マジョリティとマイノリティ
1930年に台湾で起こった「霧社事件」を題材にした台湾映画「セデック・バレ」を見て、つくづく考えてみた。「マジョリティとマイノリティ」ということについて。
私自身は、マジョリティの方だと思う一方で、マイノリティだと感じる部分もある。他人から見たら、些細なことかも知れないが、この場合、他人がみて些細であるか否かは、まったく関係のないことである。
たぶん私は、自分がマジョリティであると思っているうちは、マイノリティの人の気持ちを、つい忘れてしまうのだろうと思う。
しかし、自分がマイノリティだと思っている部分に関しては、人知れず、けっこう気にするところがある。
そのときに思うのは、マジョリティの人が悪気なく言ったこととか、多くの人に支持される価値観というのは、マイノリティの人にとっては精神的にかなりキツいことなのではないか、ということである。
悪気がないだけに、それについて悪く言うこともできず、マイノリティの人は、かえって苦しんだりするのではないだろうか。
霧社事件という凄惨な事件は、台湾の霧社という地域に生活する日本人や先住民族が一同に会する、年に1度の子どもの運動会の日に起こった。これが象徴的である。
もちろん、この日にすべての日本人が同じ場所に集まるという理由で、先住民族による「暴動」計画は実行されるわけだが、そもそも、子どもの運動会という、一見爽やかで誰もが楽しめそうな行事が、マジョリティとマイノリティを残酷にも分けてしまうという意味をもっていたことも、忘れてはならない。
マイノリティの人々からとってみたら、マジョリティの人々が楽しむための運動会が、苦痛で仕方がないのではないだろうか。映画では、その点も丁寧に描いていたように思う。
そしてマイノリティの部分を持っていると感じている人は誰しも、多かれ少なかれ、そういう感情を持っているのではないだろうか、と思うのだ。
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