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2013年12月

代役人生

「かぐや姫の物語」について、もう1点だけ。

先日、「かぐや姫の物語」を観に行ったというT君が私に、

「地井武男の代役で、三宅裕司が一部分だけ声をやっていますよ」

と教えてくれた。

プレスコという手法(先に声を録音し、声に合わせて絵作りをする手法)のため、後になって台本が変わった場合などは、あらためて声を録音しなければならない。

だが、地井武男が亡くなったことにより、追加録音することができなくなってしまった。

その代役として、三宅裕司が、一部声を担当することになったというのである。

事前にそう聞かされていたので、今日、実際に映画を観たときに、「竹取の翁」の声を注意深く聴いてみた。

すると、三宅裕司が代役している部分が、すぐにわかった。

一緒に観ていた妻と義母は、わからなかったらしい。

そりゃあ当然だ。私は高校時代、「三宅裕司のヤングパラダイス」というラジオ番組を毎晩聴いていたので、三宅裕司の声は、体に染みついているのだ。

しかし、ふつうに観れば、その区別は、ほとんどわからないだろう。

それくらい自然なのである。

三宅裕司は、「受けの芝居」の達人である。

相手の芝居に対しての「受けの芝居」が、絶品なのである。

「受けの芝居」が絶品、ということは、相手の芝居に合わせて、柔軟に対応できる、ということである。

「地井武男の代役」としての演技が自然なのも、そういうことなのだろう、と思う。

「受けの仕事」とか、「代役」とか、そういうことがちゃんとできる生き方に、憧れる。

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「第九」は身を助ける

12月29日(日)

年末といえば、何を連想するでしょう?

そう、もちろんベートーベンの「第九」です!

日本では、年末に「第九」を演奏することが風物詩になっている。これは日本だけで広まった、奇妙な風習である。

ウクライナの楽団が来日して、今日、都内の音楽ホールで「第九」の演奏をするというので、聴きに行った。

S席10000円ですよ!10000円!

何を隠そう、私は高校時代に「第九」の合唱に参加したことがある。

だから「第九」には、ことのほか思い入れが強いのだ。

うちの高校は、希望する生徒を募って「第九」の合唱を練習し、年に1度、プロの楽団と一緒に演奏会を行っていた。

もちろん好奇心の強い私は、その「第九サークル」に参加した。

なぜうちの高校が、「第九」に熱心だったかというと、当時の音楽の先生が、声楽が専門で、「「第九」でバリトンのソロを歌いたい」というのが、夢だったからである。

それで先生が、高校側や、プロの楽団を説得し、年に1度の第九演奏会を実現させてしまったのである。

言ってみれば、生徒たちは、その先生の夢につきあわされたことになる。

つきあわされた、といっても、もちろん、誰も文句を言う生徒はいない。その先生は慕われていたし、何より、ホンモノのオーケストラを前にして「第九」を歌うのはじつに楽しいのである。

もちろんドイツ語の歌詞を覚えたのだが、ドイツ語自体は、まったくわからなかった。

「第九」の歌詞は、いくつかのパターンのくり返しなので、歌詞にバリエーションがあるわけではない。だから、覚えやすいのである。

のちに大学で私は、第二外国語としてドイツ語を選択することになるのだが、成績はひどかった。「第九」が歌えるからといって、ドイツ語が話せるようになるわけではなかった。

では、「第九」がその後の人生にまったく役に立たなかったのか?というと、そうではない。

大学と大学院を通じての、私の恩師の1人である某先生は、ドイツ留学を経験していることもあり、酔っ払っていい心持ちになると、ドイツ語の歌をよく歌っていた。なかでも「第九」は十八番(おはこ)だった。

飲み会で、先生が「第九」を歌い始めると、周りの院生の先輩たちは「またはじまった」という顔をするが、私だけは、先生の歌うテナーパートに合わせて、ベースパートを「ハモる」のである。

すると、先生はますます機嫌がよくなり、宴会の雰囲気は、非常に和やかになったのである。

私にとってはそれが唯一、「第九」を歌っていたことが役に立った瞬間だった。

今日、久しぶりに「第九」の生合唱を聴きながら、心の中で「ベースパート」を一緒に歌っていたのだが、歌詞やメロディは、ほとんど忘れることなく、覚えていた。

「ちょっとどけ!俺に代われ!」と、思わず舞台に上がりたくなった。

とくに中盤の、スプラノ(女性)、アルト(女性)、テナー(男性)、ベース(男性)の掛け合いは、聴いていてしびれるねえ。

またいつか、舞台で歌ってみたいなあ。

それで思いついたんだが、「第九」を授業科目にしてはどうか。

合唱の練習をしつつ、ドイツ語や、クラシック音楽や、欧州の歴史を学び、総仕上げは、オーケストラを前にして演奏会をする。

ふつうの授業なら、習ったことはすぐに忘れてしまうが、「第九」はたぶん、一生忘れることはないだろう。

現に私は、高校時代に、たった数か月の練習しかしていないにもかかわらず、「第九」の歌詞とメロディをいまでも覚えているのである。

「第九」を歌えば、クラシック音楽のよさも、実感できるはずである。

そして、「第九」を歌ったことが、いつか自分の身を助けることもあるだろう。

…とここまで書いて、インターネットで調べてみると、自分の出身高校が、今でも第九演奏会を続けていることを知った。今年で37回目だそうである。

「第九のバリトンソロを歌いたい」という理由で、生徒たちをまきこんで演奏会をはじめた音楽の先生は、実は私が第九演奏会に参加した翌年、若くして亡くなってしまった。

だが、その先生の蒔いた種は、大きな幹となり、いまでは生徒400人による合唱がおこなわれるほどの、大規模な演奏会となっているのだ。

音楽のモリ先生が生きていたら、きっと喜ぶだろうな。

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年賀状会議

12月28日(土)

毎年、年末のこの時期になると憂鬱なのが、年賀状作成である。

ここ10年ほど、パソコンの年賀状作成ソフトで作成しているのだが、年賀状には、旅行先で夫婦が一緒に写っている写真を載せる、というのが、恒例になっている。

いや、恒例というよりも、もはや「ルール」である。

そのためこの10年くらいは、旅行先などで、二人一緒に写っている写真を「年賀状用」に撮ることが、半ば義務化しているのである。

誰に頼まれているわけでもないし、誰と約束しているわけでもないのだが、いまや自分たちの作ったルールにしばられて、もはや「年賀状用に写真を撮る」というのが、けっこう面倒になりつつある。

そのせいか、年々、年賀状に載せる候補になるような写真が、少なくなっている。

もう一つ、問題がある。

それは、旅行先では、私が被写体となること、つまり妻が私の写真を撮ることが多いのに対して、逆に妻が被写体になることが少ない。つまりは、私が妻の写真をあまり撮らない、ということである。

妻にいわせれば、私は「自分にしか関心がない人間だ」というのだ。

おそらくこの言葉は、私の本質を最もよく言い当てた言葉である。

昨年の年賀状などは、掲載した写真3枚のうちの1枚が、私が学園祭でアルトサックスを演奏しているときの写真だった。

「どんだけ自分のことが好きやねん!」

と、すっかり呆れられてしまった。

さて今日。

今年撮った写真を持ち寄り、年賀状に載せるにふさわしい写真を2~3枚選ぶ、という恒例の「年賀状会議」が行われた。

…といっても、今年はことのほか、二人で写っている写真が少ない。

二人で写っている写真があっても、やれ髪の毛がぺったんこだの、服装が気にくわないだのと、なかなか候補が決まらない。

しかも、おざなりなものではいけない。それなりにインパクトがあり、面白い写真でなければならないのである。

6,7年前には、わざわざタイまで行って、二人で象に乗った写真を撮り、それを年賀状に採用したことがある。

それくらい、インパクトがなければいけないのだ。

だが、いま思えば、「二人で象に乗った写真」というのが、インパクト写真のピークである。それ以降、どこで撮っても、平凡なものに感じてしまう。

いっそ、二人で写っている写真を載せるのをやめてしまおうか、とも思ったが、それをやめてしまうと、

「何でやめてしまったんだろう?何かあったのか?」

と、年賀状を受け取った人が、ヘンに勘ぐるのではないか、と思い、やめるわけにはいかない。得意の被害妄想である。

会議での検討の結果、3枚の写真が選ばれた。

今年の写真は、数は少なかったが、意外と斬新な写真ばかりである。

写真が決まると、次に、妻が年賀状のレイアウトをする。

妻は職場でも、宣伝用のチラシのデザインをしたりしているので、そういったセンスがあるのだ。

例年とは異なる、斬新なレイアウトの年賀状となった。

しかも、「芸術と文化と学術」にあふれた仕上がりになった!

今年の年賀状会議も、なんとか紛糾することなく終わり、やれやれである。

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仕事納め

12月27日(金)

今日は仕事納めの日だが、午後からは演習の補講である。

こんな日に補講をやるなんて、鬼だな。

ただ単に補講だけをするのも悪い気がしたので、予定していた範囲が終わったあと、先日別の授業で行った「昔のお金作り」を、再びやることにした。

かえって、その時間を拘束してしまうのも悪い気がしたのだが、やってみると、それなりに盛り上がる。

まあ、学生同士が楽しんで盛り上がってくれれば、それでよいのだ。

Photo今回も、無事完成した。

できあがった「昔のお金」は、例によってアクセサリーにしてもらう。紐をつけて、ストラップにしたり首飾りにするのである。

「これ、来年あたり、流行するんじゃねえ?」

「この界隈だけな」

学生たちが盛り上がる。

来年は、「昔のお金」のアクセサリーが流行するだろう。

少なくとも15人くらいには。

夕方からは、3年生のSさんが企画してくれた忘年会である。

10人ほどのこぢんまりした会だったが、しゃぶしゃぶをたらふく食べ、とてもいい会だった。

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リアル・プリズンホテル

12月26日(木)

お昼休み、数か月ぶりに、職場の近くにある「よく喋るシェフのオヤジがいる店」に行く。

こぢんまりした、洋食屋さんである。料理の腕はたしかだし、値段も手頃である。

この店は、とても好きなのだが、職場の関係者がよく通っているという話を聞いて、鉢合わせするのをためらい、なかなか行く機会がなかった。だいたい2カ月に1度、という割合で、この店に行っている。

暮れも押し迫っているし、今日は大丈夫だろう、と、行ってみたところ、案の定、客は誰もいなかった。

「いらっしゃい、お一人ですか」

「ええ」

この店を一人で切り盛りしているシェフのオヤジは、私の顔を覚えているようだった。

ランチタイムなのに、客は私だけである。

というか、この店、こんなに客が少なくて大丈夫なのか?

一人でランチを食べていると、シェフのオヤジが話しかけてきた。

食べながら、四方山話をする。

しだいにそれが、シェフの「半生記」の話になる。

「お客さん、お時間ありますか?」

「ええ、まあ」

「じゃあ、お話しを聞いてくださいまし。いま、コーヒーを入れますので」

自分の生まれ故郷が嫌いで、故郷を飛び出して東京に出たシェフは、一流ホテルの厨房で修行をし、一流ホテルの料理人となるが、やがてそのホテルを辞め、故郷に戻り、いまのこぢんまりとした店を開いたのだという。いまから20年前のことである。

ホテル時代の話が、けっこう面白い。

1980年、芸能界のビッグカップルが結婚したとき、披露宴に3000人くらいの芸能界関係者が来て、その料理をつくるのが大変だった。

という話とか、

日本を代表する女優がホテルのイベントにやってきたとき、間近でその女優を見て、その透き通るような美しさに驚き、

「この人は、絶対にウンコをしない人だ、と確信しました」

という話。

おいおい、こっちは、ランチを食べているんだぞ!

なかでも面白かったのは、シェフが、とある地方の温泉街にある系列ホテルの料理長になったときの話である。

「いちど、○○組の方々がいらしたことがあったんですよ。黒塗りの車、30台くらい連ねてねえ」

「はあ」

「料理の注文の仕方がすごいんです。トップの方が、『今日は洋食が食べたい』というと、何をおいても、洋食担当の人間がかりだされます」

「ほう」

「ところが、肉料理をあらかじめ焼いてお出しすることができないんです」

「なぜです?」

「そのときの気分で、お一人お一人が肉のグラム数を指定してくるんです」

「どういうことです?」

「『俺、200グラム』、『俺、150グラム』って具合に」

「えええぇぇぇ??」

「ですから、お一人のお一人の希望のグラム数を聞いてから、肉を切り、焼かなければならなかったんです」

「そんなこと、普通はするのですか?」

「普通はそんなことしません」

やはり、勝手が違うらしい。

まるで、浅田次郎の『プリズンホテル』の世界そのものである。

「まるで『プリズンホテル』ですねえ」

と私が言うと、

「はあ」と、シェフは、よくわからないという顔をした。シェフは小説を読んでいないらしい。

はっ!待てよ…。

浅田次郎の小説のタイトル「プリズンホテル」というのは、ひょっとして、実在のホテル名の「もじり」なのか?モデルになったのは…。

俺はまた、すごいことに気づいちゃったのか?

…まあよい。

ともかく、このシェフは、一流ホテルの料理人時代、さまざまな経験をしてきたということだけは、たしかだった。

それがいまは、地元に戻り、客がほとんど来ない、こぢんまりした洋食屋さんのシェフである。

「まったく、俺は20年も、何をしていたんでしょうねえ」

シェフの愚痴が始まった。

…気がつくと、もう2時間が経っていた。

2カ月に1度くらいしか来ない客なのに、シェフの身の上話を2時間も聞くとは、まったく私もどうかしている。

「また来ますよ」と私。「職場の関係者がいない時を見はからって」

「それがいいでしょう」

午後2時過ぎ、私はその店をあとにした。

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新しい広場をつくる

Images書店で、平田オリザ『新しい広場をつくる 市民芸術概論綱要』(岩波書店、2013年)を手に取る。

平田オリザの著作は、けっこう好きで読んだりしているのだが、一般にはどれくらい支持されているのだろうか?

以前、ある同僚が、「あんまり好きではありません」といっているのを聞いて、「この人は、なぜそんなふうに思うのだろう」と、その理由をむしょうに知りたくなってしまったことがある。評価が分かれる、ということなのだろうか?私と価値観が違う人であることは間違いないのだが。

だがこの本は、間違いなく、地方に住む、私と同じ稼業の人間が、必ず読むべき本だ、と思う。

この本に惹かれたのは、パラパラめくっていると、井上ひさし脚本の演劇「イーハトーボの劇列車」の中の、次のセリフが引用されていたことに気づいたからである。この演劇は、ついこの前、見に行ったばかりだったので、なおさら印象が深い。

賢司に扮した農民 ひろばがあればなあ。どこの村にもひろばがあればなあ。村の人びとが祭りをしたり、談合をぶったり、神楽や鹿踊をたのしんだり、とにかく村の中心になるひろばがあればどんなにいいかしれやしない。

女車掌 ずっと先(せん)にも同じことを思い残して行った人がいたわ。あなたの思いをまたきっとだれかが引きつぐんじゃないかしら。

賢司に扮した農民 しかし日本では永久に無理かな。

この作品の中でもとりわけ印象的なセリフなのだが、なぜこの本では、このセリフが取りあげられているのか?

それは、いまの若者たちには居場所がない、ということを、著者が指摘しているからである。

私は以前、このブログに書いたことがある

若者たちにとって最も必要なのは、「居場所」である。その居場所が、大学から、排除されつつある。

平田オリザも、この本の中で、まさにそのことを書いている。

そこに私は、共感したのである。

こんな記述もある。

地方都市の若者は、成功の筋道が、きわめて限られている。

「地域でいちばんの高校に入り、地元の国立大学に入り、県庁や市役所に就職することがいちばんの幸せだと多くの人が考えている。そのような直線的な社会では、そこから脱落したものは、エリート層であっても(いや、エリート層だからこそ)社会への復帰がむずかしくなる」

これは、私が間近に学生を見ていて、いつも実感することである。だからこそ、いったん挫折すると、その傷は深刻になる。

挫折の原因を、学生にのみ帰すべきではない、と私が常日頃考えるのは、そのためである。なかなか理解してもらえないが…。

こんな一節もある。

初めのうちは夢のように感じられても、言い続けなければ実現には向かわない。私は十八歳の時に大学入学資格検定試験(大検)を受けて、その不合理さに憤慨し、それ以来、ことあるごとにその改革を訴え、書き、話してきた。ちょうど、それから二十年の後に、私の書いた一文が文部科学省の官僚の目にとまり、その制度改革の諮問委員となって、直接改革に取り組む機会を得た。いま、この試験は『高校卒業程度認定試験』と名前を変えて、ほぼ私が十八歳で提唱したものに近い制度になっている。

改革とは、そういったものである。夢のような制度であっても、あきらめてはならないのだ

言い続けては、いつも挫折ばかりしている私にとって、これほど勇気づけられる言葉はない。

だが、この本の本質は、もっと別のところにある。

「地域の自立性の回復のために、真に必要な施策とは何だろうか」「一人ひとりの市民が、芸術家としての感性を持たない限り、東北の真の復興はなしえないと信じている」

この一点に尽きる。 

この一点から、この本では、日本の文化政策のあり方、地域社会の再生のシナリオが語られてゆく。 

おざなりな「地域おこし」「地域づくり」が、いかに無思想、無施策なものであるかが思い知らされる。 

考えてみればこれは、100年も前に宮沢賢治がすでに言っていることである。

100年後の私たちは、宮沢賢治の感性に追いつくことができるだろうか。

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落語「コロンボのコート」解説

12月25日(水)

どうも被害妄想が激しくて、困ったものである。

昨日のブログを読んでくれたからなのかどうかわからないが、「昨日はとんだクリスマスイブだった」「クリスマスなんて関係ないような、ひどい日だった」と、わざわざ私に言ってくれる人が、けっこういた。ありがたいことである。

しかし私の被害妄想は重症で、「それは気を遣って言ってくれたのだろう」と、かえってその言葉を疑ってしまったりするのだ。

私は昔から、

「はは~ん。さては、俺の居ないところで、みんなで寿司を食ってるな」

と思うタイプなのだ。

まったく、厄介な性格である。

今日もこんなことがあった。

お昼休みが終わった午後、卒論の相談に来た4年生のSさんと廊下を歩いていると、

「これ、何ですかねえ?」

Sさんが何かを見つけた。

見ると、漆塗りの立派な弁当箱がいくつも積んである。食べ終わった弁当を積んでいるらしい。

私はピンと来た。

「ああ、これはたぶん、この部局の人たちが、年末で仕事納めも近いからといって、みんなでお昼に美味しいお弁当を食べたんだよ」

「そんなことがあるんですか?」

「以前もそんな光景を見かけたことがあるよ。特別な日とかに、みんなで豪華な弁当を食べたりするらしい。俺は呼ばれたことはないけどね」

「そうなんですか…」

「それに、今日はクリスマスだろう?だからお昼は職場で仲のいい人たちがみんなでちょっと豪華にと、どこかへ食べに行ったりしているケースが多いと思うぞ。俺は呼ばれたことはないけどね」

「そうなんですか?」

「きっとそうに決まってる。俺の居ないところで、みんなで美味いものでも食っているに決まっているのさ」

「先生、それは被害妄想でしょう?」

「そうともいえる」

「私よりもひどい被害妄想じゃないですか!」

Sさんもそうとうな被害妄想を抱えている人だが、そのSさんに呆れられたのだから、私もそうとう重症である。

ま、そんなことを考えているうちに、なんだかもうバカバカしくなってしまった。

昨晩、「とんだクリスマスイブ」だった、私とこぶぎさんとのあいだで、久しぶりにコメント欄で応酬があった。「コロンボのコート」をめぐる落語のパロディである。

野暮だということはわかっているが、少し解説を加えておくと、

「コロンボのコート怖い」は、ご存じ、落語「饅頭怖い」のパロディである。これはわかりやすいだろう。

それに対するこぶぎさんのコメントは、落語「出来心」のパロディである。

さらにそれに対する私のコメントは、落語「がまの油」で使われるマクラのパロディである。元ネタは次の通りである。

これは頼朝公のしゃれこうべ。近う寄って御拝遂げられましょう」

「ほう、頼朝公のしゃれこうべ。それは本物かい?」

「本物にござります」

「ござりますと来たよ。えー拝見しましょう。こういうのは、なかなかありませんからね。
・・・・・・、あのね。本物だろうね、これ?古い川柳にね、『拝領の頭巾梶原縫い縮め』という川柳がある。それに頼朝公っていう人は俗に大頭と言われるぐらいでね。頭の鉢のでかい人だったらしいね。このしゃれこうべ、ずいぶん小さいね?」

「ご幼少の折のしゃれこうべ」

金原亭馬生「がまの油」より抜粋でございます。

こんなわけのわからないコメント、たぶん誰にも理解されないんじゃないだろうか、と思い、野暮だと思いつつも、解説を加えてみた。

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とんだホワイトクリスマスイブ

12月24日(火)

まったく、クリスマスイブなんて、面白くも何ともない。

午前中の授業が終わり昼休みになると、例によって落ち込むことがあったので、一人で弁当でも買って食べようと思ったが、あいにく弁当屋は、冬休み前ということで縮小営業。

弁当屋は長蛇の列だったので、しかたなく、並ばずに座れる食堂に行ったのだが、そこで食べたカレーが、ビックリするほど不味い。

(クリスマスイブに、ビックリするくらい不味いカレーを食うとはな…)

食べながら、涙が出てきた。

安いから文句は言えないのだが。

午後の授業の冒頭で、

「クリスマスなんて言ったって、何が面白いんでしょうね」

と、例によってぼやき節。学生たちは、またはじまったと失笑した。

授業が終わってから、打ち合わせのため某所に行く。打ち合わせは夜8時に終わった。

打ち合わせが終わると、一人が、「これからサンタクロースになりますので」といって帰っていった。

9時前に職場に戻る。とりあえず妻に電話をかけるが、電話に出る様子はない。

仕方がないので、某氏に電話をかけた。

「いま、オッサン二人で、サイゼリアにいます。クリスマスなんて言ったって、客がほとんどいませんよ」

「オッサンだらけのクリスマス会」か。予想通りの結果だった。

電話を切ると、今度は師匠から電話がきた。まじめな勉強の話だった。

(とんだクリスマスイブだ…)

気がつくと、夜10時を過ぎている。

帰り際、(そういえば、今日の午後の授業の感想カードを見ていなかったなあ)と思い、いそいで感想カードをめくっていると、一人だけ、

「Merry Christmas!」

と書いてくれた学生がいた。

もう、信じられるのは、この学生だけだな。ほかはもう、いいや。

…というか、俺はなんでそんなにクリスマスにこだわっているんだ?

そんなホワイトクリスマスイブ。

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バッテンマスク

会議でよけいな発言をするのが、私の悪いクセである。

快く思っていない人が多いみたいで、先週も、よかれと思って会議で発言したことがよけいなことだったらしく、こっぴどくたしなめられてしまった。あまりにショックだったので、周りにいる信頼する人に、メールを出したり愚痴を聞いてもらったりした。

まったく、厄介なヤツである、私は。いろいろすみません。

なぜ、私の発言が、ある種の人々には不快に思われるのだろう?とつくづく考えてみて、ある仮説に到達した。

それは、私が、あたかも「正義」を振りかざして発言している(ように聞こえる)からではないだろうか?

聞いている人たちにとって、それはまるで自分たちの「不正義」をあげつらわれているかように、聞こえているのではないだろうか。これはたしかに不愉快である。

実際、立場を逆転してみればわかる。

もし私が誰かに「正義」を振りかざして何かを言われたとしたら、私自身の「不正義」を指摘されているみたいで、あまり気分のいいものではない。そういう発言に対しては、反論する気も起こらないのである。

そうか、そういうことだったのか…。

だからみんな、援護射撃のひとつもしてくれないのか。

私の周りに、「ポツネーン」と、誰一人同志がいなくなる理由が、よくわかった。

そもそも自分は、「正義」を振りかざすほどたいした人間ではないのだ。これからはもう、「正義」を振りかざすような言い方は、やめることにしよう。

さて、いろいろな人が、いろいろな形で私の愚痴を慰めてくれてありがたかったのだが、そんな中で、妻の「返し」は秀逸であった。

「だったらさあ、その会議に「×(ペケ)」って書いたマスクをしていったら?」

Imagescallrpsc「バッテンマスク」のことか?むかし「ドレミファドン!」で答えを間違えるとつけられたマスク。

なるほど、バッテンマスクか!これは傑作である。

落ち込んだことも一瞬忘れて、大笑いした。

会議で、「バッテンマスク」をして出たら、みんな、どんな反応するだろうなあ。

ちょっとした「ハンスト」だよな!

そんなことを想像しただけで、可笑しくて仕方がない。

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コロンボのコート

この3連休の出来事を、少しばかり。

12月21日(土)

家族が郊外のアウトレットに買い物に行くというので、ついていくことにした。

といっても、さして買いたい服などない。

「そのコート、よれよれだねえ」と妻。「買い換えたら?」

私の着ているコートは、刑事コロンボが着ているような、薄手のコートである。

私はこのコートが、コロンボっぽくて気に入っていて、就職してはじめてこのテのコートを買ったのだが、2年ほどたって、電車の中に置き忘れるという失態をおかした。それで、それに似たコートを買い直したのである。だからいまのコートは、2代目なのである。

どうせなら、刑事コロンボみたいに、もっとよれよれになるまで着続けよう、と思っていたが、薄手なので、本格的な寒さを迎える時期には、いつも寒い思いをしていた。

ということで、コートを買うことにした。

はじめて訪れた郊外のアウトレットは、降りた駅から歩いてすぐという至便の地にあったが、なんともおしゃれすぎて、私が気軽に買えるようなお店は、まったくない。

仕方がないので、アウトレットの隣にある「イトーヨーカ堂」に入る。

やはり落ち着くなあ。イトーヨーカ堂は。

結局、すべての買い物をイトーヨーカ堂で済ませてしまった。

ダウンのコートを買った。素材も軽いし、着てみると暖かい。

「そのよれよれのコート、捨てたら?」と妻。

「いや、春先とかにまた着たいから、まだ捨てない」と私。

それで思い出した。

「刑事コロンボ」に、「逆転の構図」というエピソードがある。

コロンボが聞き込みのために、貧民街にある教会に入ると、シスターが彼を「路上生活者」と間違えて、「そんな汚いコートは脱いで、教会に寄付されたこちらのコートを着なさい」と、強引に着替えさせようとした。

「いやいや、私はこのコートが気に入っているんでね。…それに私、刑事なんです」

警察手帳を見せると、

「あら、まあ、刑事さん!すると扮装して捜査を?完璧ですわ。騙されました」

とシスターが驚く。

私はこのシーンがとても好きなのだが、それくらいによれよれになるまで、このコートを着続けてやろうか、と思っている。

12月22日(日)

夕方、義妹夫婦の家の近くのイタリアンレストランで食事をする。

イタリアンレストランといっても、とてもこぢんまりした店である。3人くらい座れるカウンター席と、4人掛けのテーブル席が3つくらいである。

カウンターの中の厨房には、イケメンの若いシェフと、その助手とおぼしき愛想の良さそうな女性がいて、もうひとり、料理を運んだり注文を聞いたりする学生風の男性がいる。つまり、3人でこの店を切り盛りしているようである。

カウンターには、英語が母語の白人男性のおじさんが座って、ワインを飲んでいた。ビジネスマンのようである。

かたことの日本語が話せるようだが、本当にかたことで、何かと厨房にいるシェフと助手に話しかけているのだが、シェフは忙しくて、それどころではない。

そのおじさんも、日本語で会話するのがかなり大変らしく、難しいときには英語で話しかけている。

メニューを見ながら、「これはどんな料理なのか?」と、シェフに聞いているようである。

シェフは英語が苦手らしく、説明に苦慮していた。

「アウトサイド、カリカリ、インサイド、フワッと」

「…?」

「アウトサイド、カリカリ、インサイド、フワッと」

どうやら、「外はカリカリ、中はフワッとした感じ」というのを、表現したらしい。

結果的にそのおじさんはその料理を注文し、その料理は美味しかったようだったので、万事うまくいったのだが、「やはりこれからは、少し英語を勉強しよう」と、このやりとりを見て、少し思った。

12月23日(月)

新幹線に乗るまで、少し時間があったので、東京駅近くの書店の上にある、文房具屋さんに立ち寄った。

何度か立ち寄っているのだが、そのたびに、買おうかどうしようか、迷っているものがある。

それは、ある会社のボールペンである。

私はこの会社のボールペンをふだん使っているのだが、それはそれは書きやすくて、原稿の校正や、学生の卒論添削のときなど、あまり気が進まない仕事の場合でも、このボールペンを使えば、テンションを上げて仕事をすることができるのである。

いま使っているのは、1000円のボールペンなのだが、その文房具屋に置いてあるボールペンは、同じ会社の、同じ商品名で、「プライム」と呼ばれる、ワンランク上のボールペンなのである。

試し書きしてみると、たしかにすごく書きやすい!

だが価格が、3000円なのである

ボールペンで3000円か…。

いま使っている1000円のボールペンでも、十分に書きやすいしなあ。

いつも買おうかどうしようか迷い、結局見送ってしまうのである。

もうひとつ、この文房具屋に置いてある「紳士なノート」というノート。

このノートが、とても書きやすいのだ。

(書きやすいボールペンに、書きやすいノートがあれば、原稿の構想とか、書き放題だぞ!)

そう思って、一瞬テンションが上がるのだが、値段が1200円である。

1冊1200円のノートか…。

ふと我に返る。

(俺がノートに書くことって、1冊1200円のノートに書くに値するものだろうか?)

そんなたいそうな人間ではないし…。

そう思うと、心がどんよりしてきた。

一度手に取ったノートを、ふたたび陳列棚に戻す。

気がつくと、文房具屋さんでもう30分も経っていた!

(いかん!新幹線に乗り遅れる!)

もうこれを、何回くり返していることだろう。

本とかCDとかDVDとかならば、これくらいの出費は惜しまないのに、なぜ、ボールペンやノートだと、二の足を踏んでしまうんだろうか…。

ここへ来ると、自分の「小物(こもの)」ぶりを、いつも実感させられる。

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決定!2013書籍ベストワン!

12月22日(日)

今年中に、どうしても読んでおきたい本があった。

Images2高野秀行『謎の独立国家 ソマリランド』(本の雑誌社、2013年)である。

数か月前に、妻に勧められていたのだが、忙しさにかまけて、読むのを先送りにしていた。

先送りしていた理由は、この本が、500頁にもおよぶ「分厚い本」であったためである。

だが、もう今年も終わってしまう。この3連休に、読むことにした。

ソマリランド共和国とは、アフリカ東北部のソマリア共和国内の一角にある、自称独立国家である。

ソマリア共和国は、周知の通り、内戦が続いたあと、武装勢力が無数に存在し、長らく無政府状態が続いている。暫定政府は存在するが、「崩壊国家」の異名をとる。

そのソマリア共和国の北の一角に、国際社会ではまったく認められていないながらも、十数年も平和を維持している独立国家があるという。

それが「ソマリランド共和国」である。

「辺境作家」の高野秀行氏は、この奇妙な国家「ソマリランド」に興味を持ち、その国家の真実の姿を自らの眼で確かめようと、ソマリランドに取材に行くことを決意する。

高野秀行氏はこの国家を、「地上に実在する『ラピュタ』」と表現する。

高野秀行氏といえば、早稲田大学探検部出身の「辺境作家」で、これまで数々の抱腹絶倒の「探検記」を記してきたことでも知られる。このブログにも、何度か読後感を書いたことがあるが、一般には、どれだけ知られている作家なのだろう。

さて、この『謎の独立国家 ソマリランド』もまた、とてつもなく面白い。

ソマリアの政治的事情は、じつに複雑怪奇だが、それをじつに懇切に、ときに日本の源平合戦や戦国時代などにたとえて、わかりやすく説明している。

たとえば、私たちがよく知る「ソマリア」という言葉について、著者は次のように説明する。

民族名としては、「ソマリア人」ではなく、「ソマリ人」というのが正しい。19世紀にまずイギリスが、ソマリ東北部の土地をおさえて「ソマリランド」と勝手に名前をつけた。ほぼ同時に、イタリアが南部の土地にやってきて「ソマリア」とやっぱり勝手に名前をつけた。ソマリアの「ア」は、イタリアやヴェネツィアの「ア」と同じで、イタリア語で国や土地を表す語尾である。

つまりソマリアとはイタリア語であり、「ソマリア人」と呼べば、それは民族名ではなく、「ソマリア共和国の国民」という意味になるのである。

…へぇ、なるほどねえ。とすると、謎の独立国家「ソマリランド共和国」は、もともと、ソマリ北部をおさえたイギリスの命名に由来しているわけだ。

…と、こんなふうに、書かれている一つ一つがじつに私にとって新鮮である。

ソマリランドは、じつに不思議な国である。内戦に明け暮れ、武装勢力が闊歩しているこの地域において、日本以上に、平和で洗練された民主主義により、政治が行われているのだ。

著者はこれを、「前人未踏のハイパー民主主義」と呼ぶ。民主主義があまりにも高いレベルにまで到達している国家、という意味である。「制度的にはソマリランドの政治体制は日本よりはるかに洗練され、現実的である」と、実際に現地に行き、政治の中枢にいた人々を取材した著者は、強調する。

とにかく読んでいて、ソマリランドの政治体制の合理性には、舌を巻くばかりである。

歴史や政治体制のことばかりではない。この本のすごいところは、ソマリ人の民族性や思考様式、宗教観、家族制度、氏族制度、共同体の実態などが、実際の体験を通じて、きわめて詳細に分析されていることである。

いままで、ソマリ人についてこれほどまで詳細に分析した書は、おそらくないだろう。

これはもう、文化人類学の第一級の研究書である!

文化人類学に関する、極上の教科書といってもよい。

ここまで、著者をソマリ人にのめり込ませたものは何だったのだろう?

それは、ソマリ人に対する愛情である、と思う。

この本を読めば、著者が、ソマリ人に対してかなり愛着を持っていることがわかる。それは、実際にソマリ人たちに接していくうちに、芽生えてきたものであろう。

学問をする、とか、研究をするというのは、どういうことか?

そんなことを考えている人が、もしいたとしたら、絶対に、この本を読むべきである。

…とまあ、こんな堅い話だけではない。

著者の文章は、とにかく面白い。

苛酷で、極限な状態におかれても、つねに状況を冷静に観察するという、著者の抜群の観察力によるところが大きいだろう。

一例として、こんなエピソードがある。

著者が、南部ソマリアの、モガディショという都市を訪れたときのことである。南部ソマリアは、北部のソマリランド共和国とは対照的に、内戦をきっかけに、武装勢力が幅をきかせている「無政府状態」の地域で、なかでもソマリアの都だったモガディショは、「世界で最も危険な都」といわれていた。そこに、著者は足を踏み入れるのである。

「モガディショは私が今までに全く見たことのない種類の町だ。(中略)

なにしろ、肩から自動小銃を下げた人がそこら中にいる。あまりに普通に見かけるので、だんだん『現地で流行っているユニークな肩掛け鞄』みたいに見えてきたくらいだ。(中略)

繁栄と危険の妙な調和といえば、忘れられない光景があった。地元の人たちは白いミニバンみたいな車を乗り合いバスとして利用している。もちろん、他の車と同様、これもみな日本車だ。そういうミニバスはときどき、開けっ放しのドアに銃を持った民兵が立ち乗りしている。

『席にすわんなきゃいいだろ』とカネを払わず、強引に入口に立つらしい。見た目はバスジャックされた車両である。

一度など、車両の両側に高々と自動小銃を掲げた民兵が二人、立ち乗りしているバスが向こうから走ってきたのだが、バスの正面には大きくひらがなで『ようちえん』と書かれていて、そのシュールさに目眩がしそうだった。そんな幼稚園、あるか!

写真に撮れなかったのが残念でならない」(329~331頁)

武装勢力に囲まれ、極度の緊張状態にある中で、著者の観察力と表現力は、それを「笑い」に変えてしまう。

そう、これはまさに、桂枝雀師匠が言うところの「緊張と緩和が笑いを生む」、いわゆる「緊張の緩和理論」である!

500頁もあるが、とにかく飽きさせないのだ。

…というわけで、決定しました!

「風の便りの吹きだまり・2013書籍ベストワン」は、

高野秀行『謎の独立国家 ソマリランド』です!

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決定!2013映画ベストワン!

12月21日(土)

たとえば、劇場でどんな映画を見ようか、と迷っているときに、巷の映画評を参考にすることがよくありますよね。私の場合、最近信頼している映画評というのが、

ライムスター宇多丸さん。

町山智浩さん。

こぶぎさん。

の3人であります。

これに、私の妻を加えることもできるのですが、妻は、もっぱら宇多丸さんや町山さんの映画評を参考にしているので、結局は同じことです。

TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」で毎年恒例になっている、その年の「シネマランキング」が、今年も行われました。

今年、つまり2013年のシネマランキング1位に輝いたのは…

台湾映画「セデック・バレ」でした!

パチパチパチパチ!

2位の「かぐや姫の物語」と迷ったあげくの1位だそうです。

…ということで、私も「今年劇場で見た映画」の中から、ベスト1を選ぶことにしました。

今年、私が劇場で見た映画を思い出してみたところ、

レ・ミゼラブル

ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日

選挙2

風立ちぬ

セデック・バレ

の5作品でした。

ええぇぇぇっ!!たった5作品しか見てないの?

しかもこのうち、「レ・ミゼラブル」は、劇場で見たのは1月でしたが、日本での公開初日が2012年12月21日なので、2012年公開作品ということでノミネート作品からは除外することにします。

ということで、「風の便りの吹きだまり・2012映画ベストワン」は、「レ・ミゼラブル」に決まりました!

また、韓国で、「ソルグクヨルチャ(雪国列車)」と「カムギ(風邪)」という2作品を劇場で見ましたが、これは日本未公開ということで、やはりノミネート作品から除外することにします。

残る4つの候補作品から、「風の便りの吹きだまり・2013映画ベストワン」に選ばれたのは…

(ドラムロール)

ドン!

「セデック・バレ」です!

おめでとうございます!

…ただ、私はまだ「かぐや姫の物語」を見ていません。

理由は、妻が高畑勲作品はどうもなじめないということで、見に行くのをためらっているからですが、もし私が、年内にこっそりと見に行くことができたとしたら、ひょっとしたらベストワンが変わるかも知れません。

次回は、「決定!2013書籍ベストワン」の予定です。

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あどけないスポーツドリンクの話

12月19日(木)

同世代の友人と、スポーツドリンクの思い出話になった。

私がスポーツドリンクを生まれてはじめて飲んだのは、中1の時である。

家の最寄りの駅から電車で3つめの駅のところに、少し年の離れたいとこのお兄さん、というかおじさんが住んでいて、英語の教師をしていたのだが、毎週土曜日の朝、英語を教わりに、その家に行った。

そのいとこは、かなりの変わり者で、のちに小さな新興宗教に入信し、私も高校時代に、危うくその宗教に入信させられそうになって…。

…まあ、そんな話はどうでもよい。結局英語も、1,2カ月で習うのをやめてしまった。

ある日、英語の勉強が終わって自分の家に帰る途中で、喉が渇いたので、駅の近くの自動販売機で、生まれて初めて250mlの缶のスポーツドリンクを買ってみた。発売されたばかりで話題になっていたので、どんな飲み物か、試してみたかったのである。

当時はスポーツドリンクとは言わず、「アルカリイオン飲料」といっていたと思う。商品名は「ポカリスエット」である。

飲んで、「ウッ!」となった。

不味いのである!

はじめて飲んだときの印象は、たしかに不味かったのである。

「そんなことはないでしょう。美味しかったでしょう」

「いえ、不味かったのをはっきり覚えています」

「ポカリスエットの前に、ゲータレードというスポーツドリンクがあったでしょう?」

「もちろん知ってますけど、その頃は、飲んだことはなかったですよ」

「そんなことはないでしょう。よくゲータレードの粉末を、水に溶かして、部活の時とかにみんなで飲んだでしょう」

…記憶にない。私の町には、ゲータレードなるものは、売っていなかったのではないだろうか?

とにかく、はじめて「ポカリスエット」を飲んだときの、

「な、何じゃ?この味は!」

という感覚は、今でも忘れない。

今考えるに、それまで、コーラだの、ファンタだのと、炭酸入りの甘いジュースばかり飲んでいた私にとって、それとはあまりに違うものだったので、衝撃を受けたのだろう。

その点、ゲータレードに慣れ親しんでいた人には、すんなりと受け入れられたのだろう。

それに、ポカリスエットの味は、改良を重ね、発売当初にくらべて、格段に美味しくなったのかも知れない。

現にいまは、美味しいのである。

はじめて缶の「ウーロン茶」を飲んだときも、同じような衝撃だったと記憶する。

さて、調べてみると、ポカリスエットは、1980年に発売されている。つまり私が、中1の時である。

私がポカリスエットをはじめて飲んだのは、発売されてまもなくのことだったのだ。

ゲータレードが日本で発売されたのが、1968年だから、こちらのほうが、日本におけるスポーツドリンクのハシリなのである。

ポカリスエットが発売される以前から、ゲータレードにすでに慣れているというのは、先見の明があるというか、おませさん、というべきだろう。

なぜなら、ポカリスエットによって、「アルカリイオン飲料」というジャンルが、日本で認知されるようになったのではないか、と思われるからである。

ここまで書いてみて、同世代諸賢にあらためて問う。

はじめてポカリスエットを飲んだとき、どんな感じがしたか?

はじめて飲んだとき、「不味い!」と感じたのは、わたしだけだったのだろうか?

ポカリスエット以前に発売されていたゲータレードは、よく知られたスポーツドリンクだったのだろうか?知らなかったのは私だけなのか?

ポカリスエットの味は、改良を重ねられて、発売当初に比べると格段に美味しくなっているのだろうか?

あどけない、スポーツドリンクの話である。

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10年を駆け抜けた流星

沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)は、藤圭子が28歳で歌手を引退する直前の、1979年秋に行われたインタビューをまとめたドキュメンタリーである。

よけいな描写も写真もなく、ただひたすら二人の会話が続くが、その会話は、終盤に近づくにつれて、じつに感傷的になってゆく。

「あなたがデビューしたのは、1969年の秋だったよね。そうか、あなたは本当に70年代を歌い続けてきたんだね。そのあなたが、1979年12月26日ですべてを終える。…ちょうど10年だったんだね」

「そうなんだね。区切りがよくて、いいね」

「やめるとなると、さみしい?」

「十年もやれば、いいよね」

「そうだね。次の何かをまた見つければいいんだろうな」

「うん、そうする。また…何か…」

「それでいいさ」

そして最後に二人は、8杯目のウォッカ・トニックを注文し、ホテルニューオータニ40階の「バー・バルゴー」の窓から見える三日月を眺めながら、乾杯するのである。

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卒業生との再会

12月17日(火)

午後、仕事部屋の扉を開けて廊下に出ようとすると、今年の3月に卒業したAさんが立っていた。

「お久しぶりです」

「どうしたの?」

「私、試験に合格して、来年4月から地元の市役所に勤めることになりました。それで、報告に来たんです」

「そう!それはよかった」

わざわざ報告に来てくれたのである。Aさんにとっても、地元で就職することを希望していたから、何よりである。

さて、そのあと。

所用で、ある部局の事務室に行き、打ち合わせをしていると、

「ありがとうございました。失礼します。またうかがいます」

と、その部局の事務室に立ち寄って、挨拶をして帰る人がいた。

聞き覚えのある声である。

慌ててその人の後を追う。

Oさんだ!

いまから12年前、「前の職場」で、私のゼミに所属していた学生だった、Oさんである。

「懐かしいねえ」

「先生!覚えていてくれたんですか!」

「あたりまえじゃないか!どうしてここに?」

「いま、仕事の休みの日に、この部局に来て勉強させていただいているんです」

「そうだったのかぁ」

「先生がこの職場にいらっしゃることは知っていたんですが、まさかお会いできるとは…」

Oさんについては、以前、「卒業生」というタイトルで、このブログに書いたことがある。2010年6月の記事である。以下、引用する。

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私がこの稼業についたのは、いまから10年ほど前である。

最初の職場は、短大だった。

2年半の短い間だったが、私の最初の勤務地ということもあって、ここでいろいろなことを学んだ。いまの私があるのも、ここでの体験が大きく影響している。学生たちもみな、まじめで個性的だった。そんな学生たちに、私は鍛えられたのである。

短大なので、4年制の大学に編入を希望する学生も多かった。

私の研究室に、Oさんという学生がいた。

Oさんは、とてもまじめだが、とても不器用な学生だった。

Oさんは、地元の4年制の大学に編入したいと思い、試験を受けた。試験は、外国語と小論文と、面接である。

だが残念ながら、結果は不合格だった。Oさんは、編入をあきらめ、地元で就職することにした。

Oさんの不合格がわかったあと、その時に面接を担当していたK先生とお話しする機会があった。

実はK先生は、私の出身大学の先輩で、しかも同じ研究室に所属していた。だから、以前からよく知っている先生であった。

「Oさんは残念だったね」と、K先生。

「面接の時、『卒業後の進路はどのように考えてますか?』と聞いたら、Oさん、何て答えたと思う?」K先生は私に質問した。

「さあ」と私。

「『○○先生のような教師になりたいです』って、答えたんだよ」

「○○先生」とは、私のことであった。

「唐突に君の名前が出たんで、ビックリしちゃったよ。あんまり唐突だったもんで、『○○先生って、誰ですか?』って聞いたら、『私のゼミの先生です』って」

「そうだったんですか…」

そんな話、当然のことながら、Oさんからは何も聞いていなかった。Oさんは何も言わないまま、卒業した。いまから8年ほど前のことである。

卒業してから、Oさんには会っていない。Oさんがいま、どこで何をしているのかも、わからない。

でも、私がいまの仕事に自信を失いかけるたびに、この話を思い出しては、もう少しこの仕事を続けられるかもしれない、と思うことにしている。

Oさんは、そんなことを言ったことなど、とっくに忘れているかも知れないけれど。

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だから、私がOさんについて忘れるはずはないのだ。

もう会うこともないのだろうな、と思っていたのだが、Oさんは勉強のために、この部局が主催するプロジェクトの勉強会に参加しているのだった。私はつい先日、このプロジェクトの一環としておこなわれた「イベント」で、コーディネーターをつとめたばかりであった

何というつながりだろう!

Oさんは学生時代、やはり私のゼミ生だったIさんととても仲良しだった。二人はゼミの中では目立たないほうだったが、私はこの二人の真面目さが、とても好きだった。

「Iさんはいまどうしてるの?」私は聞いた。

「Iさんは隣県の地元で、結婚したんですよ」

「いまでも二人で会ったりするの?」

「たまに会いますよ」

話しているうちに、思い出したことがあった。

「学外実習で、関西に行ったときのことを覚えてる?」

「ええ、覚えてます」

「前の職場」では、2年生になると、ゼミごとに「学外実習」に行くことになっていた。私のゼミでは、夏休みに関西方面に行くことにしていた。

「あのとき、『ほかのゼミ生には内緒だよ』といって、OさんとIさんと私の3人だけで、夕ご飯を食べに行ったよね」いまなら、絶対にできないことである。                                  

「覚えてますよ。お好み焼きでしょう」

「お好み焼きだったっけ?」

「そうです。お好み焼きです」

「ひょっとして、店の作りが、間口が狭くて奥行きのある…」

「そうです」

私はそのときのことを完全に思い出し、思わず大笑いした。

その店は、今年の実習で、学生たちを連れて行ったお好み焼き屋さんだったのだ

人間の行動パターンって、ぜんぜん変わらないものなんだなあ。

「よく覚えていたねえ」私は驚いた。

「いまでもIさんと会うと、必ずその話になるんですよ」

そのときのことが、二人にとっても思い出だったらしい。

「またIさんと3人で、お話ししたいねえ」

「こんどIさんを、こっちに呼びますよ」

さてさて、実現するかはわからない。

「また、仕事が休みになったら、こちらに勉強しに来ます」

そう言って、Oさんは帰っていった。

「前の職場」で、Oさんが学んだのが、いまから12年前のことである。2年間の学生生活だった。

それから12年がたち、あのとき学んだことの学び直しを、Oさんはいま、しているのだ。

もちろん、私が2年間で教えることのできたことなど、微々たるものである。

だが、そのことが、確実に、いまにつながっている。

これを「教師冥利に尽きる」と言わずして、なんと言おう。

昨日、職場で、とても不愉快なことがあった。

しかしそんなことは、ささいなことかもしれない。それよりも、人生では、時々こういうことが起こる。

だからはっきりと言えるのだ。

人生は、捨てたもんじゃない、と。

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流星ひとつ

人気絶頂だった歌手の藤圭子が引退宣言をしたのが、1979年、28歳のときである。

当時小学校5年生だった私が、鮮明に覚えていることがある。

テレビ朝日の「欽ちゃんのどこまでやるの?」(通称「欽どこ」)というバラエティ番組で、引退直前の藤圭子がゲストに出たときのことである。

「欽どこ」は、欽ちゃんこと萩本欽一の冠番組で、萩本欽一が夫、真屋順子が妻という設定で、スタジオに、家の居間のセットを組んで、そこで巻き起こるさまざまな出来事をコント風に仕立てたバラエティ番組であった。

居間の真ん中には、円形のちゃぶ台があり、そこで、欽ちゃんとゲストの対談なども行われた。

セットの前面には、スタジオ観覧者もいて、さながらそれは舞台のようでもあった。

そこに、めったにバラエティ番組に出ない、アンニュイな藤圭子がゲストとして出演したのである。

しかも、である。

あろうことか、そこで、かつて結婚し、数年前に離婚した前川清と、ちゃぶ台をはさんで、二人だけで対談が始まったのだ。

このとき、欽ちゃんは、舞台裏に引っ込んでしまった。

観客の前に取り残された二人。

今から思うと、欽ちゃん、すげえ残酷なことするなあ、と思う。

もちろん小学生の私には、そんな細かい事情など、わからない。

ただ、二人の会話が妙にぎこちなかったことだけは、はっきりと覚えている。

そして、前川清が、引退する藤圭子に対して、何か優しい言葉をかけていたことも記憶している。

藤圭子は、前川清の顔をまっすぐにじっと見ながら、その話をひたすら聞いていた。

それが、藤圭子に関する、私の唯一の記憶である。

沢木耕太郎が、藤圭子に関する本を出した。

『流星ひとつ』(新潮社、2013年)である。

この本は、1979年に、沢木耕太郎が藤圭子にインタビューしたときの記録である。

だが当時、この本は出版されることはなかった。

2013年の藤圭子の没後に、ようやく日の目を見たのである。

全編が、二人の会話である。

よけいな解説が、ひとつもない。もちろん、写真もない。

私は、藤圭子という人がどんな人だったのか、まったくわからない。

だが、この本を読む限り、もともと、人生のあらゆることに絶望していた人なんだろうな、と思う。

「どうせ自分のことなんて、誰にもわかりっこない。インタビューされたって、みんな同じことを書くに決まっている」と。

実際、この対談の最初で、彼女はそう告白している。

だが、対談が進むうちに、彼女はどんどん心を開いていく。そして、沢木耕太郎の期待を、よい意味で裏切るような言葉を、次々と発していく。

沢木耕太郎のインタビューは、決して上手いとは思えないのだが、どういうわけか、心を開かせる「何か」があったのかも知れない。

もちろん、藤圭子の感性を受けとめ、その感性を効果的に構成した沢木耕太郎の筆力は、驚嘆に値する。

沢木耕太郎は、「後記」で、藤圭子を「輝くような精神の持ち主」であると評した。また、「水晶のように硬質で透明な精神」とも評している。その通りであると思う。

もし、この「透明な精神」の持ち主である藤圭子が、その後、心を病み、最終的には自殺という幕の引き方をしたのだとしたら、ひょっとして間違っているのは、「透明な精神」を生かすことができない、この世の中のほうなのではないか、という気すらしてくる。

結局この『流星ひとつ』は、1979年に出版されることなく、手書きの原稿を1冊の本にして、沢木耕太郎から藤圭子に贈られた。ただ1冊の本である。藤圭子は芸能界を引退したあと、アメリカに渡った。

アメリカで英語の勉強を始めた藤圭子から、あるとき沢木耕太郎のもとに手紙が届く。アメリカでの近況を伝える手紙である。この本の「後記」で、全文が紹介されている。

お元気ですか。

今、夜の9時半です。外はようやく暗くなったところです。窓から涼しい風が入ってきて、どこからか音楽が聞こえてきます。下のプールでは、また、誰か泳いでいるみたい。ここの人達は、音楽とか運動することの好きな人が多くて、私が寒くてカーディガンを着て歩いているとき、Tシャツとショートパンツでジョギングしている人を、よく見かけます。

勉強の方は相変わらず、のんびりやっています。やる気はとてもあるのですが、行動がついていかないといおうか、テストの前の日だけ、どういうわけか別人(?)のように勉強するくらいです。

8月の始め頃、夏休みをとって、5~6日友達とハイキングに行こうと思っています。Berkeleyに一人で来て、心細かったとき、本当によくしてくれたディーンとジョーという人達と行きます。ディーンは今年law schoolを卒業して、この7月29日、30日と、最終的に大きな試験があるので、今は毎日一生懸命勉強しています。それが終わったら、8月の中頃、弁護士としてカンザスの方に行くので、みんなそれぞれ、ばらばらになってしまうから。

私は8月15日に学校が終わったら、16日のBerkeleyでのボス・スキャッグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日までにニューヨークに着けばいいのですから…。

ニューヨークでの学校は、まだ、決めていません。ついてから探そうと思っています。なんと心細い話ですよね。本当に。

体に気をつけてください。あまり無理をしないように。

沢木耕太郎様

追伸 「流星ひとつ」のあとがき、大好きです

なんの変哲もない近況報告といえば、それまでである。

だが、一介のインタビュアーに対して、これほどまでに無防備に、自分の近況を書くことが、あるだろうか。

沢木耕太郎は、この手紙を全文引用したあとで、

「これを読んで、いかにも「青春」の只中を生きているような幸福感あふれる内容であることを嬉しく思った。そして、「追伸」にあるひとことで、『流星ひとつ』についてのさまざまなことを了解してくれたのだと安心した」

と述べている。

だが、これはかなりかっこつけた言い回しである。

「青春」だの「幸福感」だのと、もったいつけているが、本当は、これほどの無防備な近況報告の手紙をもらったことじたいが、沢木耕太郎には、かなり嬉しかったのではないだろうか。

この手紙を、こうして本の中で全文公開していることが、何よりそれを物語っている。

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またまた報告会

12月15日(日)

昨日から、ビックリするくらいの大雪で、かなり憂鬱である。

お昼すぎ、大雪の中を車で1時間ほどかけて、「同い年の盟友」Uさんの職場の報告会を聞きに行く。

また報告会かよ!まるで「報告会を聞きに行くのが趣味の人」みたいである。

会場にやや遅れて到着すると、「同い年の盟友」Uさんが、美人の奥さんと、かわいいお子さんを連れて来ていた。

3時間ほどの報告会で、内容はとても充実したものだった。

休憩時間にUさんと話をする。

話をしてみて、つくづく、この人は「めげない人」なんだなあ、と思う。

そうか、私は「めげない人」が好きなのだ。

「めげない人」にもいろいろあって、Uさんのように、愚痴をほとんど言わずに「めげない人」もいれば、愚痴を言ったり弱音を吐いたりしつつも、「めげない人」もいる。

「軽く死にたくなる」と言いつつも、めげない友人もいる。いや、Uさんも、実のところそのくちかもしれない。

私はそういう人が、好きなのだ。

…ちょっとUさんを誉めすぎたかな。

「あんまりブログで誉めすぎないでくださいよ」

「どうしてです?」

「うちの奥さんに、『鬼瓦さんは、一緒に住んでないからあんなことが書けるんだよ』と言われたんです」

なるほど、それはそうかも知れない。

Uさんの奥さんのひと言は、いつも鋭くて面白い。

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人類の泉

中学校で生徒会長をつとめていた関係から、中学校の卒業式では、卒業生代表で「答辞」を読まなければならなかった。 

もちろん、自分で作文しなければならないのである。 

しかも、答辞の冒頭は、有名な詩人の詩を引用しなければならない、という、暗黙の「伝統」があった。 

前年度の生徒会長は、中原中也の「汚れちまった悲しみに」を、答辞の冒頭の詩として選んだ。 

そのとき、2年生としてその答辞を聞いていた私は、

「ずいぶんくさい詩だなあ」 

と思った。 

で、今度は、私の番である。 

私は、高村光太郎の「道程」という詩を選んだ。 

いや、その詩を選んだのが、私だったのか、あるいは、担任の先生だったのか、覚えていない。 

でもたぶん、私が選んだんだろうな。

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

ああ、自然よ

父よ

僕を一人立ちさせた広大な父よ

僕から目を離さないで守る事をせよ

常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ

この遠い道程のため

この遠い道程のため

まあ卒業式の答辞に引用する詩としては、無難な詩である。

このあと、私の答辞は、中1から中2,中3の思い出を、事細かに語り、全体で10分以上の長きにわたるものだった。

わが中学校史上はじめて、「卒業式の終了時間が押す」という事態になったのである。

卒業式が終わったあと、みんなから、

「おまえの答辞、長すぎるよ!」

と言われた。昔っから私は「クドい」文章を書く人間だったのである。

それはともかく。

高村光太郎のこの詩を、私自身が選んだのかどうかは、今では記憶にないが、その頃から高村光太郎の詩が、なんとなく好きだったことからすると、あるいは私自身が選んだ詩なのかも知れない。

なかでも私が好きだったのは、「人類の泉」という詩である。とくに次の一節は、今もなお、いや、今になってなおのこと、私の心に突き刺さる。

私は今生きてゐる社会で

もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました

もう共に手を取る友達はありません

ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです

私は此の孤独を悲しまなくなりました

此は自然であり 又必然であるのですから

そして此の孤独に満足さへしようとするのです

この一節を読み返してみて、「これはまるで今の自分ではないか」と、苦笑を禁じえない。

もちろんこの詩が、孤独に対する絶望の詩ではなく、すべてを理解してくれる「あなた」の存在への賛歌であることは、詩の全体を読めばわかるのだが、とくに私は、この一節に惹かれたのである。

今、私の抱えている孤独とは、こういう孤独なのではないか、と、よく思ったものである。

厄介なことに、この年齢になっても、同じ孤独感を抱えているのだから、始末に負えない。

この境地、わかってくれる人、いるかなあ。

ところで、この「人類の泉」という詩が作られたのが、1913年(大正2)のことである。

つまり、今からちょうど100年前に作られた詩なのだ!

100年前の詩人とまったく同じ気持ちになるって、すごいことだとは思わないか。

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ふたたびの報告会

12月13日(金)

夕方、海外実習の報告会を聞きに行く。

うちの部局の学生30人ほどが、夏に台湾に2週間ほど実習に行ったのだが、その成果報告会が開かれたのである。私は実習を引率したわけではないが、「事前学習」の段階から、ずっとこの実習を「見守って」いた。

本音を言えば、私も台湾に行きたかった…。

まあそれはともかく。

なんの報告会か、というと、この実習中に行われた「街頭調査」の報告会である。

さまざまなテーマを設定し、そのテーマに合わせて、現地に行き、そこにいる人たちにインタビューたりして、自分たちの疑問を解決していく

中国語もままならない学生たちが、台湾の大学生と仲良くなりつつ、さまざまな手段でそのテーマにせまらなければならない。

はたしてその成果やいかに?

30人の学生たちは、いくつかのグループに分かれて、それぞれの調査成果を発表した。

面白かったのは、調査成果ではない。

調査の過程で巻き起こる、さまざまな出来事である。

さまざまな台湾人と出会い、最初は困惑しながらも、次第に理解し合っていく。

その過程が、メチャクチャ面白いのだ!

それはまるで、ドキュメンタリーである。

だから、調査のテーマなど、あくまできっかけに過ぎない。大事なことは、それをきっかけに、いかに台湾の人たちと接したり、台湾について考えたりすることができたか、である。

学生たちの報告は、それが確実に、彼らに大きな影響を与えたことを、よく示していた。

実習前の、「事前学習」から見守ってきた私には、それがよくわかる。

夕方4時半に始まった報告会が、7時過ぎに終わった。じつに2時間半である。

終わってから、この実習を大車輪で実現させた同僚のNさんとKさん、そして実習に参加した3年生のS君、1年生のI君、H君とともに、打ち上げをする。

実習の参加していない私はそもそも部外者なのだが、それにしても、実習に参加した彼らの話は、むちゃくちゃ面白かった。

彼らは、私が40歳の時に気づいたことを、すでに20歳そこそこで気づいたのだ。

それだけでも、この実習は成功だったといえるだろう。

ただ、相変わらず心配なのは、この実習の意図を、ほかの同僚がどれくらい理解してくれるか、である。

その点を考えると、どうにも気が滅入ってくる。

NさんやKさんが打ち立てた主旨が、この先も受け継がれていくのか。

その点だけは、願わずにいられない。

学生たちとすっかり話し込んでしまい、気がつくと日付が変わっていた。

慌てて店を出ると、店を入ったときに降っていた雨が、大雪に変わっていた。

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法は冷たかった

法は温かいか、冷たいか

12月12日(木)

夕方、職場で開かれた講演会を聞きに行く。

テーマは、「職場における権力関係を背景にした人権侵害」にかかわる講演会である。年に一度、職場の全員を対象に、この時期に開かれている。

私は、この職場における自分の使命を、この問題の解決である、と勝手に考えていて、この問題に関しては、どんなに孤立しようとも、声を上げなければならない、と思っている。

だがこのことに理解を示してくれるのは、職場でも一人二人である。

会場に行くと、出席者は27人だった。

全部で数百人いる社員のうちの、たった27人である。

うちの部局から参加した者は、私をふくめて、たった3人だった。100名ほどいるうちの、3人である。

3人ですよ!3人!

およそこの職場に勤める者ならば、誰もが考えなければならない深刻な問題であるというのに、どうしていつもこうなんだろう?

いちばんの問題は、宣伝をまったくしなかったことである。

この講演会の企画者は、まったく宣伝活動を行わなかった。チラシやポスターなどは作られていない。メールが1回送られてきただけである。そもそも、聞いてもらいたい、という意欲が、まったく感じられないのである

私だったら、ポスターを作り、チラシを作り、ありとあらゆる手段で宣伝するんだけれどな。

企画者がそれをしないということは、この講演会がその程度のものだと、企画者自身が思っているということなのだろう。

じつに残念である。悲しいことである。

さて、今日、講演いただいたのは、弁護士の先生だった。法律の専門家である。

その弁護士の方は、とても優秀で、間違ったことを1つも言っていなかった。

だが、その言葉は、じつに冷たかった。ビックリするくらい、冷たかった。

法律というのは、かくも冷たきものなのか?と思ってしまうくらい、私には、冷たく聞こえたのだ。

法律には、血が通っているのか?

法律に詳しい人というのは、なぜかくも冷たい言葉ばかりを並べるのか?

誰か、教えてほしい。

「爬虫類の血は冷たいが、人間の血は温かい」

これは、映画「日本沈没」で、丹波哲郎扮する総理大臣が言ったセリフである。脚本家の橋本忍の言葉である。

「人間の血は温かいが、法律は冷たい」

そんなことを感じた講演会だった。

「職場における権力関係を背景にした人権侵害」を解決するのは、少なくとも法律ではあり得ない、ということを、皮肉にも確認した講演会だった。

そうか、わかったぞ!

法律とは、「敵にまわすとたちが悪いが、味方にすると頼りない」存在なのだ。

だいたいの法律は、それで説明できるのではないだろうか!

法律をあてにできないとすれば、私たちは、どうすれば解決策を導き出せるのか?

だがほとんどの人は、そのことを考えようとはしない。

ふたたび私の心は、「絶望」モードへと傾いていく。

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続・女子力の高い男子

12月11日(水)

自画自賛したり、被害妄想をふくらませたり、自己嫌悪に陥ったりと、毎日毎日大変ですなあ。

午後は、2コマ連続で、「中学校の先生になるために必要な授業」というのを担当する。

履修者は5人。うちのフロアの学生が3人、隣のフロアの学生が2人である。

私に割り当てられたコマ数は3コマ分で、先週の水曜日、すでに1コマ分はすませたが、座学だけではつまらないと思い、今日の2コマ分の1コマを、「中学生の体験学習を実際に体験してみよう」という授業にしてみた。

以前、中学生を対象にしたワークショップで実施した「昔のお金を作ろう」という実習を、この授業でもやることにしたのである。

IHクッキングヒーターで溶解した合金のインゴットを、鋳型に流し込んで、昔のお金を作るのである。

まるで鯛焼きを作るように、昔のお金を作る。

やってみると、これがけっこう盛り上がる。あたりまえといえばあたりまえである。とくに鋳型を開いた瞬間、銀色に輝くお金ができあがったのを見たときには、思わず歓声が上がった。

5人という人数も、体験学習には最適である。

そして次の課題。

「できあがったお金を、アクセサリーにしてみよう!」

5人のうち4人が男子学生なのだが、驚いたことに、アクセサリー作りに身を乗り出したのは、なんと男子学生のほうだったのだ!

私が近ごろ提唱する「女子力の高い男子」は、やはり健在である。

やはり、最近の男子学生は、女子力が高いのだ。これは間違いない!

男子学生のうちの1人が、先日の実習に参加していたO君である。彼こそはまさに、「ミスター女子力」と呼ぶにふさわしい!

「ミスター女子力」って、なんだ?

私は10年以上、この職場に勤めているが、この10年で変わったなあ、と思うのが、女子学生よりも、むしろ男子学生のほうである。

男子学生たちが、ワーキャー言いながら、「昔のお金」に、カラフルな紐やビーズをつけて、「ストラップ」「ネックレス」が完成した!

Photo
短時間にしては、じつに見事である!

続いて2コマ目は、3年生のC君による模擬授業。これも、とどこおりなく終わった。

終了後、C君が「一杯飲みたいですねえ」というので、3年生のS君を加えた3人で、やきとり屋さんに行く。

模擬授業から解放されたC君の、得意の「妄想話」は絶好調だった。

「僕には夢があるんですよ」

「どんな夢だい?」

「仕事を引退したら、自分の家の庭に、枯山水の庭園を造るんです」

「ほう」

「毎日それを縁側で日がな1日眺めて、そしてある日、そのままスーッと、息絶えるんです」

「死んでしまうのかい?」

「ええ。それを孫が見つけて、『おじいちゃんどうしたの?』と、私の体を揺さぶったりしなんかして…。そんな最後を迎えたいんです」

「それがあなたの将来の夢なの?」

「そうです」

「変わってるねえ」

彼の妄想話はまだまだ続いたが、とてもここでは書けない。

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灰色の棺

12月10日(火)

相変わらず、絶望の日々である。

周りの楽しげな様子を見ながら、自分のふがいなさに落ち込むばかりである。

よかれと思って頑張ってみたところで、しょせん、理解してくれる人なんて、誰もいないのだ。

タモリについての本を書いた作家が、「タモリは、すべてに絶望している」と評したというが、もしそうなのだとしたら、彼の芸風や生き方は、人間に対する絶望から生まれたものであるといえる。

今はそれをよすがに生きるしかない。

さて、

「さながら水に浮いた灰色の棺である」

とは、北原白秋の『おもひで』の序文に書かれた、故郷・柳川に対する比喩である。この一節は、福永武彦の小説『廃市』の冒頭のエピグラムとしても使われている。柳川は周知の通り、日本のヴェニスともいわれる「水の都」で、若いころに何度か訪れたことがある。

白秋が自分の故郷をこのように比喩した、なんとも絶望した感じがとても好きで、それを確かめるために、柳川を訪れたものである。

むかしから、外見に似合わず、そんなことばかり考えていた少年だったのである。

イタイやつだねえ。

このブログでときおり「軽く死にたくなる」という表現を使ったりするが、この表現は、「同い年の盟友」Uさんのお気に入りの言葉らしく、

「あの言葉が出ると、つい笑ってしまいます」

という。なんとなくわかる、ということなのだろう。

「あの感じ」を共有できる人が、たぶん、友だちと呼べるんだろうなあ。

フェイスブックをやっている同世代の友人たちに話を聞くと、

「友だちの友だち」が、フェイスブック上で「友だち」になり、一つの記事に対して、友だちや、「友だちの友だち」が、「友だち」としてコメントを書いていたりして、

「なんともカオスなんです」

という。

私自身は、フェイスブックに「友だち」としてコメントを書く、という温度の文章を書くことがまったくできないので、たぶん無理だろうな、と思う。

つまり、「家族」も「親友」も「友だち」も「友だちの友だち」も、みんな同じ空間にいるような場で、当たり障りのないようなコメントを言う才能が、まったくないのである。

だって、フェイスブックで、

「毎日絶望してばかりいます」

とか、

「軽く死にたくなりました」

などと書いたら、どう考えたってどん引きでしょう?

たまにここを覗いた人が、

「あいつ、相変わらず病んでるなあ」

と思ってもらうくらいが、ちょうどよいのである。

久しぶりに、白秋の詩でも読んでみるか。

いや、その前に、心と体の健康のために、スポーツクラブに行こう。

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乱暴な依頼主

12月9日(月)

毎日、学生からいろいろな相談を受ける。

「よろず相談所か!」というくらいに。

今日、4年生のSさんからメールが来た。

「先生、卒論のことではないのですが、聞きたいことがあるので、うかがってもよろしいでしょうか?」

最近、卒論のことでよく相談に来るSさんが、今回に限っては、「卒論のことではない」相談だという。

何だろう?人生相談だろうか?

人生相談だとしたら、大人として、ちゃんと答えてあげないといけないな。

人間関係の相談だとしたら、よくよく聞いて、適切なアドバイスをしてあげなければならない。

…などと、いろいろとシミュレーションしていたら、仕事部屋をノックする音がした。

4年生のSさんと、Kさんである。

相談する本人というのは、Sさんではなく、Kさんということらしい。ふだん私とアポをとっているSさんが、代わりに私にアポを取ったのだった。

「どんな相談ですか?」私はKさんに聞いた。

「先日、友だちとCという居酒屋に行ったんです」

「ああ、大学の近くのね。もう10年以上は行ってないなあ」

職場の近くにあるCという店は、おもに学生たちが集まる小さな居酒屋だった。私は10年以上前に、1度しか行ったことがない。

「そこでみんなで飲んでいたら、オヤジがやってきて、『頼みたいことがある。ここに何て書いてあるのか解読してほしい』といって、写真を見せたんです」

「ほう」

「これが、その写真です」

何と、居酒屋のメニューの裏を使って、写真をプリントアウトしたものだった。A4サイズである。

「何だい?これ」

「私もよくわからないんですけど、オヤジの持っているものらしいです」

写真に写っているものは、ナンダカヨクワカラナイ、金属製の装飾品のようなものである。そこに、文字らしきものが刻まれているようである。

「オヤジって誰?その店に来ていたお客さん?」

「いえ、店の主人です」

「店の主人?店の主人が、何であなたにこれを見せたの?」

「その店の主人は、大学生の客が来るたびに、この写真を見せて、『ここになんて書いてあるか解読してほしい』と頼んでいるそうです。『大学生だから、これくらい読めるだろう』と。でも、大学生がこんなもの、読めるはずはありませんよねえ。で、ことごとく断られていたそうなんです」

「で、何であなたは、これを読むことを引き受けたの?」

「心当たりの先生がいたものですから…」

どうやら、それが私のことらしい。

「一体これは何なの?」写真に写っている金属製の物体が何なのか、私にはサッパリわからない。

「よくわかりません。店のオヤジも、何も言いませんでしたから」

「困ったなあ…」

次の時間は授業だし、こっちは忙しくてそれどころではないのだが、しかし一方で、

「好奇心」

という言葉が脳裏をかすめた。

「誰にも読めないものを読んでくれ」

と言うのは、私に対する「殺し文句」である。学生はその「殺し文句」を知っていたとは思えないのだが。

私の見立てによれば、どうやら西周の金文であることは、間違いなさそうだった。

手元にある辞書などを手掛かりに、いくつかの文字を読むことはできたが、全体として何を書いているのかは、わからない。

「うーむ」

「先生、そろそろ授業の時間ではないですか?」

気がつくと、授業開始までもう時間がない。

「あとで考えてみる!」と言って、授業に出たが、その後も、あのアヤシい写真のことが気になって仕方がない。

そもそも、居酒屋のオヤジが、自分の店のメニューの裏にデジカメの写真をプリントアウトしたものを学生に見せて、「この文字を読んでくれ!」とは、ずいぶん乱暴な依頼である。

そしてそのとばっちりが、まわりまわってこっちに来たのだ。

かといって、そのままにしておくわけにはいかない。「こんな文字も読めないのか」と言われたら、沽券にかかわるのである!

そうだ!以前、漢字検索ソフトを買ったんだった。あれを使えば一発でわかるぞ!

…だが、パソコンのバージョンが変わったら、とたんにインストールできなくなってしまったのだった。

うーむ。肝心なときに使えないなあ。

まったく、めんどうな依頼を引き受けてしまったものだ。

Photoしかも、アヤシくて、いっこうにお金にならない依頼を、である。

なぜ俺は、会ったこともない居酒屋のオヤジの依頼に答えようとして、頭を悩ませているのだろう?

俺は「よろず相談所」ではないのだ!

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伝える力

12月8日(日)

この週末は、新幹線を乗り継いで5時間以上かかる場所で、「同業者祭り」が2日間にわたって開催されたのだが、それについては、この場で書くようなことではない。

なので、いま少し、先日行われた短期留学生帰国報告会で印象に残ったことについて書く。

たしかアメリカに留学したS君が言っていたことだと思うが、彼がアメリカ人の友人に言われたこととして、こんな言葉を紹介していた。

「君がいかに英語が流暢なのかを聞きたいのではない。君が何を考えているのかを知りたいのだ」

そういわれたS君は、大事なことは、「流暢に話すことではなく、自分の意見を伝えることなのだ」と悟ったのだという。

この話を聞いて、妻に聞いた話を思い出した。

妻がテレビを見ていると、帰国子女とおぼしき若い女性歌手が、とても流暢な英語で喋っていたのだという。

「でも、ビックリするくらい、話の中身がなかったんだよ」

せっかく流暢に英語が話せても、話の中身がまったくなければ、じつに薄っぺらに思える、と、そのときに思ったのだそうだ。

あたりまえといえばあたりまえなのだが。

だが、外国語を学ぼうとするとき、知らず知らずのうちに、流暢に喋ることが大事なことだと思い込んでしまうのである。

もう1つ、台湾に留学したNさんが言っていたこと。

「海外で試されているのは、実は日本語の力なのです」

という。

海外留学の機会とは、ふだん何気なく使っている日本語を、自覚的に考える機会でもある。

そこをおろそかにしていると、外国語をマスターする上においても、大きな支障となる。

「外国語の実力は、日本語の実力に比例しますよね」

と私が言うと、パネラーの学生たちは全員、大きくうなずいた。

「大事なのは、流暢に話すことではなく、自分が本当に伝えたいことを持つことである」

若い学生たちが留学して、このことに気づいたのだとしたら、それだけで、留学する意味は十分にあった、というべきだろう。

なぜなら、それがどんな場であっても、いちばん大事なことだからである。

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時がたてば

先日の「短期留学生帰国報告会」の中で、会場から出た質問で印象的だったのは、

「留学して最初の1,2カ月は、ホームシックにかかりませんでしたか?ホームシックにかかったとき、どうやってそれを乗り越えましたか?」

というものである。

ホームシックにかかわらず、留学すると、誰でも、壁にぶち当たるものである。

パネラーの学生たちがほぼ共通して言っていたのは、

「最初は自分の語学力に自信がなく、帰りたいという気持ちが強かった」

というものだった。

では、それをどうやって乗り越えたかというと、学生が口をそろえて言うのは、

「どうやって解決したのか、よくわからない」

という。

「おそらく、時間が解決してくれたのだろう」

と、一様に彼らは答えたのだった。

たぶん、これが真実なのだろう、と思う。

私は留学中に、帰りたいと思ったことはなかったが、ときどき、イライラしたり、なんとなくモヤモヤしたり、息苦しい感じたしたりしたことがあった。韓国語でこれを、「タプタプハダ」という。

原因はよくわからない。とりあえず、勉強がうまくいかない、ということに原因を求めるのだが、たぶんそれは、わかりやすい原因だからであって、本当はもっと複雑な原因が絡み合っていたのだろう、と思う。

学生たちが、

「語学の実力が伸び悩んでいて、帰りたくなった」

というのは、「語学の実力」に原因を求めると、とてもわかりやすいからであって、本当の原因はもっと複雑だったのではないか、と思うのである。

で、その解決方法というのが、「時間がたてば解決する」というものである。

実際に私も、イライラや息苦しさが、ずっと続いたわけではなく、いつの間にかそれが解消されていったのである。

たぶんそれは、「解決した」からではなく、「そうした状況に慣れてきた」からであろうと思う。

たぶん世の中のほとんどのことは、解決しようがなかったり、どうしようもなかったりすることばかりで、最初はそのことばかりが気になって、イライラしたり、息が詰まったりするのだろう。

だが時間がたてば、やがて慣れてくるのである。

でもそれは、留学中にかぎったことではないのだ。ふだんの生活でも、そうであろう。

たとえば今、イライラしていたとする。

そのイライラは、直近の問題に原因を求めているが、それは、そこに原因を求めやすいからである。原因はもっと複雑なはずである。

でも、最初は気になって仕方がなかったことも、時間がたてば次第に慣れていって、鈍感になっていく。

だが時がたてば、また別のイライラがおそってくる。それは同じ原因だったり、別の原因だったり、さまざまである。

そしてそれもまた、次第に慣れていって、おさまっていく。

だいたい、生きているということは、このくり返しではないだろうか。

こうやってみると、これはまるで、痛風の発作と、同じではないか。

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法は温かいか、冷たいか

12月6日(金)

毎年恒例のMGSBに行ってきた。

今年度は、職場をあげて広報宣伝をおこなったおかげか、例年にくらべてかなりお客さんの数が多い。社長や部長も見に来ていた。

こぶぎさんも、大学時代の後輩の方を連れて片道50㎞かけて見に来ていた。

「今年は何といっても、行政裁判だからね」

と、すごい熱の入れようである。

私はこのMGSBを、裁判劇としてではなく、一種の「歌舞伎」としてみている、ということは、前に書いた。純粋に演劇として、楽しんでいるのである。

始まる前の挨拶で、「ここで本当に裁かれるのは、舞台の上の学生さんです!」と手厳しい言葉が出てきたが、おいおい、こっちは裁判員のつもりで見に来たわけじゃないぜ。

さて、開演である。

歌舞伎を思わせるセリフ回しは、もはや伝統芸といえるが、時間がたつにつれて、セリフ回しがじつに伸びやかになっていく。

これは、昨年の舞台でも感じたことである。

そうか、舞台の冒頭、というのは、誰しも緊張して、セリフが仰々しくなったり、不自然になったりするものなのだな。

それで思い出した。

先日見に行った、こまつ座の「イーハトーボの劇列車」の最初は、出演者全員が出てきて、非日常的なセリフを声をそろえて客席に向かって語りかける、というものだった。

あれはひょっとして、幕が上がった最初というのは誰しも緊張するために、わざと最初に仰々しいようなセリフ回しをさせているのではないだろうか。

そうやって最初に緊張を解きほぐすことで、後になって伸びやかで自然なセリフ回しが可能になるのではないか?

…考えすぎかも知れない。

さて、今回私が最も気に入ったのは、被告代理人、つまり行政側の代理人を演じた女子学生である。

「生活保護」の申請を却下するという行政側が、ストーリーの性質上、原告に対して冷酷に対応することは容易に想像できるのだが、この被告代理人は、セリフ回しがよくそれに見合っているのだ。

彼女が発するセリフは、明朗だが、冷たい。じつに冷たい。

だからこそ、この裁判劇が生きてくるのである。

昨年度の民事裁判をテーマにしたときも、やはり被告代理人の演技がすばらしかった。

民事裁判や行政裁判を取りあげた裁判劇においては、被告代理人の冷徹な演技が、全体の出来不出来を左右すると言っていいであろう。

法律とは、解釈しだいで、なんと人に冷たいものなのだろう、と思い知らされる。

無味乾燥な言葉の羅列も、前後の文脈や、それまでの経緯、そして置かれた立場によって、冷たくもなり、温かくもなるのだ。

結局は、それを扱う人間の問題なのだろう。

…と、ここまで書いてみて考える。

こんなことを考えた私は、まんまと、彼らのねらいに乗ってしまったのだろうか?

裁かれているのは、見ている私のほうか?

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居留守カイプ

12月5日(木)

すみません。昨日は少し調子に乗りすぎました。

でも、報告会に出てくれた同僚のIさんにも、「大成功でしたね。5年前からはじめておくべきでした」と言われました。ふだんは私以上に手厳しいコメントでおなじみのIさんが誉めてくれただけに、これまた嬉しいかぎりです。

…さて、今日はそんな話ではない。

昨日の報告会の打ち上げで、「コミュニケーションツール」の話になった。

今の若者たちは、ほとんどが「ライン」と呼ばれるものでコミュニケーションをとっているという。

携帯メールなんて、ほとんどやらないそうだ。

こっちはすっかり置いてきぼりである。

それで思い出したことがあった。

先日、新しいパソコンに、久しぶりにスカイプを設定した。

するとおどろいたことがあった。

これまで登録されている連絡先がいくつかあるのだが(おもに卒業生)、それらすべてが、いつも「オフライン」になっているのである。

それに新たに連絡先を交換しようと思って申請した先が、いっこうに認証してくれる気配がない。

昨日の打ち上げの席で、学生にそのことを言うと、学生は言った。

「それはですねえ。本当はオンラインなのに、相手にはオフラインであるかのように見せる設定、というのがあるんですよ。たぶん、それだと思います」

「そんな設定があるの?」

私はおどろいた。いつの間に、スカイプにそんな設定ができたのか?

つまり、それは「居留守」っていうことだよねえ。

私は、全員から「居留守」を使われている、ということなのか?

いつまでたっても認証されない、というのも、同じ理由だろう。

居留守。…切ない響きである。

デジタル時代にも、「居留守」があったとは…。

そういえば、私と同世代の友人が、オッサンばかりの「男子会」(ガスト会議)で、こんなことを言っていた。

「以前、人に誘われて、ミクシーの「マイミク」というのに登録したのだが、「マイミク」の中に、さらに「友だち設定」というのがあって、それは、「マイミク」というグループの中に、さらに「友だち」というグループを作り、その中だけでコミュニケーションをはかる、というものらしい。自分はその「友だち設定」に入れてもらえず、あまりにも哀しくなって、ミクシーをやめてしまった」

ミクシーを知らないので、よく分からないのだが、要するに、その友人は、「マイミク」に誘ってもらったにもかかわらず、「友だち」としては認めてくれない。「マイミク以上、友だち未満」だ、というのである。

「つまりたとえて言えば、玄関先まで行ったのに、家に入れてもらえず、家の中からは楽しい笑い声が聞こえてくる、といった心境である」

なるほど。それならわかる。

結論。コミュニケーション手段がデジタル化すればするほど、心がかき乱される。

とくにオッサンにとっては。

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感性の報告会

12月4日(水)

(以下は完全な自画自賛の文章なので、不愉快な方は読まないでください)

今日の「短期留学生帰国報告会」は、大成功だった。

(ちなみに、先週土曜日のイベントも大成功だったので、2連勝である!)

聴きに来てくれた学生、教員の人数は30~40名ほどだったが、用意した教室の席がいっぱいになるほどだった。

4時半からはじまったが、2時間を超過しても、ほとんど席を立つ人がいなかった。

何よりすばらしかったのは、パネラーをつとめた6名の学生たちである。

私の司会など、まったく関係がなかった。

彼らの語る言葉は、誠実で、面白く、そして自分の言葉で語っていたことがすばらしかったのである。

この報告会にこぎつけるまで、準備はけっこう大変だった。

同僚のNさんと二人で企画を立て、議論を重ねながらポスターとチラシを作り、各方面に配布をお願いしたり、ポスターを貼ったりする。

文案は私、ポスターデザインはNさん、そして各方面への宣伝担当は私、パネラーの学生たちとの連絡や調整はNさんである。

次に、どのような会にするかを考える。

本当は、帰国したすべての学生の話を聞きたかったのだが、泣く泣く、6名に絞ることにした。台湾に留学したNさん、中国に留学したT君、韓国に留学したOさん、アメリカに留学したM君とS君、そしてラトビアに留学したNさん。

各人に時間を与えて報告してもらう、という講演会形式ではなく、「大喜利形式」、すなわち、お題を与えて、そのお題に答えてもらう、という形式にしよう、ということになった。

司会は私。さしずめ私は歌丸師匠である。

「留学先での生活はどのようなものでしたか?」

とか、

「勉強でつらかったことは何ですか?」

とか、

「どんな友人ができましたか?」

などである。

先週の金曜日(29日)に、6人に集まってもらって、打ち合わせをおこなった。場所は、本番と同じ教室である。

打ち合わせの過程で、ただ話を聞くのではなく、留学中に撮った写真を何枚か用意してもらい、それにもとづいて語ってもらうことにしたらどうか、ということになった。

検討の結果、写真のテーマを9つ設定した。

「住んでいた場所、部屋の様子」

「ふだんの食事」

「キャンパスや授業風景」

「課外活動」

「休日の過ごし方」

「友人との写真」

「パーティ-」

「いちばん美味しいと思った料理」

「とっておきの1枚の写真」

それぞれの写真にちなんだエピソードを語ってもらう、という趣向である。

各学生から9枚ずつの写真を送ってもらうと、全部で54枚となる。実際は1テーマに2枚や3枚送ってきた人もいたから、全部で60枚くらいである。

本番の前日、送ってもらった写真を、全体の構成を考えながら、並べていく。

それに合わせて、当日の進行台本を作成した。

前日の午前0時過ぎまでかかって、写真の構成と、進行台本を完成させた。

断っておくが、ここまで周到に準備する教員は、この職場にはたぶん私のほかにはいませんぜ。もしほかにいたら、教えてくださいまし。

…とまた、自画自賛。

さて当日。

教室の前のホワイトボードに、大きな世界地図を貼った。

パネラーの6人に、円いマグネットを1つずつ持ってもらい、1人ずつが自己紹介するときに、自分の留学した場所が世界地図のどこにあたるのかを、マグネットを置くことで示してもらう、という、とても凝った演出を考えた。

…うむ。文章で書くとわかりにくいな。

この演出、私はけっこう気に入っているのだが、どのていど伝わったかはわからない。

「生活のこと」「勉強のこと」「人間関係のこと」の3つにテーマを絞って、こちらから質問をして、6人にそれぞれ語ってもらう。

テーマにかかわる写真をスクリーンに映し出しながら、6人がそれにかかわるエピソードを的確に語る。どの話も、面白くて、わかりやすい。

なかでもすばらしかったのは、最後に映し出した「とっておきの1枚の写真」である。

「留学中に撮った写真のうち、もし1枚だけを選ぶとしたら?」というお題で、選んでもらった写真。

6人全員が、見事に私の意図をくんでくれた。

写真がすばらしい、というわけではない。

その写真にまつわる彼らの「語り」が、すばらしかったのである。

どの写真も、留学の体験が、かけがえのない人生の一部であることを実感させてくれた。

もうそれだけで、私にとって、この企画は成功なのである。

2時間の長きにわたる報告会が終わる。

終わってから、短期留学を希望したいという1年生たちが、パネラーの学生たちを取り囲み、矢継ぎ早に質問する。彼らは時間を忘れて話し込んでいた。

「留学したい学生を、掘り起こそう」という、私とNさんの目的は、達せられたのである。

同僚のKさんが帰り際、私に「大成功でしたね」と言ってくれ、それもまた、嬉しかった。

参加した学生の人数は、30名ていどだったが、留学した学生たちの体験談は、確実に、聴いている学生たちの心の深い部分で、共鳴したのだろうと思う。

終わってから、パネラーの学生や、留学したいという1年生たちと、焼き肉屋で簡単な打ち上げをした。

そこでも、ずーっと、留学体験談で盛り上がった。

今日の「帰国報告会」は、「感性の報告会」であった、と思う。

それぞれの土地で、まったく別の体験をした学生たちが、同じ感情を共有し合う。

そしてそれに、聴いている学生たちも、共鳴する。

この「感性の共有」こそが、重要なのだ。感性を共有できる場を作ることが、大人の使命なのではないだろうか。

私とNさんだからこそ、それができたのだろう。

…と、これまた、自画自賛である。

ここまで書いてきて、気がついた。

私がこの報告会でやりたかったのは、笑点の司会者、歌丸師匠のような役回りではない。

むかし、NHK教育テレビで放送していた「YOU」という番組の司会者、糸井重里さんのような役回りであったのだ、と。

そんな役回りが実現できて、またひとつ、夢が叶った、というべきであろう。

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言わなきゃよかった

12月3日(火)

毎日、とにかく忙しい。もちろん、自分の愚鈍な能力を越えることばかりしているためである。

本務のほかにも、ずっと先延ばしにしていた、本の原稿の校正を、今日中に仕上げて、先方に送らなければならない。これがかなり膨大な量である。

さらに明日の夕方は、自らが企画した「留学した学生の帰国報告会」があり、その準備もしなければならない。

同僚のNさんと相談して、たんなる報告会ではつまらないから、笑点の大喜利形式のような報告会にしよう、と盛り上がる。

正確に言えば、大喜利、というよりも、「踊るさんま御殿」とか「アメトーク」のように、司会者が、出演陣のトークを引き出す、みたいなやつ。

軽はずみで司会を引き受けたのがいけなかった。

ド素人の私が、そんな器用なマネができるわけがないのだ。

「生兵法(なまびょうほう)はケガのもと」

これは私の座右の銘であるが、その座右の銘が全く生かされていない。

しかも、何を血迷ったのか、先日の全員が集まる会議で「私が司会なので、たぶん面白い会になると思います」などと、あろうことか大見得を切って宣伝してしまったのだ。

もちろん、冗談ですよ、冗談。

しかし、全員が集まる会議で、冗談でもああいうことを言うものではない。おかげで失笑を買ってしまった。

言うんじゃなかった-。すでに軽く死にたい気分である。

報告会に出演する6人の学生のうちの1人、M君が私に言った。

「おもしろくなるかどうかは、司会の腕にかかっていますよ。僕たちは、留学のオモシロエピソードをいくらでも持っているんですから。それを引き出すのが司会の役目ですよ」

おいおい、明日の報告会でいちばん緊張するのは、ほかでもない、この俺なんじゃないか?

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宮沢賢治のメッセージ

前回、宮沢賢治の「稲作挿話」の詩の一節を引用したが、ずっと以前、「ほぼ日」で糸井重里さんが書いていた文章を思い出した。

印象に残る文章だったので、たまたまパソコンに保存しておいたのである。

以下、引用させていただきます。

学校に行って、教室やらどこやらで、

教科書とか参考書とか関連書籍とか開きつつ、

あれこれするのも勉強なのだとは思いますが、

それだけが勉強だと思ったら、まちがいなわけです。

 
女優の高峰秀子さんが書いた文章について、

当時、「小学校も出ていない女優さんが、

自身で書いたはずはない」と決めつけていた人が、

たくさんいたということでした。

高峰さんは、俳優という仕事をするのに、

どれくらいの脚本を真剣に読んできたことか、と、

後に書いています。

また、家族である松山善三さんの口述筆記を、

長期間にわたって続けていたことも、

文章修業になっていたのではないかと語っています。

これが、勉強でないはずはないでしょう。

福島に住む人たちが、

じぶんたちの職業や生死にも関わる問題として、

原発やら放射能の影響について勉強していることも、

ぼくらは、たくさん確認しています。

いつまでも生半可な「知識」のままで、

危なっかしい情報をばらまいている人たちに比べて、

知ることが生きていくことに直結している農家の方々が、

どれだけ真剣に勉強し、それを吸収していることか。

ほんとうに頭が下がる思いです。

ぼくが、気仙沼や陸前高田で出合っている

中小企業の経営者の方々についても、

いつでもびっくりさせられます。

生きていくためになんでも勉強してやろう。

それをじぶんの仲間や故郷のために

役立ててやろうという気迫には、ぼくなんかも、

ときどき「たましいを吸い取られる」ような

恐怖さえ感じますよ(冗談通じてるよね?)。

勉強というのは、じつは、

ずいぶん迫力のある意味を持っています。

大学でどれだけまじめに勉強したとしてもたった数年。

その後を生きてる時間、ずっと勉強している人たちは、

「専門」だったはずの人を、きっと追い抜いています

ここに書かれていることは、宮沢賢治の詩で書かれているメッセージと同じことだ、というのは買いかぶりすぎだろうか。

しかし、東北地方で震災が起こり、原発事故が起こり、学者の言うことがあてにならず、そこに生きる人たちが自分で勉強をはじめた、ということは、同じく東北地方に生きた宮沢賢治のメッセージが、今の時代にこそ必要であった、ということを、何より示しているのではないだろうか。

私たちはようやく、宮沢賢治の感性に、追いついたのである。

悪夢のような事故が起こり、

今また、悪夢のような法律が成立しようとしていて、

僕はこの先のことを考えると、憂鬱で仕方がないのだけれど、

こうなった以上、お仕着せの知識ではなく、自分の身を自分で守るために勉強して、理論武装するしかないのだ。

いや、そうまでして頑張っても、世の中の「無思考な連中」や「無思考を望む連中」に、いとも簡単に飲み込まれてしまうかもしれない。

ただ言えることは、

これから、まがりなりにも学問を看板に掲げて生きていくためには、

「生存をかけた問題である」と意識しないことには、

支持されないだろう、ということである。

その覚悟があるか?同業者諸君。

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声に出して読め、宮沢賢治

まことに恥ずかしいことだが、今まで宮沢賢治について、まったく疎かったこともあり、井上ひさし作「イーハトーボの劇列車」に出てくるセリフに、宮沢賢治の作品の言葉がちりばめられていることに、ほとんど気づかなかった。

たとえば、

「こんなことは、じつに稀です」

というセリフは、「革トランク」という短編にくり返し出てくる言葉である。

ちなみに「革トランク」という作品は、一読すると、なんだかよくわからないのだが、宮沢賢治の人生と重ね合わせて読んでみると、じつに味わい深いものとなる。

「イーハトーボの劇列車」を見ていて、私が好きなセリフがあったのだが、それも、詩「稲作挿話」(一〇八二〔あすこの田はねえ〕)の、次の一節だったことがわかった。

これからの本当の勉強はねえ

テニスをしながら商売の先生から

義理で教はることでないんだ

きみのやうにさ

吹雪やわづかの仕事のひまで

泣きながら

からだに刻んで行く勉強が

まもなくぐんぐん強い芽を噴いて

どこまでのびるかわからない

それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ

ぢゃさようなら

朗読の教材としてしばしば使われるという、この詩。

声に出して読んでみると、やはりいい。

いや、そもそも宮沢賢治の作品は、声に出して読むと、じつに心地よいのだ。

いまさらながらそのことに気づいたのだが、いささか遅すぎた、というべきであろう。

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イベント、からの演劇鑑賞

11月30日(土)

午前中のイベントは、100人を超える参加者を得て、大過なく終了した。

公式的には成功、といっていいが、私の司会には反省すべきことが多く、例によって軽く死にたくなった。

「なんか、いろいろすいません」

という気持ちである。

このままこの気持ちを引きずるのもイヤだなあ、と思っていたところ、わざわざイベントに来ていただいた「前の職場」のKさんが、今日の夕方、学生たちと一緒に芝居を見に行くのだという。

「何を見に行くんですか?」

138381627938965635228_ihb「K町で、こまつ座が、井上ひさし作の『イーハトーボの劇列車』を上演するんですよ。卒業生が、そのホールに勤めていて、見に来てくれといわれたんです」

「いいですねえ」

「今日と明日しか上演しないそうです。明日のチケットは完売だそうですが、今日はまだ余裕があるかも知れません」

こまつ座の芝居は、今まで見たことがない。何より、井上ひさし脚本の芝居じたいを、今まで見たことがないのだ。

仕事は詰まっていたが、どうせ今日は気持ちがふさがってばかりで、はかどらないだろう、と思い、急遽、私もその芝居を見に行くことにした。

幸いなことに、まだチケットがあった。

車で1時間ほどかかるK町についたのは、夕方5時前だった。開演は6時半である。

途中、休憩を挟んで、終演は9時40分という、約3時間の長い芝居だった。

宮沢賢治の青年期の、さまざまな葛藤を描いた作品で、キーワードになるのは、「でくのぼう」である。

圧巻は、前半における、宮沢賢治(井上芳雄)と彼の父(辻萬長)とのセリフの応酬、そして同じく後半における、宮沢賢治と刑事(辻萬長の二役)のセリフの応酬である。

とくに、前半の親子のセリフの応酬は、日蓮宗と浄土真宗の「教学論争」の趣を呈し、どうしてこんなに理屈っぽいセリフの応酬なのだろう?と感じたのだが、この論争が後半のクライマックスで生きてくるのである。

これにかぎらず、前半の何ということのない伏線が、後半に生きてくる場面が多く、やはり脚本の構成力のすばらしさだろう。

構成力だけではない。セリフがどれもストレートで、美しいのだ。

最後の方で、「遅筆の作家」が、それほど必然的とは思えない形で登場するが、井上ひさし自身のパロディであろうか。

何よりこの芝居でよかったのは、前半で宮沢賢治の父、後半で宮沢賢治を追う刑事の二役を演じた辻萬長である。

セリフ回しの、何と心地よいことか。

「芝居が締まる」とは、こういうことを言うんだな。

こういうのを見ると、不遜だが「一生に一度でいいから、演劇の脚本を書いてみたいよなあ」と思ってしまう。

そうそう、そういえば、一緒に見に行った、前の職場のKさんのところの学生さんが、演劇サークルで台本を書いているそうで、先日の学園祭でも上演したというので、

「どんな内容の台本を書いたの?」

と聞くと、

「団子(だんご)を演じた俳優の気持ちを、10分ほどの芝居の台本にまとめました」

と答えてくれた。

だんごを演じた俳優、という設定が、シュールである。

一体どんな芝居だったんだろう?とても気になる。

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