書道教授
たまに廊下ですれ違う同僚が、話題がないのか、すれ違うたびに私に松本清張の話をしてくる。
以前、何かの会議で一緒だったときに、たまたまそんな話になり、私が松本清張の小説のファンであることを知り、それ以来、廊下などで会うと、松本清張の小説の話題を出すようになったのである。
決まって聞いてくるのが、
「松本清張の小説の中で、何が一番好きか?」
という質問である。
私は、松本清張の小説を全部読んでいるわけではない。とくに長編小説はぜんぜん読んでいない。いずれにしても、難しい質問である。
悩んだあげく、
「書道教授」
と答えた。
たぶん、ぜんぜん有名でない小説である。『鴎外の婢』(新潮文庫)に入っているが、この本じたいがもう、品切れである。
この小説は、主人公の中年銀行員・川上の妄想が、やがて殺人に手を染めるに至る、という物語である。
町で見かける、呉服屋、古本屋、そして書道教室といった、一見何の変哲もない場所のことが、川上にはなぜか気にかかる。
ほとんど客も来ない、儲けがあるのかどうかもわからない店で、人はどのように生活しているのか?
そんな興味から、川上は、ふだんは誰も関心を持たない場所に、関心を持ち始める。
彼は、「書道教授」という看板にひかれ、自分も書道を習おうと、その門をたたく。
しかし、どうも様子がおかしい。書道を習っている弟子は他にもいるはずなのに、習うのはいつも自分一人だけである。どうやら、他の弟子たちにはわざと会わせないらしい。
あるとき、いつものように書道教室に向かって歩いていると、自分がよく行く古本屋の経営者である夫婦のうちの、妻のほうが、男性と二人で、その書道教室の中に入っていくのを目撃した。
そしてこれまで目撃した断片的な光景をつなぎ合わせていくと、あるとんでもない仮説が浮かび上がるのである。
やがてそれにまつわるある事件が起こるのだが、その事件をきっかけに、彼の妄想は確信に変わってゆく。彼はその事件を推理する一方で、今度は自分が、ある犯罪を計画することを思いつくのである。
そう、この小説は、そのほとんどが、川上の妄想によって貫かれているのだ。
そしてその妄想が、やがて殺人事件を引き起こす。
むかし、これを読んだときに、主人公の、いや、松本清張の妄想力に、舌を巻いたものである。
これは、松本清張の脳の中をさらけ出した小説であるといってもよい。
誰もが、日常に出くわす光景のほとんどを、気にもとめない。
しかし、その光景に「意味」を求めたら、どうなるだろう?
目撃した断片的な光景をつなぎ合わせていくと、とてつもない妄想の世界が広がってゆくのである。「そこまで考えるか?」というくらいに。
考えてみれば、私もふだんから、頭の中ではそんなことばかり考えていて、そのたびに疲れてしまうのだが、言ってみれば、その作業こそが、小説家の仕事である。その意味で、松本清張の妄想力が遺憾なく発揮された小説が、この「書道教授」なのである。
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