カンガルーは笑うのか
7月14日(日)
3連休の中日。
たまっている仕事を片づけるか、「カーナビのない一人旅」をしようか迷ったが、どちらもやる気がなく、結局、家でぐうたらと、三谷幸喜脚本のドラマ「古畑任三郎」をまとめて見返すことにした。
先日の授業の感想の中に、「授業のまとめ方が古畑任三郎のようだった」というのがあって、それに気をよくしたためである。
第1シーズンの2時間スペシャル版に「笑うカンガルー」というエピソードがあって、あらためてみると、これが結構面白い。
オーストラリアで、世界的な数学者を表彰する式典があり、日本の数学者の二本松(陣内孝則)と野田(田口浩正)のペアが受賞した。
この二人は、長らくペアで仕事をしてきたが、実際のところは、真に数学的才能を持つ学者は野田のほうで、二本松はたんなるスポークスマンに過ぎなかった。
二本松はスタイルのよさや口の上手さで脚光を浴びるが、心の底では野田の才能にコンプレックスを感じていた。そして二本松は、野田を殺害するのである。
同じホテルにたまたま、缶詰の抽選でオーストラリア旅行が当選した古畑任三郎と今泉慎太郎が居合わせていて、事件に遭遇した古畑が推理をする、というわけである。
数学的才能はないがスポークスマンとしては有能な二本松と、社会性はまったくないが類い希な数学的才能を持つ野田、という組み合わせは、刑事コロンボの「構想の死角」に登場する作家コンビを連想させる。というか、このエピソードが「構想の死角」をリスペクトしたことは確実である。
だが、ここで問題にしたいのは、そこではない。
ドラマの中で、殺された野田の妻(水野真紀)が、自分の男運のなさを古畑に語る場面がある。
「知ってます?こちら(オーストラリア)では、男運のない女のことを、『カンガルーが笑う』って言うんですよ」
「いやあ、初めて聞きました」
「何かの雑誌で読んだわ。私の周りでは、たくさんカンガルーが笑ってるんです」
「いいえ、そんなことありませんよ」
エピソードのタイトル「笑うカンガルー」は、この場面からとられたと思われるが、ここで疑問なのは、オーストラリアのことわざに、本当に「カンガルーが笑う」という表現があるのだろうか、ということである。
インターネットで調べてみたが、どうも、そういったことわざがあるようには思われない。
ひょっとしてこのことわざは、脚本家・三谷幸喜のまったくの創作なのではないだろうか?
三谷幸喜はときどき、しれっと、この種の「実在しない格言」をドラマの中で使う。
有名なものは、三谷幸喜脚本のドラマ「王様のレストラン」である。
このドラマでは、毎回冒頭に、「ミッシェル・サラゲッタ」という人物の、料理に関する「格言」が紹介される。おぼえているかぎりであげると、
「人生で起こることは、すべて、皿の上でも起こる」
「人はみな、神が作ったギャルソンである」
「人生で大事なことは、何を食べるか、ではなく、どこで食べるか、である」
「奇跡を見たければ、その店へ行け」
「人生とオムレツは、タイミングが大事」
「トマトに塩をかければ、サラダになる」
「歴史は、鍋で作られる」
「最高のシェフは、恋をしたシェフ」
「まずい食材はない。まずい料理があるだけだ」
「若者よ、書を捨て、デザートを頼め」
ところが「ミッシェル・サラゲッタ」という人物は、実在しない料理人である。これらの言葉は、すべて三谷幸喜の創作なのである。
しかし、このやり方でいけば、いくらでも「ことわざ」や「格言」が作れるぞ。
「人生で起こることは、すべて、教室の中でも起こる」
「人は皆、神が作ったキョスニムである」
「人生で大事なことは、何を学ぶか、ではなく、誰に学ぶか、である」
「奇跡を見たければ、その教室へ行け」
「人生と焼肉は、焼き加減が大事」
「白菜を唐辛子で漬け込めば、キムチになる」
など。
話を戻すと、「カンガルーが笑う」という、一見もっともらしいオーストラリアのことわざも、三谷自身の創作による可能性が高いのではないだろうか。
はたして、カンガルーは笑うのか?
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