バックステージのハマさん
ここ3回にわたって、かなり力を入れて「エンターティナ-論」めいたことを書いてみたが、どうもあまり出来はよくない。
少し前に、人間を「職人」「芸術家」「評論家」の3つの類型にあてはめる「人間3類型理論」というのを考えてみたが、どうも私自身は、あこがれている「職人」というよりも、なりたくないと思っていた「評論家」に分類されるのかもしれない。それも、かなりレベルの低い「評論家」である。
こうなったらついでに、レベルの低い評論めいたものをもう1つ。
舞台裏の騒動を描いた演劇や映画などを、「バックステージもの」という。
三谷幸喜は「バックステージもの」を得意としているという事実に、どれほどの人が気づいているだろうか。
三谷幸喜の脚本は、「バックステージもの」においてこそ、その本領を発揮するのである。
先にあげた「ショウ マスト ゴー オン 幕を下ろすな」がその代表的な作品であるが、そのほかにも、ミュージカルのオーケストラピットでの人間模様を描いたミュージカル作品「オケピ!」も、バックステージものの傑作である。
自らの演劇作品を映画化した「ラヂオの時間」も、いってみれば「バックステージもの」である。
連続ドラマ「王様のレストラン」も、フランス料理店の厨房を舞台としたバックステージものである。
映画「有頂天ホテル」も、ホテルを舞台にしたバックステージものといえるかもしれない。
三谷幸喜の傑作は、そのほとんどが、バックステージものといわれる作品なのである。
…というか、ただ単に私が、バックステージものが好きなだけなのかもしれない。
もし私が、ドキュメンタリー映画を撮るとしたら、バックステージものを撮る、というのが夢である。
15歳から30歳頃までの約15年間、素人の吹奏楽団に所属していた私にとっては、舞台の本番よりも、舞台裏の雰囲気、というのが、とても好きだった。
あの、本番の演奏がはじまる前のなんともいえない緊張感、舞台の途中で、舞台裏にはけたときの高揚感、そして、終わったあとの解放感。
人間のあらゆる感情が、あの真っ暗な舞台裏にうずまいていることを、私は知っている。
毎年の演奏会で使っていたホールの舞台裏には、神棚があった。
ふだん、全然信心深くない私も、なぜか本番がはじまる直前には、「みんなで神棚に手を合わせようぜ」と、演奏会が成功することを祈願したものである。ふだん、そんなことなんか、全然したことがないのに。
…そうそう、書いていて思い出した。
私は、高校のOBたちがつくる吹奏楽団に所属している。その吹奏楽団が毎年の定期演奏会で使っていたホール専属の舞台監督さん、というのが、偶然にも私の中学校時代の同級生であった。
そのことに気づいたのは、もう20年くらい前のことか。
ハマサキ君、といって、中学時代、「ハマさん」と呼ばれていた。ガタイが大きくて寡黙な人だった。このホールに就職して、専属の舞台監督になっているとは、全然知らなかった。
いまから20年前といえば、私が中学を卒業してから10年ほどたった頃だったので、ハマさんとは、10年ぶりに、ホールの舞台裏で再会したわけである。
その後も毎年の演奏会のたびに、ハマさんには舞台監督としてお世話になった。
中学時代のハマさんは、音楽とは無縁のイメージがあったので、ホールの舞台監督をしているなんて、とても意外だった。
しかし彼は、舞台監督としてじつに的確な仕事をするので、楽団の後輩たちも、ハマさんのことを全面的に信頼するようになった。
中学時代、あまり目立たなかったハマさんが、職人肌の舞台監督として舞台裏でとりしきっている姿は、仕事とはいえ、なんというか、じつにサマになっていた。
私はあるとき、後輩たちに言った。
「毎年お世話になっている舞台監督さんいるだろう?」
「ええ。ハマサキさんですね」
「そう。彼、俺の中学時代の同級生なんだ」
「へえ、そうなんですか」
2年ほど前、このホールで、演奏会の司会を担当することになった。
そのときの舞台監督もハマさん。
演奏会の直前、舞台裏で緊張した面持ちでスタンバイしていると、
「蝶ネクタイ、決まってるねえ」
などとからかわれ、少し恥ずかしかった。
演奏会が終わり、舞台裏に行くと、やはりそこにハマさんがいた。
「今年も世話になったね」と私。
「今年は出なかったの?」
「うん」
「出ればよかったのに」
「ま、考えておくよ」
中学の同級生のハマさんと会うのは、年に1度だけ、このホールの舞台裏である。しかも交わす言葉は、この程度なのだ。
来年も、ハマさんは舞台裏にいてくれるだろうか。
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