真っ白な陶磁器のように
11月1日(金)
学外実習が、無事に終了した。
例年そうだが、今年の学生たちも、規律を守り、実習を楽しんでくれた学生たちばかりだった。冥利に尽きるとはこのことである。
実習の空き時間に、折にふれて、iPodに入れている井上陽水の歌を聞いていた。
井上陽水がすごいのは、他のアーチストと組むと、相手の作風に自分を自在に合わせていくことができるという点である。元来が、柔軟な人なのだろう。
忌野清志郎との「帰れない二人」とか、奥田民生との「アジアの純真」とか、安全地帯との「夏の終わりのハーモニー」とか。
小椋佳との共作である「白い一日」(作詞:小椋佳、作曲:井上陽水)もそうである。
小椋佳の詞は、じつにセンチメンタルである。若いころ、耽聴したものである。
「真っ白な陶磁器を
眺めては飽きもせず
かといって触れもせず
そんな風に君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく」
「目の前の紙くずは
古くさい手紙だし
自分でもおかしいし
破り捨てて寝転がれば
僕の一日が過ぎてゆく」
これを聴いて思いだしたのが、もう7,8年も前に、この学外実習に参加したO君のことである。
O君は実習中、あるお寺の国宝の仏頭(仏像の頭)に恋をした。
展示されている仏頭を間近にして、その美しさに憧れ、つい見とれてしまい、しばらくの間、その場を離れなかったのである。
あとでO君が、たまりかねて私のところにやってきて言った。
「あの仏頭、好きすぎてヤバイっす」
彼にとっては、よっぽど美しいものだったのだろう。
自分にとって本当に美しく、大切だと思うものに対しては、飽きもせず、触れもせず、ただ見とれてしまうものなのかもしれない。真っ白な陶磁器のように。
小椋佳の歌詞は続く。
「この腕をさしのべて
その肩を抱きしめて
ありふれた幸せに
落ち込めればいいのだけれど
今日も一日が過ぎてゆく」
大切なものに触れた瞬間、それは「ありふれたもの」になってしまうのだということなのだろう。
残念ながら、国宝の仏頭はいま、東京の展覧会に貸し出されていて、運の悪いことに今年の学生たちは、その本物を見ることができなかったのである。
何年も前に卒業したO君はいま、首都圏の中学校で教師をしている。
ふと思う。
彼は、展覧会のために東京に来ている仏頭に、再び会いに行ったのだろうか。
それとも、そんなことなどすっかり忘れてしまい、日々の仕事にいそしんでいるのだろうか。
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