校庭のおじさん
10月18日(金)
今日の「ほぼ日」にあがっていた、糸井重里さんの「今日のダーリン」は、久々にグッと来たなあ。
以下、引用させていただきます。
「娘が、学校に通っているころに思ったことがあります。
校庭に、小さい家を建ててね、
そこに普通のおじさんが住んでたらいいのに、と。
学校でおもしろくないことがあったときとか、
なんか家のことで心配ごとがあるときとか、
誰それとけんかしたとか、腹が減ったとか、
映画や小説の話がしたいときとか、
「校庭のおじさん」のところに行くんですよ。
おじさんは、教育者じゃないわけだから、
必ずしも「正しい」とされることを言うわけじゃない。
いや、「正しい」よりも大事なことを教えるんです。
ほら、学校って、学校であるという立場上、
「社会」の実際とはちがっていても、
教育的な指導をせざるを得ないじゃないですか。
それが、先生と生徒と両方を苦しめると思うのです。
だから、おとなではあるけれど、先生じゃない人間、
つまり、「おじさん」を学校に住まわせる。
で、生徒たちは、自由にそのおじさんを利用すればいい。
それは、立派な人じゃなくて、かまわないと思うんです。
なんだったら、交代制でもいい。
「生徒の言うことを親や先生に告げ口しない」約束です。
どこかの学校で、試しにやってみないものかなぁ。」
私がいまやっていることって、「校庭のおじさん」みたいなことかもしれない。
昨日も、ある学生が仕事部屋にやって来た。授業でぜんぜん教えたことのない、他の部局の学生である。
ほとんど初対面に近いその学生は、いま自分の身のまわりで起こっている問題に義憤をおぼえ、大人である私に、アドバイスを求めてきた。
私は1時間以上その学生と話をして、一緒に対応策を考えた。
帰り際にその学生が言った。
「溜飲が下がりました。身近に相談できる大人がいるというだけで、心強いです」
たぶん、ひごろの相談相手といえば、同年代の友人や先輩である。しかしそれだけでは、いかにも心細い。学生たちだけでは、解決のつかない問題が、山ほどあるのである。
かといって、親や指導教員に相談できないことだってある。
学生にとっては意外と、「親にも先生にも友人にも言えないことを相談できる大人」というのが、いないのではないだろうか。
いや、学生だけではない。大人もそうではないだろうか。
数少ない友人が、腹の立つことや、心配事、おもしろかったことや失敗談など、実にいろいろな話をしてくれる。
親しい友人との会話なので、聞いているこちらもぜんぜん苦にならない。むしろその話にうなずき、共感するのだ。
解決する問題もあれば、解決しない問題もあるが、話をするだけで、とりあえずは、すっきりするらしい。
そしてそれを、私は誰に言うわけでもない。
そうか。私は「校庭のおじさん」なのだ。
職場にだって、「校庭のおじさん」は必要なのだ。
ひょっとして妻にとっても、私は「校庭のおじさん」なのかもしれない。
糸井さんは男性なので「おじさん」という言い方をしているが、もちろん、「校庭のおばさん」がいてもかまわない。
先ほどの糸井さんの文章には、続きがある。
「今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます」
というおきまりのフレーズのあとの1行である。
「「おじさん」という場所にいる人って、大事なんですよね。」
これからは胸を張って、「おじさん」になろうじゃないか。
ただし、「しなやかなおじさん」に!
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