宮沢賢治のメッセージ
前回、宮沢賢治の「稲作挿話」の詩の一節を引用したが、ずっと以前、「ほぼ日」で糸井重里さんが書いていた文章を思い出した。
印象に残る文章だったので、たまたまパソコンに保存しておいたのである。
以下、引用させていただきます。
「学校に行って、教室やらどこやらで、
教科書とか参考書とか関連書籍とか開きつつ、
あれこれするのも勉強なのだとは思いますが、
それだけが勉強だと思ったら、まちがいなわけです。
女優の高峰秀子さんが書いた文章について、
当時、「小学校も出ていない女優さんが、
自身で書いたはずはない」と決めつけていた人が、
たくさんいたということでした。
高峰さんは、俳優という仕事をするのに、
どれくらいの脚本を真剣に読んできたことか、と、
後に書いています。
また、家族である松山善三さんの口述筆記を、
長期間にわたって続けていたことも、
文章修業になっていたのではないかと語っています。
これが、勉強でないはずはないでしょう。
福島に住む人たちが、
じぶんたちの職業や生死にも関わる問題として、
原発やら放射能の影響について勉強していることも、
ぼくらは、たくさん確認しています。
いつまでも生半可な「知識」のままで、
危なっかしい情報をばらまいている人たちに比べて、
知ることが生きていくことに直結している農家の方々が、
どれだけ真剣に勉強し、それを吸収していることか。
ほんとうに頭が下がる思いです。
ぼくが、気仙沼や陸前高田で出合っている
中小企業の経営者の方々についても、
いつでもびっくりさせられます。
生きていくためになんでも勉強してやろう。
それをじぶんの仲間や故郷のために
役立ててやろうという気迫には、ぼくなんかも、
ときどき「たましいを吸い取られる」ような
恐怖さえ感じますよ(冗談通じてるよね?)。
勉強というのは、じつは、
ずいぶん迫力のある意味を持っています。
大学でどれだけまじめに勉強したとしてもたった数年。
その後を生きてる時間、ずっと勉強している人たちは、
「専門」だったはずの人を、きっと追い抜いています」
ここに書かれていることは、宮沢賢治の詩で書かれているメッセージと同じことだ、というのは買いかぶりすぎだろうか。
しかし、東北地方で震災が起こり、原発事故が起こり、学者の言うことがあてにならず、そこに生きる人たちが自分で勉強をはじめた、ということは、同じく東北地方に生きた宮沢賢治のメッセージが、今の時代にこそ必要であった、ということを、何より示しているのではないだろうか。
私たちはようやく、宮沢賢治の感性に、追いついたのである。
悪夢のような事故が起こり、
今また、悪夢のような法律が成立しようとしていて、
僕はこの先のことを考えると、憂鬱で仕方がないのだけれど、
こうなった以上、お仕着せの知識ではなく、自分の身を自分で守るために勉強して、理論武装するしかないのだ。
いや、そうまでして頑張っても、世の中の「無思考な連中」や「無思考を望む連中」に、いとも簡単に飲み込まれてしまうかもしれない。
ただ言えることは、
これから、まがりなりにも学問を看板に掲げて生きていくためには、
「生存をかけた問題である」と意識しないことには、
支持されないだろう、ということである。
その覚悟があるか?同業者諸君。
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