人類の泉
中学校で生徒会長をつとめていた関係から、中学校の卒業式では、卒業生代表で「答辞」を読まなければならなかった。
もちろん、自分で作文しなければならないのである。
しかも、答辞の冒頭は、有名な詩人の詩を引用しなければならない、という、暗黙の「伝統」があった。
前年度の生徒会長は、中原中也の「汚れちまった悲しみに」を、答辞の冒頭の詩として選んだ。
そのとき、2年生としてその答辞を聞いていた私は、
「ずいぶんくさい詩だなあ」
と思った。
で、今度は、私の番である。
私は、高村光太郎の「道程」という詩を選んだ。
いや、その詩を選んだのが、私だったのか、あるいは、担任の先生だったのか、覚えていない。
でもたぶん、私が選んだんだろうな。
「僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため」
まあ卒業式の答辞に引用する詩としては、無難な詩である。
このあと、私の答辞は、中1から中2,中3の思い出を、事細かに語り、全体で10分以上の長きにわたるものだった。
わが中学校史上はじめて、「卒業式の終了時間が押す」という事態になったのである。
卒業式が終わったあと、みんなから、
「おまえの答辞、長すぎるよ!」
と言われた。昔っから私は「クドい」文章を書く人間だったのである。
それはともかく。
高村光太郎のこの詩を、私自身が選んだのかどうかは、今では記憶にないが、その頃から高村光太郎の詩が、なんとなく好きだったことからすると、あるいは私自身が選んだ詩なのかも知れない。
なかでも私が好きだったのは、「人類の泉」という詩である。とくに次の一節は、今もなお、いや、今になってなおのこと、私の心に突き刺さる。
「私は今生きてゐる社会で
もう萬人の通る通路から数歩自分の路に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私は此の孤独を悲しまなくなりました
此は自然であり 又必然であるのですから
そして此の孤独に満足さへしようとするのです」
この一節を読み返してみて、「これはまるで今の自分ではないか」と、苦笑を禁じえない。
もちろんこの詩が、孤独に対する絶望の詩ではなく、すべてを理解してくれる「あなた」の存在への賛歌であることは、詩の全体を読めばわかるのだが、とくに私は、この一節に惹かれたのである。
今、私の抱えている孤独とは、こういう孤独なのではないか、と、よく思ったものである。
厄介なことに、この年齢になっても、同じ孤独感を抱えているのだから、始末に負えない。
この境地、わかってくれる人、いるかなあ。
ところで、この「人類の泉」という詩が作られたのが、1913年(大正2)のことである。
つまり、今からちょうど100年前に作られた詩なのだ!
100年前の詩人とまったく同じ気持ちになるって、すごいことだとは思わないか。
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