文部省唱歌の「ふるさと」、という歌が、実はあまり好きではない。
あそこに歌われている「ふるさと」は、私のふるさとではない。
「うさぎ追いし かの山」といわれても、私はうさぎを追いかけたことがない。
「小鮒釣りし かの川」は、私の子どもの頃にも経験があるが、さほど、その川に思い入れがあるわけでもない。
歌われている情景は、「借り物のふるさと」という感じがしてならないのだ。
こんなことを考えるのは、私だけだろうか。
ひねくれついでに書くと、「あなたのふるさとはどこですか?」と聞かれたら、いまの私なら、私の実家のある町ではなく、
「韓国の大邱です」
と答えるだろう。40歳の時、留学のために1年間暮らした町である。あるいは、
「いま住んでいる町です」
と答えるかもしれない。
子どもの頃に暮らしていた町だけが、「ふるさと」なのではない。「懐かしさを感じる町」という点でいえば、実家のある町よりも、大邱の方だし、「思い入れのある町」という点でいえば、東京を離れ、10年以上住み続けている「いま住んでいる町」である。
「ふるさと」という歌で、思い出したことがある。
長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」は、沖縄のひめゆり学徒隊の生存者たちの証言で構成された、記録映画である。私はこの映画を、劇場で3回見た。
その中に、たしか、こんな証言があった。
戦闘が激しくなり、いよいよひめゆり学徒隊の女子生徒たちも、死を覚悟する事態に陥る。
死ぬ前に、せめてひと目でも家族に会いたい、と、誰もがそう思うほど、事態は極限に達していたのだ。
そのとき、一人の生徒が、文部省唱歌の「ふるさと」を歌い始めた。
すると、それに呼応して、周りにいた生徒たちも、「ふるさと」を歌い出す。
やがて、そこにいる生徒たちがみんな、「ふるさと」を合唱する。
このときみんなは、離ればなれになった故郷の家族たちのことを思い、「ふるさと」を歌ったのである。
たしか、そのような話だったと思う。
一緒に映画を見ていた妻が、後で私に言った。
「あの、死を覚悟したときに『ふるさと』をみんなで歌ったって話。なんだか身につまされるよね」
たしかに身につまされる話である。だが妻が言いたいのは、そういうことではなかった。
「なぜ、自分の家族や故郷のことを思い浮かべたとき、とっさに出てきたのが、『ふるさと』だったんだろう?沖縄には、昔から歌い継がれ、口ずさまれている歌もあるはずなのに。それよりも、学校で習った『ふるさと』がとっさに出てきたのは、ちょっと複雑な思いがするんだよねえ」
沖縄の心象風景とはおそらく無縁なところで作られた「ふるさと」という歌が、学校教育を通じて、かくも深く、当時の沖縄の生徒たちに影響を与えていたことに、複雑な思いを禁じえない。
それだけ名曲なのだ、という言い方もできるのかもしれない。
しかし私には、何か割り切れない思いが残るのである。
私にとっての「ふるさと」は、松山千春の「ふるさと」である。6分以上もある、「物語」のような歌である。
中学生の時に初めて聴いて、涙が止まらなかった。
いや、いまも私のiPodに入っているが、聴くと涙が止まらなくなる。
「田舎者」の若者が、一旗あげてやろうと都会に出てきたが、都会の空気になじめず、挫折感を味わう。
募るのは、家族の住むふるさとへの思いばかりである。
だが、その挫折感を、故郷の家族たちには知られたくない。
その一方で、ふるさとへの思いはますます募る。たまらず公衆電話を探し、故郷の家族に電話をかける。
「帰りたいさ 今すぐにでも
それが言えずに 『それじゃ、また』」
別に私自身は、実家の両親のもとへ帰りたい、と思ったことはないが、それでも、なぜかこの歌を聴くと涙が止まらなくなるのである。
なぜなんだろう、と考えてみた。
この歌には、「ふるさと」の情景が、まったく歌われていない。
ここで歌われているのは、「帰りたい場所に対する思い」のみである。
ひたすら、「帰りたい場所に対する思い」のみが、綴られているのである。
「ふるさと」に対する情景は、一人一人違う。それは、文部省唱歌で歌われる「ふるさと」でカバーされるものでは、とうてい有り得ない。
松山千春の「ふるさと」は、そこを歌わないのである。
だから聴く側が、それぞれの「帰りたい場所」を思い描くことができるのだ。それは別に、「故郷」に限ったものではない。
私にとって、「ふるさとの情景」を歌った、文部省唱歌の「ふるさと」ではなく、「今すぐにでも帰りたい場所」への思いを歌った松山千春の「ふるさと」こそが、心を揺さぶる「ふるさと」なのである。
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