも知れない。

で、続けていくうちに、いつの間にか、この活動も「俺たちのボランティア」になってしまったようである。

昨日の作業のあと、同世代のオッサン3人(+若者1人)で、そんな話題になった。

ボランティアに「俺たちの」という冠はいらない。あくまで相手の気持ちが最優先されるべきものだからである。

理屈ではわかっている。

だがしかし、長く続けていくと、そう単純に割り切れるものでもなくなってくる。

ここから、オッサン3人(と若者1人)の苦悩が始まる。

そもそも、KさんもUさんも私も、そしておそらくT君も、多分に情緒的な性格なのだ。

おそらくこの4人の情緒的な性格は、ボランティア活動に限ったことではないだろう。およそ人間関係すべてにわたって、同じようなことがくり返されていると想像される。

「自分はこれほどまでに想っているのだ」という思いが勝ちすぎて、しばしば先走ってしまう、という性格である。

「私たちの気持ちの問題はさておきましょう」とKさんが提案する。つまり、知らず知らずのうちに付いてしまった「俺たちの」という冠をとりましょう、ということである。私たちの気持ちはさておき、相手の気持ちにより添うべきだ、というのは、至極当然の提案である。

もちろん、大人だから、気持ちの整理をつけることはできる。だがそこに、何か抑えがたい気持ちがあることもまた、事実である。

その抑えがたい気持ち、というのは、言葉にはできないが、UさんもKさんも、そして私も、同じ気持ちなのだろう、と思う。

考えてみれば、この活動は、情緒的な人たちの集まりだった。そうでなければ、この活動は、続かなかったはずである。

お互いがお互いの「情緒的なるもの」に共鳴した結果が、この活動だったのではないだろうか。

とくにUさんの中にある「情緒的なるもの」は、震災後、ずっと彼を見てきた私にとって、手にとるようにわかる。そして私もそれに共鳴し、それが仲間意識とか友情といったものを強めていった。その意味において、このボランティア活動は、「俺たちの」問題にもなったのである。

「俺たち」は、今後どうなっていくのか。

些細な問題といわれるかも知れないが、いい歳をしたオッサンたちは、これからも悩み続けるだろう。

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やはり踊らされていたのか

6月25日(火)

昨日書いた「私は踊らされているのか?」は、やはり「踊らされていた」ようである。

調子に乗るというのはよくないことである。

自分自身の「伝える力」のなさに、ほとほと呆れるばかりである。

授業に限らず、こっちはよかれと思って、言葉を尽くしたり、言葉を選んだりしても、それがかえって意に反したり、不快にさせたり、伝わらなかったりするのだ。まあ、こればかりは仕方がない。

さらに調子に乗って、「話芸を磨く」なんてバカなことまで書きやがった。

自分の身の程知らずにもほどがある。

やはり人間、身の丈に合ったことをしなければいけませんな。

…ということで、これからも変わらず、細々と、地道に生きていくことにいたします。

こんなとき決まって思い出すのは、映画「男はつらいよ 寅次郎物語」で、寅次郎が旅立つ場面である(また始まった)。

寅次郎が、とらやの2階で妹のさくらと話をしている。

「さて、ぼちぼち旅に出るか」

「もう行っちゃうの?」妹のさくらが聞く。

「病気でもねえのに、フラフラ遊んでたんじゃ、お天道様に申し訳ねえからな」

「くたびれてるみたい。働いて大丈夫?」

さくらのこの言葉に、寅次郎が自嘲気味に言う。

「働く?フ…、何言ってんだおめえは。働くっていうのはな、博みてえに、女房のため、子供のため、額に汗して真っ黒になって働く人たちのこというんだよ。オレたちは口からでまかせ、インチキ臭いものを売ってよ、客も承知でそれに金払う、そんなところでおまんまいただいてんだよ」

「商売人」も「客」も、それぞれが自らの役割を演じつつ、その虚構の関係の中で仕事をする寅次郎。

一方で、家族のために額に汗して地道に働くさくらの夫、博。

寅次郎は、本来のあるべき人間の生き方を、博に求めているのだ。そして最後には、愚かな自分の生き方に気づくのである。

もっとも、反省はするが、改善はしない。この点は、私も同じである。

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私は踊らされているのか?

6月24日(月)

最近もっぱら励まされることといえば、1年生が書いてくれる授業の感想である。

今日の授業では、こんな感想があった。

「(授業の)まとめのとき、先生の語りが古畑任三郎レベルにさえわたるのがすごいです」

毎回、あるテーマに関わるエピソードを紹介する、という形式の授業で、エピソードが終わるたびに、そのエピソードのまとめを話すのだが、その時のことを書いてくれたらしい。

「先生の語りが古畑任三郎レベルにさえわたる」という表現が、まさに私を「調子に乗せる」のに、十分すぎる表現である。

古畑任三郎が事件の謎解きをする場面は、まさに「さえわたる」という言葉がふさわしい語りをする。つまり、まるで事件の謎解きをするように、授業をまとめる、ということだな!

誰かに雇われて書いているんじゃないのか?だって、1年生がこんなことを書けるはずないもの。だいいち、「古畑任三郎」を今の若者が知っているはずはないのだ。

ぜったい私を陥れようとしているぞ。「ほら見ろ、すぐに踊りやがった」と。

こんな感想もあった。

「先生は引きあいに出すたとえ話が秀逸で、それがこの授業をより面白くさせているんだな、と気付きました(京都の人は兵庫が雪国、とか)。どうしたらそんなに話が上手くなれるんでしょう?」

これには注釈が必要である。

授業の中で、「人間というのは、自分のいま住んでいる世界が、世界のすべてだと思ってしまうものだ」と述べた。

そのたとえに、次のような話をした。

「みなさんにとって、『雪国』とは、どのあたりをイメージしますか?」

青森、とか、北海道、といった声が上がる。そもそも、いま住んでいるこの場所が「雪国」なのである。

「でも先日、京都の人と話をしたんだけれどね、その京都出身の人は、どのあたりのことを『雪国』と言ったと思いますか?」

しばらく考えて、金沢、という声が聞こえた。

「金沢ではありません。…兵庫県です」

学生が一様に驚く。兵庫県といえば、京都の隣ではないか。

「兵庫県の山間部に丹波という地域があって、雪の降る場所でしてね。京都の人にとっては、そこがどうも『雪国』のイメージらしいんです」

信じられない、という顔をする学生たち。

「『ふざけんな!』って感じだよねえ」

そう言うと、学生たちは大爆笑した。北国に住んでいる人間からしたら、当然の反応である。

「つまり人間は、放っておくと、自分のいま住んでいる世界の基準でしか、ものを考えることができなくなるものなんです」

…とまあ、こんな話をしたのである。

先ほどの感想は、それを受けてのものである。

この感想も、どうも私を陥れようとして、誰かの差し金で書いた感想としか思えない。

現に私はこうして、「踊らされている」のである。

だが、踊らされついでに踊ってしまうことにすると、今年度の目標は、もっともっと話芸を磨こう、と、決意を新たにした。

さて、今日の授業では、新しいエピソードに入りかけたところで終わった。こんな感想もあった。

「私の母が、このエピソードの結末を楽しみにしております」

「私の母」って…。ご家庭でこの授業のことが話題になっているということなのかあぁぁぁ?

こんな感想もある。

「来る途中、まだ新しい腕時計を壁にすったのがショックでした。この授業は好きです。すずしくて」

ラジオ番組にくる「ふつうのお便り」みたいで、これはこれでセンスがある。

最後に、先学期に引き続き、似顔絵を描いてくれる学生もいるので披露しよう。

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もはや似顔絵だかなんだかわからないが、かなり秀逸である。

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おしゃれっぷりにあたる

6月22日(土)

東京の家にて。

今日の夜は妻が、知り合いの関西のお金持ちの紳士の招待で、何人かで会食をするという。

人形町の超有名な「すき焼き」屋さんでごちそうになるのだという。ビックリするくらい高価なすき焼きだそうである。

だが、妻はここ最近、胃の調子が悪い。先週末、出張先で酸辣湯面(スーラータンメン)を食べ生ビールを飲んでからというもの、すっかり胃がやられてしまったのだという。

これではすき焼きに差し支える、ということで、朝から絶食宣言をした。

すき焼きに呼ばれているわけではない私も、なぜか絶食につきあわされることになった。

今日は家で休みながら、たまった仕事でも片付けようと思ったが、妻が、ある美術館のチケットの招待券をもらったので、見に行こうという。

家でウジウジと考えごとをしていても仕方がないので、せっかくなので見に行くことにした。

しかし、ここで問題がある。

私はこの週末、仕事を片付けようと、ビックリするくらいの本や仕事道具を持ってきていた。大きなリュックサックと、キャスター付きのスーツケースに、ぎっちりと詰めて込んできたのである。

しかも、今日の夜は、明日の研究会会場の近くのホテルに泊まらなければならない。そして終わるとはそのまま、勤務地に戻るのである。

だから、荷物を全部持って移動しなければならないのだ。

電車を乗り継ぐこと1時間。都内でも有数の高級住宅地の中に、その美術館はある。

大きなリュックを背負い、キャスター付きのスーツケースをがらがら引きながら高級住宅地を歩いてみたが、いいねえ、高級住宅地は。

なんといっても、緑が多い。

広い庭には大きな木があって、その木のおかげで、道路に木陰ができる。

そしてその道路はそんなに車が通らないものだから、風が吹き抜けるのである。

だから、道路を歩いていても、涼しいのである。

なんたって、余裕があるものなあ。

うちみたいな、狭い土地に隙あらば家を建ててやろう、みたいな住宅地とは、雲泥の差である。

なるほど、「金持ち喧嘩せず」とは、こういう環境だからこそはぐくまれるんだな。

訪れた美術館自体が、ある財閥の会長が集めた美術品を公開しているところだもの。しかもそこにはビックリするくらい広い庭園が付設されているのだ。段丘を利用した広い庭園は、武蔵野の雑木林におおわれた静かで贅沢な空間である。思索に耽るにはもってこいの場所だ!

「こんなところに住んでみたいなあ」

「売れる本を書けたらね」

相変わらずきついことを言う。

見終わってから、渋谷に移動した。妻が、すき焼きをごちそうしてくれる紳士に、おみやげを買わなくてはならないためである。

そこではじめて、「ヒカリエ」というところに行った。

行ってみたら、まあ、ビックリするくらいおしゃれなところである。

なんと言っても、歩いている人たちが、みんなおしゃれなのだ。

男性はみんなスマートだし、女性はみな美しいときたもんだ。東京って、こんなにきれいな人が多いのか?

どこかでパーティーをやっているのか?というくらい、みんなドレスみたいなものを着ているぞ!

そしたら、本当にワインの試飲パーティーみたいなことをやっていた。

(これは、いよいよ場違いだぞ)

何しろこっちは、大汗をかきながら、大きなリュックサックを背負って、キャスター付きのスーツケースを転がしながら歩き回っているのである。

歩いていると、「クリエイティブラウンジ」なるスペースを発見。

「なんだい?このクリエイティブラウンジって」

「オフィスを持たない若いベンチャービジネスの人とか、クリエイターとかが、ここを事務所代わりにして、自由に仕事をするスペースなんでしょう」と妻。

なるほどねえ。さすがおしゃれな発想だ。

とにかくこんな光景ばかり見せられてしまったから、すっかり私はこのおしゃれっぷりにあたってしまった。

ここでいう「あたる」とは、「食あたり」とかの「あたる」ね。

夕方、妻は人形町に向かい、私は研究会会場の近くのホテルに向かった。

夜、妻から「すき焼き」の報告が。

「1枚60グラムの上等な牛肉を3枚食べたら、お腹いっぱいになった」と。「お金持ちの紳士のお話を聞いたが、あまりに住む世界が違うんでビックリした」とも。

うーむ。こりゃあ、絶対に専攻を間違えたぞ!

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悩み続ける仕事

6月21日(金)

このところ、空き時間に、学生が入れ替わりに相談に来る。

人生の決断をせまられた時期、自分としては、どのように決断したらよいか、わからない、という。

私の前で、いまの自分の心境を語り、時に、言葉を詰まらせる。

それに対して、どう答えたらよいのか、わからない。

なぜなら、私自身も、いつも悩み続けているからである。

だから、私からは、正解は出せない。

ただ、できるだけ言葉を選びながら、対話をしていく。

学生たちは自分自身で何かを見つけ、帰って行く。

他人の人生の決断に立ち会う仕事なのだと、実感する瞬間である。

これからも、学生と一緒に悩み続けるだろう。

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読んでるあんたも同罪じゃ!

糸井重里さん、といえば、私の世代だったら、誰でも知っている。

なんたって、NHK教育テレビ「YOU」の初代司会者ですからね。

それより何より、我々の世代にとっては、カリスマ・コピーライターである。

「くう ねる あそぶ」とか「不思議、大好き。」とか「おいしい生活。」とか。

私が糸井さんのコピーで好きなのは、次の二つ。

「まず、総理から前線へ。」

「見てるあんたも同罪じゃ。」

これを見てピンと来た人は、そうとうの‘通’である。

「想像力と数百円」

も、かなり好きだ。

ま、それはともかく。

一昨年の秋、旅先の食堂でたまたま読んだ新聞で、糸井重里さんのインタビュー記事が載っていて、それを食い入るように読んでしまった。あまりに印象的な記事だったので、何人かの人にこの話をしたと思うのだが、正確な内容をもう一度確認したいと思い、記憶を頼りに探してみたところ、日本経済新聞2011年10月26日(水)の夕刊のインタビュー記事であることが判明した。

この中で糸井さんは、コピーライターとして活躍した80年代をすぎ、バブルが崩壊した90年代にさしかかったころ、仕事のあり方にある変化が起こったことを述べている。それまでの、企業の担当者や代表者と膝をつき合わせて話し合いながら広告を練り上げていく手法はもはや通じなくなり、「コンペ」(提案競争)による広告の提案が行われるようになったのである。以下は、新聞記事より。

生きづらくなったという印象が年々強まりました。広告の存在が大きくなり、企業に説明責任が生まれ、採用した案が「一番いい」と説明できなければならなくなったためです。売り上げへの貢献、評判、アンケート。広告効果の「見える化」です。責任者は「言い訳できるもの」を選ぶ。広告が普通の仕事になっていったんです。

コンペでは広告会社など何十人ものチームで乗り込み、大部屋で説明するようになりました。少人数で友達言葉を使い、自由にアイデアを出しあっていたころとは様変わりです。僕は「先生」扱い。人対人として横並びでやりたい僕には、実にやりづらい。よそのチームが、「お前アメリカ人か」という感じで立て板に水のプレゼンテーションをして、笑いたくなりました。これは、おれ駄目だわ、と。

「勝つ」ためだけの言葉が飛び交う戦場になったんです。説明後はゲタを預け、知らないところで採点される。話し合って一緒に良くしましょう、では通じない。

負けが5割を超えたとき、これはまずいと思いました。ところが勝った案が後日、実際に広告になったものを見ると「これか?」という感じ。これに負けたのか、と悔しくなりました。僕はもう依頼してくれる広告会社を勝たせられない。しかし提案の「弱点」を埋めるほど、自分の仕事ではなくなっていく。、「糸井の案を落とした」ことを自慢する人まで出てきた。勝ったから何だ。そう思え、情熱が失われていくのが分かりました。

もう40代半ば。勝つためだけに作りたくないもの、おれでなくても作れるものを作り続けるか。何社かの顧問に就任し「先生」として生きるか。どちらの道に進んでも、自分が駄目になる。

「住む場所」を変えよう。そう思い広告の仕事を減らしました。「イトイはもう終わったな」。そんな声を遠くに聞きながら、知り合いの大学生たちと釣りに熱中しました。

かくして糸井さんは、インターネットの世界へと「住む場所」を変えていく。1997年のことであった。

2年前、このインタビュー記事を自分の身のまわりの状況に置き換えながら読んで、すごく共感した覚えがあるので、資料として書きとどめておく。

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寅のアリア

6月19日(水)

渥美清は、「語りの芸」の人である。

山田洋次監督は、おそらく渥美清の「語りの芸」に魅せられたのである。

渥美清亡き後、山田監督は、たとえば西田敏行(「虹をつかむ男」)とか、笑福亭鶴瓶(「おとうと」)に、渥美清のような「語りの芸」を求めたのではないか、と思う。実際、映画にはそんな場面がある。

だが、渥美清の「語りの芸」にまさるものはなかった。西田敏行や笑福亭鶴瓶の一流の芸をもってしても、である。

「男はつらいよ」における寅次郎の「語り」は、「寅のアリア」と呼ばれた。

シリーズ最高傑作の呼び声が高い「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」で、ドサまわりのレコード歌手・リリー(浅丘ルリ子)を想って寅次郎が自らの夢を語る場面は、「寅のアリア」の極致ともいえるものである。

とらやの居間で、寅次郎がつぶやく。

「あ~あ。オレにふんだんに銭があったらなあ…」寅次郎がつぶやく。

「お金があったら、どうするの?」妹のさくらが寅次郎に聞く。

「リリーの夢をかなえてやるのよ。たとえばどっか一流劇場。歌舞伎座とか、 国際劇場とか、そんなとこを一日中借り切ってよ。あいつに、好きなだけ歌を歌わしてやりてえのよ」

「そんなことできたら、リリーさん喜ぶだろうね」さくらが共感する。

「ベルが鳴る。場内がスーッと暗くなるなぁ。『皆様、たいへん長らくをば、お待たせをばいたしました。ただ今より、歌姫、リリー松岡ショーの開幕ではあります!』

静かに緞帳(どんちょう)が上がるよ。スポットライトがパーッ!と当たってね。そこへまっっちろけなドレスを着たリリーがスッと立ってる。

ありゃあ、いい女だよ。それでなくたってほら、容子(ようす)がいいしさ。目だってパチーッとしてるから、派手るんですよ。

客席はザワザワザワザワザワザワザワザワってしてさ。

『綺麗ねえ』『いい女だなあ』『あ!リリー!!待ってました!日本一!』

やがてリリーの歌がはじまる。

♪ひ~とぉ~り、さぁかぁばでぇ~、のぉ~むぅ~さぁ~けぇ~わぁ~~~…

客席はしぃーんと水を打ったようだよ。みんな聴き入ってるからなあ。

お客は泣いてますよ。リリーの歌は悲しいもんねぇ。

やがて歌が終わる。

花束!テープ!紙吹雪!

ワァ―ッッ!と割れるような拍手喝采だよ。

あいつはきっと泣くな。あの大きな目に、涙がいっぱい溜まってよ。

いくら気の強いあいつだって、きっと泣くよ…」

そういう寅次郎も、泣いている。

「夢のような話だよな…」

寅次郎は自分の部屋に戻ってゆく。

寅次郎が部屋に戻ったあと、さくらがつぶやく。

「リリーさんに聞かせてあげたかったなあ、今の話」

私がしばしばいう「妄想と共感」。これに「語り」が加わったとき、これほどまでに人の心を揺さぶるものなのか。

リリーに対する寅次郎のこれほどまでの「共感」は、残念ながらリリー本人に伝わらない。だが、妹のさくらが「共感」することによって、この場面は救われるのである。

この場面を見るたびにいつも思う。「共感」とはすばらしい、と。

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テッパン!

6月18日(火)

あいかわらず、綱渡りの日々である。

今日の午後は、年に一度の「キョスニムと呼ばないで!」の授業の日。

今から4年ほど前の韓国の語学学校での体験(とくに1級1班の体験)を、当時の日記と写真を交えで紹介する。この授業、90分間、最初から最後までマシンガンのように喋りっぱなしである。スライドは120枚弱。

終わると、ヘトヘトになる。ラジオのパーソナリティが2時間の深夜の生放送を終えた気分って、こんなんなんだろうなあ、と思う。

ふだん自分の授業がどう思われているのか、よくわからない。たぶんふだんは退屈な授業なのだろう。最近は「眠くなりました」と感想を書いてくる学生が多い。

だがこの「キョスニムと呼ばないで!」だけはテッパンである(と思う)。

どんな立派な肩書きのある人でも、海外での体験を、これほどリアルに伝えることは、できないからである。

だから、立派な肩書きを持つ人の「海外武勇伝」などよりも、はるかに面白い、と思う。

これだけは、ふだん自信のない私でさえ、自信がある。

以下、今日聞いてくれた学生たちの感想からいくつか。

「先生の体験談を聞いていると、私もその教室の中にいるような気がして聞いていて楽しかった」

「先生の中で韓国での語学院での体験がかけがえのないものであることが強く伝わってきた。本当の『グローバル社会』という定義には大変共感した。個人として尊重されるような社会にこれからもっとなっていければいいと思う」

「今日の講義は大変おもしろく、とくに日記の内容がおもしろくて、ずっと笑って聞いていました」

「今日の話すごく興味がありました。すごく面白かったです。人とは、表面的につきあうだけでは、真の姿を見ることができないのだと改めて思いました。一人の人間として、一人一人を見ることが大切だと思いました」

「面白いお話でした。先生たち皆いいことしか言わないけど、日常のこととか、内面に迫るお話が聞けてよかったです」

「1級の時は、本当にドラマみたいに濃い生活を送っていたのだと思いました。大人になってから学生として勉強するのは大変そうであるが、とても楽しいことだと感じました。『その気になれば何でもできる』。この講義で少し勇気をもらえました」

「先生にとっての語学院での1年は、とても充実して楽しかった、ということがよく伝わってきました。私も留学を考えてこの講義をとりましたが、今までの講義の中で、いちばん聞きたかったお話を聞くことができました。私も、留学をして帰ってきたら、家族、後輩など、多くの人に伝えたいと思います」

「日本人一人なのに最終的にクラスのみんなとコミュニケーションをとり、お互いを認め合うまでに達したことに感動した。一歩自分の世界から踏み出す勇気というのを、私も持てたらいいなと思う」

「生徒1人1人のキャラクターがおもしろかった。大変なクラスであったが、話を聞いていると生徒1人1人に愛着がわいてくるようだった」

「先生の韓国での日々がとてもリアルに伝わってきて、楽しく聞くことができました。国籍に関係なく、日本人同士でも、いろいろな人と交わりを持ち考えたり感じたりすることが大事なんだなと思いました」

「1級1班の時の話を聞いて、授業や大学生活を充実させるかさせないかは自分次第だと思いました」

「年齢が20歳も離れている中国人クラスメイトと、少しずつ交流が深まっていくところに感動しました。先生にとって語学院での生活が、研究だけでなく人生のあらゆる場面で役立つのではないかと思いました」

「韓国語学校での出来事が面白かったです。大変なことは多くても、互いに認め合おうとする姿勢を持つことが相互理解につながるのだと思いました」

「一人の人間として、人と人が向き合うことの大切さを知り、年齢や国など関係なく関わっていくことを意識していきたい」

これらの感想を読んで励まされたのは、むしろ私の方である。

たとえわずかな人にでも、その人の心を動かし、伝えたい真意が伝わったとすれば、この授業は成功である。

どうだいこぶぎさん。OQイズムを受け継いでいるでしょう?

いつもの「憂鬱な火曜日」が、少しだけ晴れやかになった。

私の夢は、私自身がもっと話芸を磨いて、これを「鶴瓶噺(つるべばなし)」みたいな古典的名作に仕上げることである!ああ、もっと喋りが上手くなりたい!

待ってろよ!こぶぎさん。

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インセルタット衛星の戦慄

大人はよく、他愛もない嘘を子どもにつく。

そして小さい頃は、大人の嘘を、けっこう本気にするのである。

私が好きな秀逸な嘘は、

「きくらげとは、ペンギンの皮のことである」

「メンマは、割り箸を醤油で煮込んで作る」

といった嘘である。これを子どもの頃に聞いたら、けっこう本気で信じてしまう。

さて、小学生のときの思い出。もう30年以上前の話。

小学校4年から6年までの担任だったN先生が、あるとき、私たちクラスのみんなの前でこんなことを言った。

「君たちが、ふだんどんな生活をしているか、先生は全部知っているんだ」

まさかあ、とこっちは思う。

「君たち、インセルタットっていう人工衛星、知ってるか?」

インセルタット?聞いたことがない。

「最近、インセルタットという人工衛星が、地球の鮮明な画像を撮影することに成功してね。先生は、その会社と契約を結んで、人工衛星画像を家で見ることができるようにしたんだ」

なんのことか、サッパリわからない。

「その衛星の撮影した画像は、空から見た町をくっきりと映し出す。そればかりではない。歩いている人の髪の毛一本一本まで、はっきりと見えるんだ」

だんだん話の内容が分かってきた。

「つまり、君たちが放課後、どんなことをしているかを、インセルタット衛星から逐一送られてくる画像によって、先生は手にとるように見ることができるのだ」

ここまで聞いて、急に怖くなった。

つまり僕たちは、人工衛星画像によって、先生に監視されているのだ!

もちろん、今考えるまったくの嘘っぱちなのだが、当時は、もっともらしく先生が言うものだから、固く信じていたのだ。

本当に、インセルタットなんていう人工衛星があるのだろうか?

ずいぶん後になって、気になって調べてみると、「インテルサット」という人工衛星があることがわかった。

先生が勘違いして、「インテルサット」を「インセルタット」と言い間違えたのか?

それとも、「インテルサット」をモチーフに、先生が「インセルタット」という架空の人工衛星を作り上げたのか?

今となっては分からない。

しかし、小学生のある時期、この「インセルタット衛星」の存在におびえていたことだけは、事実なのである。

では、先生の言っていたことは、まったくのデタラメだったのだろうか?

もちろん「インセルタット」じたいは、デタラメだったとしても、放課後の私たちの動向を、まったく把握していなかった、ということはあり得ない。

いろいろな手段を使って、私たちの放課後の動向を知ることはできたのではないだろうか。

そのことを、「インセルタット衛星」という、嘘の人工衛星を引き合いに出すことで、私たちに知らせていたのではないだろうか。

いま、自分が教員になってみると、どうも、そんな気がしてきたのである。

たとえば今、子どもたちに「君たちのふだんの動向は、グーグルが提供する衛星画像で、すべてお見通しだ」といったら、どう思うだろうか。

「まさかあ」と言うだろう。

しかし、そこに一片の真実もない、と言いきれるだろうか?

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携帯電話ミステリー

6月16日(日)

朝9時過ぎ、アパートの部屋の固定電話が鳴った。関西に出張中の妻からである。

「一体どういうこと?」

「何が?」

「さっき、携帯に電話してきたでしょう?」

「してないよ」

だいいち私は、少し前に起きたばかりなのだ。

「してきたよ。8時41分。確認してみてよ」

8時41分とは、ちょうど私が目覚めたころの時刻だ。

私はいつも自分の布団の横に携帯電話を置いて寝ている。休日、予定のない日は特に目覚ましをかけないが、たしか、目が覚めたときに時計を確認したところ、ちょうどそのくらいの時間だった。

そのあと私は布団を出て、寝ている部屋から居間に移った。携帯電話は、布団の横に置きっぱなしだった。

携帯電話を取りに行って確認すると、たしかに8時41分に妻に電話をかけていることが、発信履歴からわかった。

「たしかにかけてるねえ」

「それで、それが無言電話だったものだから、2回もこっちから連絡したんだから」

たしかに、着信履歴を見ると、その後妻から2回、電話があったことがわかる。だが、マナーモードにしていたため、気づかなかったようである。

「電話した覚えないんだけどなあ」

まったく、覚えていないのだ。それに、電話をかける用事もなかった。

日頃、妻の方から私に電話が来るなんてことはめったにないのだが、妻がわざわざ固定電話にまでかけてきた、というのには、理由があった。

それは、私がもしや心臓発作で倒れたのではないか、と、妻が想像したからだそうなのである。

妻が想像したのは、こういうことだった。

朝、私が突然心臓発作か何かを起こし、助けを求めようと、妻に電話をかける。

妻は私からの電話をとり、「もしもし、もしもし」と何度も呼びかけるが、私はまったくそれに応えない。

もしや、最後の力を振り絞って電話をかけてきたまではいいが、電話に出たとたん、「事切れて」しまったのではないか???

心配になって、妻は私の携帯電話にかけ直すのだが、何度かけても、私が電話をとる気配がない。

「ああ、やはり死んでしまったのか…」

念のため、固定電話にかけてみたところ、私が出た、というわけである。

最近「忙しい忙しい」という言葉を連発していたことも、心臓発作疑惑に拍車をかけたのであろう。

「これからは、そういうときは119番にかけるように」

そう言って、妻は電話を切った。

ただ、妻の方も、今朝は目覚ましの設定を間違えたせいで目覚ましが鳴らず、危うく出張先に遅れてしまいそうだったところを、私の電話が鳴ったおかげで起きることができ、出張先に間に合ったのだという。

こうなると、何のための電話だったのか、よくわからない。

…いや、そんなことよりも、もっと重要なことがある。

心臓発作疑惑は晴れたとしても、私がなぜ、まったく意識がないままに妻に電話をしたのか、という謎が、まだ解けていない。

むしろその方が、深刻な問題ではないだろうか?

この先も、私は意識がないままに、寝ている間に誰彼かまわず電話をかけるのだろうか?

そう考えると、コワイ。

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逆転の構図

タイトルは「刑事コロンボ」からそのまま借りてきたものだが、話の中身は「寅さん」である。

また寅さんかよ!

ははーん。ここで書きためて、いずれ本を出そうとか野望を抱いているな。

それはともかく。

映画「男はつらいよ 私の寅さん」(マドンナ:岸恵子)の前半部分では、めずらしくとらや一家(おいちゃん、おばちゃん、さくらの家族)が旅行をし、寅次郎がとらやで留守番をする、というエピソードがある。

まさに「逆転の構図」である!

3泊4日の九州旅行。その留守番を頼まれた寅次郎は、とらや一家のことが気になって仕方がない。

宿に着いたら電話をする、と妹のさくらが寅次郎に約束するが、食事をしたり温泉に入ったりしているうちに、つい、電話をするのが遅くなってしまった。

夜、さくらが柴又のとらやに電話をすると、いきなり寅次郎の怒鳴り声。

「なんだよお前!今晩電話するって言うからよ、俺は日が暮れる前からずーっと電話機の前で待ってたんだぞ!」

「ごめんごめん。何か変わりない?」

「大ありだよ!いっぱいあるよ。泥棒が入ったぞ!有り金残らず持ってかれちゃったな!それからな。裏の工場の、タコのところから火が出てよ、このへん丸焼けだ!あと東京は大震災でもって全滅だよ!」

子どもみたいなことを言う寅次郎。

「いやあねえ。ヘンな冗談言わないでよ。あたしたちみんな元気で楽しい旅行続けてるわよ」

「そらあ上等だよ。こっちはクソ面白くもねえからね、ヤケ酒よ」

そしてとらや一家の人々が、代わる代わる寅次郎と電話で話をする。

寅次郎は、できるだけ電話での会話を引き延ばそうとするが、長距離電話は高くつくので、とらや一家は、早く電話を切りたいと思っている。

かくして1日目の夜が終了。

続いて2日目の夜。

留守番をしている「とらや」の居間で、タコ社長と二人で酒を飲む寅次郎。

相変わらず寅次郎はイライラしている。さくらからの電話を待っているのだ。

「おい、そうイライラするなよ。向こうは旅先なんだからさあ。メシ食ったり風呂入ったりで、忘れることくらいあるよ」タコ社長が諫める。

「お前は他人だからそういう冷たいことが言えるんだ!肉親だったらそんなこと言えるか?…どうしたんだろうなあ。ケガでもしたんじゃねえか。まして阿蘇の温泉は谷深くだし…。あそこの道だって崖だろ?そこをタクシーで……。

あっ!もし落っこったらどうなるんだ?交通事故だぞ!みんな死んじまうじゃねえか!」

寅次郎得意の妄想が始まる。

「そうと決まったわけじゃねえだろう」タコ社長が呆れる。

「お前は何が根拠でそういうことを」寅次郎がタコ社長につかみかかる。

そこへ電話が鳴る。慌てて受話器を取る寅次郎。

「やいさくら!なんでいまごろ電話してくるんだよ!心配で心配でいてもたってもいられなかったんだぞ!ひょっとしてみんな自動車事故で死んじまってよ。葬式まで出さなきゃなんねえかなって、考えてたんだぞ!バカヤロウ!」

いきなり電話口で、さくらに怒鳴りつける。

「てめえたちにはねえ、待つ身というものがどんなにつらいものかがわからねえんだよ!」

あまりの剣幕に、驚くとらや一家。

やがて、おいちゃん(松村達雄)と寅次郎の、電話口での大げんかが始まる。

「てめえなんか出ていきやがれ!」

「言いやがったな!コノヤロウ!それを言ったらおしまいだぞ!」

「ああおしまいだよ!」

「よおし、出ていってやるからなテメエ!あとでもって後悔したってきかねえぞ!チキショウ!」

電話を切って、とらやを出ようとする寅次郎。

「さくら、とめるな!とめるな、さくら!」

いつもの口癖で、妹のさくらの名前を呼ぶが、当然、さくらはいない。

ふと我に返り、バツが悪くなって自分の部屋に戻る寅次郎。

「哀れで、見ちゃいられねえな…」タコ社長がつぶやく。

このあたりのやりとりは秀逸である。映画の観客は、

「てめえたちにはねえ、待つ身というものがどんなにつらいものかがわからねえんだよ!」

という寅次郎のセリフに、「お前が言うな!」と、全員がつっこむことだろう。

さて3日目。

とらや一家は、もはや旅行が楽しめなくなっている。

寅次郎からまた、夜電話がかかってくるかと思うと、気が気ではないのである。

「もう旅行は十分だから帰ろう」

これだけだと、寅次郎はたんなる「厄介者」なのだが、このあと、帰ってくるとらや一家を迎える寅次郎がすばらしい。

長旅で疲れているであろうとらや一家に、最高のもてなしをしようと努力するのである。

「長旅から帰ってくると、鮭の切り身かなんかでお茶漬けをサラサラって食いてえからなあ。(タコ社長に)あ、お新香はな、たっぷり出してくれよ。どうも旅館のメシってのは味気なくっていけねえや。長い旅してると、ほんとにお新香が食いてえからなあ」

ここから、寅次郎の妄想がはじまる。

「いずれそのうちにその入口から、おいちゃんとおばちゃんとさくらがよ、こんな大きな荷物かかえて、

『ああくたびれた。うちが一番いいよ』

なんて帰ってくるんだよね。そのときの迎える言葉が大切だ。

『お帰り、疲れたろう?さああがってあがって』

熱い番茶に、ちょっと厚めに切った羊羹のひとつも添えて出す。

ホッと一息入れたところで、

『風呂が沸いてますよ』

長旅の疲れをスッと落とす。

出てくると、心のこもった昼飯がここで待っている。

温かいご飯。シャケの切り身。山盛りのお新香。

『どうだい?旅は楽しかったかい?』

たとえこれがつまらない話だったとしても、『面白いねえ』って聞いてやらなきゃいけない。

長旅をしてきた人は、やさしく迎えてやらなきゃなあ…」

そこへ、とらや一家が帰ってくる。

「おにいちゃんただいま」

「やっぱりうちが一番いいねえ」

だが寅次郎はとらや一家を前に、シミュレーションの甲斐もなく、何も言えなくなるのである。

このエピソードもまた、寅次郎の「妄想と共感」の力が、存分に発揮されている。

これほど、「妄想と共感」が語られる映画を、私は知らない。

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「特急のすれ違う駅」の町

6月14日(金)

約2年半ぶりに、「特急のすれ違う駅」の町に行く。

この町とは、もう10年以上ものおつきあいになる。

いまから9年ほど前、この町が1冊の本を出した。私もその本を執筆した数人のうちの1人である。

2011年3月、この町は、震災による津波と原発事故の被害を受けた。

しばらくこの仕事は中断していたが、私たちは2冊目の本を出すことになり、9年前の執筆者が再びこの町に集まることになったのである。

震災の影響で、いまだに鉄道は全通していない。つまりあの日から、この町の駅は、「特急のすれ違う駅」ではなくなってしまったのである。

朝、自家用車で出発する。

2時間半かけて、その町の会議場所に着いた。

「お久しぶりです。覚えてますか?」

最初に顔を出したのは、この町の職員で本の編集担当であるMさんだった。9年前も、一緒に仕事をした。

「もちろん覚えてますよ。Mさん」

「久しぶりですねえ」

「といっても2年半しかたっていませんよ」と私。Mさんとは、2年半前の講演会の時にお会いしていたのだった。

「そうでした」

次々と執筆者の先生方が到着する。私はこの中で、いちばん年下だった。

この執筆者5人が顔を合わせるのは、実に9年ぶりではないだろうか。

みんなお元気だったのが、何よりである。

会議は、午後1時半から2時間にわたって行われた。

会議が終わり外に出ると、建物の脇に小さな水槽がいくつか置いてあった。植物性プランクトンによるものか、緑色の水に覆われている。

「これは何だと思います?」Mさんが私に聞いた。

「さあ」

「これは、絶滅危惧種のメダカです」

「メダカ、ですか」

「ええ。2年前の震災の時に、津波で水田や池がすっかり流されてしまいましてね。そこに住んでいたメダカが、絶滅の危機にあいまして。この地方にしか生息していないメダカなんですけど」

「へえ」

「それで、うちのスタッフの1人が、メダカのレスキューにあたったのです」

「メダカのレスキュー、ですか」

「ええ」

Mさんは、メダカのレスキューにあたった人を紹介してくれた。Iさんである。

「震災のあと、復興工事で、もともとあった水田や池を埋め立ててしまったりして、そこにいた野生生物が生きられなくなってしまったんです。それで、できるだけ多くの野生生物を救おうと、レスキューを始めました」

野生生物のレスキュー、というのを、初めて聞いた。

「野生生物のレスキューというのを、恥ずかしながら初めて聞きました」と私。「何人の方々でやっておられるのですか?」

「ここでは、私一人です」

「お一人ですか?」

「ええ、あと県南に数名います」

「だから、ほとんどこの活動は知られていないんですよ」とMさん。「もっと知られてもいい活動ですよね」

「そうですね」私も同感だった。「ここでレスキューしたメダカは、どうなるんですか?」

「ここで繁殖させて、いつか、その地域にメダカが住める池ができたときに、再びその土地にお返ししようと思うんです。それまでは、ここでお預かりすることにしているのです」と、Iさんは答えた。

地震、津波、原発事故。この町に残した災害の爪痕は、あまりに大きすぎた。ふるさとは、いつになったらもとの景観を取りもどすのだろう。メダカは、その希望をつなぐ象徴のようにも思えた。

話し込んでいるうちに、すっかり夕方になってしまった。

「これからまた、よろしくお願いします」とMさん。

「こちらこそ、よろしくお願いします。これからまた、ちょくちょく寄らせてもらいます」

「遠いですけれど、またおいでください」

職員のSさん、Mさん、そしてM君に見送られ、会議場所をあとにした。

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奇妙な結論

6月13日(木)

2週間ほど前、職場の、見知らぬ人からメールが来た。

「今年の夏も、海外各地から来た学生に、研修プログラムを用意することになりました。昨年先生が企画されたイベントを、またお願いできませんでしょうか。つきましては、一度打ち合わせをしたいと存じます」

昨年企画したイベントとは、「かなりカオスな発表会」のことである。

あれはタイヘンだった。

以前書いた記事から引用する。

--------------------

30人の学生を、6つのグループに分け、それぞれのグループに対して、手伝ってくれる日本の学生1人をずつ割りあて、合計6人でひとつのグループにする。つまりこのグループは、日本、中国、ベトナムの混成部隊である。

午前中、各グループにビデオカメラを1台ずつ持たせて市内に放ち、「これは面白いな」とか、「日本らしいな」とか思うものを、撮ってきてもらう。

さらに、町の人にインタビューして、その町のよさだとか、自慢できるものを聞き出す。

午後、大学に戻り、プレゼンテーションの準備をして、夕方、各グループによるプレゼンテーションを行う。プレゼンテーションでは、午前中に行った場所について、模造紙に書いたり、撮影したビデオを流したりしながら、説明を行う。説明は、もちろん英語である。

すべてのグループのプレゼンテーションが終わったあと、投票をおこない、最も面白いと思ったグループを決定する。

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実際にやってみると、うまくコミュニケーションがとれなかったり、夏の暑さでヘトヘトになったりと、本当にタイヘンだった。

だが、学生たちにとっては、よい思い出になったのかもしれない。

さて、1週間ほど前のこと。

メールをいただいた方との打ち合わせに行くと、そこには、老練な「教授」がいた。昨年のプログラムを担当した職員さんが、異動してしまったため、今年はこの老練な「教授」が担当することになったのだ、という。

「先生、何でも聞くところによりますと、このイベントは、先生が企画されたそうですねえ。ぜひとも今年も、研修プログラムのうちの1日、お願いしたいと思うのですが…」

私には厄介な癖がある。それは、

頼まれてもいない仕事ならば面白がってやりはじめるが、それが義務化してしまったとたん、ぶんむくれになる

という癖である。私と仕事をする人間は、そこのところをよく心得ておいたほうがよい。

「今年もお願いします」と、さほど考えもないままに頼まれるような仕事に対しては、とたんに私はへそを曲げるのだ。

「ちょっと待ってください。今年は全体でどんな感じになるんですか」

「まず、参加する学生の国が増えます。昨年度はベトナムと中国でしたが、今年はそれに、ケニアとインドネシアとペルーの学生が加わります」

「ずいぶん加わりますね」

「ええ、それに、研修プログラムが1週間程度になり、昨年度にくらべて期間が短くなります」

「グレードダウンするわけですね」

「…まあ、そういうことです。しかし、私もはじめてこういう研修プログラムを任されてしまったのですが、どうにも困ってしまってねえ」

「昨年度のノウハウがあるじゃありませんか」

「はあ」それについては、とくに答える様子はなかった。

「で、先生が昨年、まる1日のイベントを企画されたということで、今年度もぜひ、ということで…」

「それはわかりました。でも、全体のスケジュールはどうなっているんです?」

「こうなっています」と、老練な「教授」はタイムスケジュール案を私に示した。

「先生にお願いしたいのは、○月×日の、この日なんです」

「ちょっと拝見」

見ると、○月×日には「県知事表敬訪問」という予定がすでに入っている。

「この、『県知事表敬訪問』というのは?」

「ええ、これはもう前から決まっておりまして、海外各地から来た学生を、県庁に連れて行きまして、30分ほど県知事を表敬訪問する、ということになっております」

せっかく日本に来たのに、県知事に挨拶に行くなんて、おもしろいのか???

まあよい。

「午後1時半から3時と書いてありますね」

「ええ、移動を考えますと、前後30分は必要かと」

「すると、…ちょっと待ってください。ではイベントはいつしろと?」

「ですので、県知事表敬訪問以外の時間に…」

「それは無理です。あのイベントは、たっぷり一日取らないと、意味がありません」

「そうなんですか?」

「そうですよ。だって、午前中に町を歩いて、午後にグループワークをして、それからプレゼンテーションをするんですから」

「そうですか…」

「途中で『県知事訪問』なんてはさんでしまったら、モチベーションが下がります!」

「はあ」

昨年の私の企画書をちゃんと読んでいるのか?

「何とかなりませんか?」

「何ともなりません」と私。

「困りましたねえ…ではどうしたらいいでしょうか」

「ほかの企画にしたらいいでしょう」

「ほかの企画ですか…ちょっと考えたのは、地元の放送局に見学に行くのはどうかと…」

また見学?見学ばっかりやなあ。

「そもそも、この研修プログラムの趣旨は何です?」たまりかねて私は聞いた。

「それはもちろん、日本の伝統や文化を、海外の学生に知ってもらうことです」

出た!私の嫌いな言葉、「伝統」である。しかしこのさい仕方がない。

「だとしたら、日本の伝統料理を作る体験が必要でしょう。昨年、そば打ち体験をしたはずです」

「そうなんですか?」

昨年のことを何も知らないらしい。

「午前中にそば打ち体験をすれば、お昼にそのそばをみんなで食べることができるし、しかも放送局が取材もしてくれるはずです。こちらから放送局に行く必要はありません」

「なるほど。…でもどうすればできるでしょう?」

「昨年もやりましたよ。昨年のノウハウがあるでしょう」

「はあ」なぜか昨年のことをいうと、反応が鈍くなる。

「わかりました。じゃあ、午後はどうしましょう?」

ぜんぶ私に考えさせるのか???

私も長考に入った。するとその老練な「教授」が言った。

「私、考えたのは、せっかく県庁に行くので、県知事表敬訪問のあとは、県庁見学なんかどうか、と」

県庁見学???

おもしろいのだろうか?私には意味がまったくわからない。

「さっき、日本の文化を知ってもらうのが目的っておっしゃってましたよね」と私。県庁見学なんてやられたらたまらない。

「はあ」

「日本の伝統的な遊びをみんなでする、というのはどうでしょうか?」

「たとえば」

「すいか割りです」

「すいか割り?」

「いろいろな国から来た学生が、国を超えて、すいか割りをやれば、とても盛り上がると思いますよ。日本の学生も含めた混成チームを作って、すいかを割るタイムを競うんです」

「はあ」

「季節は夏だし、すいかはそれほど高いものではないし、終わったみんなで食べることができるし、ゲーム性を高めれば、みんなの結束は強まるし、交流は深まるし、…なにより、地元にはすいかの名産地があるじゃないですか。わが地元の名産品も味わうことができる」

われながら名案である。

「はあ、そうですね。それはいいですね。しかしそれで、2時間もちますでしょうか」

「大丈夫です」

「そば打ちとすいか割りですか…。なかなか面白そうですね。ちょっと考えてみます。ありがとうございました」

かれこれ1時間の打ち合わせが終わった。

そして一昨日、メールが来た。

「その節は、先生のお知恵とアドバイスをいただき、感謝しております。今年は先生のお手を煩わせることなく、放送局見学と県庁見学を実現させるメドが立ちました。ありがとうございました」

はあぁぁぁぁぁ???

ほ、ほ、放送局見学と、け、け、県庁見学???

私のアイデアは、全然ダメだったということか???

いったいあの打ち合わせは、何だったのか?

結果的に、「義務化しそうになった仕事」を断ることができたことは、幸いであった。

しかし、これでよかったのだろうか…。

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仕事部屋が暑い理由・妄想篇

6月12日(水)

汗かきにはつらい季節がやって来た。

この時期、私は普通にしていても汗をかく。私のことを知らない人が見たら、「この人、何で汗かいているんだろう?」と思われるに決まっているのだ。

だからこの時期、あんまり人前に出たくないのだ。

「大丈夫です。あなたよりも汗かきの人がいますから」

と、慰めていただくこともあるが、それでこっちの汗の量が減るわけでもないので、結局は同じことである。

とくに仕事部屋が暑い。

一時期のような節電運動がなくなったので、冷房をつけることに抵抗はなくなったが、それでも、

「フフ、あいつ汗だるまだから、すぐに冷房をつけているぜ」

と思われるのもクヤシイので、なるべくなら冷房をつけたくない。というか、つけているところを見られたくない。

それにしても仕事部屋が暑い。

どうしてだろう、と思い、すごい仮説を思いついた。

私の仕事部屋には、ビックリするくらいの量の本がある。

これらの本が、発熱しているから暑いのではないか?!

本の紙は、空気に触れていることで少しずつ酸化し、酸化することによってわずかな熱を発する(と思う)。

「使い捨てカイロ」の原理である。

1冊の本ならばわずかだが、これが狭い部屋に1000冊あるとしたらどうだろう。

1冊あたり、発熱により0.01度、気温が上がったとしても、1000冊の本があれば、10度も気温が上がることになる。

つまり、天然の暖房が効いた部屋にいるようなものなのだ!

これを突きつめていけば、新しい自然エネルギーとして利用できるかもしれない!そうなれば、ノーベル賞まちがいなし!である。

だが、仕事部屋が暑い理由には、もう一つの可能性が考えられる。

それは、部屋に本が多すぎて風通しが悪いため、熱がこもってしまう、という可能性である。

でもまさかねえ。そんな簡単な理由ではないだろう。

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ダメな大人たち

6月10日(月)

夕方、いつものクリーニング作業。

このクリーニング作業の学生リーダーである4年生のTさんが言う。

昨日のブログ読みました」

「え?読んでるの?」

Tさんも読んでいるとは知らなかった。

「私もO村に行きたかったです」

だがTさんはいま、進路活動の真っ最中なのだ。

「まだ機会はあるさ」

「あのブログの最後、なんか面白かったです。でも、先生のおっしゃること、ちょっと違います」

「どういうこと?」

「大学ではふだん体験できないこと、って書いてありましたけど、大学でやるべきことをやった上で、大学で体験できないことをやっているから、面白いんです」

なるほど。そう思ってくれたのだとしたら、うれしいことである。

Tさんは、作業のための準備を済ませたあと、進路活動のために早退した。

クリーニング作業が始まった。今日は少し風が強いが、天気がよいので、作業の半分を建物の外で行うことにした。

建物の前の駐車場に机といすを並べ、本のクリーニング作業に取りかかる。少し遅れて、世話人代表のKさんがやってきた。

4年生ではもう1人、Sさんが参加してくれている。この4月から作業に参加してくれている学生である。

Sさんの両隣に、私とKさんが座って作業をした。オッサンに挟まれたSさんは、さぞ居心地が悪かったことだろう。

しかもおっさん二人が、本を掃除するための刷毛を動かしながら、これからの生き方なんぞについて講釈を垂れているものだから、もう最悪である。

「若いうちにねえ。ダメな大人に会っておいた方がいいよ」とKさん。

「ダメな大人…ですか?」Sさんが聞く。

「そう」

「どういうところにいるんです?」

「いま、両隣にいるでしょう?」

「そんな…ダメな大人だなんて…」

まあ、Sさんからしたら、両隣のオッサンを「ダメな大人」だとは言えないだろう。ましてやそのうちの一人は、自分が教わったことのある先生なのだから。

だが、Kさんが言っていることは正しい。私もKさんも、「ダメな大人」なのである。

その「ダメぶり」は、具体的には何とも説明しがたいが、親しい人ならわかるはずである。私の場合、それをいちばんよく分かっているのは、妻である。

考えてみれば、私の周りはみんな、「ダメな大人」ばかりである。

世話人代表のKさん、こぶぎさん、前の職場の同僚のKさん、そして、同い年の盟友のUさん。

みんな、「ダメな大人」たちなのである。

同い年の盟友のUさんの口癖は、「ダ~メだなあ、俺」である。

たぶん若い人たちから見れば、このオッサンたちが異様に映っていることだろう。

「若いときにダメな大人を見るのがいいって、どういうことなんですか?」Sさんが聞く。

「つまり、ダメな大人を見れば、『こう生きなければいけない』という縛り、みたいなものから、解き放たれるんだ」と私。「肩肘張らずに生きていくことができる、というか…」

なんだか、わかったようなわかんないような理屈である。

私が念頭にあったのは、以前、このブログにも書いた、「謎のタカタさん」である。

大学1,2年生のときに、このけったいなおっさんに出会ったことに始まり、それ以降は、なぜか私は、「ダメな大人」の方へと、私自身が引き寄せられていったのである。

そうそう、前の職場の同僚だったOQさんもそうだった。OQさんは、「ダメな大人」の典型だったなあ。

私の周りには、常に「ダメな大人」たちがいたのだ。

しょっちゅう落ち込んでばかりいるけれど、「ダメな大人」で居続けることが、私の目標である。

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村が見晴らせる場所

6月9日(日)

この村を訪れるのは、4度目である。

正直なところ、今日は休みたかった。とくにこの週末は、やるべきことが多すぎた。

「休んだらいいじゃん…ま、どうせ聞きゃあしないんでしょうけど」

妻のアドバイスを聞き流すことの多い私に、妻はすっかり呆れていた。

極度の疲労なので休みたいのはやまやまなのだが、私が言い出しっぺの1人なので、やめるわけにいかない。それに、学生に呼びかけたら、ありがたいことに5人も来てくれたのだ。

それに、何より今日のこの活動を企画してくれたT君が、

「本当はこんなことをしている場合じゃないんです」

という。本業が、あまりに忙しすぎるというのだ。

みんな、ギリギリのところで頑張っているんだなあ。

午前11時。O村に向けて出発する。

O村では、地元の先生の全面的なご協力のもと、地区の家をまわり、その家の方のお話をうかがい、それを記録する。

午後4時すぎ、本日の予定が終わった。

「村が見晴らせる場所に行きましょう」

地元の先生の提案で、村が見晴らせる場所に行く。

Photo

文字通り、村が見晴らせる場所だった。

しばらく、ボーッと見ていると、卒業生のT君が言う。

「先生、癒されましたね?」

「癒されたねえ」

公民館に戻り、今日の調査のまとめを話し合った。

参加してくれた5人の学生は、いずれもはじめての参加だった。

5人がそれぞれ、今日の調査で感じたことを自分の言葉で話してくれた。ふだんの授業では決して味わうことのできない体験を、したことだと思う。

やはり来てよかったのだ。

…と、ここまで書いて思う。

大学では決して味わうことのできない体験を、大学の教員である私が推奨するのは、いかがなものか?まるで自分の職業を否定しているようなものではないか?

そう考えると、オレはいったい何者なのか?と、なんか可笑しかった。

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間違った方向への進化

6月7日(金)

毎年恒例の、健康診断である。

昨年は、「採便キット、海を渡る」という、サイテーの記事を書いた。

何が憂鬱といって、バリウム検査ほど憂鬱なことはない。

とくに憂鬱なのは、バリウム検査のあとに、下剤を飲んでバリウムを排出しなければならないことである。

「すぐに下剤を飲んで、水分をたっぷりとって、食事もして、バリウムを体外に排出してください」

「排出できないとどうなるんですか?」

「体内でバリウムが固まって、大変なことになります」

みたいなことを言われて、こっちはもう、不安で不安でたまらない。

言われたとおり、すぐに下剤を飲み、水を大量に飲み、食事をとる。

ちゃんと全部排出されるだろうか?

しばらくたってトイレに行くと、ある程度バリウムが排出されるのがわかるのだが、

どの時点で出し切ったといえるのか?

というのがわからない。

(まだ体内に残っているのだろうか…)

と思うと、不安で不安でたまらないのである。

毎回「オカシイ」と思うのは、これだけ医学が発達しても、下剤で出さなければいけないバリウムを飲まないと検査ができないのか、ということなのである。

「でも、バリウムは昔からくらべると、味がついて飲みやすくなったんですよ」

と言うのだが、それって、間違った方向へ進化しているんじゃないのか?

「飲みやすい」方向に進化させるよりも、もっと進化させるべきところがあるんじゃないのか?

って、いつも思ってしまうんだよねえ。

たとえば、下剤を飲んで無理に体外に排出させなくてもいいようなバリウムを開発するとか。

アクロバティックな体勢をする必要のない検査をするとか。

そういう進化をこっちは望んでいるんだけどなあ。

こんなことを考え得のは、私だけか?

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バイパス・ウォーキング

6月6日(木)

職場の廊下を歩いていたら、めったに話さない同僚とすれ違った。

…というか、私はふだん、ほとんどの同僚とめったに話さないのであるが。

「あのう…」すれ違いざまにその同僚が言った。

「何です?」

「3週間ほど前でしたか。日曜の午後に、国道のバイパス沿いをお一人で歩いていませんでしたか?」

…思い出した。その日は自家用車の定期点検で、バイパス沿いにある自動車ディーラーの店に行っていたのである。

そしたら、点検に2時間近くかかるという。

(2時間も待つのは、しんどいなあ)

そのとき、その店からバイパスを15分ほど歩いたところに、薬局が経営する温泉があることを思い出した。

そうだ、温泉に行こう!と思い、

「じゃあ、ちょっと出ますので。2時間後には戻ってきます」

と、その店を出て、その温泉に向かって、バイパスの歩道を、とぼとぼと歩いていったのである。まだ日ざしの強い、午後3時ごろのことだったと思う。

たぶん、そのときの様子のことを言ってるのだろう。

私は同僚に、そのことを説明した。

「そうだったんですか。…それを聞いて安心しました」

「しかし、何で私がバイパスの歩道を歩いていたことを知ってるんです?」

「たまたま家族と車でバイパスを走っていたら、歩いているところを見かけたんです」

「そうだったんですか」

「声をかけようとも思ったんですが、何か思いつめたようにお一人で歩いていて、しかも、あのバイパス、歩道を歩いている人なんてほとんどいないじゃないですか」

「たしかにそうです」そのバイパスは、県内の「動脈」ともいえる幹線道路だった。しかも、ディーラーの店の周辺は、車がビュンビュンと行き交うだけで、ほかには何もないのだ。

「だから何かご事情がおありかと思って、聞けなかったんです。でもいま聞いて、安心しました」

いったいどんな想像をしてたんだ?

「しかし、まさかそんなところを見られていたとはねえ…。うっかりオモテを歩けませんねえ」

完全に、野面(のづら)で無防備な感じで歩いているところを、見られてしまったのである。

しかも、「何か思いつめたように歩いていた」ように見えたというのだから、バイパスの車道に飛び込もうとしていた、とでも思っていたのだろうか。

いったい私は、ふだんどんな顔をして歩いているのか?

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おえりゃあせんのう

6月5日(水)

「僕、金田一耕助です。

岡山県の山奥、鬼首村で起こった連続殺人事件は、ますます奇怪な様相を呈してきました。

僕が滞在していた亀の湯の長男・歌名雄と恋仲だった由良泰子が殺害されたのに続いて、仁礼家の娘・文子が死体となって発見されたのです。

死体に添えられた奇妙な小道具は、鬼首村に古くから伝わる手毬歌そのままに置かれていたものでした。

さらに衝撃的な事実が、由良敦子の口から明らかになりました。

文子は実は当主・嘉平の娘ではなく、嘉平の妹・咲枝と恩田幾三の間に生まれた隠し子だったのです。

しかも恩田は20年前、亀の湯の女将・青池リカの夫・源治郎を殺害して行方不明をくらました男でした。

そして2つの殺人事件の影に、奇怪な老婆の姿が。

老婆は、これまた吐血の跡を残して失踪した老人・多々羅放庵の五番目の妻・おりんを装ってこの村に現れたのです。

はたして犯人は?

状況は、老婆に化けた放庵の一人二役による犯行を強く暗示しているのです。」

横溝正史原作の「悪魔の手毬歌」。

これを映画化した市川昆監督の作品が傑作であることは、いうまでもない。

だが、毎日放送制作のドラマ「横溝正史シリーズ」で放映された「悪魔の手毬歌」(1977年)も、もっと評価してよい作品だと思う。

全6回の連続ドラマだが、映画に劣らぬ作り込み方である。

監督は、大映京都で市川雷蔵の映画などを手がけたことのある名匠・森一生である。

当時小学3年か4年くらいだった私は、このドラマを見ていた。

冒頭に掲げた「僕、金田一耕助です」で始まる、前回までのあらすじを語る古谷一行のセリフが、その後の私の言語形成に、大きな影響を与えたのである。

毎日放送の「横溝正史シリーズ」は、古谷一行演じる金田一耕助と、長門勇演じる「日和警部」が、「相棒」さながらのコンビを組んでいた。

「悪魔の手毬歌」の原作では、「磯川警部」が登場し、市川映画版でも、磯川警部を若山富三郎が演じていた。

だが毎日放送版では、磯川警部ではなく、日和警部に設定を変えている。

原作至上主義のファンからすれば噴飯ものなのかも知れないが、私は全然気にならない。

長門勇は、岡山出身の俳優であり、岡山弁のセリフに定評があった。横溝正史の小説の舞台が、しばしば岡山であったこともあり(「悪魔の手毬歌」もそうである)、むしろ長門勇はこのシリーズには欠かせない存在となったのである。

ちなみに、長門勇は映画「男はつらいよ」シリーズに一度だけ出演している。岡山県高梁市が舞台の「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」である。ここでも長門は、得意の岡山弁を存分に披露している。

さて、「悪魔の手毬歌」といえば、ラストシーンである。

ネタバレを覚悟で書くが、磯川警部(若山富三郎)は、真犯人である亀の湯の女将・青池リカ(岸恵子)をひそかに愛していた。

汽車に乗り込んだ金田一耕助(石坂浩二)は、汽車がゆっくりと駅を出発し始めたときに、そのことを磯川警部に問いかける。

「磯川さん、あなた、リカさんを愛しておられたのですね」

金田一の声は、汽車の警笛にかき消される。

「え?何か言いましたかな?」

とぼけたような表情で聞き返す磯川警部。

金田一は、その言葉をくり返すことなく、2回ほど、黙って磯川警部に頭を下げ、汽車は駅のホームを離れていく。

…これが、市川映画版のラストシーンである。

では、森一生ドラマ版ではどうだったか。

事件が解決したあと、金田一耕助と日和警部が、自殺した真犯人・青池リカ(佐藤友美)の墓を訪れる。

「あんたとも、お別れじゃな」日和が、金田一に言う。「わしゃまだ、いろいろ後始末が残っとるから」

「ところで歌名雄君のことじゃが」歌名雄とは、青池リカの息子である。「あれは、わしがひきとることに決めたよ」

「そうでしたか」

「本人もどこぞ工場へ行って、思いっきり働いてみたいと言うとるしな」

「それはよかった…。日和さん、それじゃあ」

「ああ、またいつか、一緒に仕事したいもんじゃなあ」

「はい。お元気で」

「達者で」

金田一は歩き始めて、立ち止まる。

「忘れもんかな?」

金田一はふり返って日和に言う。

「日和さん。あなた、リカさんが好きだったんですね」

突然の言葉にうろたえる日和。

日和に向かって大きく手を振り、金田一は去ってゆく。

そして、目にいっぱい涙をためた日和の顔のアップで、このドラマは終わる。

ふだんはコミカルな役回りの日和警部が、ほとんど唯一といっていいほど、涙をみせる場面である。

市川映画版の、とぼけた磯川警部もよいが、金田一の言葉に思わず涙をみせる日和警部の表情もまた、すばらしい。

「おえりゃあせんのう」

岡山弁で、「だめだなあ」というような意味。困ったときに口をついて出る言葉である。

長門勇がドラマの中でもよく使った岡山弁。私が唯一知っている岡山弁である。

おえりゃあせんのう。

これからも、何かのときに、ふと口をついて出るかも知れない。

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本当のボランティア

6月5日(火)

午後1時から、3人の学生と、一人ずつ話をする。

3人とも、この先の進路に悩む学生である。

一人目の学生との話が終わり、途中、3時から40分ほど、本部の建物で打ち合わせが入り、終わってからこんどは二人目の学生の話を聞く。

三人目の学生との話が終わったのが、なんと午後8時!

どんだけ喋ってたんだ?

といっても単なる暇つぶしのお喋りではない。そのほとんどが、今後の進路についての真剣な悩みである。私はひたすら、その話に耳を傾ける。

そのうちの一人の学生。

その学生は、東日本大震災で甚大な被害を受けた地域に実家がある。実家や親戚の家も、津波で大きな被害を受けた。

卒業後は地元に戻って、地元のために働きたい、という。

しかし、被災地はまだ、様々な問題を抱えている。そのほとんどは、まだまったく解決していない。

話題は「震災ボランティア」のことにもおよんだ。

震災以降、各地から来てくれたボランティアに対しては、力を尽くしてくれたことに対する感謝の思いと、被災地の日常に配慮なく入りこんでしまうことへの困惑、といった、さまざまな感情が交錯するという。それはそうだろう、と思う。

「先生、本当のボランティアって、どんなものだと思いますか?」

私が答えあぐねていると、その学生は続けた。

「ほとんどのボランティアの人たちは、瓦礫を撤去したり、側溝のドロをかきだしたりして、それが一段落すると、もう来てくれなくなります」

「そうだね」

「でも、本当に来てほしいのは、そのあとなんです。震災直後にボランティアに来てくれた人が、それからしばらくたった、翌年の夏祭りに来てくれたときは、とてもうれしかったんです」

「なるほど。ボランティアがきっかけになって、その土地に愛着を持ってくれたわけだね」

「そうです。私たちが本当に見てほしいのは、瓦礫なんかじゃありません。きれいな海とか、山とか、地元のお祭りとか、そういうものです」

震災後にさかんに叫ばれた「絆」という言葉。だが、その言葉の本当の意味を、私も含めて、いったいどれほどの人が理解していただろうか。

本当の絆は、故郷が「故郷らしさ」を取り戻したあとにこそ、意味を持ってくるのだ。

「むしろこれから、たくさんの人に来てもらいたいわけだね」

「そうです。それが本当の復興だと思うんです」

「だとしたら、それこそが、これからあなたがやるべき仕事だね。ぜひ、それをあなたがやるべきです」

「できるでしょうか…私には行動力がありませんから」

「行動力なんて、大して必要ないよ。あなたには、少し先の未来を描くことができる力がある。たとえどんな行動力のある人でも、それは簡単にはまねのできないことだ。行動力なんかよりも、大事なことはそれです」

「なんか身震いしてきました」その学生は苦笑した。「まずは試験勉強、頑張ります」

そう言って学生は出ていった。

その町は、一度訪れたいと思っていた町である。

時間ができたら、その町に訪れてみようか。

できれば、夏祭りの日に合わせようか。

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不意の消息 ~ジョンア先生編~

不意の消息

6月2日(日)

職場の健康診断が近いというのに、これまでにない不規則な生活が続いている。

不規則な時間にブログを更新していることからもおわかりだろう。

仕事が思うようにはかどらず、自分のふがいなさに自暴自棄になっているのが理由である。

誰のせいでもなく、自分のせいなので、仕方のないことなのだが。

韓国版ミクシーともいえる「ミニホムピィ」を開くと、韓国の語学学校の4級クラスの先生である、ジョンア先生から、じつに久しぶりに、メッセージが入っていた。

私の知り合いはみな、最近この「ミニホムピィ」をまったく更新していない。すっかりフェイスブックに移行したのだろうか。私はフェイスブックをしていないが、やはりほとんど「ミニホムピィ」を更新していないので、ここ最近は、ほとんど訪れる人がいなかった。2週間ほど前にスジョン先生(ナム先生)がメッセージをくれた程度である。

ジョンア先生とは、一昨年の夏に会って以来だから、消息を聞くのは2年ぶりくらいではないだろうか。

ジョンア先生には、私だけでなく、妻も授業で習っていた。当時は、大学院の博士課程に通いながら語学学校の先生をしていた。だから私や妻よりも年下である。

私たちが日本に帰国したあと、語学学校の教師を辞め、大学の同じゼミの、いかにも人のよさそうな感じの男性と結婚し、ほどなくして男の子を産んだ。もう3歳くらいになっただろうか。

メッセージは簡単なものだった。キョスニム(私のこと)、その後お変わりありませんか、という挨拶と、息子がだいぶ大きくなって、色鉛筆を使って絵を描くようになりました、と書いてあった。

ところで、なぜ思い立ったように、メッセージをくれたのだろう?

次にこんなことが書いてあった。

「数日前、大学で、キョスニムにとてもそっくりな人とお会いしたんです。あまりにそっくりなので笑ってしまったら、その人はびっくりしたような顔をしていました」

なるほど、それで私のことを突然思い出した、というわけか。

私は、よく「似ている人」があちこちにいるようで、それ自体は、別に驚くべきことではない。

だが、それで私を思い出して、メッセージをくれた、というのがありがたい。

メッセージの最後には、こう書いてあった。

「キョスニムと一緒に勉強した、あのときが、とても懐かしいです」

「一緒に勉強した」のは、わずか3ヵ月である。それに、毎年何十人もの留学生を相手にしてきた語学の先生からすれば、私はそのうちの1人に過ぎない。にもかかわらず、3年以上経った今でも、たまに思い出して、短いながらもメッセージをくれる。

それは、3級の時に習ったスジョン先生(ナム先生)も、同じである。

私のことが印象に残っているのは、もちろん私がほかの若い学生と違い、ひどく汗かきのオッサンであるというもの珍しさによるものにすぎないが、私にとってそうであったように、先生にとっても、あのときの授業は、忘れがたいものであったのかも知れない。

それは、何の取り柄もない私にとって、ほとんど唯一といってよいほど、誇るべきことである。

だからどんな些細なものであれ、不意の消息をもらうと、励まされる。

今年の夏も、時間を見つけて大邱に行くことにしようか。

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教授と学生の会話

「これからは、社会人力をつけなければなりません」

「はあ、でもその前に、学士力をつけなければなりませんよね」

「もちろんそうです」

「つまり、学士力をつけたあとに、社会人力をつけなければならない、ということですか?」

「いえ、ちがいます。社会に出てから社会人力をつけても間に合いません。今からつけておかないと」

「ということは、学士力はもちろんのこと、今のうちに社会人力も身につけなければならない、ということですね」

「そうです。しかし、社会に出たら、もっと大変ですよ」

「どうしてです?」

「あなたは将来、何になりたいんです?」

「公務員です」

「そうすると、公務員力が必要になりますね」

「そういう先生は、教授力が必要、ってことですか?」

「それだけではありません。研究力や、学内行政力や、有識者力なんかも必要です」

「大変ですねえ」

「あなたも大変ですよ」

「どうしてです?」

「これからいろいろな人とおつきあいしていかなければなりません」

「でも、それは社会人力があれば十分でしょう?」

「だめです。男性には男子力、女性には女子力がなければ、結婚できませんよ」

「そうなんですか?」

「結婚して家庭を持てば、家庭力も必要です」

「家庭力?」

「家庭力にもいろいろあります。あなたは男性ですね?」

「はあ」

「となれば、夫力が必要です」

「おっとりょく、ですか」

「そうです。そして配偶者には、妻力のある方が理想的です」

「なるほど」

「子どもが生まれれば、父親力が求められます」

「そうなりますね」

「そして配偶者には」

「母親力」

「とくにお母さんは大変です」

「なぜ?」

「ママ友力も必要になります」

「パパ友力は?」

「それもいずれ必要になるでしょうね。それもひっくるめて、保護者力ともいえます」

「子どもはどうなんです?」

「子どもも大変ですよ。なんたって子ども力が必要ですから」

「子ども力?子ども力といっても、またいろいろあるんでしょう?」

「その通り。幼稚園ではお遊戯力、小学校ではランドセル力、中学校では学習塾力、高校では部活力」

「受験力なんかも必要でしょう?」

「もちろんです。万が一浪人したら、浪人力が求められます」

「そうか。それで大学に合格したら、こんどは学士力が必要だ、ということですね」

「そうです。言い忘れましたが、最近はグローバル社会ですから、大学生にはグローバル力も求められます」

「そのためには、どうすればいいんですか?」

「若いうちから留学することをおすすめします。留学力を身につければ、語学力も身につきます」

「なんか、語学力って言葉が、今まででいちばん普通の言葉のような感じがします」

「あと、ボランティア力もつけておくとよいでしょう。社会人力をつける上で、有利になります」

「最初に聞いた時より増えてますよ。大学のうちに、学士力、グローバル力、留学力、語学力、ボランティア力、そして社会人力を身につけなければならない、ということですか?」

「そういうことです」

「たった4年間しかないのに無理です!話を戻しましょう。そうやって子どもが一人前になったら、僕は年をとりますよね。そうなるとこんどは何が必要なんです?」

「決まってるじゃないですか。老人力です」

「なるほど、それが、赤瀬川源平先生が言っていた老人力ですね。なんか、老人力がいちばん気楽そうな感じがしますが」

「さあ!今まで私が言った力をすべて身につければ、すばらしい人生を送ることができます」

「なるほど。でも先生」

「何ですか?」

「思考力は、いつ身につけたらいいんですか?」

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田所博士は実在するか

なんと、このブログで禁じ手の時事ネタですよ!

東日本大震災による原発事故以後、小出裕章さんが、『日本沈没』(小松左京原作)の田所博士と、重なって見えて仕方がない。

小松左京というSF作家が、『日本沈没』という小説を書いたのは、1973年のことである。日本列島が沈没するという荒唐無稽な設定の中で、日本に住む人びとが、世界各地に避難する様子が描かれている。空想科学小説だが、東日本大震災や原発事故を経験した私たちにとっては、決して荒唐無稽ばかりとはいえない、重要な意味を持つ小説となった。

この小説は、同じ1973年に森谷司郎監督によって映画化され、さらに翌年、TBSでも連続ドラマが制作された。

この中で、重要な役割を果たす人物が、孤高の科学者・田所博士である。映画とドラマの双方で、この役を小林桂樹が演じた。

田所博士は、日本沈没を予測した科学者だが、異端の学者で、権威にはことごとく抵抗していた。まわりからは、偏屈な学者として煙たがられていた。

だが、彼の予測は的中する。日本列島が地殻変動を起こし、沈みはじめたのである。ときの総理大臣(丹波哲郎)は、田所博士を、三顧の礼をもって政府の危機対策チームに迎え入れるのである。

小出さんも、原子力工学の分野では異端の学者で、権威にはことごとく抵抗している。多くの科学者から、非科学的だと批判もされている。大の政治嫌いとしても有名である。そんなこともあって、必ずしも恵まれた地位にいるというわけではない。

まさに、現代の「田所博士」なのである。

かつて「豪腕」と呼ばれた政治家がいた。一時期は総理候補、ともいわれたが、いろいろあって、今は小さな野党の党首である。

その豪腕政治家が、小出さんの勤める研究所を訪れる。大阪の南の方にある町に、その研究所はある。

そこでその豪腕政治家は、小出さんに深々と頭を下げ、原子力についての小出さんの話に、熱心に耳を傾ける。

反骨の科学者は、淡々と、自分の考えを臆せず話す。

その対談の様子が、動画サイトで公開されていた。

反骨の科学者の話に、姿勢を正して謙虚に耳を傾ける、かつての豪腕政治家。

まるで映画のような場面である。

この対談に、『日本沈没』の田所博士を重ね合わせるのは、幼稚にすぎるだろうか?

それとも、映画と同じように、希望を見出すべきだろうか。

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UTAU

大貫妙子・坂本龍一のアルバム「UTAU」を聴く。

Utau坂本龍一がピアノを演奏し、大貫妙子が歌う。

私にとっては、理想の組み合わせである。

80年代、坂本龍一は、大貫妙子の歌の編曲を数多く担当していた。

何度も書くように、このころの坂本龍一の編曲は、神がかっているほど、すばらしい。

完璧、としかいいようのない編曲である。

坂本が、いかに大貫の歌に惚れ込んでいたかがわかる。

私の記憶では、そのあとしばらくの間、二人は一緒に仕事をしなくなり、それぞれの世界で、活躍していた。

そしてまた最近、久しぶりに一緒に仕事をはじめたということなのだろう。

その距離感がすばらしい。

久しぶりに聴いた二人の音楽もまた、すばらしい。

このアルバムに対する坂本龍一の力の入れよう、心の込め方は、尋常ではない。

やはり坂本は、大貫の歌に、心底惚れ込んでいるのである。

アルバムの最後の曲は、大貫妙子の昔の名曲「風の道」である。

インターネットの動画サイトに、このアルバムが出たあとに行われたライブの映像を見つけた。

アンコール曲は「風の道」だった。

曲に入る前、坂本龍一が大貫妙子に言う。

「ちなみにこのオリジナル曲も、僕のアレンジではありませんでしたよね」

「そうです」大貫妙子が苦笑する。

「根に持つタイプなんで…」と坂本。

会場が笑いに包まれる。

「よかったです。今回一緒にできて。ありがとうございます」と大貫。

やれやれ、また始まった、という表情で、大貫妙子は坂本の「いじけたような冗談」に応える。

そしておもむろに、坂本がピアノを弾き始め、曲が始まる。もちろん今回は、坂本によるアレンジである。

そうか、「風の道」は、もともと坂本龍一の編曲ではなかったのか。

この会話の中に、「風の道」を自分が編曲できなかったことに対する嫉妬や、「俺なら、この曲の良さをもっと引き出せたのに」という自信が、見え隠れする。

中高生のころ、坂本龍一のFM番組「サウンドストリート」を毎週聴いていたが、そこでの語りから、坂本龍一が「根に持つタイプ」であることは、十分にうかがい知ることができた。だからこれは、たぶん本音なのである。

そして今回、このアルバムで、坂本のアレンジによる「風の道」が収録されたのは、坂本の宿願だったのかもしれない。

私はこの、坂本龍一の「器(うつわ)の小ささ」が、大好きなのである。

「世界のサカモト」も、私と同じように、根に持ったり、嫉妬したりする、「器の小さい人間」であるということに、私は共感していたのである。

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k田君とFさん

前回の話の続き。

20年近く前のことである。

ある研修先で、同じ研究分野のFさんと知り合った。Fさんは、私よりも少し年上である。

週に1度の研修を3カ月ほどしたあと、Fさんはある地方自治体に就職することになった。

しばらくして、Fさんに会ったときに、Fさんが言った。

「K田君って知ってる?」

「知ってますよ。高校時代の友人です」

と、そこまで答えて思い出した。

K田君は、数年間つとめていた大手民間企業を辞めて、公務員試験を受けて、その年の4月からFさんと同じ地方自治体に勤めることになったのだ。K田君自身から、その話は聞いていた。

「この前、新人研修で一緒だったんだけどさあ。意気投合しちゃってね。そしたら、あなたの話題が出たんだ」

Fさんが私と同じ専門分野である、というところから、K田君はFさんに私の名前を出してみたのだろう。

周りはみんな、大学を卒業したばかりの若者たちである。そんななかで、FさんもK田君も少し浮いた存在だったのかもしれない。同期入社の、同世代の浮いた者どうし。意気投合するのは当然のことであった。

「K田君、おもしろいやつだよなあ」

「そうでしょう」

研修のあと、二人は全然違う部署に配属された。それからほどなくして、私はK田君の住む町に、遊びに行った。私の記憶では、遊びに行ったK田君のアパートで、その時はじめて「Windows95」というパソコンに触れたから、たぶん1995年のことだったと思う。

話題といえば、Fさんのことである。

「Fさんには新人研修の時、本当にお世話になってねえ。おもしろい人だよねえ」

「そうだよねえ」

K田君の性格もFさんの性格もよく知っている私は、ウマが合うのは当然だろう、と思った。

それからしばらくして、Fさんは職場を移った。

さて、いまから数年前のことである。

私はひょんなことから、Fさんと共著で本を出すことになった。出版社側がキャスティングしたのである。

しばらくぶりにFさんと会い、一緒に仕事をした。苦しくも、楽しい仕事であった。

同業者が数多くいる中で、Fさんと私の二人の共著を出す、というのは、たまたまとはいえ、因縁めいていた。K田君が結びつけた縁なのだろうか、とも思った。

そんなことを思い出しながら、今になって、やっと気づいた。

あの本は、真っ先にあいつに送るべきだったのだ!

なぜそのことに思い至らなかったのだろう?

3年も遅れてしまったが、あいつにあの本を送ろう。

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