新しい広場をつくる
書店で、平田オリザ『新しい広場をつくる 市民芸術概論綱要』(岩波書店、2013年)を手に取る。
平田オリザの著作は、けっこう好きで読んだりしているのだが、一般にはどれくらい支持されているのだろうか?
以前、ある同僚が、「あんまり好きではありません」といっているのを聞いて、「この人は、なぜそんなふうに思うのだろう」と、その理由をむしょうに知りたくなってしまったことがある。評価が分かれる、ということなのだろうか?私と価値観が違う人であることは間違いないのだが。
だがこの本は、間違いなく、地方に住む、私と同じ稼業の人間が、必ず読むべき本だ、と思う。
この本に惹かれたのは、パラパラめくっていると、井上ひさし脚本の演劇「イーハトーボの劇列車」の中の、次のセリフが引用されていたことに気づいたからである。この演劇は、ついこの前、見に行ったばかりだったので、なおさら印象が深い。
賢司に扮した農民 ひろばがあればなあ。どこの村にもひろばがあればなあ。村の人びとが祭りをしたり、談合をぶったり、神楽や鹿踊をたのしんだり、とにかく村の中心になるひろばがあればどんなにいいかしれやしない。
女車掌 ずっと先(せん)にも同じことを思い残して行った人がいたわ。あなたの思いをまたきっとだれかが引きつぐんじゃないかしら。
賢司に扮した農民 しかし日本では永久に無理かな。
この作品の中でもとりわけ印象的なセリフなのだが、なぜこの本では、このセリフが取りあげられているのか?
それは、いまの若者たちには居場所がない、ということを、著者が指摘しているからである。
若者たちにとって最も必要なのは、「居場所」である。その居場所が、大学から、排除されつつある。
平田オリザも、この本の中で、まさにそのことを書いている。
そこに私は、共感したのである。
こんな記述もある。
地方都市の若者は、成功の筋道が、きわめて限られている。
「地域でいちばんの高校に入り、地元の国立大学に入り、県庁や市役所に就職することがいちばんの幸せだと多くの人が考えている。そのような直線的な社会では、そこから脱落したものは、エリート層であっても(いや、エリート層だからこそ)社会への復帰がむずかしくなる」
これは、私が間近に学生を見ていて、いつも実感することである。だからこそ、いったん挫折すると、その傷は深刻になる。
挫折の原因を、学生にのみ帰すべきではない、と私が常日頃考えるのは、そのためである。なかなか理解してもらえないが…。
こんな一節もある。
「初めのうちは夢のように感じられても、言い続けなければ実現には向かわない。私は十八歳の時に大学入学資格検定試験(大検)を受けて、その不合理さに憤慨し、それ以来、ことあるごとにその改革を訴え、書き、話してきた。ちょうど、それから二十年の後に、私の書いた一文が文部科学省の官僚の目にとまり、その制度改革の諮問委員となって、直接改革に取り組む機会を得た。いま、この試験は『高校卒業程度認定試験』と名前を変えて、ほぼ私が十八歳で提唱したものに近い制度になっている。
改革とは、そういったものである。夢のような制度であっても、あきらめてはならないのだ」
言い続けては、いつも挫折ばかりしている私にとって、これほど勇気づけられる言葉はない。
だが、この本の本質は、もっと別のところにある。
「地域の自立性の回復のために、真に必要な施策とは何だろうか」「一人ひとりの市民が、芸術家としての感性を持たない限り、東北の真の復興はなしえないと信じている」
この一点に尽きる。
この一点から、この本では、日本の文化政策のあり方、地域社会の再生のシナリオが語られてゆく。
おざなりな「地域おこし」「地域づくり」が、いかに無思想、無施策なものであるかが思い知らされる。
考えてみればこれは、100年も前に宮沢賢治がすでに言っていることである。
100年後の私たちは、宮沢賢治の感性に追いつくことができるだろうか。
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