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2013年9月

俺は芭蕉か、キョンキョンか

9月30日(月)

今日は「すぐに潰れてしまうラーメン屋」の話を書こうと思ったが、急遽予定変更。

唯一の姉妹ブログである、こぶぎさんの「乙女旅のブログ」は、10日に一度の更新である。

「乙女旅のブログ」のヘビーなファンなら周知の事実だが、あのブログの記事は、すでに半年以上前にまとめて書かれていて、それを10日ごとに、自動的に更新しているしくみになっている。

つまりラジオで言えば、私のブログがリアルタイムで起こったことを書く「生放送」であるのに対し、こぶぎさんのそれは、まとめ録りした録音放送なのである。

で、今日は9月30日(月)で、記事が更新される日。

読んでみて驚いた。

まずタイトルが、

「(本格派シリーズ)本格的な足跡めぐり」

とあり、誰か有名人の足跡をたどった旅なのかな?あるいは、恐竜の足跡(あしあと)か何かを見に行ったのだろうか?などと、想像がふくらむ。

だが中身を見てびっくり。

なんと、私が毎年秋に行っている「実習」先の足跡を一人旅でたどっているのだ!

新幹線を乗り継いで片道5時間!

私がよく行く喫茶店(私がよく行くのは、本店ではなく、その近くにある支店です。円形のカウンターに座るのが好きなのです)。

見晴らしのよいS寺。

特急で1時間ほど行った村での、自転車走行。

まわる順番は異なるが、ほぼ完璧なコースである!

ただし前述の通り、リアルタイムの更新ではないので、いつごろ行ったものであるかは不明。かき氷を食べているので、夏ではないかと思われる。

むかし私は、こぶぎさん他数名と、ベトナムに旅行に行って、「水曜どうでしょう」の「原付ベトナム縦断1800キロ」のルートをたどったことがあるが、要は、それと同じことでしょう?

どんだけこのブログのファンやねん!

さすが筋金入りの「ダマラー」(「吹きだまり」+「ラー」で、このブログのファンの人のこと)である。

「水曜どうでしょう」のたとえがわかりにくい人のために、別のたとえを用いると、松尾芭蕉の「奥の細道」のルートを、いまの人がたどるようなものである!

で、読んでみた感想。

すげー恥ずかしい!

自分の行った足跡をたどられるのは、かなり恥ずかしいのだ!

それで思ったのだが、もし松尾芭蕉が今も生きていたら、

「奥の細道、たどるんじゃねえ!」

と思ったはずだぞ。

「蝉?あー、あれは本当は鳴いてなかったんだけど、鳴いているテイで詠んだんだ。実際には聞いてないんだよ。だからわざわざ現地に行って蝉の声なんて聞こうとしないでくれよー。恥ずかしいからさあ」

とか、

「え?蚤とか虱とかいて、馬がオシッコするというあの場所にも行ったの?頼むよー。恥ずかしいからたどらないでくれよー」

とか、ぜったいそう思っていると思うぞ。

さらに別のたとえで言えば、むかしキョンキョン(小泉今日子)が、「オールナイトニッポン」というラジオ番組で、

「私いま、『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいるの」

と言ったら、翌日、書店から『ライ麦畑でつかまえて』が飛ぶように売れ、ファンがみんなこの本を読んだ、という逸話が残っているが、「足跡めぐり」はその感じにも近い。

いい名言を思いついた!

「みんな、誰かのキョンキョン」

いい言葉だ。この言葉、「倍返しだ!」なみに流行らないかなあ。

しかしこの「足跡めぐり」の話。先日こぶぎさんに会ったときには、こんな話題などおくびにも出しておらず、その徹底した情報統制ぶりには、恐れ入るばかりである。

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八甲田山

書くことが思い浮かばないので、映画の話を。

映画「八甲田山」の高倉健は、やはりかっこいいなあ。

上層部が、八甲田の雪中行軍という無謀な提案(命令ではない)をする。

上層部に振りまわされるのは、現場の指揮官である、弘前歩兵第31連隊の徳島大尉(高倉健)と、青森歩兵第5連隊の神田大尉(北大路欣也)である。

「本当に大変なのは我々ですよ。いちばん大きな貧乏くじだね」

両連隊が雪中行軍を引き受けたあと、徳島が神田に向かって言う言葉である。

このあと、徳島と神田は、お互いの立場や人間性を認め合い、八甲田の雪中行軍を成功させることを約束する。

やむなく雪中行軍を引き受けることになった徳島大尉は、ありとあらゆる可能性を考えて、隊の犠牲を最小限に抑えるための行程案を考えるのである。

提出された行程案に、上層部は難色を示す。これに対して、徳島大尉が反論する。

「なぜ、このような行程案になったのか。それは、連隊長殿の責任であります」

上層部が気まぐれに出したアイデア(弘前から出発する31連隊と、青森から出発する5連隊が、八甲田山中ですれ違うようにしたらどうか、というアイデア)を実現するために、それを最大限に尊重し、かつ、隊の犠牲を最小限にくいとめるために、徳島大尉は知恵を絞ったのである。

徳島大尉は、上層部に対して、姿勢を正したままきっぱりと述べる。

「自分は、旅団司令部で八甲田(の雪中行軍)を安請け合いしたことを、いま、後悔しております。

調査をすればするほど、恐ろしい。

日本海と太平洋の風が直接ぶつかり、冬の山岳としては、これ以上はない最悪の事態です。

おそらく、今後30年、50年、いや、100年たっても、冬の八甲田は頑として人を阻み、通ることを許さないのではないかと思います。

自分は、これまでに何度も、この雪中行軍は辞めるべきだとの意見具申を考えました。

しかし、青森5連隊は、神田大尉を指揮官として、その八甲田に挑む。自分も、八甲田に行かねばなりません」

上層部の提案を無謀なものであるときっぱりと批判しつつ、敬意を表する神田大尉との約束も守らなければならないという苦悩。

自分に言い聞かせるように、上層部に凛然と語るこのセリフは、この映画の中で私が最も好きなセリフである。

このセリフは高倉健が言うから、かっこいいんだろうな。

ところで調べてみたら、映画「八甲田山」(東宝)と、映画「八つ墓村」(松竹)は、同じ1977年に公開されている。ともに脚本は橋本忍である。

「八甲田山」の監督は森谷司郎で、「八つ墓村」の監督は野村芳太郎だが、野村芳太郎は、「八甲田山」の「製作」に名を連ねている。

さらに音楽は、ともに芥川也寸志である。

言ってみれば、この2つの映画は、同じ年に生まれた「二卵性双生児」の映画である。

松竹の「八つ墓村」は当時、、1974年にやはり松竹で製作された「砂の器」と同じスタッフが再び結集して作られた映画、というふれこみだったが、いま見てみると、「砂の器」のテイストに近いのは、「八つ墓村」よりも、むしろ「八甲田山」の方である。

「砂の器」と「八甲田山」の両方に出演する役者も、かなり多い。

だから私の中では、「砂の器」→「八つ墓村」という系譜ではなく、「砂の器」→「八甲田山」という系譜なのである。

まったくわかりにくい話なのだが。

映画「八甲田山」の撮影監督は、日本を代表する撮影監督である木村大作である。木村大作は本来、職人肌の撮影監督だと思うのだが、この人が撮影監督をつとめる映画を見るたびに、本当は「芸術家」に憧れているのではないだろうか、と思えてならない。

これもまた、わかりにくい話である。

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真夜中の電話

9月27日(金)深夜1時半。正確には、9月28日(土)午前1時半。

明けて28日のW大学での発表の準備をしていると、携帯電話が鳴った。

(誰だ?こんな遅くに…)

携帯電話にかけてきた人の名前を見ると、大学時代、「山中の調査」でお世話になった、酒豪のNさんであった。私が大学1年の時、大学院の博士課程1年だったので、先輩である。見た目は華奢な女性なのだが、飲み出すと止まらなくなる。

酔っ払うと、ほうぼうに電話をかけるとは聞いていたが、私のところにかかってきたのははじめてである。とうとう私も被害者になるのか。

「もしもし」

「ひさしぶり~」

「いま、飲んでるんですね」

「ごめん、寝てた?」ふつう、寝ている時間である。

「いえ、起きてましたよ。…まわりが騒がしいですね」どうやら宴会をしているらしい。

しかし、深夜1時半まで飲んでいるとは…。

「いま、別の人に代わるね」

別の人って、誰だ?

「もしもし、ミーシャですか?」男性の声である。

ミーシャ、という言葉で思い出した。大学時代、熊に似ている私を「ミーシャ」と呼んでいた人が1人だけいた。1年上の先輩のSさんである。

「わかりますよ。Sさんでしょう。久しぶりです」

「久しぶりだなあ。何年ぶりだ?」

「10年以上はたってます」

ここまで会話して、なんとなく状況がつかめてきた。NさんもSさんも、大学時代「山中の調査」で一緒だった先輩である。学年の序列からいえば、

Nさん>>>>>>Sさん>私

といった感じ。

しかも、NさんとSさんは、いま、おなじS県で勤務しているのだ。NさんはSさんと再会して嬉しくなって、それで私のところに電話をかけてきたんだろう。

「今日、仕事でNさんと久々に一緒になってねえ。旅館で飲んでるんだが、なかなか解放されないんだ」

「ほかにもいらっしゃるんですか?」電話の向こうで笑い声が聞こえる。

「うん。県職員さんと、うちの同僚の2人」

全部で4人らしいが、あとの2人は、誰だかわからない。

「おい、お前からもNさんを叱ってやってくれよ。いいかげん、大人になったのに、酔って電話したりするのはやめろと」

たしかに、夜中の1時半に電話をかけてくるのは、ふつうは非常識である。

しかし、後輩の私が叱るわけにはいかない。

しばしSさんと話したあと、

「Nさんに代わるよ」と、電話はNさんのもとへ。

「S君と久しぶりに喋って、懐かしかったでしょう?」

「ええ、まあ」

「…ということは、私もいいことをしたってことね」

ただ、深夜1時半ですけど!

「じゃあ次の人!」

今度は誰だ???

「もしもし」

「もしもし、はじめまして。私、県職員の○○と申します。夜分遅くに、たいへん申し訳ありません」

「いえ、そんなことありません」

…まったくの知らない人である。先方の県職員さんにしたって、わけもわからず電話を代わらされて、何を話していいかわからないのだろう。その意味では、私もその人も、Nさんの被害者なのだ。

「はい、次!」と、受話器の向こうでNさんの声がした。

今度は誰だ???

「もしもし」

「もしもし、はじめまして。私、Sさんの同僚の○○と申します。夜分遅くに、たいへん申し訳ありません」

やはり、見ず知らずの方である。

何で夜中の1時半に、見ず知らずの人と話さなければならないのだ?

「じゃあ、Nさんに代わります」再び電話は、Nさんのもとへ。

「じゃあ、またね」

ガチャッ

電話が切れた。

いったい何だったんだ?いまの一連の電話は。

明日の発表は、うまくいくのだろうか。

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芋煮会運を取り戻す!

9月27日(金)

新学期開始前の、オリエンテーションの日。

この日が来ると、「後期も頑張らなくちゃ」という気なる。

儀礼的な行事が早々に終わったあと、しばらく教室に残って、いろいろな学生とおしゃべりをする。一人ひとりがじつにさまざまな思いを抱えていることがわかる。

「単位は足りてるんで、先生の講義、聴講だけしてもいいですか」

と言ってくれた学生が何人かいた。

私に言わせれば、これは教員への「殺し文句」である。

なぜならこの言葉は、「単位のために仕方なく授業に出るのではない」という意味が込められているからである。

一瞬、嬉しかったが、

(…ひょっとして、同じことを他の同僚にも言っているのではないか?)

と、また心がどんよりする。

オリエンテーションが終わってから、場所を河原に移して、「大きな鍋に芋と牛肉を入れて煮る会」、通称「芋煮会」を行う。地元の名物行事である。

3年生のSさんたちの奮闘で実現した。

考えてみれば、学生主催の芋煮会に参加するのは、じつに5年ぶりくらいである。

昨年も、一昨年も、その前の年も、仕事の都合で参加できなかった。さらにその前の年は、韓国に留学していたので、やはり参加できなかった。

このブログでもさんざん「芋煮会運がない」と嘆いてきたが、これまでの芋煮運のなさを取り戻すに余りあるほどの、美味しさである。

ここでもまた学生といろいろな話をする。

ひとつ発見したのだが、こういう席で教員と学生が話をするとき、二通りのタイプがある。

「もっぱら教員が学生に話す」というのと、「もっぱら教員が学生の話を聞く」という、2つのタイプである。

たぶん私は、後者である。私は話し始めると、つい調子にのってしまうで、できるだけ聞く側にまわるようにしている。

学生にとっては、どっちがいいのかなあ。

昨今の事情を反映してか、「ノンアルコール」の芋煮会となったが、それはそれで、悪くない。

あまりに嬉しくなったので、携帯電話のカメラで写真を撮っていると、

「先生、それ、ブログに載せるんでしょう?」

と3年生のSさんが言う。

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その通り。ブログに載せましたよ。

午後5時すぎ、先に会場をあとにして、慌ただしく東京に向かった。

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僕が大学で吹奏楽をやめた理由

大学のサークル選びというのは、なかなか難しい。

いまから25年ほど前、大学に入学したとき、何のサークルに入ろうか、悩んだものである。

おりしも、世間がバブル景気に浮かれていた時期である。

高校時代に吹奏楽部でアルトサックスを吹いていたので、大学に入っても吹奏楽を続けよう、と漠然と思っていた。

入学して最初に声をかけられたのが、応援団の吹奏楽部である。

野球の応援とかでかり出される吹奏楽部、ということらしい。

私が吹奏楽の経験者だとわかると、先輩は猛烈な攻勢をかけてきた。

「いわゆるふつうの吹奏楽団は、人数が多くてなかなか大変だよ。その点、うちは人数がそれほど多くないから、人間関係も濃密だし、それに応援しながら演奏するから、感動もひとしおだ」

「野球の応援のときだけでなくて、ちゃんと定期演奏会があるし、マーチングバンドみたいなこともするから、ふつうの吹奏楽団よりもはるかに面白いよ」

男の先輩二人がかりで、私の説得にかかる。しかも、昼飯を奢ってもらいながら、その話を聞くのである。

しかしなあ。

(試合のたびにかり出されたりして、けっこう体育会系なんじゃないだろうか)

とか、

(今日は応援団の人手が足りないから、楽器じゃなくて応援団の方にまわってくれ)

など、「聞いてないよ~」みたいなことがあるんじゃないだろうか。

それに、ああいうところは、けっこうOBの力が強かったりして、将来のことを考えて、そのOBと人間関係を結ぶことを目的に入部している人がいるような気がして、なんとなく自分には合わないな、と思ったのである。

もちろんこれは、私の完全な思いこみなのだが。

結局、応援団に入ることを丁重にお断りして、ふつうの吹奏楽団に入部することにした。

しかし、自分の思っていたのと、かなりイメージが違う。

応援団の先輩が言っていたように、吹奏楽団は人数が多いので、演奏会に全曲出してもらえるわけではない。

ましてや1年生は、仮に先輩よりも上手かったとしても、自分のやりたい曲に参加することはできず、上級生が決めたとおりに、演奏に参加しなくてはならない。

「君にはバリトンサックスをやってもらうよ」

「バリトンサックス…ですか…」

アルトサックスを吹きたいと思って入部したのに、1年生だからという理由で、バリトンサックスを担当させられる。しかも、担当するのは演奏会の全曲ではなく、そのうちの数曲である。

ラグビーのたとえでいえば、フォワードをやりたいのに、バックスを担当させられるようなものである。あるいは、控えにまわるようなものである。…といっても、ラグビーの知識が全然ないので、このたとえが正しいのかどうか、わからない。

しかも、練習場所が大学の別のキャンパスということになると、わざわざ地下鉄を乗り継いで1時間近くかけて通わなければならない。

そんな生活を続けているうちに、そこまでして大学生活を吹奏楽のために費やす価値があるのだろうか?と、疑問に思えてきた。

自分はそこまでして吹奏楽を続けるほど、吹奏楽が好きなわけではない。

(高校の時はよかったなあ。へたくそでも、全曲出してもらったからなあ)

自分が上級生になれば、あるていど自分の好きなようにできるのだろうが、そうなると今度は、自分の下に入ってくる後輩たちに、私が味わったことと同じ思いを味わわせなければならなくなる。

それは、あまり気持ちのよいことではない。

考えたあげく、大学1年の5月に行われた大学祭での演奏会に出たあと、吹奏楽団を辞めることにした。在籍期間は、わずか2ヵ月であった。

やめてスッキリした。もう、あんな遠い練習場所まで通って、さほど本意ではないバリトンサックスを吹かなくてもすむのだ。

…いまから考えれば、大学に入った時点で、何が何でも吹奏楽を続けようとは、思わなくなっていたのだろう。もし本当に吹奏楽が好きだったとしたら、バリトンサックスを担当させられても、嬉々として練習しただろうから。私は、辞める理由を探していたのだ。

そのあと、吹奏楽とはまったく無関係な、こぢんまりとした文化系サークルに入った。結果として、そのおかげで今があるようなものである。

だが、吹奏楽との縁がまったく切れてしまった、というわけではない。

大学3年になって、高校のOBたちによる吹奏楽団が結成された。私はそこで再びアルトサックスを吹くことになる。月に2回程度、自分のペースで気楽に吹くことができた。

この活動を10年ほど続け、東京を離れたことを機に吹奏楽をやめてしまったが、昨年、ふとしたきっかけで、またアルトサックスをはじめたことは、このブログでも書いたとおりである。

新学期を前に何が言いたいかというと、

人生はわからない。

ということと、

無理せず、自分に合った居場所を見つけた方がいい。

ということである。

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ちょいとした身内よ

9月25日(水)

久々に、映画「男はつらいよ」の話。

「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」のマドンナは、松坂慶子である。

寅次郎は、瀬戸内海の小さな島で出会ったふみ(松坂慶子)という女性と、大阪で再会する。ふみは、大阪で芸者をしていた。

二人は意気投合し、生駒山の宝山寺で初デートと相成るが、そこで寅次郎は、ふみの身の上話を聞いているうちに、彼女に、幼い頃に生き別れた弟がいることを知る。たった一人の肉親である弟とは、小さい頃に別れたっきり、一度も会ったことはないという。「弟は、こんな私に会いたいとは思わないのではないだろうか」と、これまでずっと会うのをためらってきたのだ。

「会ってやれよ。こんな広い世の中に、たった二人っきりの姉弟じゃねえか。会いたくねえわけがねえよ」

今すぐ弟のところに行こう、と、寅次郎はなかば強引に、ふみを連れて、弟の会社にたずねにいく。

「こちらの会社に、ミナカミヒデオという男はおりませんでしょうか」と寅次郎。

「失礼ですが、どういうご関係でしょうか」

「こちらは、ヒデオ君のお姉さんです」寅次郎がふみを指して言う。

「あなたは?ご主人?」

「いや…ちょいとした身内よ」

答えに窮した寅次郎が答える。

もちろん、2人は夫婦でも恋人でもない。かといって、ふみのたった一人の肉親の心配をして、まるで我がことのように一緒についてきた寅次郎にとって、たんなる友人というのも、なんとなニュアンスが異なる。そこで寅次郎は、

「ちょいとした身内よ」

と答えたのである。

この、「ちょいとした身内よ」という言葉のチョイスが、昔からなんとなく好きだった。

この言葉の中に、微妙な親密度、というニュアンスが含まれているのだ。

家族でも親戚でも恋人でもない、といって友人という表層的な関係にとどまらない、「ちょいとした身内」というカテゴリー。

この絶妙な言葉のチョイスが、山田洋次監督の真骨頂だと思う。

弟の会社を訪れた2人は、そこで悲しい事実に直面するのだが、それについては、以前に書いた

結局、ふみは長崎県対馬の青年と結婚し、寅次郎はお決まりの結果になるのだが、ラストシーンで、寅次郎がふみを訪ねてはるばる対馬に渡り、再会する場面は、感動的である。

「ちょいとした身内」にふさわしい、再会の仕方である。

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流される性格

9月24日(火)

「なにも『風立ちぬ』の話題で3回も引っ張ることはないだろ!」

ということで、「風立ちぬ」の話題は、これにて封印。

比喩的な表現をすると、私は「個人探偵事務所」を経営している。

たまに、事件の捜査の依頼が来る。

…何言ってんだ?コイツもとうとうアタマがおかしくなったか、と思わないでくださいよ。あくまでも比喩なんですから。

ある知り合いから、捜査の依頼が来て、車で2時間半かけて、隣県の現場に赴いた。

依頼者のSさんのところをたずねたら、10年ほど前に一度だけ一緒に仕事をしたAさんもそこにいて、10年ぶりに再会した。人間の縁というのは、不思議である。

わざわざ呼んでいただいたからには、少しでも捜査を進展させなければならない。

だが、捜査がどれほど進展するかは、現場に行ってみないとわからない。まったく役立たずのまま帰る、という場合も考えられる。

だからいつも、こういうときは緊張するのだ。

「大手探偵事務所」とは違い、「個人探偵事務所」なので、実績を残し、信頼関係を築くことが大事なのである。

現場で2時間ほど粘り、ひとまず成果を上げることができ、安堵した。

夕方、現場を発ち、今度は1時間半ほどかけて「前の職場」に立ち寄り、また別の仕事をする。

一通り仕事が終わり、前の職場の同僚のKさんの仕事部屋に行くと、三味線が2台、置いてあった。

Kさんの趣味は、三味線なのだ。三味線サークルの顧問でもある。

「ちょっと弾いてみませんか?」とKさん。

原稿の締め切りもあるし、帰らないといけない、と思っていたのだが、少しくらいならいいだろうと思い、三味線を弾いてみることにした。

しかし、三味線に触るのは、まったく初めてである。三味線どころか、ギターとかベースとか、弦をつま弾く楽器というものは、今までまったく経験がないのだ。

「楽譜はあるんですか?」

楽譜を見せてもらって驚いた。

音符が書いてあるのかと思ったら、全然そうではない。

三味線は、三弦あって、弦を押さえるところに、番号が書いてある。

楽譜には、三弦のうちで、どの弦のどの番号を押さえるのか、その順番が書かれているのである。

「三味線で一番最初に習うのは、こきりこ節です」こきりこ節とは、富山県の民謡である。

楽譜を見ながら、何度も練習すると、最初の8小節くらい(三味線でも「小節」っていうのか?)を、何とか弾くことができた。

「すごいですねえ」とkさん。「初めてでは、そこまで弾けませんよ」

「そうですか」どうもおだてられているらしい。

その次に挑戦したのは、地元の民謡である。ほら、花飾りのついた笠を持って踊る例のやつですよ。

こきりこ節よりやや難しいが、使う音はほとんど同じである。

これも8小節くらい弾いてみた。

「さすが、勘どころがいいんですね。初めての人は、そんなに弾けませんよ」Kさんがますます私をおだてる。なんとか仲間に引き入れたいのだろう。

「そうですか」私も調子に乗る。

「こんどは、これにしましょう。『島唄』。これは難しいですよ」

これも、最初の8小節くらい弾いてみた。

「いやあ、すごいです」Kさんは私を完全に木に登らせたのである。

私も悪い気はしない。というか、三味線って、めちゃくちゃ面白いなあ。本気で練習すれば、かなりいい線までいくんじゃないだろうか。

私の目標は、「島唄」と「涙だそうそう」(BEGINバージョン)と「ハイサイおじさん」を、三味線で弾くことである。

…ん?この選曲だと、三味線というより、三線を練習しろ、ということか?

とにかく、すっかり三味線の虜になった。

気がつくともう1時間くらいたっている。

「うおぉぉぉぉぉぉ!!!もうこんな時間!」

そこへ、憔悴しきった顔のこぶぎさんがやってきた。

「どうしたんです?」

「校内合宿」

「校内合宿?」

聞いてみると、原稿の締め切りに追われていて、職場の中のある場所に一人でこもっていたらしい。

それを聞いて、私も急に、自分の原稿の締め切りのことを思い出して、不安になった。

しかし、そんな不安とは裏腹に、いつものごとくお喋りが続く。主たる話題は、もうじき終わるという「あまちゃん」である。といっても、私はこのドラマを見たことがないので、手探りのまま話題についていった。

Kさんとこぶぎさんが、三味線をポロン、ポロンとつま弾きながら、まるで牧伸二のウクレレ漫談か、はたまた内海桂子・好江師匠の漫才か、といった趣で喋っていた(わかる人だけわかればよろしい)。

気がつくともう夜の9時だった。

「俺たち、三味線を弾きながら何やってんだ?」こぶぎさんの言葉に、3人は我に返った。「晩飯を食いに行こう」

「晩飯を食ったらすぐに帰りますよ」

「もう話し尽くしたしね」

前の職場を出て、車で10分ほどの中華料理屋さんに行く。

しかし、実際には、晩飯を食べてハイさよなら、というわけにはいかない。

喋っているうちに、夜11時になってしまった。

結局、いつものパターンである。

ま、予想していたことだし、楽しかったからよかったのだが。

原稿は明日から再びとりかかろう。

「いつやるの?」「明日からでしょ」これが私のモットー。

三味線のことは、原稿がすべて書き終わってから、考えよう。

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若冲が来てくれたので、行ってきました

9月23日(月)

東京からの帰り、調べてみたら、途中下車すれば、隣県で行われている「若冲が来てくれました」展を1時間ほど見ることができることがわかったので、途中下車して、「若冲」展を見ることにした。おりしも今日は最終日である。

なんとかすべり込みセーフで間に合った。1時間ほど、慌ただしく展示を見た。

よく、「日本人が世界でもっとも情緒豊かな民族だ」みたいなことを言う人がいるけれど、そう言う人のことを、私は信用していない。だって、そもそも若冲の絵の虜になったのは、アメリカ人のプライスさんなのである。

それに、もとはといえば若冲自身も、東洋絵画の影響を受けていたりするわけだし、結局は、芸術家の感性というのは、民族や風土を問わない、ということなのだ。

それでまた思い出した。映画「風立ちぬ」の話(またかよ!しつこいな)。

すでに指摘されていることだが、宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」には、印象派のクロード・モネの画風や構図に影響されている場面がある。これは、今回の宮崎作品の特徴でもある。

日本の代名詞のようなアニメーション作家の作品だが、そこには西洋画の印象派の影響が認められるのである。

さて、たびたび引き合いに出している黒澤明監督の映画「夢」にも、「私」が見た夢のひとつに、印象派の画家、ゴッホが登場する。

「私」は、夢の中でゴッホに出会い、やがてゴッホの風景画の中に入りこんでしまう。

ここにもやはり、印象派の影響が認められるのだ。

うーむ。考えれば考えるほど、「風立ちぬ」と「夢」には、共通点が多い。というか、老境に入った芸術家肌の映画監督に、共通する指向性なのだろうか。

…もちろんこれは、芸術的感性や美術史の知識のかけらもない私の、たんなる妄想に過ぎない。

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妄想映画論

「雲がいいんだよねえ」

宮崎駿監督の映画のよさを、妻はこの一言で表現する。

私からすれば、「乗り物」だ。

飛行機、汽車、船、すべてよい。

とくに「風立ちぬ」では、飛行機もよかったが、汽車もよかった。

映画監督は、とくに汽車が好きらしい。

たとえば、山田洋次監督がSLマニアだということはよく知られているが、映画「男はつらいよ」シリーズの中で、線路をバックに役者が芝居をしていると、必ず背景を汽車が通過していく。

あれはつまり、汽車がその場所を通過するタイミングに合わせて、芝居の撮影をしているということである。

大林宣彦監督もそうである。

線路をバックに役者が芝居をしていると、必ず背景に汽車や電車が通過するのである。どんな作品も、例外なくそうである。

そればかりではない。海を背景に芝居していると、背景の海に必ず船が横切るのである。

大林監督もまた、電車や船が通過するタイミングをを計って、芝居の撮影をしているのだ。

映画を撮るときの作法なのかもしれないが、それ以前に、「どうしても画面の中に走っている汽車をおさめたい」という衝動が、そうさせるのであろう。

前回、宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、黒澤明監督の「夢」に相当する作品ではないか、と書いた。

そう考える理由のうちのひとつは、主人公の特徴である。

「風立ちぬ」の主人公は、やせぎすでメガネをかけ、飄々としていて、「ギラギラした感じ」が、みじんもない。

あえてそうしたのだろうと思う。声を、本職ではない庵野さんにしたのも、そういうねらいだろう。私はこのねらいは、成功したと思う。

黒澤明の「夢」の主人公である「私」を演じたのは、寺尾聰である。

寺尾聰も、やせぎすで飄々としていて、やはり「ギラギラした感じ」が、みじんもない。

これまでの黒澤作品の主役といえば、三船敏郎とか、仲代達矢とか、とにかく「ギラギラした感じ」の人たちばかりである。

ところがこの作品は、うって変わって、まったく正反対の雰囲気をもつ寺尾聰をキャスティングしたのだ。

それは、「夢」の主人公である「私」が、黒澤明自身であることと、関係しているのではないだろうか?

黒澤明監督自身は、多くのエピソードを読んだり、映像でインタビューを見たりするかぎり、「ギラギラした感じ」の人である。寺尾聰のような雰囲気とは正反対である。

だが、だからこそ、自分とは正反対の雰囲気をもつ寺尾聰を、「自分の理想の姿」として、キャスティングしたのではないか。そう思えてならない。

「風立ちぬ」の場合も、同じである。

宮崎駿監督は、私の印象では、黒澤明監督と同様、「ギラギラした感じの人」である。

自分の分身ともいえる、主人公「堀越二郎」の、あの雰囲気は、監督自身にとっての、理想の自分の姿なのではないだろうか。

どうも私には、黒澤明における寺尾聰、宮崎駿における堀越二郎が、それぞれの監督の「理想の自分像」として登場させているように思えてならないのである。

…ま、ここまでくると、完全に私の妄想だな。

自分と正反対の雰囲気の人に、自分の理想的な姿を見いだそうとする、みたいなことが、心理学的に説明できるのだろうか?誰か心理学に詳しい人、教えてくんないかなあ。

もう少し、妄想を進めていくと。

黒澤明監督に「夢は天才である」というタイトルの本があるように、黒澤監督自身、夢が創造力の源泉である、と思っていたふしがある。

「風立ちぬ」の中でも、主人公の堀越二郎は、頻繁に夢を見る。

そしてその夢が、飛行機を作る原動力になっているのである。

ひょっとして宮崎駿監督は、黒澤明監督の「夢」のような映画を意識して、この映画を作ったのではないだろうか。いや、意識せずとも、これは、一流の芸術家が達する境地なのだろうか。

…ま、ここまでくると、妄想もきわまれり、といったところだな。

さて、また話は飛ぶが。

この記事を書いていく過程で、「黒澤明名言集」みたいなサイトがあることを知った。その中に、黒澤明の言葉として、

「芸術家と呼ばれるよりも、映画の職人と呼ばれたい」

というのがあった。

だが、私の「人間三類型理論」(職人、芸術家、評論家)の分類によれば、黒澤明は、映画の職人ではない。まぎれもない芸術家である。宮崎駿もしかり、である。

黒澤明は、芸術家であるがゆえに職人に憧れているのだろう。そのことがよくわかる言葉である。

こんな言葉もあった。

「どんな人間だってある角度から見れば、そいつは主人公なんでね、すべての人間が」

これもまた、至言である。

舞台上で華やかに立っている人だけではない。舞台裏で戦っている人もまた、主人公なのだ。

もし映画が、そんなまなざしを持っているのだとしたら、私は映画の力を信じたい。

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ほかの人にはわからない

9月21日(土)

遅ればせながら、宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」を見た。

まぎれもない傑作である!!!

映画の終盤、なぜか涙が止まらなかった。

やっぱり、宮崎駿監督って、すげえなあ。

もっとまじめに、これまでの宮崎作品を見ておけばよかったと、反省した。

映画を見終わったあと、妻に勧められて、TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」における宇多丸さんの映画評と、TBSラジオ「たまむすび」における、町山智浩さんの映画評を聴いた。どちらも完璧ともいえる映画評なので、詳しくはそちらを参照のこと。

細かな批判はあるかもしれない。

だが、史実やストーリーを期待してこの映画を見ようとすると、本質を見誤ることになる。

この映画は、あくまでも宮崎駿の妄想を、映像化したものである。

無粋な説明は、いっさいないのだ。

「わからないやつは、放っていくぞ」というスタンスである。

もし、ストーリーを追おうとするのならば、観客の側で、「関東大震災から終戦」に至る日本の現代史の知識を補いながら、行間を読んでいくしかないのだ。

奇しくも、宇多丸さんも町山さんも同じことを述べているのだが、この映画のエンディングに流れる荒井由実の「ひこうき雲」に出てくる歌詞、

「ほかの人にはわからない」

これが、この映画の本質である。

飛行機作りにとりつかれた主人公もまた、「ほかの人にはわからない」希望や苦悩や矛盾を抱えて、生きている。

そしてそれは、宮崎駿監督自身の姿でもあるのだ。

これだけ個人的で難解な映画であるにもかかわらず、なぜ多くの人が宮崎作品に足を運ぶのか?

「村上春樹に対する現象と似たものがある」という宇多丸さんの指摘が、いちばんしっくり来ると思う。

映画を見たあと、自分なりに考えてみた。

この映画は、黒澤明監督の映画でいうところの、「夢」にあたるのではないか、と。

黒澤明監督の映画「夢」は、文字通り黒澤明自身が見た「夢」を映像化した作品である。言ってみれば、黒澤明の妄想を、最高の芸術的感性で映像化した作品なのだ。

著しく精彩を欠いてしまった黒澤明監督の晩年の作品群の中で、この作品だけは、別格である。晩年の代表作であるといってよい傑作である。

だが、いかんせん黒澤明監督の妄想の世界を描いた作品なので、説明的な表現はまったく見られない。そもそも、万人にわからせようなどとは思っていないのである。

しかし、映像表現は、超一流である。身震いするような場面もある。

「風立ちぬ」もまた、同じである。

考えてみれば「風立ちぬ」の中でも、主人公が夢を見たり妄想したりする場面が頻繁に出てくる。まさにこれは、宮崎駿監督自身の夢であり、妄想なのである。

宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、老境に入った芸術家が、自らの妄想を最高の芸術的感性をもって映像化した、黒澤明監督の「夢」と並び称されるべき、希有な傑作である。

映画「風立ちぬ」は、そのような作品としてとらえるべきである。

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クロダの怪談

そりゃあ、私の文章がクドイことは、私自身がいちばんよくわかってますよ。

クドイ文章ばかり書いているがゆえに迷惑をかけていることについても、いつも反省しております。

しかし、私以上にクドイやつがいたことを、思い出した。

この前の高校のクラス会で久しぶりに会った、クロダである。

高校時代のクロダは、柔道部で、体が大きく、体育会系で、まじめだった。

それによく喋るのだが、彼の話は、クドかった。

私は彼の話をよく聞く方だったので、彼も心ゆくまで、私にクドイ話をしていた。

おかげで彼にとって私は、「話を聞いてくれる存在」と認識されたようだった。

有名なのは、「クロダの怪談」である。

クロダは、クラスで集まりがあったりすると、なぜか必ず怪談を披露した。

その怪談がまた、クドイのだ。

どこで仕入れてきたのか、レパートリーも豊富で、まだ稲川淳二が怪談でブレイクする前だったと記憶するから、言ってみれば時代を先んじていたのである。

そんなことを思い出したのは、先日のクラス会で欠席したスガハラの次のようなメッセージが、会場で披露されたからである。

「『天狗』でのキダちゃんの一発ギャグと、クロダの怪談が忘れられません」

「天狗」とは、居酒屋の名前である。

…ん?居酒屋?おかしいな。

「キダちゃん」とは、級長を務めたキダのことである。この日はあいにく、欠席だった。

彼も、クラスのみんなで天狗に行くたびに、一発ギャグを披露した。

…ん?「天狗に行くたびに」って…?おかしいな。

ともかく、そのメッセージが披露されたとき、それまでまったく忘れていた、

「クロダの怪談」

を、全員がいっせいに思い出したのだ。

「クロダと言えば、怪談だよな」

「おい、クロダ、いまここで怪談を披露しろよ」

「できっこねえだろ!準備してねえよ」

私もまた、

「クロダの怪談」

という言葉で、高校生のクロダが怪談を語るときの、あのクドイ感じを、まざまざと思い出したのだ。

思い出って、面白いなあ。「クロダの怪談」というたった一言で、引き出しが開くんだものなあ。

クロダにくらべれば、私なんて、クドクないんですよ、本当に。

…ま、何の言い訳にもなっていないが。

さて、そんなクロダは、いまや大学の附属病院で部長職に就いているという。

怪談を披露する機会なんて、もうないんだろうなあ。

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中秋の名月

9月19日(木)

ま、おおかたの人には興味のない話題だが。

今日は旧暦の8月15日、中秋の名月である。

インターネットで仕入れた知識によると、中秋の名月は必ずしも満月とは限らないのだという。、一昨年、昨年、今年は3年連続で満月だが、来年以降は、少しだけ欠けた月の年が続き、次に満月と重なるのは、8年後なのだそうだ。

中秋の名月を気にするようになったのは、4年ほど前に韓国に留学してからである。

韓国では、この日をチュソク(秋夕)といい、この日を含む前後3日間は、日本でいう「お盆休み」にあたる。ちなみに韓国の正月休みもやはり旧暦の正月一日を含む前後3日間で、これを「ソルラル」という。

つまり韓国のお盆休みとお正月休みは、旧暦にしたがっているから、年によって休日になる日が異なるのだ。だから毎年、カレンダーをチェックしなければならない。

新暦に合わせて休日が設定されていることに慣れている私たちからすれば、あまり合理的とはいえない、と思われるかも知れないが、しかし見方によっては、自然の摂理にしたがっているともいえる。どちらがうらやましいのかは、よくわからない。

考えてみれば、日本の休日も、かなり説明に苦しむものが多い。

たとえば、5月の大型連休というのも、よくわからない。

この大型連休は「ゴールデンウィーク」と言われるが、この「ゴールデンウィーク」は、もとは1950年代に、映画会社が名づけたキャッチフレーズである。

むかし、大映という映画会社の永田雅一という社長が、毎年5月のこの時期に映画館が不入りになるというので、映画館に足を運んでもらうために、この大型連休を「ゴールデンウィーク」と名づけたのだという。

民間の映画会社が命名した愛称なので、いまでもNHKでは「ゴールデンウィーク」という呼称は使わず、「大型連休」という言葉を用いているのだ。

これ、豆知識な。

なお、秋の連休シーズンを「シルバーウィーク」と呼ぶことがあるが、こちらの方はあまり定着していない。そもそも「ゴールデンウィーク」も「シルバーウィーク」も、和製英語なのだ。「ハッピーマンデー」というのも、よくわからない。英語がネイティブの人に「ハッピーマンデー」といって、通じるのか?

そう考えれば、国が定めた休日というのは、ひとりよがりなものである。

「休日のガラパゴス化の法則」という言葉を思いついた。国が定めた休日は、国ごとにガラパゴス化する、という法則。

韓国は、10月9日が「ハングルの日」である。この日にハングルが交付されたことに由来するとされる。

1970年に時の政権によって公休日となるが、1990年には平日となり、さらに今年(2013年)から、再びこの「ハングルの日」が公休日となった。

そんなお上の意志とは関係なく、月は自然の摂理にしたがって、満ち欠けをする。

だから中秋の名月は、誰にも侵すことのできない日なのだ。

そういえば私が子どものころ、中秋の名月にはお団子を食べてお月見をしたものだが、いまでも、そういう風習はあるのだろうか。

せめて今日くらいは、夜空を見上げよう。

おもてに出て、夜空を見上げた。

手元にあったデジタルカメラで、今宵の月を撮ってみた。

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まぎれもない、2013年9月19日(木)の、中秋の名月。いい月だ。

でもカメラで撮ると、ナンダカワカラナイな。

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ハードボイルドだど!

小出裕章さんが、作家・松下竜一の第八回竜一忌 で「暗闇の思想に学ぶ」と題する講演を行っていて、それが動画サイトにアップされているのだが、その冒頭で、レイモンド・チャンドラーの遺作「プレイバック」に登場する有名な言葉を引用していた。

If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

「強くなければ生きられない。優しくなれないなら、生きる価値がない」

小出さんは、この言葉を引用したあと、次のように述べる。

「私も今、この場に、こうして立っているし、みなさんだってこの会場に来てくださっているわけで、生きているわけですね。ですから、たぶん強いのです、私たちは。強いという条件を備えているからこそ、今この場でこうして、みなさんと一緒の時を刻んでいるわけですが、でもチャンドラーは、『優しくなれないなら、生きる価値がない』と書いているんです。いったい、生きる価値って、何なんだろう、と。優しくなるとは、いったい生きるとは、何なんだろうと。私はずっとそのことを自問しながら生きています」

このあと小出さんは、原発事故について語り始める。

私はレイモンド・チャンドラーの小説を読んだことはないが、この言葉は知っていた。

いつか昔、テレビで内藤陳が言っていたのである。

内藤陳、などといってもわからないだろうなあ。

トリオ・ザ・パンチの内藤陳ですよ!

「おら、ハードボイルドだど!」

というギャグで有名な、日本冒険小説協会会長の内藤陳である。

内藤陳は、もともとギャグメンであったこともあり、顔が面白い。

エノケンの最後の弟子だった、ということもあって、舞台の上でのアクションも派手だった。

有名なのは、ガンさばきである。それとタップダンスね。

だが失礼な話だが、決して二枚目ではないのである。

なにしろ、たいへん個性的な顔をしているのだ。

しかし、誰よりも心が二枚目な人だったんだろうな、と思う。

無類の読書家で、ハードボイルド小説をこよなく愛した。その作家の一人が、チャンドラーだったのだと思う。

何でこんなことを思い出したかというと、前に書いた、大林宣彦監督の映画「麗猫伝説」に、内藤陳が出ていたからである。

内藤陳もまた、大林映画の常連なのである。

「悲しみも、惰性になってきたなあ」

そう言って、得意のガンさばきをして、タップダンスを踊る場面。

映画の本筋とは全く関係ないのだが、内藤陳のために作られたシーンである。

でも、今では通用しないダンディズムだろうな。

だから「麗猫伝説」は、絶対に薦められない映画なのである。

※以前に書いて、お蔵入りになっていた文章です。

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休館日の謎

9月15日(日)

原稿が、大変なことになっている。

原稿が遅れて、掲載されなかったりすることを「落とす」というが、9月末の締め切りまでに絶対に落とせない原稿が4つもあるのだ。

連休の中日である15日の日曜日に、早々に地元に戻って、原稿を書こうと思ったが、例によって私は自堕落な人間である。原稿を書くには、テンションを上げなければならない。

そこで、新幹線の中で考えた。

ある原稿を書くに当たって、県立図書館にある本を閲覧することが必要である。その本は、県内では県立図書館にしかなく、しかも禁帯出、すなわち貸出禁止の本である。

そこで考えた。

いったん家に帰ると、くつろいでしまって原稿を書く気が失せるから、駅に着いたらそのまま県立図書館に向かって、そこで原稿に必要な本を閲覧して、そのテンションで原稿を書いてしまったらどうか。

ここまでは完璧なシナリオである。

ところが県立図書館の前まで行って、愕然とした。

「本日休館日」

ええええぇぇぇぇっ!!

よく見ると、

「第3日曜日は休館日です」

とある。

事前に調べなかったこっちも悪いが、まさか休日に図書館が休館しているなんて、思っても見なかったのである。

しかも、である。

「明日は月曜日なので、休館日です」

えええええぇぇぇぇっぇぇっ!!

明日は祝日であるにも関わらず、月曜日だという理由で休館日だというのである。

つまり、3連休のうちの2日間、図書館は休館だというのである。

どういうことだ?

ふつう、休日は図書館が開いているものだと思っているが、ここはそうではないらしい。

休日は勉強をするな、ということなのか?

かくして完璧と思われた計画は、あっけなくも崩れ、一気にテンションは下がった。

結局、家でふて寝した。

このままでは腑に落ちないので、周囲の県の県立図書館の休館日をかたっぱしから調べてみたが、やはり、ここのような休館日のパターンは存在しない。

「月曜日が休館日」というところがいくつかあるが、仮に月曜日が祝日だった場合、翌日の火曜日を休館日とする、としている。つまり、月曜日が祝日の場合は、開館するのである。

月の初めや、月末の1日だけを休館日とするところもあった。その場合も、該当する日が休日の場合は、休館日をずらしているのである。

いったい何故に、うちの地元の図書館だけ、このような方針で休館日を設けているのだろうか?まったくもって、謎である。…というか、10年以上も住んでいて、わからなかった私も悪い。

まあそんなことに頼らずに原稿を書けばすむ話なのだ。結局は、自分が原稿を書けないことを、他人様のせいにしている自分が悪いのだ。

はたして、原稿はどうなるのか?困った。

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15年ぶりのクラス会・幻の地酒

昨日の「ひねくれ篇」、そんなに卑屈にならなくても、と、書いたあとに思い直した。

立食形式で行われたクラス会で、一人一人が近況報告をしたのだが、そのスピーチが、みんな上手いのなんのって。3分程度で、高校卒業から現在に至る状況をコンパクトに、しかも面白く話していた。

(困ったなあ)

いちおう、喋ることを仕事にしていることもあり、下手なことは言えない。

悩んだあげく、2つのことを言った。

一つは、4年前に韓国に留学して、40歳にして韓国語の勉強をゼロから始めた、という話。

もう一つは、高校時代から20代後半にかけて吹いていたアルトサックスを、昨年、思い立って15年ぶりに練習し、学生とバンドを組んで大学祭で演奏した、という話。

「いくつになっても、始めるのに遅いということはないのだと、この年齢になってあらためて思いました」

と締めくくった。

周りからは、「なんだ、学校の先生みたいな教訓話だな」と野次られた。

「説教くさくてごめん」と、みんなに謝る。どうも私は、話し始めるといつも説教くさくなるのだ。

(こういう理屈っぽいところが、みんなから避けられてたところだったのだ)

と、またもや反省した。

さて2次会。担任のKeiさんも含め、ほとんど全員がそのまま参加した。

たまたま入ったお店が、地酒のいいのを置いている店だった。

こうなるともう、私の独壇場である。

近くに座ったバスケ部のIさんが、日本酒が好きだと言うのだが、「どれが美味しいのかわからない」という。

うちのクラスの体育会系女子は、おもに「テニス部」と「バスケ部」に分かれていて、Iさんは、バスケ部のエースだった。健康的で、明るく話し好きな人だが、当時ネクラだった私は、話をした記憶があまりない。

「日本酒だったら、絶対にこれがいい」と、私がすすめたのは、私の地元でもめったに飲むことのできない、幻の酒だった。

「美味しい!」

あたりまえである。だって幻の酒なんだから。

「今度送ってよ。地元でしょう?着払いでいいからさあ」とIさん。

私も酔っ払って気が大きくなって、「いいよ、今度送るよ」と言ってはみたものの、手に入るかどうかもわからない。

2次会の最後にIさんが、「みんなと、この数時間で、高校3年間以上のお話ができたんじゃない?」と言ったのが印象的だった。

地元に戻ってから、Iさんからメールが来た。

「クラス会から帰って、インターネットであのとき飲んだ地酒を調べてみたら、あらためてすごいお酒だってことがわかりました。何も知らずに送ってねと言ったけど、酒席の戯れ事だと水に流しといてくださいね」

あいつ、くそマジメだから真に受けて本当に送ってくるんじゃないか、と思って、気を使って書いてくれたのだろう。ありがたいことである。これで気が楽になった。

続きには、こうあった。

「実は韓流ドラマがきっかけで、5年前に韓国語を勉強したのですが、今はすっかり忘れてしまいました。

私も何かを始めるのは、時期は関係ないと信じ、楽しく生きたいなあと思ってます。」

あの説教くさい私の挨拶、ちゃんと聞いてくれてたんだな。

私は返事に、

「健康で楽しい人生を!」

と書いた。

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15年ぶりのクラス会・ひねくれ篇

9月14日(土)

ではクラス会が楽しかったのか、というと、実のところ、よくわからない。

クラスの中心にいたのは、テニス部とかバスケ部とかサッカー部とか、体育会系の部活に所属していた人たちで、今回のクラス会も、体育会系の仲のいい男女のグループにより企画された。

私のところにクラス会の誘いが来たのは、たまたま私の職場のメールアドレスが公開されていたからにすぎない。

フェイスブックをたよりに連絡がついた、という人もいたそうだ。

高校時代、ネクラな文化系少年だった私は、体育会系のさわやかグループを横目で見ながら、ひたすら目立たないようにしていた。むかしから、体育会系のクラスメートには、コンプレックスを感じていたのである。

私はおとなしくて勉強ばかりしているうえに、たまに口を開けば、理屈っぽいことばかり言うので、クラスの間では、まあどちらかといえば、避けられていたのだろう。

クラス会に来た人たちは、みんな楽しく、いい人ばかりだった。

だがクラス会に来られる人たちというのは、それなりに世間的に成功している人ばかりなのである、ということに気づいた。

だから、こういう場でも、わきまえている人ばかりだった。

しかし、と、ひねくれ者の私は思う。

高校時代のクラスメートとしてではなく、社会に出てから、社会人として彼らに会ったとしたら、楽しく話ができただろうか、と。

おそらく、まったく話が合わない人たちばかりなんじゃないだろうか。

…そんなひねくれたことを漠然と考えていたら、コジマが、

「高校のときの卒業アルバムの集合写真、見る?」

と、みんなの前でiPadをとりだした。

コジマは、大学卒業後、某国営放送につとめている。

昔からカメラが趣味で、この日も、高性能の一眼レフのデジタルカメラを首からぶらさげて、バシバシと写真を撮りまくっていた。さしずめ本日の写真係である。

iPadをのぞくと、高3のときの集合写真が映しだされていた。

「これ、どうしたの?」

「今朝、このカメラで、卒業アルバムの集合写真の部分を撮ったんだ。このカメラには通信機能がついていて、撮った写真をWiFiでiPadに送ることができるんだ」

すごい時代になったものだ。

「でも顔が小さくて、よくわかんねえな。老眼もはじまってるし」

「拡大すればいいじゃん」

そうか、iPadの画面上を指で押し広げるような仕草をすれば、画面の中の写真は拡大するわけか。

…どうもiPadにはご縁がないもんで、と、またひねくれだした。

「みんな若いねえ」

女子は軒並み「聖子ちゃんカット」で、ピースサインを額に近づけて、「敬礼」みたいな格好で写っている。当時流行っていたのかな。

男子は軒並み、「たのきんトリオ」みたいな髪型だった。

写真の中のコジマはジージャンを着ていた。当時彼は、色白でほっそりした二枚目だった。

「そういえば、コジマといえば、ジージャンだったな。毎日ジージャン着てたよな」

「うちの高校、制服がなくて服装が自由だっただろ。でも、毎日の服装を考えるのが面倒くさくって、いつもジージャンにしていただけなんだ。まあ制服みたいなもんだ。自由を謳歌するって、大変なことなんだ、ということを、思い知らされたよ」

「でもコジマといえば、やっぱりジージャンだよ。コジマの専売特許だよな」

「高校のころ、俺、群れるの嫌いだっただろ。そういうせいもあったかもしれない」

思い出した。コジマは、テニス部に所属してはいたが、体育会系でもめずらしく「孤高の人」という感じだった。当時は話しかけづらい雰囲気もあった。

しかしいまでは、持ち前の好奇心で誰にでもまんべんなく話しかけ、写真係として動きまわっている。職業柄なのか、それはさながらインタビュー取材のようでもある。

「いまはジージャンは着ないの?」

「もう10年以上も着てないぜ。いまはもっぱらポロシャツさ」

かつての色白の美少年は、口ひげを生やした年相応のオッサンである。

「写真をフェイスブックにアップするからさあ、みんな見てよ」

もう、フェイスブックとかiPadとかスマホとかが、あたりまえの時代か。

身のまわりの同世代の人たちに、あっという間に広まりつつあるんだな。

これを機に、フェイスブックをはじめようかとも、一瞬考えたが、まだふんぎりがつかない。

(この「置いてきぼり感」は、高校時代と変わらないなあ)

と、またひねくれだした。

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15年ぶりのクラス会

9月14日(土)

午後4時過ぎ。W大学での研究会を抜け出し、新宿のWホテルに向かう。

今日は、15年ぶりの、高校のクラス会である。

しかしこのWホテルの場所が、全然わからない。

都庁周辺をさんざん歩き回って探したため、たちまち汗だくになる。

5時半開始なのだが、10分ほど遅れて、ようやくWホテルに着いた。

会場が25階だというので、エレベーターに乗ると、駆け込んで入ってくる男性がいた。

「あれ?」その男性が私を見て驚いた。

「どーも、コジマです」

同級生のコジマ君だった。あまりの変わりように、全然わからなかった。

こりゃあ、会場に行っても、誰1人わからないんじゃないだろうか。

会場に着くと、すでに20人以上が集まっていた。

「遅いぞ、ゴルゴ!」

幹事の1人のアベ君である。私は高校時代、「ゴルゴ」と呼ばれていたのだ。

その一言で、一瞬にして、高校時代に戻った。

私の心配は杞憂に終わった。ほとんどの人の名前を、思い出した。

私の高校は、3年間、クラス替えがない。だが、私はまじめでおとなしく過ごしていたので、クラスではほとんど目立たない生徒だった。クラスの女子とも、ほとんど会話をした記憶がない。

それに、15年前のクラス会、というのも、ほとんど記憶にないのだ。

今回、クラス会に出ようと思ったのは、担任のKeiさんがいらっしゃると聞いたからである。

いまの私があるのは、Keiさんのおかげである

Keiさんは、最初の挨拶でこうおっしゃった。

「いまみなさんは、45歳になろうとしているでしょう。実はみなさんが高校3年生のとき、私は45歳だったのです」

いまの私たちは、あのときのKeiさんなのか、と、みんながわが身を振り返り、驚いていた。

引き続き、1人1人が、挨拶をする。

すごいなあと思ったのは、高校卒業から現在に至る人生を、1人1人が、3分程度でコンパクトにまとめ、しかも笑いを混ぜながら挨拶したことである。みんなの話術には、Keiさんも驚いていた。

ひととおり挨拶が終わり、歓談していると、

「Keiさんにメッセージを書いてください」

と、紙がまわってきた。今日のクラス会の最後に、Keiさんに渡すのだという。

こういうメッセージが、私はいちばん苦手である。考えた挙げ句、こう書いた。

「先生の授業が、いまでも私の指針です。

これからもずっと、後ろを追いかけていきます」

あっという間の3時間だった。

「ゴルゴ、2次会に行くだろ?」

アベ君が言う。高校時代テニス部で、いまは銀行員として「ハンザワナオキ」みたいなことをしているのだというアベ君。といっても、私はテレビを見ていないので、「ハンザワナオキ」というのがナンダカワカラナイのだが。

考えてみれば、高校時代、クラスで地味だった私を、「面白いやつだ」と思ってイジッてくれたのが、当時テニス部で、底抜けに明るいアベ君だった。その関係性は、いまでもまったく変わっていない。

「よし、2次会は美味しい地酒を飲もうぜ」

久々に美味しい日本酒を飲みまくった。

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見えざる恐怖

9月13日(金)

つねひごろから、「指サック市民権運動」にかかわっている者です。

「指舐め紙めくり」の被害は、思った以上に深刻である。

昨日の被害者から、新たな被害届が出された。

例の、指を

ペロッ

と舐めてから紙をめくるという40代半ばくらいのオッサンから、郵便物が届いたという。何枚にもわたる、会議の資料である。

しかし先日、そのオッサンが紙をめくるたびに指を、

ペロッ

と舐めているところを見ちゃっているから始末に負えない。

(この封筒に入っている資料も当然、いちいち指を

ペロッ

と舐めながら仕分けして、封入しているのではないだろうか)

という疑念が生まれてくる。いや、疑念というより、確実にそうしているはずである。

それだけではない。

封筒そのものも、指を

ペロッ

と舐めてから封筒を開け、資料を封入している可能性がある。

いやいや、それ以前に、未使用の封筒が積んである棚から封筒を1枚取り出すときに、指を

ペロッ

と舐めてから取り出している可能性だってあるのだ。

そうなるともう、どこに「指舐め」のあとがあるかわかったものではない。もはやどこにもさわることができなくなってしまうのである。

まさに「見えざる恐怖」ではないか!

「本来封筒は再利用すべきなのに、『指舐め』されているかと思うと、再利用できず、そのまま廃棄せざるを得ません。つまり『指舐め紙めくり』は、深刻な環境問題にも発展するのです」とその被害者。

この「見えざる恐怖」に、どう立ち向かうか。

たとえば、こんな技術は開発できないものか。

「唾液に反応する紙」である。

唾液が付着した紙は、乾いてしまえば肉眼では確認できなくなるが、紙の表面に特殊な加工をほどこして、真っ暗な場所では、唾液が付着した部分が、まるで蛍光塗料を塗ったように光るようにするのである。

そうすれば、どの部分に「指舐め」を行ったかが一目でわかり、「指舐め」からわが身を守ることができるのである。

しかしこれには大きな問題がある。

それは、「指舐め」を可視化することにより、被害の大きさをますます実感し、よけいにさわることができなくなる、という危険性である。

「見えざる恐怖」は、見えたとしても、恐怖なのだ。

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再び訴える、指サックに市民権を!

指サックに市民権を!

9月12日(木)

つねひごろから、「指サック市民権運動」にかかわっている者です。

今でも、多くの人びとが、「指舐め紙めくり」の被害に遭っている模様です。

「指舐め紙めくり」とは、紙が上手くめくれないときに、指を

ペロッ

と舐めて、紙をめくる行為を指します。

今日も、同僚の一人がその被害を訴えました。

「先日、職場にお客さんが来たんです。40代半ばくらいのおじさんです」

「ほう。ということは、私と同じくらいの年齢のおじさんですね」

「そうです。そこで、『会議資料をお持ちしました』といって、指を

ペロッ

と舐めながら1枚1枚紙をめくって、それを私に渡すんですよ!もうキモチワルクて」

「それはひどい話ですね」

「それ以来、その会議資料にさわることができません」

同僚は両手で頭を抱えながら、ブルブルと震えだした。そのときのことを思い出したのだろう。ましてや女性の目の前で、40代半ばのオッサンが、目の前で何のデリカシーもなく、指を

ペロッ

と舐めながら、紙をめくる様子は、もはや犯罪行為に近い。

…というか、とっくに死滅したと思っていたのに、まだいたんだな。「指舐め紙めくり」をする人が。しかも私と同世代の人間がやっているというのは、驚きである。

何度も言うが、人としてやってはいけない行為が二つある。

一つは「たばこのポイ捨て」、そしてもう一つが、「指なめ紙めくり」なのである。

「それだけじゃないんです」

「まだ何かあったんですか」

「その方、最初に名刺を私に渡すときに、指を

ペロッ

と舐めて、名刺入れから名刺を1枚出して、それを私に渡すんです!そんなの、キモチワルクて受け取れないじゃないですか」

「そうですよね」

「そうかといって、ちゃんと受け取らないと失礼に当たるし…。もうどうしていいかわからなくなりました」

たしかにそうだ。目の前で、指を

ペロッ

と舐めて取り出した名刺を渡す、という神経が、よくわからない。

これはそうとう深刻な被害である。

一刻も早く、指サックを普及させるべきである!

誰もが、いつでも指サックを身につける社会をめざすべきである。

真に成熟した社会とは、「たばこのポイ捨てのない社会」であり、「指舐め紙めくりのない社会」である!

腕時計をはめるように、指サックをはめるべきである!

イヤリングをつけるように、指サックをつけるべきである。

携帯ストラップに指サックを!

お財布の中に指サックを!

学校や職場で、指サック教育を!

いつも指にはメクリッコを!

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アナログって何だ?

いま、いちばん悩んでいること。

それは、ガラケーからスマホに買い換えるかどうか、ということである。

これもまた、9月8日(日)に、ナム先生のご一行と話していたときのこと。

0001私は、韓国版ミクシーともいえる「ミニホムピィ」をやっている。以前は、そこに韓国語の日記を書いたり、日記代わりに写真をアップしたりしていたのだが、忙しいせいもあって、今はまったく更新していない。

ただ、ナム先生たちと連絡を取ったりするときだけ、使っているのである。それも、年に数回である。これが、彼らとの唯一の通信手段である。

「いま、ミニホムピィをやっている人なんて、韓国ではほとんどいませんよ。更新はもちろん、自分のホームページを覗くといったようなこともしません」とナム先生。

つまり、放置しっぱなし、ということである。

そういえば、私の知る友人は、今や誰も、このミニホムピィを更新してはいないのだ。

「いまはフェイスブックやツイッターにみんな移行していて、ミニホムピィはもはやアナログなのです」

「アナログ、ですか?」

数年前までは先進的な通信手段だったミニホムピィが、今では誰も顧みない「アナログ」になってしまったのである。

「私のまわりで、ミニホムピィで連絡をとりあっているのは、キョスニムだけです」

「そうなんですか?」

「ええ、私だってまったく更新していません。でも、キョスニムとの唯一の通信手段がこのミニホムピィなので、そのためだけに仕方なく自分のスマホにミニホムピィのアプリを入れているんです」

年に数回の通信のために、ミニホムピィのアプリを入れているなんて、なんか申し訳ない気がしてきた。私は完全に時代に取り残されたのだ。

「じゃあ、今はどうしているんです?」

「私、フェイスブックもツイッターも嫌いなので、もっぱらカカオトークで友だちと連絡を取り合っています」

「カカオトーク?」

そういえば、学生から聞いたことがあったことを思いだした。

「ええ。これだと、リアルタイムで連絡を取りあえますし、何より、留学生たちとも、これで簡単にやりとりができるんですよ。文字だけでなく、写真もやりとりできますし」

「へえ、そうですか」

たしかに、ミニホムピィは、けっこうめんどくさい。PCを立ち上げて、自分のホームページにアクセスして、相手にメッセージを送る。

相手も、PCを立ち上げて、自分のホームページにアクセスしてはじめて、メッセージが来たかどうかがわかる。

つまり、パソコンを立ち上げて、ホームページにアクセスしなければ、メッセージが来たかどうかはわからないのである。

それに、撮った写真をアップするのも、かなり面倒である。

だがカカオトークは、メッセージが来たかどうかが、すぐにわかる。それに、写真のやりとりも簡単にできるのだ。

ミニホムピィは、手間がかかる、という点で、すでにもう「アナログ」なのである。

「キョスニムも、カカオトークを始めれば、私たちといつでもすぐに連絡を取りあえるんですよ。写真もやりとりできますし」

「グループ」を設定すれば、そのグループの中で、リアルタイムで文字による会話ができる、というのである。もっとも私には、「グループ」と呼ばれるほどの友だちがいない。

とにかく、ミニホムピィを介したやりとり、というのは、もう面倒で仕方がないらしい。

少し心が動いたが、スマホに買い換える踏ん切りがつかない。

「たとえばですよ」私が聞いた。「その、カカオトークを、スマホではなく、PCでやりとりすることはできないんでしょうか?」

「どういうことです?」

「私がカカオトークのアプリをPCにインストールして、そのPCから、ナム先生のスマホにメッセージを送る、というように、PCとスマホで連絡のやりとりを行うことは、できないんでしょうか?」

「できると思いますよ」

「じゃあまずは、そこから試してみます」

帰国して、さっそく調べてみたところ、たしかにPCからカカオトークのメッセージを送ることができるとあった。

ただしその場合、スマホでカカオトークのアカウント登録しなければならない、という。

なんだ。結局スマホを買わないことには、カカオトークは使えない、ということか。

…ということで、振り出しに戻る。

やはりスマホに買い換えるべきか…。

…とここまで考えて、大変なことに気づいた。

リアルタイムで連絡が取りあえる、ということは、被害妄想をかかえる私にとって、かなり危険な通信手段である。

なぜなら、もしメッセージが来たことがリアルタイムでわかっているにもかかわらず、返信が来なかった場合、

「ああ、絶対に嫌われたな。何か不用意なことでも言ったのかな。3日くらい前からのことを振り返ってみよう」

などと、かなりの被害妄想をふくらませ、一週間くらい、そのことばかりを考えてしまうからである。

私のような者がカカオトークを使うと、心がどんよりするばかりなのではないだろうか。

メールやミニホムピィという「アナログ」のほうが、たとえ返信が来なくても、「ああ、事情があって、まだメッセージを見ていないんだろうな」と、まだ、自分を納得させることができる。

それにもう一つ。

私はいつも、くどいくらい長い文章を書くのである。ミニホムピィならそれができるが、カカオトークでは、くどい文章は送れないのではないだろうか。

それもまた難点である。

便利なのも、考えものだ。

ということで、スマホに買い換えるべきかどうか、まだ踏ん切りがつかない。

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次はイ・ムンセだっ!

よく知られているように、私はたいへん座持ちが悪い。

ましてや、韓国語だけで会話しなければならない状況になれば、なおさらである。

9月8日(日)の続き。

ナム先生とその姉夫婦の3人に囲まれた、往復3時間のドライブの車中は、座持ちが悪い私にとっては、もはやどうしていいかわからなくなる。

気を利かせたナム先生が、自らのスマホを駆使して、いろいろなところを旅行したときの写真を見せてくれたり、動画サイトにあがっている音楽を聴かせてくれたりする。

これでたいていの場合、間が持つのである。

スマホって、便利だなあ。

「キョスニム、聴きたい曲はありますか?」

そう聞かれても、こちらは、まったく知識がない。

「ボスカボスカの『ヨス パン パダ(麗水の夜の海)』をお願いします」

これは、昨年に彼らから聞いて知った曲である。

聞き終わったあと、ヒョンブがいう。

「キョスニム、最近はどんな曲を聴いていますか?」

「あいかわらずキム・グァンソクです。この前、キム・グァンソクの出したCD全部が入ったボックスを買ったんですよ」

キム・グァンソクもまた、彼らに教えてもらった歌手である。まったく私は、自分で新しい歌手を開拓しようという気がないようである。

キム・グァンソクの有名な曲を一通り聴いた。

聴き終わったあと、私は3人に聞いた。

「おすすめの歌手はいますか?」

「イ・ムンセなんかどうです?」とヒョンブ。

「イ・ムンセ?」

「ええ。とても有名な歌手です。最近では、多くの若い歌手が彼の曲をカバーしているんですよ」

「そうですか…」聴いたことがある歌手なのかもしれないが、記憶にない。

ということで、ナム先生が「昔の愛」という曲をインターネットの動画から探して、聴かせてくれた。

남들도 모르게 서성이다 울었지

(人知れずおろおろと泣いたっけね)

지나온 일들이 가슴에 사무쳐

(過ぎ去ったことが胸にしみて)

텅빈 하늘 밑 불빛들 켜져가면

(抜けるような空の下に光が満ちていけば)

옛사랑 그 이름 아껴 불러보네

(昔愛したあの人の名前を 心を込めて呼んでみる)

찬바람 불어와 옷깃을 여미우다

(冷たい風が吹いてきて 襟をただす)

후회가 또 화가 나 눈물이 흐르네

(後悔がまた腹立たしくて涙が流れる)

누가 물어도 아플 것같지 않던

(誰に聞かれてもつらいことなどなかった)

지나온 내 모습 모두 거짓인가

(過ぎ去った私の姿はすべて嘘だったのだろうか)

이제 그리운 것은 그리운대로 내 맘에 둘 거야

(もう懐かしさは懐かしいまま私の心にとどめよう)

그대 생각이 나면 생각난대로 내버려 두듯이

(あなたの思い出は 思い出のままにして)

흰눈 나리면 들판에 서성이다

(白い雪が降れば野原を彷徨い)

옛사랑 생각에 그 길 찾아가지

(昔の愛を思い出して その道をたずねていく)

광화문거리 흰눈에 덮혀가고

(光化門の通りは白い雪におおわれて)

하얀눈 하늘 높이 자꾸 올라가네

(白い雪はしきりに空高く舞い上がっていく)

이제 그리운 것은 그리운대로 내 맘에 둘 거야

(もう懐かしさは懐かしさのまま 私の心にとどめよう)

그대 생각이 나면 생각난대로 내버려 두듯이

(あなたの思い出は思い出のままにして)

사랑이란 게 지겨울 때가 있지

(愛というのはイヤになるときがあるね)

내 맘에 고독이 너무 흘러넘쳐

(私の心に孤独があふれ出して)

눈 녹은 봄날 푸르른 잎새 위에

(雪がとけた春の日 青い葉の上に)

옛사랑 그대 모습 영원 속에 있네

(昔愛したあなたの姿が永遠の中にいるのさ)

흰눈 나리면 들판에 서성이다

(白い雪が降れば野原を彷徨い)

옛사랑 생각에 그 길 찾아가지

(昔の愛を思い出してその道をたずねる)

광화문거리 흰눈에 덮혀가고

(光化門の通りが白い雪におおわれて)

하얀눈 하늘높이 자꾸 올라가네

(白い雪がしきりに空高く舞い上がっていく)

…久しぶりに訳してみたが、何とも気恥ずかしくなるような歌詞である。

調べてみたら、この歌は、あの「IU(アイユー)」がカバーしているんだね。そう、こぶぎさんが愛してやまないIUですよ。

ということで、キム・グァンソクの次は、イ・ムンセだ!

(これまでの経過。イ・スンチョル→カン・サネ→キム・グァンソク→イ・ムンセ)

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贈り物(ソンムル)

プレゼントのことを、韓国語で「ソンムル」という。

9月8日(日)

午後3時、大邱市内の現代百貨店の前で、ナム先生とナム先生の姉夫婦と、待ち合わせる。

昨年に引き続き、ナム先生の義理の兄(ヒョンブ)の運転で、ドライブすることになったのだ。

Photoどういうわけかナム先生のオンニ(姉)とヒョンブは、私と会うことを、ことのほか喜んでいるらしい。「日本のキョスニムと知り合いだ」ということが、珍しいからだろう。

「お久しぶりです」とヒョンブ。さっそく、ヒョンブの運転で目的地に向かう。「今日は、美味しい料理をごちそうします」

車中、いろいろな話をする。ヒョンブからは、韓国現代政治の話。そしてナム先生からは、いま自身が籍を置いている大学院博士課程の話を聞いた。

「来週、チュソクがあるでしょう?」とナム先生。チュソクとは、日本でいうお盆休みのようなものである。

「もう気が重いんです。チュソクに、自分の指導教授にソンムル(贈り物)を持って挨拶に行かないといけないんですから」

「そんな義務があるんですか?」と私。

「いえ、義務ではないんです。でも、大学院生たちがみんな、それをするものだから、なんとなくしなければならない雰囲気なんです。心から尊敬していれば、自主的に贈り物をしてもいいとは思うんですけれど…でも韓国の指導教授は、いつも忙しくて、直接に指導を受ける機会があまりないんです。お忙しいから、こちらから連絡をするのも気が引けるし…」

「私も大学時代、教授に用があって研究室の前まで行くと、よくお腹が痛くなったんですよ」とオンニ。韓国の学生は、教授に対して、みな同じような思いを抱いているらしい。

チュソクにソンムルを準備するのも、日本でいえば、お中元やお歳暮を持って挨拶に行くようなものなのだろう。私は自分の指導教授に対してそんなことは一度もしたこともないし、逆に自分がされたこともない。

「少なくとも私は経験がありませんね」

「そうですか。じゃあ、キョスニムが論文を書くために、学生にデータを集めさせたり、資料を調べさせたりすることはありますか?」

「いえ、一度もしたことはありません」

「そうですか。韓国ではそういうことがあって、それも気が重いんです」

実際、私は韓国でそんな光景を何度か見たことがある。教授からまかされた仕事を、言われたとおりにすることで、教授の覚えがめでたくなるわけである。教授は絶対権力を持ち、従わない学生は非主流に追いやられる。かくして学生は、教授に従わざるを得なくなるのだ。…あ、日本にもいたか。

「研究がしたくても、そういうことに時間がとられるのがイヤなんです」とナム先生。ふだんは語学院の先生として忙しいナム先生にとって、勉強の時間は貴重なのだ。

「非主流でもいいじゃないですか」と私。「私だって、今までそうやってきたつもりです。それでなんとかなってますから」

「そうですよね。自分が気楽に勉強できることが一番重要ですよね。キョスニムのような方が指導教授だったらよかったのに…」

一連の会話を聞いていたヒョンブが言う。

「キョスニム、韓国の大学に交換教授として来てください。で、そのときは、僕を助手として使ってください。日本語はしゃべれませんが、運転だけは得意です」

「もしそうなったら、お願いします」

1時間半ほどで、目的地に着いた。

Photo_2古いお寺を見たあと、近くの食堂で「山菜韓定食」を食べることにする。この町の名物料理だという。

食事をごちそうしてもらうことがわかっていたので、プレゼントを用意していた。といっても、日本で買う暇がなく、韓国で買ったプレゼントである。

3人に渡すと、「実は僕たちもあるんです」と、ヒョンブが車からプレゼントをとってきた。大きな紙袋が2つあり、私と妻の分ということだった。

ナム先生が、プレゼントの説明をする。

「キョスニムは暑がりでしょう。1つは、夏用の薄い掛け布団です。もう1つは、扇子です。奥さんにも、同じものです」

やはり私を知る人は誰しも、すぐに「暑さ対策」「汗対策」のソンムルが思いつくのだろう。

「包装は、私自身がしたんですよ」とナム先生。

「それが一番貴重です」と私。開けるのがもったいない。

「まだあるんですよ」

1冊の本を取り出した。タイトルは、「아프다면 청춘이다」、日本語で言えば、「つらいならば青春だ」、という意味だろうか。

著者は大学教授で、学生の悩みに答えるような内容の本らしい。

「韓国ではめずらしく、大学の教授が学生の悩みにアドバイスする、という内容の本で、この本を読んだときに、キョスニムのことを思い出したんです。キョスニムにも、こんな本を書いてもらいたいと」

私は自分のことで精一杯で、学生の悩みにアドバイスできるような人間ではないのにな、と思いながらも、ありがたく受け取る。

「まだあります」

紙袋から、最後に残ったソンムルを取り出した。

「キョスニム、語学院で学んだとき、1級から4級までのすべての学期で、成績優秀者として『奨学生』に選ばれたでしょう?」

「ええ」私は全部の学期にわたって、成績優秀者として奨学金をもらったのだった。

「この前、語学院の職員室を掃除していたら、キョスニムが最後の学期で『奨学生』となったときの『奨学証書』が出てきたんです」

「最後の学期のですか?」つまりは、卒業証書のようなものである。

「ええ。それがなぜか、語学院の職員室に残っていました。たぶん、キョスニムがこれを受け取らずに帰国されたんだと思います」

そうだったのか。全然気がつかなかった。それにしても、よく残っていたものだ。

「ということで、今から、授与式を行います」

私は語学院を卒業して3年半ぶりに、正式な卒業証書を受け取ったのであった。

食事が終わった7時過ぎには、外がすっかり暗くなっていた。

車で帰る途中、ナム先生の携帯電話が鳴った。

大学時代の後輩男子からで、長らくつきあっていた人と結婚することになったという報告だった。

結婚式は、シンガポールで、家族だけで行うのだという。

電話を切ったあと、ナム先生が言う。

「私の夢は、結婚式なんて儀式ばったことをしないで、心から祝福してくれる人たちだけを呼んで、小さなレストランでパーティをすることなんです」

韓国の結婚式は盛大である。そのかわり、あまり縁のない人が出席したりすることもあるという。なかには食事が目当てでくる人もいるとか。

「私も、結婚式はしませんでしたよ」と私が言うと、びっくりした表情をした、

「ご家族は反対されなかったんですか?」

「ええ」

「いいなあ。でも私の場合、そうしたくても、問題は相手のご両親でしょうね」

見栄を何よりも重んじる韓国社会では、たしかになかなか難しいだろう。

「でももしそうなったら、絶対にキョスニムをご招待します。飛行機のチケットも全部こちらで用意しますから」

「そのときは、ぜひ呼んでください」

車は、私の泊まっているホテルの前に着いた。

「キョスニム、また来年お会いしましょう」とヒョンブ。

「どうか健康にお気をつけて」とオンニ。

「ソンムル、本当にありがとうございました」私は3人に感謝した。

丁寧に包装されたソンムルは、帰国してから開けることにしよう。

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約束(ヤクソク)

「約束」は、韓国語でも「ヤクソク」と発音する。

9月7日(土)

朝、ご一行と別れて、チームの1人であるHさんと大邱に向かう。

お昼過ぎに仕事が終わり、Hさんと別れた。Hさんはこれからソウルに向かうのだという。

私は、というと、夕方5時から、大邱で約束があった。語学学校でお世話になった先生たちと夕食である。

3級のときにお世話になったナム先生が声をかけてくれて、2級のときにお世話になったクォン先生と、妻が師と仰いでいるチェ先生の2人も来ていただけるという。クォン先生とナム先生は1年ぶり、チェ先生とは2年ぶりである。

「何か食べたいものはありますか?」とあらかじめ聞かれていたので、

「ふぐプルコギが食べたいです」と答えた。

「ふぐプルコギ」は、文字通り、ふぐをプルコギにしたもので、大邱の名物料理である。

「この日は土曜日なんですけど、語学院の授業があるんです。夕方5時に授業が終わりますから、5時に大学の北門で待ち合わせましょう」

言われたとおり、午後5時に大学の北門に行くと、ほどなくして3人の先生がやってきた。

大学の近くの「ふぐプルコギ」屋さんに行く。

「昼食は食べましたか?」とナム先生。韓国では挨拶代わりに、必ずといっていいほど「ご飯食べましたか」と聞かれるのだ。

「ええ」と答えると、

「私たち、食べていないんです」という。授業が忙しすぎて、お昼を食べる時間がない、というのだ。

前々から語学院の先生たちの忙しさは知っていたが、お昼を食べる時間もないほど忙しいとは…。しかも土曜日である。

うちの職場なんか、どんなに忙しい忙しいなんて言っても、昼飯を食う時間はあるのだ。そう考えれば、恵まれていると考えなければならない。

Photo_2ふぐプルコギを食べながら、3人が話す会話は、ひたすら授業についてである。

学ぶ意欲のない学生にどうやって教えたらよいか、とか、上達の進度が遅い学生にどのようなことを配慮したらいいか、とか、最近の学生の気質はどのように変わったか、とか。お互いに困っていることを言い合って、解決策を考える。

思うがままにならない留学生たちに困らされる話を、ときに深刻に、ときに楽しそうに語る。

この人たちは、本当にプロだなあ、と思う。

私は、日本から持ってきたおみやげを3人に渡した。妻が用意したおみやげである。

とくに妻が師と仰いでいるチェ先生には、妻が書いた手紙も一緒に渡した。

感激したチェ先生が言う。

「以前も、お手紙をもらったでしょう?」。そういえば2年前に語学院に遊びに行ったときも、妻が書いた手紙を、チェ先生に渡したのだった。

「あの手紙、いまでも職場の机のところに貼っているんですよ」

チェ先生にとっても、妻は思い出に残る「ソジュンハン(大切な)」学生だったのである。

2次会は「ビールとチキンの店」に行く。こういう店のことを、韓国語で「맥치(メッチ)」という。

ここからは、ひたすら3人の先生のスダ(おしゃべり)である。

会話に参加したいと思うのだが、思うように言葉が出てこない。年々、韓国語の実力が衰えている。来年あたりはもう、まったく会話に参加できなくなるのではないだろうか、と不安になる。

こうなるともう、私は完全にでくのぼうである。

何年も前に卒業し、いまや韓国語も満足に話せない愚鈍なおっさんに対して、わざわざ時間を作って「スルチャリ」(酒の席)をもうけてくれたことが、申し訳なく思えてきた。

「キョスニム、『スラムダンク』読んだことありますか?」とチェ先生。

「いいえ」と答えると、3人はとてもビックリした顔をした。なぜあんなにすばらしい漫画を読まないのか、という顔である。

「『スラムダンク』を読めば、人生のすべてを学ぶことができますよ」とナム先生が力を込めて言う。

それから3人は、『スラムダンク』がいかに好きかを語りはじめた。

「わかりましたわかりました。必ず読みます。約束します」と私。

話は再び、語学院の話題に戻る。

中国人留学生が圧倒的に多いので、私たち3人も中国語を勉強しましょう、という話になった。

「スタディ」という方法で、中国語を勉強しようと、チェ先生が提案する。「スタディ」とは、喫茶店などに集まって、勉強会をすることである。

「じゃあ、来週からさっそく始めましょう」とチェ先生。「何曜日がいいかしら」

「火曜と木曜の夜はダメです。授業があるから」とクォン先生。

「じゃあ、月曜日と水曜日は?…あ、会議の日だったわねえ。金曜日は?」

「金曜日の夕方はダメです」とナム先生。

「じゃあ、時間が合わないねえ。…そうだ!いっそ午前中にしましょう。午前中なら授業がない曜日もあるし」とチェ先生。

「午前中なら私も大丈夫な曜日がありますよ」とナム先生。

「午前中は私がダメです」とクォン先生。

「そう、じゃあ全然時間が合わないわよね」とチェ先生。

3人の合う時間が、全くないというのだ。

語学院の先生って、どんだけ忙しいんだ?と、ハタで聞いていて驚いた。

「どうしましょうかねえ」3人はすでにやる気を失っている。

私は提案した。

「それならば、私もこれから中国語を勉強します。そしていまから1年後、この4人がまた集まったときに、中国語だけで会話をしましょう」

「なるほど、それはいいですね」とチェ先生。「1年後という目標があれば、がんばれそうな気がします。俄然やる気が出てきました」

私の提案は、そのまま受け入れられることになった。

「約束しましょう!ヤクソク」

Photoそう言うと、チェ先生が付箋になにやら書き始めた。

「1年後に、中国語で会話します。(4人の名前) 2013年9月7日 約束」

このように書いたあと、チェ先生が言う。「じゃあ、4人でこの紙を持ちましょう。約束のしるしに」

そしてその証拠写真を撮る。

「これで、中国語を勉強しなければなならなくなりましたね」

いままで何度となく挫折してきた中国語だが、この1年こそは、中国語をマスターしなければならない。

気がつくと、午後11時半である。午後5時から6時間半も喋っていたことになる。

別れ際、チェ先生が言う。

「1年後、必ず中国語で会話しましょう。約束ですよ」

この約束は、果たして守られるだろうか。

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どうしたんです?こんなところで!

9月6日(金)

韓国のK市郊外にて。

公式日程はこれにて終了。

夜、チームのメンバーと打ち上げの焼き肉を食べ、コーヒーを飲んだあと、9時半すぎ、みんなでホテルに戻る道を歩いていると、私を呼ぶ声がした。

「Mさん!」

ふと見ると、昨日、我々が2次会をした居酒屋のオモテのテーブルで、15人くらいの人たちが集まって飲んでいる。その中の1人に、「丘の上の作業場」のリーダーのYさんがいた。いや、Yさんだけではない、Yさんの教え子のYさん、それに「丘の上の作業場」に勤めるOさんたちも一緒だった。

つまり、「丘の上の作業場」の知り合いたちが、こぞってそこで飲んでいたのである!

「どうしたんです??こんなところで!!」

「どうしたもこうしたも…」

Yさんをはじめとする「丘の上の作業場」の人たちは、ここ、韓国のK市で2日間にわたる国際学会に参加するため、はるばる海を越えてやってきたのだった。

国際学会の会場は、なんと私が宿泊しているホテルの隣のホテルだった。2日間にわたる国際学会は、今日で終わり、みんなで打ち上げをしている最中だったのである。

そこに私が通りかかったものだから、私のことをよく知る彼らは、私のことを見て、ビックリしたわけである。

まるで、近所を通りかかったオッサンを見かけたような声のかけ方に、思わず笑ってしまった。

「ささ、こっちへ来て飲みましょう」

私はすでに相当飲んでいたが、日ごろの作業仲間のYさんと、こんなところで会ったのがひどく嬉しかった。

「すみません。もう少し飲んでいきます…」

私はそう言って、チームのほかのメンバーと別れ、Yさんのグループに合流した。

「まさか、こんなところで会うとはねえ」

「世間は狭いですねえ」

思わぬところで仲間たちに会い、韓国K 市郊外の夜空の下でお酒を飲む。

こういうことがたまにあるから、人生は、楽しい。

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いかピー

9月5日(木)

夜、「会食」を終え、我々のチームだけで宿泊場所の近くの飲み屋に行く。

イカとピーナッツのセットが出た。

それを見て、ある先生が思い出したように言った。

「いかピーって、知ってるか?」

「イカとピーナッツのことでしょう?」

「違うよ。イカとピーマンを炒めたものだ。むかし、俺がよく通っていた居酒屋のメニューの一つだったんだ」

一同は知らない、という顔をした。

その先生は、いかピーの作り方を一通り説明したあと、言った。

「ある時期、こんな稼業、本気で辞めてやろう、と思ったことがあってね。もうこんな仕事なんか辞めて、俺は屋台を引いて居酒屋を始めるんだ、と、いろいろな人に宣言したことがあった。家族にもね」

その話は、私も直接その先生ご自身から聞いたことがあった。しかしそのとき、先生はたしか50代前半くらいだったと思う。つまり、一番脂ののりきった時期だったので、たぶん冗談なんだろうな、と聞き流していた。

「冗談なんかじゃなかったんだぜ。本気でそう思ったんだ。それで、居酒屋のメニューを、50種類ぐらい考えて、自分のレパートリーにしたんだ」

一同は、またまたぁ、と笑った。

「そのうちの一つが、いかピーだったのさ」

その先生は、いかピーの思い出話をひとしきり語った。

「ほかにどんなレパートリーがあったんです?」私はさらに聞いた。

「たたいた梅干しに酢をからめたやつ」

「何ですか?それは」

「金原亭馬生って知ってるだろう?志ん生の息子の」

「ええ、知ってます。池波志乃のお父さんですよね」落語の話になれば、私も強い。

「そう。その馬生は、ふだんほとんどご飯を食べずに、酒ばかり飲んでいた。そのときの酒のつまみが、『たたいた梅干しに酢をからめたやつ』だったって、いつだったか、ラジオで聞いたことがあってね。それを自分のレパートリーにしよう、と考えた」

ずいぶん地味な一品だ。なにしろ、金原亭馬生のこよなく愛した酒のアテなのだから。それにそもそも、かなり貧乏くさい。

「でも、それで馬生は死期を早めたんですよね」と私。「僕は弟の志ん朝の落語より、兄の馬生の落語の方が好きですよ」

「そりゃあそうさ」と先生。「志ん生の芸を継いだのは、志ん朝ではなく、馬生の方だからな。長生きすれば、もっと評価されただろうに」

話を聞いているうちに、いまから15年以上ほど前のあのとき、「こんな稼業なんか早く辞めてしまって、屋台を引いて居酒屋を始めるのだ」と言った言葉が、冗談ではなかったのではないか、と思いはじめた。

私が最近、「こんな稼業なんか早く辞めてしまって、静かな場所で喫茶店を始めたい」と言って、『はじめてのコーヒー』なんて本を買っているのと同じだな、と、話を聞いていて可笑しくなった。

「ま、結果的に、いまだにこの稼業を続けているんだけれども…」と先生。

あのとき、先生は仕事に関して最も脂ののった時期だったから、まわりからしたら、「辞めたい」などと言うのは冗談に聞こえたに違いない。だが、本人はなかば本気だったのである。人間というのは、わからないものである。

では、喫茶店を開くという私の夢は、どうだろう。

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原点はタニシ

9月4日(水)

例によって、自分は愚鈍だなあ、と感じる旅。

なーんか、わかったようなふりをしているけど、実は何一つわかっていないんじゃないか俺は、と、軽く死にたくなる。いや、「軽く」じゃないなあ。

ま、こういうことはよくあることである。誰にも理解されることはないけれど。

「会食」のあと、久しぶりに、3次会までおつきあいする。屋台みたいな店である。

3次会では、「コルベイン」という料理が出てきた。タニシのことだという。

「タニシ」と聞いて、ボスが思い出したように言った。

「子どものころ、俺はタニシを見つけるのがうまかったんだ。田んぼでタニシを見つけておじいさんのところに持っていったら、えらく褒められてなあ」

「そうですか。どうやって見つけたんです?」

「タニシは田んぼの真ん中で、小さな穴を掘ってそこで越冬するんだ。その穴を見つけるのがうまかった」

「なるほど」

「まるでいまの俺の仕事みたいだろう?小さなものを見のがさずに、見つけ出すって」

そう言われればそうだ。ボスは、ずっとそうやって仕事をしてきたのだ。

私は思わず言った。

「先生の原点は、タニシだったんですね」

ボスは笑いながら答えた。

「そうだな。俺の原点は、タニシだな」

ナンダカワカラナイが、自分の愚鈍さに死にたくなるくらい落ち込んでいると、こんな何でもない会話に少しだけ救われることがある。

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斧を持つのが世界一絵になる男

20120106_1060409韓国映画「黄海(ファンヘ)」(邦題「哀しき獣」、2010年公開)は、ナ・ホンジン監督、ハ・ジョンウ、キム・ユンソク主演の「追撃者」(邦題「チェイサー」)トリオによる傑作である。

いまや韓国映画界では、「ハ・ジョンウの向かうところ、敵なし」というくらい、ハ・ジョンウの勢いがすごい。

それに加えて、キム・ユンソクである。「追撃者」同様、面白くないはずがない。

ハ・ジョンウもいいが、個人的に贔屓にしているのは、キム・ユンソクである。

キム・ユンソクの「本物の狂気」ぶりが、この映画でいかんなく発揮されている。

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なかでも圧巻なのは、キム・ユンソクが斧を持って走りまわるシーン。

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そして、ホテルの一室で、襲ってきた連中を斧でめった殺しにしたあと、パンツ1枚で斧を持って立ちつくすシーン。

とにかく、これほど斧を持つのが絵になる男はいない。

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牛骨で敵の連中をぶん殴るシーンも、凄まじい。牛骨って…。

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ハ・ジョンウ、キム・ユンソクだけではない。3人目の男、チョ・ソンハの演技もまた、すばらしい。「器の小さい悪党」役を、見事に演じている。

やはりすごいなあ、韓国映画は。

…てな感じでまとめてしまうところが、「評論家」としては失格である。

ということで、またしばらく、旅に出ています。先週と同じところです。

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バックステージのハマさん

ここ3回にわたって、かなり力を入れて「エンターティナ-論」めいたことを書いてみたが、どうもあまり出来はよくない。

少し前に、人間を「職人」「芸術家」「評論家」の3つの類型にあてはめる「人間3類型理論」というのを考えてみたが、どうも私自身は、あこがれている「職人」というよりも、なりたくないと思っていた「評論家」に分類されるのかもしれない。それも、かなりレベルの低い「評論家」である。

こうなったらついでに、レベルの低い評論めいたものをもう1つ。

舞台裏の騒動を描いた演劇や映画などを、「バックステージもの」という。

三谷幸喜は「バックステージもの」を得意としているという事実に、どれほどの人が気づいているだろうか。

三谷幸喜の脚本は、「バックステージもの」においてこそ、その本領を発揮するのである。

先にあげた「ショウ マスト ゴー オン 幕を下ろすな」がその代表的な作品であるが、そのほかにも、ミュージカルのオーケストラピットでの人間模様を描いたミュージカル作品「オケピ!」も、バックステージものの傑作である。

自らの演劇作品を映画化した「ラヂオの時間」も、いってみれば「バックステージもの」である。

連続ドラマ「王様のレストラン」も、フランス料理店の厨房を舞台としたバックステージものである。

映画「有頂天ホテル」も、ホテルを舞台にしたバックステージものといえるかもしれない。

三谷幸喜の傑作は、そのほとんどが、バックステージものといわれる作品なのである。

…というか、ただ単に私が、バックステージものが好きなだけなのかもしれない。

もし私が、ドキュメンタリー映画を撮るとしたら、バックステージものを撮る、というのが夢である。

15歳から30歳頃までの約15年間、素人の吹奏楽団に所属していた私にとっては、舞台の本番よりも、舞台裏の雰囲気、というのが、とても好きだった。

あの、本番の演奏がはじまる前のなんともいえない緊張感、舞台の途中で、舞台裏にはけたときの高揚感、そして、終わったあとの解放感。

人間のあらゆる感情が、あの真っ暗な舞台裏にうずまいていることを、私は知っている。

毎年の演奏会で使っていたホールの舞台裏には、神棚があった。

ふだん、全然信心深くない私も、なぜか本番がはじまる直前には、「みんなで神棚に手を合わせようぜ」と、演奏会が成功することを祈願したものである。ふだん、そんなことなんか、全然したことがないのに。

…そうそう、書いていて思い出した。

私は、高校のOBたちがつくる吹奏楽団に所属している。その吹奏楽団が毎年の定期演奏会で使っていたホール専属の舞台監督さん、というのが、偶然にも私の中学校時代の同級生であった。

そのことに気づいたのは、もう20年くらい前のことか。

ハマサキ君、といって、中学時代、「ハマさん」と呼ばれていた。ガタイが大きくて寡黙な人だった。このホールに就職して、専属の舞台監督になっているとは、全然知らなかった。

いまから20年前といえば、私が中学を卒業してから10年ほどたった頃だったので、ハマさんとは、10年ぶりに、ホールの舞台裏で再会したわけである。

その後も毎年の演奏会のたびに、ハマさんには舞台監督としてお世話になった。

中学時代のハマさんは、音楽とは無縁のイメージがあったので、ホールの舞台監督をしているなんて、とても意外だった。

しかし彼は、舞台監督としてじつに的確な仕事をするので、楽団の後輩たちも、ハマさんのことを全面的に信頼するようになった。

中学時代、あまり目立たなかったハマさんが、職人肌の舞台監督として舞台裏でとりしきっている姿は、仕事とはいえ、なんというか、じつにサマになっていた。

私はあるとき、後輩たちに言った。

「毎年お世話になっている舞台監督さんいるだろう?」

「ええ。ハマサキさんですね」

「そう。彼、俺の中学時代の同級生なんだ」

「へえ、そうなんですか」

2年ほど前、このホールで、演奏会の司会を担当することになった

そのときの舞台監督もハマさん。

演奏会の直前、舞台裏で緊張した面持ちでスタンバイしていると、

「蝶ネクタイ、決まってるねえ」

などとからかわれ、少し恥ずかしかった。

今年5月の演奏会には、観客として聴きに行った

演奏会が終わり、舞台裏に行くと、やはりそこにハマさんがいた。

「今年も世話になったね」と私。

「今年は出なかったの?」

「うん」

「出ればよかったのに」

「ま、考えておくよ」

中学の同級生のハマさんと会うのは、年に1度だけ、このホールの舞台裏である。しかも交わす言葉は、この程度なのだ。

来年も、ハマさんは舞台裏にいてくれるだろうか。

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虚実皮膜のブラックスワン

映画「レオン」(1994年)を見たとき、ナタリー・ポートマンって、ほんとすごいなあ、と思った。

それからしばらく意識していなかったが、映画「ブラックスワン」(2010年)で、再びナタリー・ポートマンを見ることになった。

41uwgteyqtl バレリーナのニナ(ナタリー・ポートマン)は、あるとき、演出家によって新作「白鳥の湖」のプリマに抜擢される。しかしこの新作では、純真な白鳥(ホワイトスワン)だけでなく、邪悪で官能的な黒鳥(ブラックスワン)も演じなければならない。まじめで優等生タイプのニナにとっては、ブラックスワンを表現するオーラに欠けていた。演出家もニナのオーラのなさを罵倒するのである。

さらに黒鳥役がふさわしい奔放な性格のライバルの出現も、ニナを精神的に追いつめていくことになる。ニナは、虚構と現実の狭間で錯乱状態に陥っていく。

技術はすばらしいがオーラのないニナ。ニナは、技術以上のオーラを獲得しようと、もがき苦しむ。舞台の上で輝くためには、現実の自分を変えなければならない。かくしてニナにとっての現実は、しだいに歪められていくのである。

優等生のニナ。それはまた、ナタリー・ポートマン自身のことでもあったのではないか。

ナタリー・ポートマンは、自分自身をニナに重ね合わせて演じていたのではないだろうか。

だからこそ、あれほどすばらしく演じられたのである。

芸の面白さは虚と実との皮膜にあるという「虚実皮膜論」を唱えたのは、近松門左衛門といわれているが、「ブラックスワン」におけるナタリー・ポートマンは、この「虚実皮膜」の間をさまよっているからこそ、鬼気迫る演技となっていたのではないだろうか。ニナが、虚実皮膜の間をさまよっていたように。

前回述べた、ドラマ「刑事コロンボ」の「忘れられたスター」における、ジャネット・リーもまたしかりである。

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忘れられたスター

ドラマ「刑事コロンボ」のエピソードの1つ「忘れられたスター」の犯人は、シリーズ中、もっとも哀れむべき犯人である。

Photo 往年のミュージカルスター、グレース・ウィラー(ジャネット・リー)は、自ら出資してまで、女優へのカムバックをめざしていた。ところが夫で医師のヘンリーは彼女の女優復帰に強硬に反対する。グレースは、どうしても出資を認めない夫を、自殺に見せかけて、殺してしまう。

実は夫が妻の女優復帰に反対したのは、妻グレースの健康上の理由だった。妻の脳に動脈瘤が発見され、このまま激しい運動を続ければ死に至ることを、夫は知っていたのである。そのことをグレースは知らなかったのである。

Photo_2 グレースは、反対していた夫の亡き後、女優復帰に向けて本格的に公演の準備をする。プロデューサーは、かつて俳優としてよきパートナーであり、グレースを心から愛していた、ネッド・ダイアモンド(ジョン・ペイン)だった。

グレースは、舞台でこそ輝いていた女性だった。そのことは、グレース自身が信じて疑わなかった。かつてのミュージカルスターは、いまでも人々に忘れられていないはずだ。私が舞台に立てば必ず、かつてのファンが見に来てくれるはずだ。そう信じて、自分の生き甲斐ともいえるミュージカルの練習に打ち込むのである。

しかし、老いによる体力低下に加え、病を抱えている彼女にとって、踊りの練習をしていても、思うように体が動かない。かつてのような切れ味は、なくなっていた。

プロデューサーのネッドは、彼女の衰えをカバーするため、相手役の男性として、若くて才能のある気鋭の踊り手をキャスティングして話題づくりに励むが、グレースは、自分の踊りがうまくいかないのは、相手役の若い踊り手のせいだとして責任をなすりつけ、その踊り手をクビにしてしまう。

グレースの周囲に実力派の踊り手をキャスティングすることで、彼女の衰えをカバーしようとするネッドの優しさは、グレースのプライドを傷つけるものだった。彼女は自分の「スター性」を、信じて疑わなかったのである。かくしてグレースは、さらに狭小で自己中心的な思考回路に陥り、錯乱してしまうのである。

グレースを演じたジャネット・リーがなんといってもすばらしい。ジャネット・リーもまた往年の名女優で、劇中では、ジャネット・リーが20代のときに実際に主演したミュージカル映画「ウォーキング・マイ・ベイビー」を、うっとりと鑑賞するシーンがある。まさに「虚実皮膜」の間を行き来するような、名演技である。ジャネット・リーは、かつての輝きを追い求めようとするグレースという女優と自分とを、重ね合わせていたのではないか、と思えるほどの、鬼気迫る演技である。

その意味でこの作品は、推理ドラマというよりも、女優論なのである。かつてスポットライトを浴び、スターの名をほしいままにした女優が、見果てぬ夢を追い求める姿が、哀しく描かれているのだ。

Photo_3後半、コロンボがネッドに、夫を殺した犯人が妻のグレースであるという推理を語る場面で、ネッドがコロンボに語るセリフが印象的である。

「君なんかにはとうていわからんだろうがね。スターとは、不思議なものなんだ。それは、奇妙な恍惚と、自己顕示欲を満足させてくれる。これをうまくさばける人はわずかな人しかいないんだ。かわいそうに、グレースには、それができなかった。彼女はたしかに野心がありすぎた。…しかし殺人なんて…。それも僕がずっと、…愛した人だ…。僕にはとても、そんなことは信じられない」

「でも、(殺したのは)あの方(グレース)なんです」

コロンボは、ネッドの思いを断ち切るかのようにきっぱりと言い放つ。

そしてこの物語は、シリーズ中、最も悲しく、切ない結末を迎えるのである。

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