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灰色の棺

12月10日(火)

相変わらず、絶望の日々である。

周りの楽しげな様子を見ながら、自分のふがいなさに落ち込むばかりである。

よかれと思って頑張ってみたところで、しょせん、理解してくれる人なんて、誰もいないのだ。

タモリについての本を書いた作家が、「タモリは、すべてに絶望している」と評したというが、もしそうなのだとしたら、彼の芸風や生き方は、人間に対する絶望から生まれたものであるといえる。

今はそれをよすがに生きるしかない。

さて、

「さながら水に浮いた灰色の棺である」

とは、北原白秋の『おもひで』の序文に書かれた、故郷・柳川に対する比喩である。この一節は、福永武彦の小説『廃市』の冒頭のエピグラムとしても使われている。柳川は周知の通り、日本のヴェニスともいわれる「水の都」で、若いころに何度か訪れたことがある。

白秋が自分の故郷をこのように比喩した、なんとも絶望した感じがとても好きで、それを確かめるために、柳川を訪れたものである。

むかしから、外見に似合わず、そんなことばかり考えていた少年だったのである。

イタイやつだねえ。

このブログでときおり「軽く死にたくなる」という表現を使ったりするが、この表現は、「同い年の盟友」Uさんのお気に入りの言葉らしく、

「あの言葉が出ると、つい笑ってしまいます」

という。なんとなくわかる、ということなのだろう。

「あの感じ」を共有できる人が、たぶん、友だちと呼べるんだろうなあ。

フェイスブックをやっている同世代の友人たちに話を聞くと、

「友だちの友だち」が、フェイスブック上で「友だち」になり、一つの記事に対して、友だちや、「友だちの友だち」が、「友だち」としてコメントを書いていたりして、

「なんともカオスなんです」

という。

私自身は、フェイスブックに「友だち」としてコメントを書く、という温度の文章を書くことがまったくできないので、たぶん無理だろうな、と思う。

つまり、「家族」も「親友」も「友だち」も「友だちの友だち」も、みんな同じ空間にいるような場で、当たり障りのないようなコメントを言う才能が、まったくないのである。

だって、フェイスブックで、

「毎日絶望してばかりいます」

とか、

「軽く死にたくなりました」

などと書いたら、どう考えたってどん引きでしょう?

たまにここを覗いた人が、

「あいつ、相変わらず病んでるなあ」

と思ってもらうくらいが、ちょうどよいのである。

久しぶりに、白秋の詩でも読んでみるか。

いや、その前に、心と体の健康のために、スポーツクラブに行こう。

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