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リアル・プリズンホテル

12月26日(木)

お昼休み、数か月ぶりに、職場の近くにある「よく喋るシェフのオヤジがいる店」に行く。

こぢんまりした、洋食屋さんである。料理の腕はたしかだし、値段も手頃である。

この店は、とても好きなのだが、職場の関係者がよく通っているという話を聞いて、鉢合わせするのをためらい、なかなか行く機会がなかった。だいたい2カ月に1度、という割合で、この店に行っている。

暮れも押し迫っているし、今日は大丈夫だろう、と、行ってみたところ、案の定、客は誰もいなかった。

「いらっしゃい、お一人ですか」

「ええ」

この店を一人で切り盛りしているシェフのオヤジは、私の顔を覚えているようだった。

ランチタイムなのに、客は私だけである。

というか、この店、こんなに客が少なくて大丈夫なのか?

一人でランチを食べていると、シェフのオヤジが話しかけてきた。

食べながら、四方山話をする。

しだいにそれが、シェフの「半生記」の話になる。

「お客さん、お時間ありますか?」

「ええ、まあ」

「じゃあ、お話しを聞いてくださいまし。いま、コーヒーを入れますので」

自分の生まれ故郷が嫌いで、故郷を飛び出して東京に出たシェフは、一流ホテルの厨房で修行をし、一流ホテルの料理人となるが、やがてそのホテルを辞め、故郷に戻り、いまのこぢんまりとした店を開いたのだという。いまから20年前のことである。

ホテル時代の話が、けっこう面白い。

1980年、芸能界のビッグカップルが結婚したとき、披露宴に3000人くらいの芸能界関係者が来て、その料理をつくるのが大変だった。

という話とか、

日本を代表する女優がホテルのイベントにやってきたとき、間近でその女優を見て、その透き通るような美しさに驚き、

「この人は、絶対にウンコをしない人だ、と確信しました」

という話。

おいおい、こっちは、ランチを食べているんだぞ!

なかでも面白かったのは、シェフが、とある地方の温泉街にある系列ホテルの料理長になったときの話である。

「いちど、○○組の方々がいらしたことがあったんですよ。黒塗りの車、30台くらい連ねてねえ」

「はあ」

「料理の注文の仕方がすごいんです。トップの方が、『今日は洋食が食べたい』というと、何をおいても、洋食担当の人間がかりだされます」

「ほう」

「ところが、肉料理をあらかじめ焼いてお出しすることができないんです」

「なぜです?」

「そのときの気分で、お一人お一人が肉のグラム数を指定してくるんです」

「どういうことです?」

「『俺、200グラム』、『俺、150グラム』って具合に」

「えええぇぇぇ??」

「ですから、お一人のお一人の希望のグラム数を聞いてから、肉を切り、焼かなければならなかったんです」

「そんなこと、普通はするのですか?」

「普通はそんなことしません」

やはり、勝手が違うらしい。

まるで、浅田次郎の『プリズンホテル』の世界そのものである。

「まるで『プリズンホテル』ですねえ」

と私が言うと、

「はあ」と、シェフは、よくわからないという顔をした。シェフは小説を読んでいないらしい。

はっ!待てよ…。

浅田次郎の小説のタイトル「プリズンホテル」というのは、ひょっとして、実在のホテル名の「もじり」なのか?モデルになったのは…。

俺はまた、すごいことに気づいちゃったのか?

…まあよい。

ともかく、このシェフは、一流ホテルの料理人時代、さまざまな経験をしてきたということだけは、たしかだった。

それがいまは、地元に戻り、客がほとんど来ない、こぢんまりした洋食屋さんのシェフである。

「まったく、俺は20年も、何をしていたんでしょうねえ」

シェフの愚痴が始まった。

…気がつくと、もう2時間が経っていた。

2カ月に1度くらいしか来ない客なのに、シェフの身の上話を2時間も聞くとは、まったく私もどうかしている。

「また来ますよ」と私。「職場の関係者がいない時を見はからって」

「それがいいでしょう」

午後2時過ぎ、私はその店をあとにした。

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