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2014年1月

友情の定義

あるラジオDJが、

「本当の友人とは、長い間会ってなくて、久しぶりに会ったとしても、昨日の話の続きのように話ができる間柄のことだ」

と言っていて、なるほどなあ、と思った。別に長い間、会わなかったとしても、そんなことは、友情の深さには関係がないのだ。

ふだん、自虐的なネタを売りにしているそのラジオDJは、実はとても合理主義的な考え方の持ち主である。マイナス思考のようで、実は強い。

私も友情の定義を1つ思いついたのだが、

「うまいタイミングで、心が折れないように励ます間柄」

書いてみたが、ちょっと、わかりにくい。

人間、誰しも心が折れそうになるときがあって、それはもちろん、人によってタイミングが異なるのだが、本当の友人とは、それを見はからって、ちょうどいいタイミングで、心が折れないように励ますことができる間柄。

…うーむ。どうもまどろっこしい。

やはり、最初の定義のほうが、スッキリするか。

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今度はサイバー捜査官?

1月30日(木)

ここ数日、不思議な現象が起きている。

職場の事務室からの一斉メールのいくつかが、ヘンな時間に送られてくるのである。

退勤時間を過ぎた、午後7時とか、さらには午後11時、なんてのもある。

(職員さんは、こんな時間まで残業しているのか…?)

と思ったが、まさか、そんなはずはない。

ということは、日中に送られてきたメールが、だいぶ時間が経ってから届いている、ということなのである。

ただし、職場の事務室のメールのすべてが、ということではなく、ごく一部と思われる。

いつもの悪いクセで、またいろいろと考えてしまった。

(ということは、俺が職場内の同僚たちに送ったりしたメールも、すぐに届いていなかったりするのだろうか?)

そう思うと、また気に病んでしまう。

今日、事務室に行って、事情を聞いてみると、よくわからないので職場の情報処理担当に連絡をしてくれるという。

しばらく経って、仕事部屋の電話が鳴った。

「私、この職場の情報処理担当の者です」

聞き慣れない職員さんからの電話である。

「さきほど、事務室からお電話があって、先生のところに来た事務室からのメールが、だいぶ遅れて届いたとうかがったのですが」

「はい」

「この件について調べなければならないので、もう少し詳しい事情をお聞かせ願えないでしょうか」

「はあ」

私は、「日中に出したと思われる事務室からの一斉メールが、なぜか夜に届く」という事実関係を説明したのだが、説明しているうちに、ある疑念が湧いてきた。

「あのう、…この数日に、私と同じようなことを言ってきた同僚は、他にいないのでしょうか」

「いらっしゃいません。先生が初めてです」

…これはどういうことだろう?一斉メールであるにもかかわらず、私だけがこういう目に遭っているのか?それとも、私だけがこのことに気づいているのか?あるいは、他の同僚も気づいているけれども、気に病んでいるのは私だけということなのか?

だんだん怖くなってきた。

「あの…、全然たいしたことじゃないんで、気にされなくてもいいです」と私。

「いえ、でも、システムに何か不具合があるのかもしれませんから、もう少し詳しく事情を教えてください」

全然やましいことはないのだが、なぜか、これ以上何も言わない方がいいのではないか、という気がしてきた。

「ほんとに、もういいんです」

「そういうわけにもいきません。質問を変えます。職場内で、他の部局の方とメールのやりとりをされた機会はありましたか?」

「え?…ええ」

「そのときはいかがでしたか?」

「あの、…すぐに返信が来たので、大丈夫だったと思います」

「なるほど、部局と部局の間だと大丈夫なわけですね」

「ですから、全然たいしたことじゃないんです」

どんどんいろいろなことを聞いてくるので、こちらもだんだんビビッてきた。

「そういうわけにはいきません」

仕事にきっちりした情報処理担当者だ。まるでサイバー捜査官である。

「本当にもう大丈夫ですから」

「わかりました。参考になりました。また何かあったらご連絡ください」

電話を切ったあと、急にビビッてきた。

「メールが遅れて到着する」ことについて、情報処理担当者(サイバー調査官)が調査した結果、何かとんでもない事件に巻き込まれるなんてことはないだろうか?

おりしも、韓国ドラマ「ファントム」を、最近見始めたばかりである。このドラマは、サイバー捜査官が、コンピューターを駆使して、韓国の財閥の暗部を執拗に追う、という内容のもので、コンピューター社会の恐ろしさが描かれている。

完全にドラマの見過ぎだな。

それにしても不思議である。

事務室から同僚たちにいっせいに送られたメールが、かなり遅れて、夜遅くに届いているのである。

このことに、誰も気づいていないのだろうか?

それとも、私だけに、こんな現象が起こっているのか?

あるいは、気に病んでいるのは、私だけなのか?

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筋がいいとか悪いとか

この世は魑魅魍魎、一寸先は闇である。

うっかり筋の悪い話につかまってしまうと、ヒドイ目に遭ったりする。

…と、この「筋がいい」とか「筋が悪い」とかいった言葉を、私は好んでよく使っているのだけれど、この言葉を自覚的に使い出したきっかけは、小林信彦『天才伝説 横山やすし』(新潮文庫、初出1998年)を読んだときからだったと思う。

この本は、作家の小林信彦による横山やすしの評伝だが、小林信彦のたぐいまれなる記録癖と、恐るべき記憶力によって、横山やすしとの私的交流が、臨場感あふれる文体で描かれている。

このブログの文体も、実はこの本の影響をかなり強く受けている。

この本の中に、次のようなエピソードがある。

小林信彦の小説『唐獅子株式会社』が、横山やすし主演で映画化されることになった。当初は映画化に向けて、さまざまなアイデアが出されたのだが、しだいにそのアイデアは骨抜きになってゆき、当初の理想とはかけ離れたものとなっていく。

だが、映画は、横山やすしの主演、という話題性で、そこそこ評判となり、続編の制作がささやかれるようになる。

いってみればこれは、名誉なことである。

しかし、話を進めていくうちに、どうも様子がおかしい。プロデューサーはパート2をやりたいと言っているが、資金源は確かなのか?パート2が作れる後ろ盾はあるのか?と、小林信彦は疑念に駆られるのである。

脚本家の笠原和夫が心配して、小林信彦に言う。

「小林さん、明日、天尾君(プロデューサー)に会うのでしたね」

「ええ」

「資金源を訊くことです。それから、脚本家と監督ですね。それから封切日がいつなのか確認することです。はっきりしなかったら、この話は筋が良くない」

翌日、小林は、プロデューサーの天尾を訪ね、笠原に言われたとおり、封切日、資金源、脚本、監督をたずねた。そのどれもが、未定であった。

これをきっかけに小林は、『唐獅子株式会社』パート2の企画を、自ら「殺す」ことにするのである。原作者として光栄であるはずの、パート2の企画を、である。

…15年前にこの部分を読んで、

(そうか、世の中には、筋のいい話と、筋のよくない話があるのか)

ということを学んだ(相変わらずまわりくどいな)。

自分にとってどんなに光栄である話だとしても、すぐに飛びついてはいけない。

とくに筋が悪い話に飛びつくと、エライ目に遭う。

だから、その話が、筋のいい話なのか、そうでないのかを見きわめた上で、「話に乗る」べきなのである。

なるべくなら、筋のよくない話にはかかわらず、筋のいい話にだけ、かかわっていたい。

…この本を読んだときからずっと、そんなことを漠然と考え続けているのだが、現実にはなかなか、そううまくはいかず、つい、筋の悪い話に乗ってしまったりする。

気をつけないといけない。

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英語必勝法

受験の季節です。

さあ、英語の勉強をしましょう。

今日は、「刑事コロンボ・死者のメッセージ」から、「コロンボのスピーチ」の一場面です。

教材の提供は、こぶぎさんです。

Tryspeech4"I like my job. Oh, I like it a lot. And I'm not depressed by it. And I don't think the world is full of criminals and full of murderers, because it isn't. It's full of nice people, just like you. And if it wasn't for my job, I wouldn't be gettin to meet you like this.

"And I'll tell ya somethin else. Even with some of the murderers that I meet, I even like them, too...sometimes. Like em, and even respect em. Not for what they did -- certainly not for that -- but for that part of em which is intelligent, or funny, or just nice. Because there's niceness in everyone. A little bit, anyhow. You can take a cop's word for it.

"Thank you, ladies.""

さて、これを訳してみましょう。

Tryspeech5「あたくしは、自分の仕事が、大好きでしてね。憂鬱になることなんぞありません。また、世界中に犯罪や殺人犯が満ちあふれているとも思いません。

みなさんのようないい方がいっぱいいらっしゃる。刑事をやってたからこそ、みなさんにもお目にかかれたわけです。

あたくしは人間が大好きです。

今まで出会った殺人犯の何人かさえ、好きになったほどで。

時には、好意を持ち、尊敬さえしました。

やったことにじゃありません。「殺し」は悪いに決まってます。

しかし、犯人の知性の豊かさや、ユーモアや、人柄にです。

誰にでも、いいところはあるんです。ほんのちょっとでもね。

これは刑事が言うんだから間違いありません。

失礼しました」(額田やえ子訳)

こうしてみると、額田やえ子の翻訳は、本当に素晴らしい。もとのセリフの意味を変えることなく、適切な日本語で表現している。

コロンボを英語教材に!

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コロンボのスピーチ

「刑事コロンボ・死者のメッセージ」は、シリーズの中で、目立ったエピソードというわけではないが、隠れた名篇かもしれない。

犯人は、老齢の女流ミステリー作家。愛する姪を殺した、姪の夫に復讐するため、彼を金庫に閉じ込めて窒息死させてしまう。

三谷幸喜脚本の「古畑任三郎」シリーズの「死者からの伝言」(第1シリーズ第1回、犯人役:中森明菜)と、「最後のあいさつ」(第1シリーズ第12回、犯人役:菅原文太)、「偽善の報酬」(第2シリーズ第5回、犯人役:加藤治子)の3つのエピソードは、「刑事コロンボ」のこのエピソードの影響を強く受けているものと思われる。

それはともかく。

このエピソードの中でとりわけ印象的なのは、犯人である老女流作家の講演会を聴きに訪れたコロンボが、彼女のとっさの機転で、特別ゲストとして壇上に引っ張り出され、突然、短いスピーチをする羽目になる、という場面である。

このスピーチがすばらしい。

「あたくしは、自分の仕事が、大好きでしてね。憂鬱になることなんぞありません。また、世界中に犯罪や殺人犯が満ちあふれているとも思いません。

みなさんのようないい方がいっぱいいらっしゃる。刑事をやってたからこそ、みなさんにもお目にかかれたわけです。

あたくしは人間が大好きです。

今まで出会った殺人犯の何人かさえ、好きになったほどで。

時には、好意を持ち、尊敬さえしました。

やったことにじゃありません。「殺し」は悪いに決まってます。

しかし、犯人の知性の豊かさや、ユーモアや、人柄にです。

誰にでも、いいところはあるんです。ほんのちょっとでもね。

これは刑事が言うんだから間違いありません。

失礼しました」

割れんばかりの拍手が起こり、コロンボは演壇を下りる。

もちろんこれは、老女流作家に対して自首を勧める意味を込めたスピーチなのだが、それ以上に、コロンボの人間に対するまなざしや、仕事観が力強く語られている。シリーズも終盤にさしかかり、コロンボのこれまでの幾多の犯人とのやりとりが、「人間に対する関心」に裏打ちされたものであることが、ここで初めて明らかにされるのである。

文字では、このスピーチのすばらしさは表せない。額田やえ子の翻訳と、小池朝雄の吹き替えという幸福な出会いにより、このスピーチが、コロンボの揺るぎない信念を吐露するまたとない場面となったのである。

それにしても、小池朝雄の「語り」に憧れる。

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三代目金馬の「転失気(てんしき)」

久しぶりに歌舞伎とか落語とかにふれたくなったので、落語について書くことにする。

以前にも書いたことがあると思うが、小6か中1のときに、NHKラジオの「芸能ダイヤル」という番組で、三代目三遊亭金馬の「転失気(てんしき)」という落語を聴いて、衝撃を受けた。

その当時ですでに、三代目金馬は大昔の落語家で、NHKが持っている昔の落語の音源を紹介するという企画で、ラジオ放送したのである。

これを聴いて、落語って、こんなにおもしろいのか、と衝撃を受けた。

Kinba大人になっても、この落語のことが忘れられず、音源がCD化されていないか、ずーっと探し続け、数年前、ついにそれを発見した。

この落語のことを、落語に詳しい人に聞いても、あまり印象にない、と言われてしまうのだが、私にとっては、生涯ベストワンの落語である。

ただし、ほかの落語家の「転失気」はつまらない。三代目金馬の「転失気」でないといけない。

三代目金馬の「転失気」が、なぜ好きなのか。最近その理由を、あらためて考えてみた。

この落語には、一切の無駄がないのである。

話の組み立て方といい、セリフといい、テンポといい、すべてが完璧で、無駄なところがひとつもない。言葉のチョイスも、完璧である。

落語には、マクラがあり、そこから本題に入っていくものだが、このマクラがすでにもう完璧である。一見関係なさそうな話題を出しながら、実はこのマクラが、「サゲ」で生きてくるのだ。

試みに、マクラの部分を文字に起こしてみる。

「古い川柳に、

『ブーブーを屁とも思わぬ芋酒屋』

というのがございます。むかし、吉町のオヤジ橋の角に芋酒屋という酒屋さんがございまして、安いお酒屋さんだもんですから、飲むと必ずブーブーを言う人が出てきます。そんなことはありがちで、屁とも思わないてんでございますが。

飲んでブーブーを言うってのは、糸車の方から出たお言葉、だそうでございますな。糸車はくだを巻きますと、ブーブーという音がいたします。で、「飲んでブーブーを言う」、「くだを巻く」、「絡んでいけない」なんてえのは、糸に縁がございます。

知らないで知ったふりをするなんてえのが、我々の落とし話のほうの土台でございますが、『知らない』と言いきれない場合(ばやい)があるそうでございますな。

お医者様へ行きまして、『うちの者がお腹が痛いってんですが、薬をくださいな』と申しましても、『さあ、いっぺん診察をせんとあげられんのう』なんてなことを言います。もったいぶらなくてチョコチョコッとくれたらよさそうなもんだと思いますが、すっかり調べたお方は、そういう迂闊なことができなくなるそうで。

そこへいくと我々安直なもんですなあ。『お腹が痛い?じゃあこの薬飲んでごらん』なんてんで、誰にでもおんなじ薬をすぐにやります。知らない強(つお)みでございますな」

…と、ここまでがマクラ。このあと、すぐに本題に入っていくわけだが、「えー、毎度バカバカしいお笑いを…」なんて無駄なセリフが、ひとつも入っていない。しかも、この短い中に、ちょっとした豆知識のようなものも入っている。

「転失気」は、「偉い人が知ったかぶりをしてしまうことの、可笑しさと愚かさ」が主題である。わずか12分の落語だが、三代目金馬は、これを実にテンポよく、得意の「声色の使い分け」を駆使して、無駄のない喋りでたたみかけていく。それが実に心地よいのだ。

この12分の中で、人間の弱さや可笑しさ、ずる賢さ、愛おしさが、すべて凝縮されている。

そして「サゲ」まで聴いてはじめて我々は、一見本題とは関係なさそうなマクラの意味を知ることになる。つまりこの落語は、マクラからサゲまで、完璧に計算されているのだ。

この「話の組み立て方」は、ほとんど天才的といってよい。凡百の小説家など、くらべものにならない。

この落語を聞くたびに、いつも思う。ああ、いっぺん、こんな喋りがしてみたい、と。

同業者諸君!(寅さんの「労働者諸君!」風に)

話の組み立て、言葉のチョイス、テンポ、場面転換…。

今さらながら、落語に学ぶべき点は多いぞ。

そして、世の中を落語のようにとらえれば、少しは気が楽になるぞ。

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続・親不孝の孝

1月25日(土)

夕方、父の見舞いに行く。

術後まだ2日目ということもあり、かなりしんどそうだった。

しかし、あの気の小さい父が、大きな手術を乗り越えたことは、喜ばねばならない。

手術前、「俺は手術中に死ぬんじゃないか」とか、「あと3日で死ぬ」とか、母に言っていたらしい。

このあたりは、私とそっくりである。

夜、じつに久しぶりに実家に泊まった。

古い日本家屋の1軒屋なので、とにかく寒い。

こんな寒い家で、二人で住んでいるのか…。

テレビで、卓球の選手権のニュースをやっていた。

「そういえばこの前、近所の総合体育館で、国体の卓球の試合があったから、見に行ったのよ」と母。

「卓球の試合?」

「いまテレビに出ている人も来ていたのよ」

テレビに映っている選手は、どうやら有名な選手らしい。

「やっぱり見ていると、勝つ選手っていうのは、試合前の集中力が違うわねえ」

母は、試合前の選手の様子を、じっと観察していたという。

「そういうもんかねえ」

高校時代までバレーボールに打ち込み、国体に出場し、ばりばりの体育会系だった母は、今でも、体育会系の「勘」が健在である。やはり血が騒ぐのだろう。

26日(日)。翌朝も病院に行く。

ふだん、母とはほとんど話をしたことがないが、道すがら、話をした。

仕事をリタイアしてから10年ほど、近くの「障害者センター」というところで、ボランティアをしていた。

理由は「楽しいから」。そこでいろいろな人と知り合ったりすることが、楽しいらしい。

そのせいか、じつに多くの人と知り合いである。なにしろ母は、人間観察の天才なのだ。

ボランティアを気負わずにしているところが、母らしい。母のことだから、いろいろな人に頼られているのだろう。

気負わずに楽しむことが、ボランティアの極意ではないか、とすら思えてくる。

仕事をリタイアしたら、母みたいに生きるのも悪くない、と思ったが、たぶん自分にはできないだろう。

病室に着くと、ベッドがもぬけの殻である。

何かあったのか?と思ってナースセンターに行ってみると、

「今、レントゲンを撮っています」

という。なあんだ。ドラマの見過ぎだな。

ほどなくして父が病室に戻ってきた。昨日よりはいくぶん調子がいいらしい。

母方の親戚が3人、車で2時間かけて、見舞いにやってきた。

「このままだったら、明後日くらいに退院できそうだな」

「3日で死ぬ」と言っていた父は、今度はすっかり強気である。

少し安心して、私だけ先に、病院をあとにした。

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違和感の絵解き

先日メールをくれた学生のAさんが、木曜日(23日)の夕方に仕事部屋に訪ねてきて、小一時間ほど話をした。

Aさんは、直接教えたことのない学生なのだが、ふとしたことから、私に相談に来るようになり、たまに話を聞いたりしている。

そうしたら今日、「先日はありがとうございました。自分の気持ちが整理されて、頭の中がスッキリしました」とメールが来ていた。

私自身も愚痴の多い人間なのだが、学生や、大人の友人から、悩みとか愚痴、といったものを、聞く機会が多い。

そこに共通しているのは、「悩み」というよりも、「違和感」である、ということに気づいた。

もっと具体的にいえば、「他者に対する違和感」である。

自己と他者の考え方や認識の違いにとまどったり、憤ったりする。「他者はなぜこう考えるのだろう?」「なぜ自分の意見が理解されないのだろう?」など。

その「他者」というのは、個人であったり、大多数の人であったり、さまざまである。

それが、悩みのほとんどを占めていることに、気づいたのである。

他者に対する「違和感」がどこから来るのか、それを説明しがたいことに、人は戸惑うのである。

私は話を聞き、頑張ってその人の「違和感」を「絵解き」しようとつとめる。その「絵解き」が正しいのかどうかは、わからない。

だが自分の中の「違和感」の理由をなにがしか説明できれば、少しは、気が楽になろうというものである。

いつの間にか私は、その「絵解き」が役回りになっていた。

考えてみれば、学生や友人にとって、私はたんなる「狂言回し」に過ぎないのかも知れない。

だがその役回りも、もはや役割を終えつつある。

他者に対する「違和感」を感じていた人は、おそらく自らも「絵解き」できるようになったり、「違和感」に対して以前ほど気にしなくなったり、さらにはほかの人に「絵解き」を求めたり、と、変わってゆく。

かくして「絵解き」の役回りは、必要とされなくなり、しだいに私は視界の外へと追いやられていく。

それはたぶん、喜ぶべきことなのだろうと思う。

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動き出せ、小さな連携

1月24日(金)

また自画自賛です。

先日、ある仕事の関係で控室に待機していると、同僚のFさんが、

「この前の短期留学生の帰国報告会、面白かったですねえ」

と言ってくれた。わざわざ聞きに来てくれた数少ない同僚の一人である。

月並みな帰国報告会ではなく、短期留学から帰国した6人の学生に、こちらからお題を出して、そのお題に即した体験を、写真を交えながら話してもらう、という形をとった。これを私たちは「大喜利形式」と呼んだ。

成功したのは、6人の学生たちの資質の高さによるところが大きい。

誰も褒めてくれないので書くが、かなり入念な打ち合わせをして、準備に相当時間をかけたのである。宣伝だって頑張った。誰に頼まれたわけでもないのに、である。

そうそう、それで思ったのだが。

私は、「頼まれてもいない仕事」に力を注ぐことが好きである。

だが、それがいったん義務化してしまうと、とたんにぶんむくれになる。

「思考を停止した仕事」ほど、つまらない仕事はない。

この「帰国報告会」の仕事は、誰に頼まれたわけではなく、自分のやりたいようにやり、その代わり、「やった甲斐がなかったねえ」とか言われたりしたら癪だから、かなり力を入れたのだった。

さて今日、「帰国報告会」を一緒に企画した同僚のNさんがやってきた。

「こんな企画を立ててみたんです」一枚の紙を私に見せた。2月の後半にやるイベントである。「この前の帰国報告会のときと同じような方法で、できないかなあ、と」

あの「帰国報告会」が、次につながっている!決して無駄ではなかったのだ。

次につながる。それだけでも十分にうれしい。

「どうせなら、この企画をできるだけ多くの学生に宣伝しましょう」

前回のノウハウを思い出し、そのときに宣伝を買って出てくれた同僚のIさんのところに行く。

「この前みたいに、宣伝してもらえませんか」企画書を見せた。

「いいでしょう。お手伝いしましょう。たくさんの人が来るといいですね」

かくして、小さな連携が動き出した。

まったくもって、誰に頼まれた仕事というわけでもないのだが、志ある人たちがこうした小さな連携を続ければ、必ずや大きな形となるだろう。

私はその希望を、捨てていない。

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策士映画

久々の妄想映画論ですよ。

1950年代の黒澤映画には、「七人の侍」「隠し砦の三悪人」などの娯楽活劇の大作があるが、1960年代の黒澤映画は、それまでとは趣を異にする。小粒だが、極上の娯楽映画を作り上げるのである。

とくに、黒澤映画で大ヒットしたのは、次の3作品である。

「用心棒」(1961年)

「椿三十郎」(1962年)

「天国と地獄」(1963年)

この3作品に共通する特徴は何か?

すごい共通点を発見した。

それは、「策士の映画」ということである!

「用心棒」は、2つのやくざ勢力が対立する上州の宿場町に現れた流離の浪人、桑畑三十郎(三船敏郎)が、対立する両方の勢力に自分を用心棒として売り込みつつ、巧みに相討ちを仕組んでいく、というストーリーである。

「椿三十郎」は、とある藩の内部に起こった権力闘争。藩を乗っ取ろうとする大目付の不正を暴くため、藩の若武者たちが、ふとしたことで知り合った素浪人、椿三十郎(三船敏郎)とともに、大目付一派の悪事と戦っていく。

両者に共通するのは、三船敏郎演じる浪人の、策士ぶりである。もちろん敵方も、策を弄するのだが、敵方は「策士、策に溺れる」存在として描かれている。

「用心棒」「椿三十郎」は、たんなるアクション時代劇ではない。知力が重要な要素となっているのである。

「策を弄することの愚かさと痛快さ」が、この2つの映画の本質なのだ。

では、「天国と地獄」はどうか。

後半の、犯人を追い詰める場面に、仲代達矢演じる刑事の「策士ぶり」が、存分にあらわれているではないか。

知恵を使って、犯人を追い詰める。

そこに我々は、痛快さを見いだすのである。

この3作品で存分に発揮されている「策士性」(こんな言葉あるのか?)こそが、これらの映画を痛快たらしめているのである。

黒澤明は、意識して、これらの娯楽映画に「策士性」という要素を取り入れたのではないだろうか。

それはこの時期、黒澤明がこの点に執着していたことを意味するのだろう。

現実世界を見たまえ。

どこの世界も、権力闘争に明け暮れ、策士たちが策を弄しているではないか。ときにそれは、愚かでもあり、可笑しくもある。

当時50代に入ったばかりの黒澤明は、そんな現実世界の権力闘争の愚かさを身にしみて感じる年齢となり、それを、娯楽映画の中に皮肉を込めて表現したのではないだろうか。

「用心棒」の前年の1960年に、「悪い奴ほどよく眠る」が公開されていることも、それと関係するのかも知れない。

この時期の黒澤明には、どんな現実がとりまいていたのだろうか。

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親不孝の孝

1月23日(木)

心が弱っているついでに、書いちゃえ。

今日、父が二度目の手術をするという。

3年前、難しい手術をした。そのときは、私も職場を休んで病院に付き添った。

難しい手術は成功し、今はふつうの生活をしている。

おかげさまで両親は健在で、いま二人暮らしをしている。私の世代で両親が健在だというのは、ありがたいことである。

今回もまた、大きな手術である。

年老いて2度も大きな手術をするのは、しんどいだろう。

昨日、母から、ふだんはめったに来ない携帯メールが来た。

「明日の手術は朝一番で、9時半に手術室に入ります。私は8時半には行っています」

そのあとに、こうあった。

「休んでまで来なくていいです。心配しないで仕事に励みなさい」

仕事に励みなさい、という言葉に不意打ちを食らった。

俺は今まで、ずいぶん親不孝をしてきた、と。

今まで、何と気ままな生き方をしてきたのだろう。

東京を離れてからというもの、実家の両親に会うのは、年に数回である。

盆と正月と、5月の大型連休と、あと1,2回くらい。これも、私の世代ではふつうのことか。

せめて手術の時くらいは行かなければ、とも思うのだが、仕事を休めないことを知っている母は、

「仕事に励みなさい」

という。

これは、私の母特有の「痩せ我慢」だろうか。

むかしから、そんなところがあったからなあ。

いくら気丈な母でも、一人で手術に立ち会うのは、心細いのかも知れない。

3年前の難しい手術の時も、見ていてそんなことを感じた。

だが、母に言われたように、行かないことに決めた。

「仕事に励みなさい」

心が弱っているせいか、この言葉が、突き刺さる。

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損をしたっていいじゃないか

1月22日(水)

相変わらず、心がどんよりな日々である。

「この場の日常」の視界から、しだいに外されていくような感覚。

そんなおり、学生のAさんからメールが来た。

自分と他者との考え方の差に、自分で疲れている、という。

よかれと思ってやってきたことが、今では自分の主張を守るために意固地になっているにすぎないのかもしれない、と、自分を疑いはじめているという。

よかれと思ってやっていることに、「なんでそんなことするの?」と言われ、そんな思いまでして、その人たちのためにする必要があるのだろうか、と。

そこまでしてやることが、無駄なように思えてきて、「やるせない気持ちです」と、ふだんは気丈でへこたれることのないAさんが、書いてきたのである。

うーむ。まるで自分を見ているようだな。

返事を書いた。

「自分のやっていることがまわりに理解されない」というのは、私自身もいつも経験しています。「よかれ」と思って提案したことが、まったく理解されなかったり、会議の場で正論を吐いたつもりが、まったく援護射撃を得られなかったり、そんなことの連続です。Aさんと同じように、自分が意固地なだけなのではないか、と、たまに苦笑することがあります。

どんな組織にも、「無言の人びと」がいて、そこには、自分を支持してくれる人や、厄介なヤツだと思う人など、さまざまな人がいるのだと思います。

でも間違いなく言えるのは、正論を吐き続けている限り、「無言の人びと」の中には、「無言の支持者」がいる、ということです。

以前、ある仕事を担当していたとき、よかれと思ってさまざまな提案をしたのですが、まわりの反応は、それはそれは冷ややかなものでした。誰だってかかわりたくない問題ですからね。それこそ「やるせない気持ち」になりました。

でも、救いだったのは、援護射撃してくれるひとりの同志や、ごくわずかですが「無言の支持者」もいたことです。そのことが支えになりました。

それからというもの、「どんなにまわりが、自分のやっていることを理解してくれないようにみえようとも、正論を吐き続けよう」と思うことにしました。自分が言わなければ、誰も言わないのだとしたら、自分が言うしかないでしょう。

それは、「自分は単に意固地なのではないか」と疑問を持ち続けている限りは、意固地ではないことだと思います。

社会に出たら、たぶん、こんな思いをくり返すことになると思います。

損をする性格だと思いますよ、Aさんは。

でも損をしたっていいじゃないですか。それが性分なんですから。」

まるで自分に言い聞かせるように書いた。

Aさんがどんなふうに受け止めたかは、わからない。

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1979年の緒形拳

今日は特段書くことが思いつかない。

些細なことを思い出したのだが、子どもの頃、日本テレビの土曜夜9時の「土曜グランド劇場」という枠で放映していた、「ちょっとマイウェイ」という連続ドラマが好きだった。鎌田敏夫脚本、桃井かおり主演のドラマである。

東京の代官山を舞台に、まったく客の入らない、小さな洋食レストランを立て直すために、そのレストランの末娘の桃井かおりが奮闘努力する、というドラマである。

いわゆる「レストランもの」で、後の、三谷幸喜の「王様のレストラン」にも連なる系譜のドラマといってよい。

私が小さな洋食屋に憧れるのは、このドラマの影響ではないか、と思う。

で、思いだしたことというのは、ドラマに出てくるこの小さなレストランの名前が、「ひまわり亭」だということである。

私がよく行く、「よく喋るシェフ」が一人で切り盛りしている小さな洋食屋と同じ、「ひまわり」の名を冠した店名なのである。

町の小さな洋食屋さんは、「ひまわり」を意味する店名をつけると、なんかいいことがあるのか?いっぺん調査してみる必要があるな。

ね?些細なことでしょう?

このドラマで、料理長を演じていたのが、緒形拳である。

そして、桃井かおりの姉で、レストランを経営するこの家の長女が、八千草薫であった。

「放浪の料理人」である緒形拳が、店の立て直しのために、たまたまこの店に雇われることになるのだが、緒形拳と八千草薫は、しだいに惹かれあっていく。

もちろんこのドラマはコミカルな内容なので、あくまでも、二人にほのかな感情が芽生えるというていどに過ぎない。

それでまた思い出した。

この二人は、向田邦子脚本のNHKドラマ「阿修羅のごとく」でも、夫婦役で共演していたのだ。

さらに調べてみると、「ちょっとマイウェイ」と、「阿修羅のごとく」は、同じ1979年に放送されていた。

同じ年に、緒形拳と八千草薫は、タイプのまったく異なる2つのドラマで、相手役として共演していたのだ。

当時、リアルタイムでこの2つのドラマを見ていた人は、どんな感じだったのだろう。

そればかりではない。

同じ1979年に公開された今村昌平監督の映画「復讐するは我にあり」にも主演している。この映画で緒形拳は、連続凶悪殺人犯を演じている。

1979年当時、緒形拳は、どんだけドラマや映画に出まくっていたんだ?

前年の1978年にはTBSの森村誠一シリーズ「青春の証明」で、犯人を執拗に追いかける刑事役を熱演している。私はこのドラマを、リアルタイムで見ていた。さらに同じ年、松本清張原作の映画「鬼畜」にも主演している。

1979年前後の緒形拳は、役者として、主役をはらない日はないくらい、まさに脂ののりきった時期だったのだ。

今の私より、ちょっとだけ若い緒形拳。

あらためて緒形拳の役者としての凄さに、思いを致さずにいられない。

さて、その「ちょっとマイウェイ」の主題歌、「夜明けのマイウェイ」は、今ではほとんど知られていないが、隠れた名曲である。

(この記事のタイトルは、ある歌のタイトルや映画のタイトルをもじったものです。わかるかな?)

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吹きだまりのバンクシー

1月20日(月)

夕方、授業が終わり、仕事部屋に戻ろうと構内を歩いていたら、こぶぎさんとすれ違った。

「どうしたんです?」

「どうしたもこうしたも、仕事ですよ」

うちの職場でやっている会議にまじめに出席していたらしい。

「今授業が終わったところです」と私。

「このあと、何かあるの?」

「これからいくつか用事を済ませて、6時から8時まではボランティア作業ですよ。せっかくだから、晩飯でも食いたいですね」

「じゃあそれまで待ってますよ」

「まだ4時20分ですよ。時間つぶせます?」

「大人ですから」

そう言っていったん別れた。

6時からの作業には「同い年の盟友」Uさんも来ていた。

Uさんは、このブログを読んで「こぶぎさん」の存在は知っていたが、こぶぎさんを見たことがなかった。

「こぶぎさんって、どんな人なんです?」

以前からUさんは、こぶぎさんがどんな人なのか、気になっていた。

「あとで、こぶぎさんが来ますよ」

「マジッすか?」

作業が終わると、どこで時間をつぶしていたのか、こぶぎさんが建物の入り口に来ていた。

こぶぎさんとUさんの、初対面である。

「はじめまして」

「おうわさはかねがね」

何か、妙な感じである。

人生においてまったく接点のない、このブログの登場人物が、顔を合わせている。

Uさんは、用事があるというので、家に帰った。「今度必ず、オフ会をしましょう」

作業仲間のSさん、T君を含めた4人で、「しょうゆパスタの美味しい店」に行く。

考えてみれば、この二人も、もともとこぶぎさんとは接点がなかったのだ。

…そうか!こぶぎさんは、イギリスの覆面芸術家、バンクシーみたいな人か。

(先日、同僚のFさんに教えてもらったばかりの「バンクシー」を、さっそく比喩に使わせてもらった)。

コメント欄に変幻自在に現れるこぶぎさんは、当ブログの「バンクシー」と呼ぶにふさわしい。

そう思うと、あまり正体を明らかにしない方が、実はおもしろいのかもしれない。

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ザ・思春期

中1のときは、1年C組だった。

席が隣同士だったサノ君と仲よくなり、後ろの席で机を並べていたチバさんとナカヤマさんの二人とも、仲よくなった。

私を含めたこの4人が、仲良しグループだった。

チバさんとナカヤマさんは、バスケ部である。

二人に関するエピソードは、以前に書いたことがある(「ナカヤマさん」「もし中学校の合唱部の顧問だったら」)。

どれくらい仲がよかったかというと、うちの中学では、1年生の最後に学年文集を作るのだが、そこに、チバさんとナカヤマさんが、4人が仲よく歩いている似顔絵イラストを描くぐらい、仲がよかったのである。

つまり学年全体に、仲のよさを表明したことになる。

2年生になって、クラス替えがあった。

私とナカヤマさんは、同じE組になったが、サノ君はD組、チバさんはC組である。

2年E組もなかなか面白いメンバーが集まっていて、すぐに仲良しグループができた。E組には、ナカヤマさん以外にも、クロサワさん、ウラノさんがバスケ部に所属していて、毎日昼休みに、彼女たちが中心になって、男女の仲良しグループで体育館に忍び込んで、バスケットボールをすることになった。

私はバスケットボールがまったくの苦手だったが、ナカヤマさんになんとか気に入られようと、かなり必死にその仲良しグループにまじって、一生懸命バスケットボールを練習した。

クラスが別になってしまったチバさんとは、最初は廊下ですれ違うたびに、いろんな話をしていたのだが、そのうち、廊下ですれ違っても話しかけてくれなくなり、そればかりか、あんなに仲のよかったナカヤマさんとチバさんも、話をしているところをほとんど見ることがなくなってしまったのである。

原因がどこにあったのか、よくわからない。

ナカヤマさんは、「なぜチバちゃんが私を避けるのか、わからない」と私に言ってきたが、私にも、その理由がわかるはずはない。

ただ単に、ナカヤマさんが、E組のクラスメートと仲よくなったので、チバさんが、ナカヤマさんに近づきがたくなったのかもしれないと思った。意外と、そのていどの理由だったのだろうと思う。

なにしろ、E組の仲良しグループは、毎日昼休みに体育館に忍び込んでバスケットボールをするくらい仲がよかったのだ。チバさんは、そこに入り込めずに、しだいにこちらを避けていったのだろう。

昼休みに仲良しグループに囲まれているナカヤマさんにとっては些細に思えることが、チバさんにとっては、深刻な問題だったのかもしれない。

自意識過剰の思春期ならではの出来事ともいえる。

3年生になって、私とサノ君はA組、ナカヤマさんはE組、チバさんはB組となった。

同じクラスになったサノ君とは、ふつうに仲がよかったが、1年生の時ほど仲がよいというわけではなかった。ナカヤマさんはしだいに私に話しかけなくなり、チバさんに至っては、廊下ですれ違っても無視されるほどになってしまった。

結局、1年生のときの仲良し4人グループは、卒業のときには、すっかりバラバラになってしまったのである。

このときの体験がトラウマになって、仲良しグループほど実は脆いものなのではないか、と、その後の私の心の中に影を落としていくことになるのだが、これも思春期によくあることかも知れない。

その後、チバさんとは成人式のときに会ってふつうに話をしたが、それ以降、いまはどうしているか、まったくわからない。

サノ君とナカヤマさんとは、15年くらい前の同窓会で、一度会ったきりだが、それ以降、いまはどうしているか、まったくわからない。

そんな思春期の、思い出話。

ま、今となってはどうでもいい話なのだが。

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屁理屈は私を救う

私が「屁理屈芸人」と分類している人たちがいて、その筆頭は、引退した上岡龍太郎である。

私が「屁理屈芸人」に共感するのは、私自身が屁理屈な人間だからである。

そもそも、「あいつは理屈ばかり言う」というのと、「あいつは屁理屈ばかり言う」というのに、どんな違いがあるのか、よくわからない。

「理屈」も「屁理屈」も、結局は同じことである。

私を知る人はよくわかっているように、私は何かと、しなくてもよい妄想にとらわれ、うじうじと悩む。

被害妄想というのか、加害妄想というのか、自意識過剰というのか、他意識過剰というのか。

そのどれもが混ざり合った感情である。厄介な性格ですよ。

さすがに親しい友人も、私のそういう部分に嫌気がさすらしいのだが、一度深みにはまると、どうしようもなくなるのである。

先日、ある友人から電話があった。あることを依頼されて、その友人の依頼にはぜひこたえたかったのだが、あいにくその日は都合が悪い。

申し訳ない、と電話口で話すと、その彼は、

「いやいや、気にしないでくださいよ。いつもみたいにまた悶々として、気に病まれると困っから」

さすが、私のことをよく知っているなあ、と電話口で大笑いした。

しかし、である。

そんなことばかり考えていては、本当に気に病んでしまう。

それを解決するのが、「(屁)理屈」なのである。

ここ最近も、あることでモヤモヤと悩んでいたのだが、ある「理屈」で、「絵解き」をしたところ、

(なるほど、そういうことか!)

と合点がいって、モヤモヤとした妄想の霧が、晴れていく感じになった。

(なんでこんなことをするんだろう?…そうか!かくかくしかじかだから、こういうことをするわけか!)

すべて理詰めで、説明していく。

いったん自分がたてた理屈で説明していけば、面白いくらいにその現象が解き明かせる。

それが正しいかどうかは、もちろんわからないのだが、その「仮説」で、これまでのモヤモヤの原因が説明できるような気になるのである。

それで思うのだが、人間は、説明のできないことに対して、不安に思ったり、不審に思ったりするものなのだ。

友人や学生から受ける相談というのは、たいていそういうものである。

自分の中でそのモヤモヤの理由を説明できるようになれば、いくらか心は軽くなるのではないだろうか。それは、屁理屈でもかまわないのだ。

思い返してみるに、今まで私は、そうやってなんとかここまで生きてきたのだ。

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ここはひまわり通り

1月17日(金)

お昼に、「よく喋るシェフ」の店に行く。

「今日もお一人ですか?」

「ええ。いつだってそうですよ」と笑いながら私。

入口側のテーブル席に案内された。奥のテーブルに2人組の女性客がいた。

先客がカウンターに1人いて、食事をしながらシェフと喋っている。

(今日は、ランチだけ食べて、帰ろうかな…)

ランチがもうすぐ食べ終わるかな、というころ、シェフがカウンターの先客との話を少し中断して、コーヒーとケーキを出してくれた。

「どうぞ。これでも食べて、元気を出してください」

時間稼ぎか?どうも、私を帰さない作戦らしい。

カウンターの先客が店を出ると、シェフは私のところに来てお喋りをはじめた。

奥のテーブルにいる女性客におしりを向けて、ずーっと喋っている。

今日の話題は、「昔のプロレス番組」である。

ジャイアント馬場、アントニオ猪木、デストロイヤー、ミルマスカラス…。

ひとしきりプロレスの話をしたあと、ひとつ、前から気になっていたことを、シェフに言った。

「隣の定食屋さんの名前、『ひまわり』ですよね」

「ええ」

「このお店の名前も、ひまわりの学名を意味する言葉ですよね」

「そうです」

「このあたり、ひまわりと何か関係あるんですか?」

「いいえ、関係ありません。おそらく隣の店は、この店の名前の意味なんかわからずに、『ひまわり』という名前をつけたんでしょう」

「そうですか」

つまり、「ひまわり」という意味の名前を持つ店が並んでいるのは、まったくの偶然だというのだ。

「前々から思っていたんですけど」と私。

「何でしょう」

「ひまわりを意味する名前の食堂が並んでいるから、この店の前の通りを、『ひまわり通り』としたらどうでしょうね」

「なるほど、それはいいですね。そうすれば、もう少しお客さんが入るかも知れない」

「そう思います」

「でも、もう一つか二つ、ひまわりにちなんだ名前のお店があればいいんですがね」

「それも考えたんですよ」私は続けた。「ひまわりを意味する各国の言葉を店の名前にして、お店を出したらどうか、と」

「なるほどねえ。それはいい考えですねえ」

ひととおりお喋りが終わり、お店を出た。

問題は、この通りにどんなお店を出すかだな。この人通りの少ない場所に、お店を出す人なんかいるだろうか。

そうか!自分が出せばいいのか!

この稼業を引退したら、この通りに、「サンフラワー」という喫茶店を出したらどうだろうか。

そしてそのときに、この通りは晴れて「ひまわり通り」になるのだ。

そのときまで、シェフはこの店を続けてくれているだろうか。

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文化系少年の共演

高野寛って、どのくらいの知名度なんだろう?

私と同世代ならば、中学生のころにYMO(Yellow Magic Orchestra)というバンドに傾倒していた男子は多かったのではないかと思う。

やがて1990年代頃から、YMOに影響を受けたミュージシャンが活躍するようになる。彼らは「YMOチルドレン」とも呼ばれた。高野寛も、その一人である。

ちなみに、私とほぼ同い年のライムスター宇多丸さんも、YMOの影響を強く受けた一人である。子どもの頃、楳図かずおのマンガにも強い影響を受けたとラジオで語っていたから、思春期の人格形成は、私とまったく同じである。

それはともかく。

高野寛が出した「Sorrow&Smile」というアルバムは、珠玉の名曲集である。たしか坂本龍一がプロデュースしたアルバムだと記憶しているが、違うかもしれない。アレンジを担当していたことは、たしかである。

この中に、「夢の中で会えるでしょう」という曲があって、もともとはキングトーンズという老舗の男性コーラスグループに提供した作品である。

キングトーンズは、「Good Night Baby」というヒット曲で有名であるが、「夢の中で会えるでしょう」は、この曲のテイストを生かした、名曲である。

高野寛本人が歌ったバージョンでは、坂本龍一がアレンジをしていた。

20年ほど前、武道館で行われた坂本龍一のコンサートに行ったとき、ゲストとして高野寛が登場し、この歌を歌った。その日のコンサートの曲の中で、いちばん盛り上がったのが、この曲だった。

「僕の曲よりも、みなさん盛り上がってますね…」

と、坂本龍一がそのときボソッと言ったことを、今でも覚えている。

ところで、NHK教育テレビでむかし、「ソリトンSide-B」という、サブカル好きな若者向けのトーク番組があって、その番組の司会が、高野寛と緒川たまきだった。

坂本龍一がゲストの回のとき、番組のエンディングで「夢の中で会えるでしょう」を二人で演奏したのだが、リアルタイムで見ていて、これがことのほかすばらしかった。1990年代の半ばくらいだったと思う。

番組用に、高野寛のギターと坂本龍一のピアノだけのアレンジで演奏されたのだが、このアレンジがじつにすばらしく、アルバムのオリジナルバージョンよりも、好きだった。

とくに、坂本龍一のピアノ伴奏は、すごくかっこいいなあと思った。

そのときの演奏をもう一度見てみたいなあと、長い間ずーっと思っていたのだが、ふと思い立ってインターネットで検索してみると、動画サイトにあがっていることがわかった。

やはりこの演奏は、すばらしい。

今見ると、高野寛も坂本龍一も、とても若い。

二人とも、文化系少年をこじらせたような雰囲気である。

映像を見ると、高野寛と一緒に司会していた緒川たまきが、静かにたたずんで二人の演奏を聴いている。

緒川たまきは当時、サブカル好きな若者たちに熱烈な支持を受けていた女性だったと記憶する。

文化系をこじらせた少年が、大人になって共演した演奏。

「夢の中で会えるでしょう」

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キョスニムと呼ばないで!~誕生祝い編~

1月16日(木)

昨年末のことだったか。

3年生のSさんから、

「1月16日は、年明け最初の演習の日ですよね。演習開始の時間より30分早く、演習室に来ていただけますか?」

とだけ言われた。

今日。

言われたとおり、演習が始まる30分前の12時半に演習室に行くと、学生が15人ほど集まっていた。

黒板には、

「キョスニム、お誕生日おめでとうございます!」

と書いてあるではないか!

Photo


「お誕生日、おめでとうございます!」

3年生のSさんは、ホールケーキを二つ、持ってきた。

見ると、ケーキにも、

「キョスニム、おたんじょうびおめでとう」

と書いてある。

2

むちゃくちゃ嬉しい!

涙が出そうになったが、大人なので、グッとこらえた。

2つのホールケーキにろうそくが立てられ、火がともされ、演習室の電気が消された。

学生たちが手拍子しながら「ハッピーバースデイの歌」を歌い始めた。

「は~っぴば~すでい~とぅ~ゆ~」

フーッ!

パチパチパチパチ!

なんともベタな「ろうそくの火消し」である。

あらためてこの儀式をちゃんとやってみると、めちゃくちゃ恥ずかしい!

真冬なのに、大量の汗をかいた。

授業の場で祝ってもらったのは、生まれて初めてである。

ケーキを切り分けてみんなで食べ、1時から、通常通りの演習をはじめた。

今年は、本当にたくさんの人に、誕生日をお祝いしてもらった。

こんなにたくさんのお祝いの言葉をもらったのは、生まれて初めてではないだろうか。

学生たちにこんなに祝ってもらって、本当に私は、果報者である。今までの人生からは、考えられないほどである。

…ひょっとして俺、もうすぐ死ぬんじゃないか?

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リソグラフ捜査官

(リソグラフに関心のない人には面白くない話です)

1月14日(火)

夜、翌日に使う資料を印刷しようと、印刷室のリソグラフを使う。

いつも通り、原稿と紙をセットして、製版、印刷の手順で操作をする。

あとは、自動的に印刷されてくる資料を待つだけである。

一定のリズムで、印刷された紙が出てくる。

設定した枚数の印刷が終わり、仕上がったものを見て驚いた。

ビックリするくらい印刷が薄いではないか!

(またか…)私はため息をついた。(これで何度目の被害だろうか?)

話は数週間前にさかのぼる。

印刷室のリソグラフで資料を大量印刷して、仕上がった資料を見たところ、ビックリするくらい、印刷が薄いことに気づいた。

どうしてこんなことになるのか?手元の操作盤を見たところ、「印刷濃度」が「最薄」、「印刷速度」が「最速」になっていたことに、あとになって気づいたのである。

ここまでは、よくあることである。手元の操作盤で調整すればよいだけである。

ところが、何度印刷しても、出てくる資料の仕上がりは薄いのだ。

前もって濃度を指定せずに製版をすると、「印刷濃度」が最初の設定である「最薄」に戻ってしまうらしい。

そもそも、最初の設定が「最薄」である、というのがおかしい。

よくよく調べてみると、リソグラフの初期設定にあたる「環境設定」の「読取濃度」「印刷濃度」が「最薄」、「印刷速度」が「最速」に設定されていたことがわかった。

つまり、リソグラフの初期設定が、そもそも「最薄」「最速」なのである。

これでは、何度手元で操作しても、「初期設定」である「最薄」に戻ってしまうはずだ。

何者かが、リソグラフの初期設定を、わざと「最薄」に変えてしまったとしか考えられない。

それにしても、なぜ、こんな手の込んだことをしたのだろう?

ふつう、リソグラフの初期設定を変えてしまうことまでは、しない。

なぜなら、ほとんどの人は、リソグラフにそこまで関心がないからだ。

だから通常の環境においては、「印刷濃度」は「オート」、「印刷速度」は「ふつう」に設定されているのである。

「環境設定」を変えてしまおうとまで考える人間は、リソグラフに関してそうとう知識のある人間とみてよい。

それも、「最薄」という、誰も得をしない設定に変えているというのは、どういうわけか?

もし「最薄」という設定で印刷したいのならば、わざわざ「環境設定」を変えなくとも、手元の操作盤にある「読取濃度」「印刷濃度」のボタンを、そのつど「最薄」に設定すればすむ話である。

それを、わざわざ「環境設定」を変えてまで「読取濃度」「印刷濃度」を「最薄」にしたのは、なぜなのか?

そして、「環境設定」を変える、という手の込んだことを、誰がしたのか?

地味なイタズラか?

愉快犯か?

印刷室に恨みを持つ者の犯行か?

それとも、もとの原稿がよっぽど濃いために、薄く印刷する必要があったのか?

とりあえず、このことを担当の職員さんに言いに行くと、担当職員さんは、「環境設定を変えないでください!」と書いたシールを作って、目につくところに貼ってくれたのである。

ところが、それから数週間経ったこの日の夜。

リソグラフで印刷をすると、またもや、ビックリするくらいインクの薄い資料が仕上がってしまったのである。

調べてみると、やはり「環境設定」が「最薄」「最速」に変えられていた。

「環境設定を変えないでください!」というシールが貼られているにもかかわらず、この警告は、無視されていたのである!

警告をモノともしない、恐るべき犯人!いったい犯人は誰なんだ!?

私はリソグラフの「環境設定」を開き、「読取濃度」「印刷濃度」を「オート」、「印刷速度」を「ふつう」に設定し直した。

まるで、コンピューターのハッカーと、それを防ぐサイバー捜査官の「いたちごっこ」のような様相を呈してきた。

「環境設定」を直しながら、ふと思う。

もし、「環境設定」のあらゆる部分を、あらかじめむちゃくちゃに設定してしまったら、それに気づかずに印刷をした同僚たちはとんでもない被害に遭い、印刷室は大混乱をきたすのではないだろうか?

これは「サイバーテロ」ならぬ、ちょいとした「リソグラフテロ」である!

俺はリソグラフ捜査官か?

翌朝、担当の職員さんのところに行った。

「リソグラフの印刷濃度、昨日、また何者かによって『最薄』に初期設定されていましたよ。直しておきましたけど」

「またですか?せっかくシールを貼ったのに」職員さんは呆れていた。

「犯人はわかっているんですか?」

「それがわからないんです」

話を総合すると、どうやら火曜日を中心に、何者かによって「環境設定」が「最薄」に変えられているらしい。

犯人は特定できるのか?

こうなったら、火曜日に印刷室を張り込みするしかないが、私もそこまでヒマではない。

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新年最初の憂鬱な火曜日

1月14日(火)

おっと、肝心の今日の1日の出来事を書き忘れました。

朝、隣県からお客さんが二人いらして、「依頼された仕事」をしました。

わざわざ隣県から私ごときを頼って来ていただくのは、嬉しい限りです。

「依頼された仕事」は午前中では終わらず、お昼休みになりました。

お客さん二人を「よく喋るシェフの店」にお連れしたのですが、あいにく今日にかぎって満員御礼。仕方なく、隣の定食屋さんに行くも、定休日。

さらにその隣の、小さな喫茶店みたいな店にはじめて入りました。

すると、おばあちゃんが経営している古い喫茶店のようで、店内は狭いが、おばあちゃんの常連さんがたくさん来ています。

おばあちゃんのお客さんが水を持ってきてくれたりして、もう誰がお店の人で、誰がお客さんだか、よくわかりません。

「日替わりランチのご飯がなくなっちゃったから、ラーメンにしてくれ」と、店のおばあちゃん。

仕方がないので、ラーメンを注文しました。これまた懐かしい味のラーメンです。

お二人には申し訳ないことをしたかな、と思いましたが、まあこれはこれでよしとしよう。

お昼休みをはさんで、「依頼された仕事」は3時前に終わり、一つ肩の荷が下りました。

そのあと、重要な仕事があります。

それは、「卒論を受けとりに行く」という仕事です。

おそるおそる「卒論受け渡し会場」に行くと、なんと、10人全員が、無事、卒論を提出していて、とても安心しました。

ひとまず、ホッとした1日でした。

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さよならだけが人生だ

1月14日(火)

新年明け授業初日。

映画「幕末太陽伝」を監督した川島雄三は、45歳で急逝した。

45歳といえば、いまの私と同い年である。

川島雄三の生前の口癖は、「さよならだけが人生だ」であったという。

この言葉は、周知の通り、井伏鱒二が「勧酒」という唐代の漢詩の、「人生足別離」という部分を、「さよならだけが人生だ」と意訳したことで広まった言葉である。

病を抱えていた川島にとって、くり返し口ずさむべき言葉だったのだろう。

川島が監督した「幕末太陽伝」を見ても、どこか、諦念といったものが感じられる。

人は、別れが悲しいといい、名残惜しいと口ではいうが、実際、はたしてどれくらいの人が、本気でそんなことを思っているのだろうか。

大部分の人にとって、そんなことはすぐさま通り過ぎてしまうていどのことなのではないか。

実際、時間が経てば、そんなことなどすっかり惰性になってしまうのだ。

日々の生活に追われれば、そうなるのだろう。

情の深い川島は、そんな人びとの人生を、「重喜劇」という映画を作り続けることによって、笑い飛ばしたのではないだろうか。

人間の情の深さなど、釣り合うはずもないと思っていたのだろう。

「軽やかに生きる」とは、自らがもっている情の深さを韜晦(とうかい)し、頓着しないがごとく笑い飛ばすことにあるのではないか、と思う。

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居残り佐平次

先日、「これからは軽やかに生きる」などと、ガラにもないことを書いたが、そもそもこんなことを書いたのは、自分がどんな人間に憧れるか、と考えたとき、落語に出てくる「居残り佐平次」だったことを、思い出したからである。

正確に言えば、川島雄三監督の映画「幕末太陽伝」に出てくる、フランキー堺演じる居残り佐平次である。

映画「幕末太陽伝」は、落語「居残り佐平次」をベースに、「品川心中」「三枚起請」「お見立て」などの落語をちりばめ、そこに幕末の志士たちも登場してくり広げられる、日本を代表する喜劇映画である。

文久2年(1862年)、江戸に隣接する品川宿。カネはないが才覚はある佐平次は、江戸・品川宿の遊郭旅籠である相模屋で仲間たちと豪遊するが、カネがないのを若衆に打ち明けると、一人、居残りと称して相模屋に長居を決め込む。

「居残り」佐平次は、下働きからはじまり、客あしらいや女郎衆のトラブル解決に至るまで、相模屋の中を軽やかに駆けまわり、八面六臂の活躍をする。やがて誰もが、佐平次を頼るようになる。さらに彼は、この旅籠に逗留する攘夷派の志士たちとも渡り合う。

一つ屋根の下でさまざまな出来事が同時に起こる映画の形式を、古い映画のタイトルにちなんで「グランドホテル形式」と言うが、この「幕末太陽伝」は、日本におけるグランドホテル形式の映画の傑作である。というより、日本の映画史上で五本の指に入る傑作である!

佐平次を演じるフランキー堺の芝居の軽やかさは、見ていてじつにすがすがしい。この映画を見たとき、「こんな人間に憧れるよなあ」と思ったことを、思い出したのである。

「首が飛んでも動いてみせまさぁ」

映画の中で佐平次が大見得を切るこのセリフが、彼の生き様をよくあらわしている。

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江戸のスカイツリー

1月12日(日)

子どもの頃、地下鉄の都営新宿線が開通した。最初は全線開通ではなく、部分開通だった。

京王線をよく利用していた私は、京王線と乗り入れている都営新宿線の車両を見て、ビックリした。

行き先が「大島」と書いてあるではないか!

子どもの頃の私は、都営新宿線の行き先表示にある「大島」を、伊豆大島のことだとずっと思っていた。

(すげえなあ。あの地下鉄に乗れば、伊豆大島まで行けるんだ!)

ギャグではなく、本当にそう信じていたのである。

私は、「大島」行と表示された都営新宿線の車両を見ては、「いつかあの地下鉄に乗って、伊豆大島まで行ってみたい」と夢想したものである。

都営新宿線の「大島」駅が江東区にあることを知ったのは、それからしばらく経ってのことである。

今日はその「大島」駅でおり、そこから散歩がてら、初めてスカイツリーに行くことにした(前フリが長いなあ)。

デジカメをもっていくのを忘れたので、ガラケーのカメラで撮ることにした。

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空の様子がなんとも幻想的な感じになってしまったが、正真正銘、ガラケーで撮った写真である。かえって、スマホで撮った写真よりも芸術的な写真ではないか!と負け惜しみを言ってみる。

そういえば以前、このブログのコメント欄で、こぶぎさんの挑発に乗って、「江戸のスカイツリー」という創作落語を作ったんだった。

私がとても気に入っている自作落語なので、以下に再掲する。

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「江戸のスカイツリー」

おい、そういえば最近、八っつぁん見ねえな。あいつ、どうしてんだい?

どうも本業の大工の仕事が忙しくって、夜も日も明けず仕事をしているらしいぜ。なんでも、期日までに完成させないといけないってんで。

なるほどねえ。「忙しい」ってのは、「心がなくなる」と書くからねえ。しかし、忙しいのはいつものことじゃねえか。

それが今回ばかりは違うんで。棟梁がやたらとああだこうだと文句をつけ、挙げ句の果てには、全然関係のない仕事の愚痴を八っつぁんに言ったりするもんだから、そのたびに仕事がはかどらねえって、文句こぼしていたぜ。それに、周りの気のいい大工連中も、ああだこうだと言ってくるそうだぜ。

それもいつものことじゃねえか。いったいこんどは、何にとりかかっているんだい。

五重塔だってよ。

五重塔?へえ、驚いたねえどうも。何でまた五重塔なんて建ててるんだい?

なんでも、江戸で一番高い五重塔を作るって、息巻いていたぜ。

芝にある五重塔よりもかい?

ああ。押上に作るらしいぞ。

面白そうじゃねえか、行ってみようぜ。

…お!いたいた。あんな高いところに登ってやがる。おーい八っつぁーん!…なんだよ、無視しやがった。おーい!何も無視することはないじゃねえか!

うるせえ!

おいおいなんだい、うるせえとは何だ。人がせっかく、酒でもごちそうしてやろうと思ったのに。いつも一緒に酒飲んでるじゃねえかよ!また一緒に酒飲もうぜ!

いま、それどころじゃねえんだ!もう少しで完成なんだ!黙ってろ!

ずいぶんな言い様だねえ。そんなこと言ったらねえ、もう遊んでやらないぜ。

おお、けっこうよ!

それにしても、ずいぶん高い五重塔だねえ。あんなに上まで登って大丈夫かねえ、八っつぁん。おいおい、何かグラグラしているじゃねえか。

やがて五重塔は一瞬にして崩れ落ちた。

大丈夫かぁ!八っつぁーん。

やがて五重塔の瓦礫から出てきた八っつぁん。

おお、無事だったか!しかしなんで、あんな簡単に五重塔が倒壊したんだ?

いけねえ。忙しくって、心柱(しんばしら)を立てるのを忘れてた。

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ご存じ、「江戸のスカイツリー」でございました。

我ながら、オチが秀逸だ!と自画自賛。

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ありがとうございました

今年は、いつになく多くの方から、誕生日のお祝いメッセージや、プレゼントをいただきました。いずれも、心のこもったものばかりでした。

あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

考えてみれば、この年齢で、多くの方からお祝いの言葉をいただくのは、果報者というべきかもしれません。

もっとも、フェイスブックをやっていれば、バンバンお祝いメッセージが来るんだそうです。私はフェイスブックをやっていないので、よくわかりません。

気持がダウンしたとき、このブログに励まされている、と書いてくれた友人もいました。

とくに「原稿執筆無駄足旅行」のくだりを読んで、原稿を書けないときの自分を慰めている、という言葉に、むしろ私が励まされました。

みなさんにお返しできるものは何か、と考えました。

それは、私自身が「軽やかに生きる」ことではないか、と思います。

うじうじせず、軽やかに生きること。

これからはできるだけそういう気持を心がけたいと思います。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

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アジアにボレロはあるか?

私の好きな映画に、クロード・ルルーシュ監督の「愛と哀しみのボレロ」(1981年、フランス)がある。

この映画は、第二次世界大戦をはさむ1930年代から1960年代にかけて、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツの2世代4つの家族が、時代に翻弄されつつ生きていく姿を描いている。

一見、交錯することなく歩んできたそれぞれの家族は、映画の最後、パリで行われた「ボレロ」のバレエ公演で一同に会する。4家族が歩んできた長く苦難の道のりを、まるですべて浄化してくれるかのように、「ボレロ」の音楽が流れる。

西欧各国の家族が、大戦や各国の政治的事情で人生を翻弄され、それが「ボレロ」というバレエ音楽に収斂していくクライマックスは、映画的カタルシスを感じる、最高の場面であり、見る者に万感の思いを懐かせる。

この映画を見るたびに思う。

「アジアには「ボレロ」があるだろうか?」と。

この映画を、アジアに置き換えて考えたら、「ボレロ」にあたる音楽は、何だろう?

「第九」ではないだろうか?

1930年代から1960年代にかけて、アジア諸国で、戦争や国の政治的事情に翻弄された人びとが、一同に会して、「第九」を歌う。

そんな映画が作れないだろうか。

「第九のスズキさん」の本を読んでいて、そんなことを思った。

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6時間半経った!

1月10日(金)

夕方6時前、仕事部屋に戻ると、同僚からメールが来ていた。

「ご相談があり、何度かうかがいましたが、不在のようでした。6時頃まで仕事部屋におりますので、内線に電話ください」

うちの職場で「最も多忙でつかまりにくい同僚」からのメールである。

今日は卒論相談があったり、他の場所で油を売ってたりして、仕事部屋を不在にしていたことが多かった。

慌てて内線に電話をするが、電話に出る気配がない。

(もう帰っちゃったのかな…お子さんもまだ小さいと聞いていたし)

時計を見ると、6時10分前である。

しかし、ここであきらめるわけにはいかない。なにしろ「最も多忙でつかまりにくい同僚」なのだ。今日をのがすと、次にいつ会えるかもわからない。

念のため、かなり離れた場所にある、その同僚の仕事部屋に行ってみることにした。

すると、その同僚がいた。どうやら電話の呼び出し音が鳴らなかったらしい。

(よかった)

ある用件について話したあと、話題は職場のことや、学問のことなど、さまざまな分野におよぶ。

本当に久しぶりに、その同僚とじっくり話をした。

そういえばむかし、やはり同僚だったAさんの呼びかけで、私とその同僚と3人で、「それぞれの学問についてとりとめのない雑談をしよう」という会を、Aさんの仕事部屋で定期的に行ったことがある。通称「茶話会」である。ひとときのあいだ、職場の愚痴を忘れ、専門分野の違う者同士が学問についてとりとめのない話をするこの会は、刺激的だった。

この「茶話会」は数回続いたが、3年前にAさんは職場を変わってしまったあとは、行われなくなってしまった。「最も多忙でつかまりにくい同僚」とこれだけさまざまな話をしたのは、その「茶話会」以来である。

ふと気がついて時計を見たら、深夜0時半である。

深夜0時半ですよ!飲まず食わずで、6時間半も喋っていたことになる。

「え?もうそんな時間?」と同僚。「時計を見ないようにして喋っていたんで、気づかなかった」

それだけ、話に夢中になっていた、ということである。しかもその間、ご家族に連絡をとる、というようなこともなかった。大丈夫なんだろうか、と少し心配した。

「なんか、このままだと朝まで続きそうだね」と同僚。「でもあなたとなかなか話をする機会がなかったんで、久しぶりに話せてよかった」「最も多忙でつかまりにくい同僚」は、満足そうだった。

「じゃあ、今度合宿でもしますか」と私は冗談を言って、仕事部屋をあとにした。

仕事部屋を出て、ふと思う。

「6時頃までは仕事部屋にいます」という最初のメールは、どういうことだったのだろう?

帰るつもりではなかったのだろうか?

謎である。

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続々・第九のスズキさん

第九のスズキさん

続・第九のスズキさん

「第九のスズキさん」が書いた、「第九」に関する本を、取り寄せて読んでみた。

日本で「第九」が演奏されるようになった歴史が、丹念な資料収集に裏づけられて述べられている。

読み進めていくうちに、私にとって驚くべき記述にぶつかった。

アジア・太平洋戦争の戦局が厳しくなった昭和18年、学生・生徒を徴兵するいわゆる「学徒出陣」が行われる。

その壮行会の場で、「第九」が演奏されることがあった。「第九のスズキさん」の調査では、出陣学徒の壮行会の際に「第九」が演奏された事例を、2例ほど見つけている。

出陣学徒にとって、「第九」は特別な思いのある音楽だった。

戦後、復員した学生たちの中から音楽家になった人たちが中心となり、「壮行会」のときに歌って別れた「第九」を演奏しよう、と、昭和22年12月30日、日比谷公会堂で「第九」が演奏される。この催しは毎年続き、かくして戦後、「年末の第九」が定着していくのである。

さらに「第九のスズキさん」は、アジア・太平洋戦争の際に学徒出陣で出征し、特攻隊員として戦死したE氏の手紙の中に、「第九」が登場していることを発見する。

「…私ももう二度と迎えることなき正月を心静かに送りました。といっても嘗つての私の様に人を気遣せるのではありません。先日久し振りにチェホフを読みましたが、無意義と絶望の中に愛というものが、神が、なければならないのだと焦っている姿は嘗つての様に全幅の感銘出来ませんでした。それよりも積極的な肯定的な力を持って人間が浮び上って来ます。第九の様に。仏心というものもその様なものでないでしょうか」

「第九のスズキさん」が調べた限り、戦没学徒の遺稿の中で、「第九」に言及しているのはこの手紙だけだというのである。しかしそこには、死を目前にして、「第九」を心の拠り所にしようとする出陣学徒の思いがはっきりと読み取れる。

驚くべきは、このE氏がこの手紙を送った相手である。E氏の友人の、K氏にあてたものだった。

このK氏とは、私のいまの職場の、私と同じ専攻分野の前々任者である、K先生なのだ!

K先生は、1985年に「私のいまの職場」を退官後、1993年に亡くなっている。

私は学生時代、1度だけ、学会でK先生にお目にかかったことがある。亡くなる前年のことである。

その10年後、縁あって、私はいまの職場に就職した。その時点ですでに、K先生は亡くなっていたが、私の大学の研究室の大先輩でもあり、いまの職場の大先輩であるということは、いつも頭の片隅にあった。

「第九のスズキさん」は当時、遺稿集に収められたE氏のこの手紙について、そのときの事情をもっと詳しく知りたいと思い、手紙を受けとったK先生に問い合わせたことを、この本に書き記している。K先生は「第九のスズキさん」に、はがきでそれに答えており、本の中でその文面が引用されている。

私と専攻を同じくするK先生ご自身の研究とは、まったく異なる一面が、そこにあった。それは、「昭和十六年から二十年の極限状況下」に生きた、K先生の青春時代の「想念」ともいうべきものであった。

二つの大戦を通じて、「第九」は多くの人の人生を巻き込みながら、戦後の日本社会に浸透していく。

「第九のスズキさん」が、「第九」を通して見たものは、何だったのか?

もう少し、「第九」をめぐる旅を続けていきたい。

…こんなことやってる場合か?俺。

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思考の葛藤

1月9日(木)

4年生の卒論も、大詰めを迎えている。

この時期の状況を、「卒論渋滞」と名づけている。

今日は、隣県での所用から戻った午後2時から、夜7時半までの5時間半をかけて、8名の学生の卒論と向き合う。

これは誰でも経験的にわかっていることだが。

人間は、話をすることによって思考が整理されていく。

毎年心がけているのは、できるだけ話を聞くことである。

もちろん、個人差があり、私と話したいという人もいれば、なるべくなら私と話したくない、という人もいるだろう。それは当然のことである。

いろいろな話をしていると、見通しがついてくるような気がする。

この時間が、けっこう長い。

いつもわからないのだが、個別指導って、他の同僚たちはどうやっているのだろう?

自分のやり方が合っているのか、間違っているのか、それすらもよくわからない。

ひょっとしたら、もっとスムーズにできるのではないか?などと考えたりする。

そんな合理的なやり方もわからないまま、10年以上も同じやり方を続けている。

なんともつかみどころのない作業で、記録に残ったりするような仕事ではない。

まことに不思議なことに、職場においては、評価の埒外にある仕事なのである。

しかし、そのつかみどころのない作業も、卒論を形にしていくための重要な過程であることだけはたしかである。

卒論は、完成すればいいというものではなく、その過程にある「思考の葛藤」こそが、たぶん何かの成長につながっているのだと思う。

語学のように、目に見えて実力がつく、というものでもない。

こういう「わかりにくい成長」が、評価されなくなってしまう世の中になってしまうのかと思うと、大変残念である。

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学問の神様

菅原道真は、死後、いろいろあって、学問の神様になった。

彼を祀った福岡県の太宰府天満宮は、いまや合格祈願のメッカである。

やはり彼を祀っている東京の湯島天神は、それに次ぐ、合格祈願のメッカである。私も中学3年のとき、初詣でで湯島天神をお参りし、高校合格を祈願した。

昨日、菅原道真について調べている学生が、私に言った。

「菅原道真について調べていたら、先生のことを思い出しました」

「どういうこと?」

「調べていて、身近に思いあたる人がいるなあ、と思って考えたら、先生でした」

学問の神様ってことか?

どうも違うらしい。

「彼は、耳の痛い意見とかを、はっきり言ったりしたでしょう」

「そうだね。そこが似ているってこと?」だとしたら、まんざらでもない。

「それだけじゃないんです」

「何?」

「どうも友だちが少なかったようなんです」

「そうなの?」

「心を許せる人が、少なかったそうです」

そっちのほうか!私のことをよく見てるなあ。

その学生は、ある貴族の名前をあげた。

「心を許した数少ない友人の1人が、キノハセオという人でした」

「キノハセオ?」

「ええ、彼は、キノハセオという人には、心を許していたそうなんです」

「ほう」

「しかしそのキノハセオは、もちろん道真のことを慕ってはいましたけど、どちらかといえば、堅実な人柄というのか、ほかの派閥にも顔が利く人でした」

「ほう」

「その一方で、道真は次第に孤立していって、左遷されるでしょう?」

「そうだね」

「たぶん、取りなしたりすることが、苦手な人だったんじゃないかと思います」

道真の意固地な性格が想像された。

「じゃあ、道真とキノハセオは、だんだん疎遠になっていったの?」

「いえ、違います。道真は、最後までキノハセオを信じていたんだと思います」

「どうしてそれがわかるの?」

「左遷され、もはや後のない道真は、死に臨んで自分が書いた詩集を、都にいるキノハセオに託すんです」

「ほう」

「これって、最後までキノハセオを信じていたってことでしょう?」

「たしかにそうだね」

私は少し安心した。

ふと思う。

学生のこのまなざしは、どこからくるのか?

私と同じように、その学生もまた、道真に自分を見ていたのではないだろうか、と。

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誕生日の誓い

1月7日(火)

今日は特別な日なので、昼食を「よく喋るシェフの店」でとることにした。

店に入ると、

「ちょうどいいときにいらっしゃいました」とシェフ。先客が帰ったばかりのようで、店には誰もいない。

例によって、シェフの長いお喋りが始まる。

シェフは口癖のように、

「この界隈で、ひとりで店を続けていくのは、たいへんだ」

という。たしかに、この界隈には似つかわしくない、洋食屋さんなのである。

「ひとりで踏ん張るって、大変ですよね」と私。「ひとりで踏ん張れば踏ん張るほど、孤立してしまうんです。誰も味方をしてくれるわけでもないし」私もつい、愚痴を言ってしまった。

「わかりますよ。そりゃあ、みんなで仲良く何も言わずにいる方が楽なんでしょうけど、誰かが言わないとダメなときもありますよ」とシェフ。

この人は、私と同じで話がクドイのだが、「一匹狼」の強さと弱さをよくわきまえている人なんじゃないか、と思う。

シェフは、長いあいだ客商売をしているせいか、観察眼が適切である。

事情もよくわからないはずなのに、私が日ごろ抱いている違和感をくみ取り、共有してくれている。

…もっとも、たまたま目の前の客である私に話を合わせているだけかもしれないが。

話題はその後、競馬の話になり、その流れで、なぜか馬糞の話になる。

「子どもの頃、馬糞を積んでいる塚が家の近くにけっこうありましてね。魚釣りなんかで遊ぶとき、よく馬のウンコの中にいたミミズを捕りました。魚釣りの餌には最高だったんですよ」とシェフ。

だからこっちはランチを食べているんだって!

とりとめのない話題で、1時間半が過ぎた。

やっぱりもう少しだけ「一匹狼」で頑張ってみよう、と自分に誓いながら、店を出た。

4年生の1人からメールが来ていた。

「先生、今どこにいらっしゃいますか?」

いかん!卒論の下書きを見る約束だった!

慌てて仕事部屋に戻り、学生にその旨を伝えると、しばらくして仕事部屋をノックする音がした。

「先生、お誕生日おめでとうございます」

4年生の女子5人が来ていた。

今日は私の誕生日である。恒例により、今日が誕生日だということは、誰にも言わないことにしていた。

「これ、去年のようにホールケーキとはいきませんが、どうぞ」

袋には、チーズケーキとプリンが入っていた。彼女たちが私の誕生日を覚えていたのは、去年のことがあったからだろう。

「去年はたしか、『来年の今ごろは卒論で大変なのでお祝いできませんよ』って、言ってなかったっけ?」と私。

「ええ。だからこれは、ないと見せかけての、1年間をかけたドッキリです。では、ここで歌います」

そう言うと、5人は廊下に響き渡るような声で「ハッピーバースデーの歌」を歌った。

その後、3名ほど、別の場所で卒論に関する面談を行う。

仕事部屋に戻ると、ドアのところにお菓子の袋がかかっていた。

(誰からだろう?)

最初はわからず早とちりをしたが、よくよく見てみると、袋の奥の方に小さい紙片が入っていて、「お誕生日おめでとうございます。3年生女子一同」と書いてあった。

不思議なのは、3年生には、私の誕生日のことをまったく言っていなかったはずなのに、なぜか知っている、ということである。

お礼のメールを3年生のSさんに送り、なぜ誕生日のことを知っていたのかと聞くと、同じ3年生のWさんが、自分の誕生日と私の誕生日が近いことを、何かの機会に知り、それを覚えてくれていたらしい。

3年生の「サプライズ」にも、感謝した。

このほかにも、日ごろお世話になっている大人の方々からも、お祝いメッセージやプレゼントをいただきました。ありがとうございました。

「誕生日の日ぐらい、素直になりなさい」

「…はい」

…ということで、誕生日を迎えるにあたっての誓いは、

「これからは、安易に『軽く死にたくなる』とは言わない」

「言わなくてもいい被害妄想を言って迷惑をかけない」

の2つです。どれだけ守れるかわかりませんが、頑張ります。

夜はこの誓いとともに、家で「一人誕生日会」をして、赤ワインを空けました。

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続・第九のスズキさん

1月6日(月)

「仕事始め」だが、エンジンがかからない。

昨日書いた、「第九のスズキさん」のことを、インターネットでもう少し調べてみた。

「第九のスズキさん」は、市役所を退職後、児童養護施設の園長になったようである。

そして2011年6月、その児童養護施設のイベント中に、脳溢血で倒れ、病院へ運ばれる途中で亡くなったのだという。

告別式では、大部分の時間が、弔辞にあてられ、8名の方が、敬意のこもった弔辞を述べられたと書いてあった。多くの人に慕われていたのだろう。

その、児童養護施設というのは、どういうところだったのか?

調べてみると、驚くべきことがわかった。

かつてこの児童養護施設で、組織ぐるみの児童虐待事件が起こった。

1995年、この事件が明るみになると、当時、衝撃的な事件として、国会でもとりあげられた。

そしてこの事件をきっかけに、児童養護施設に対する偏見が強まっていった。

2000年、児童養護施設の園長とその息子が傷害の疑いで逮捕され、実刑判決を受けた。

まるで、韓国映画「トガニ」を思わせるような、児童養護施設虐待事件である。

当然、その児童養護施設は、「悪名高い施設」として、世に広く知られていく。

「第九のスズキさん」は、この事件のあと、この児童養護施設の園長に就任している。おそらく、信頼が失墜してしまったこの児童養護施設の建て直しを、期待されたのであろう。

一度、地に墜ちてしまった児童養護施設に対する信頼を、「第九のスズキさん」は死にものぐるいで回復しようとつとめたことは、想像に難くない。

そして2011年、「第九のスズキさん」は、帰らぬ人となるのである。

ひょっとしたら、母は、このあたりの事情をもう少し詳しく知っているのではないか、と思い、夕方、私は母に電話で聞いてみることにした。

母は、「第九のスズキさん」が、市役所退職後、児童養護施設の園長をつとめたことは、もちろん知っていた。だがその児童養護施設が、それ以前に酷い虐待事件を起こしていたことは、知らなかった。

母によれば、「第九のスズキさん」が園長に就任したのは、市役所を定年退職した数年後のことであり、2000年よりもずっと後であることは、確実であるという。

そこでさらに調べてみたところ、2001年にすべての理事が交代し、新園長により再建がはかられ、その後、「第九のスズキさん」が2006年頃に園長に就任したようである。

いずれにせよ「第九のスズキさん」は、信頼の失墜した児童養護施設の立て直しに奮闘したことに変わりない。信頼を回復することは、並大抵のことではなかったに違いない。

「『第九のスズキさん』は、子どもたちの就職の世話に奔走していたらしいよ。それに、自分のポケットマネーで、子どもたちにごちそうを食べさせたりして、だいぶお金を使ってたって、いつもキャプテンがこぼしていた」

「キャプテン」とは、「第九のスズキさん」の奥さんのことである。母の高校時代の、バレーボール部のキャプテンが、「第九のスズキさん」の奥さんなのである。

私が、告別式のときの8名の方の弔辞が、いずれも敬意のこもったものである、という、インターネットの記事を見つけた、という話をすると、

「その通りよ。だって私、『第九のスズキさん』の告別式に行ったんだから」

母は、その告別式の場に居合わせていたのだ。

「それはそれは、たくさんの人たちが来ていたのよ。祭壇には、『第九』の音符をかたどった花が飾られていたりしてね」

その言葉で、「第九のスズキさん」が、児童養護施設で多くの人に慕われていたことが、十分に想像できた。しかも、彼が「第九」を生涯にわたって愛していたことも、広く知られていたのである。

「じゃあ、すごく慕われた人だったんだね。家族からしたら、厄介な人だったのかもしれないけど」

と私が言うと、

「何言ってんの?冗談じゃない!」

と、母は言った。

「『第九のスズキさん』は、家族思いでもあったのよ。家族を毎年海外旅行にも連れて行ったりしてね。だからお金はほとんど残らなかったみたいだけど」

私は、「第九のスズキさん」に、ますます興味を持った。

「いまも、『第九のスズキさん』が残した資料は、残っているのかな。もし残っていれば、一度見てみたいんだけど」

「じゃあ、キャプテンに聞いてみる」

少し経って、折り返し母から電話が来た。

「いま聞いたらね。資料はまだそのまま残してあるんだって。いつでも見に来ていいって」

「じゃあ、近いうちに行くよ」

私は、会ったこともない「第九のスズキさん」の人生に、どんどんのめり込んでいく。

…いったい俺は、何をしているんだ?

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第九のスズキさん

元旦に実家に帰ったときに、母から聞いた話である。

「第九のスズキさん、亡くなったのよ」

折しも数日前、第九の演奏会を聴きに行ったばかりだったこともあり、久しぶりに「第九のスズキさん」の話が出て、おどろいた。亡くなったのは2年ほど前のことだそうである。

「第九のスズキさん」は、母の友人のだんなさんで、ある市役所の職員さんだった人である。私自身は、会ったことがない。

私が高校の時、「第九のスズキさん」の話を、母から何度か聞いた。私が高校で「第九」を歌ったことがきっかけだったと思う。

「第九のスズキさん」は、市役所に勤めるかたわら、「第九」の研究をしていた。具体的にどんな研究をしていたのか、よく覚えていないが、おそらく、日本で「第九」が演奏されるようになった歴史、のようなことを調べていたと記憶している。うちの母も、第九にはさほど興味がなかったので、「第九のスズキさん」がどんな研究をしていたかについては、よく知らなかったようだった。しかし、「第九」にとりつかれた変わった人だ、ということは、母からくり返し聞かされていたのである。

「第九のスズキさん」は、四国の出身だったと、母は言った。

「ひょっとしてスズキさんの出身は徳島県なんじゃない?」と私。「第一次世界大戦中、徳島県鳴門市にあった俘虜収容所で、ドイツ人の俘虜による楽団が『第九』を演奏したのが、日本で最初に演奏された『第九』だから」

徳島県出身の人なら誰でも知っていることである。「第九のスズキさん」も、「第九」にのめり込んだきっかけが、自身の地元の歴史とかかわっていたと考えて、不思議はない。

「第九のスズキさん」は仕事の休みを利用して、日本全国に残っている「第九」に関する資料を、集めたという。その資料は、膨大だったのだろう。

いつだったか、自らの研究を本にまとめ、それが新聞で紹介されたことがあったように記憶している。

生涯をかけて、「第九」の研究に取り組んだのである。

しかし、家族からしたら、これほど迷惑なことはない。仕事の休みのたびに、「第九」の資料を求めて、日本列島を東へ西へと、飛びまわるのである。

「おまえたちにはねえ、これがどんなにすごいことか、わからないんだよ」というのが、家族への口癖だったらしい。

家族からしたら、ずいぶん厄介な人だったんだろうと思う。

「『第九のスズキさん』が亡くなって、ご家族が困っちゃってねえ」

「何が?」

「集めた資料とか本を、どこか図書館に寄贈しようとしても、手続きが面倒で、嫌がられるし、古本屋に売ってもねえ」

「第九のスズキさん」が生涯をかけて集めた蔵書や資料が、処分されてしまうらしい。

「ご本人にとっては貴重でも、ご家族からしたら、ねえ」

「でも、『第九』に関するまとまった資料をそれだけ集めている人なんて、他にいないと思うよ」と私。

私は「第九のスズキさん」に会ったこともないし、どんな研究をしていたかもわからないのだが、集めた資料が、貴重なものであることくらいはわかる。「第九のスズキさん」だからこそ集めることができた資料が、散逸してしまうのは、じつにもったいない話である。

「できれば、俺が引き取ってもいいくらいだ」

と言ったら、家族にいっせいに、

「ふざけるな。これ以上、がらくたを増やしてどうする」

と言われ、あえなく撃沈した。

しかしインターネットとは、便利である。

「第九のスズキさん」という記憶だけをたよりに調べてみると、たしかに「第九のスズキさん」は、いまから25年ほど前に、自身の研究をまとめた本を出していたのだ。

「第九のスズキさん」は、どんな思いで、生涯を「第九」に捧げたのだろう。

いまはそのことが、むしょうに知りたい。

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今年最初の「軽く死にたくなりました」

1月4日(土)

夕方、一人で散歩に出かけた。

家から15分ほど歩いたところに駅があり、駅前の喫茶店にでも入って本を読んだり原稿を書いたりしようと思っていたのだが、あいにく喫茶店は混んでいて、座る場所がない。

(それにしても、喉が渇いたなあ)

さしあたり喉を潤すために、自販機で何か買って飲むことにしよう、と思い、駅前にある自販機を探すと、「マウンテンデュー」の500ミリリットル缶が売っていた。

(懐かしいなあ、マウンテンデューかあ)

たしか中高生の頃、マウンテンデューというジュースが発売されて、最初に飲んだとき、その味が衝撃的に美味しかったことを覚えている。

(久しぶりに飲んでみるかあ)

寒空の下で冷たい缶ジュースを飲むような気候ではないのだが、そんなこと、私には関係ない。

自販機にお金を入れてボタンを押すと、缶ジュースが出てきた。500ミリリットル缶というのは意外に大きくて面食らったが、買ってしまったものは仕方がない。

周囲を見渡して、座って飲める場所も見当たらないので、自販機の前で、マウンテンデューの缶を開けて、立ったまま、路上でゴクゴクと飲み始めた。

いわゆる立ち飲みである。

中高生の時に感じたほど、美味しいとは思えなかった。味覚が変わったのだろう。

それでも、左手を腰に当てて、路上でゴクゴク飲んでいると、

「あら、○○さんじゃありません?」

と、私を呼ぶ声がする。

(おかしいなあ。この近所に、私の知り合いは住んでいないはずだが…)

見ると、美人の女性である。

(誰だろうなあ…)

見たことがあるような気もするが、思い出せない。

「私です。○○です」

名前を聞いて思い出した。妻の従姉妹(いとこ)である。義理の従姉妹、というべきか。

数回しか会ったことがないので、すっかり思い出せなかったのである。

そういえば従姉妹は、一流企業に勤める夫の仕事の関係で、この駅のすぐ近くに住んでいたことを、思い出した。

いままさに、駅前のスーパーで買い物を済ませて出てきたところのようである。

「ああ、どうも…お久しぶりです」私の右手には、500ミリリットル缶のマウンテンデューが握られている。

「どうしたんです?」

「いえ、その、…まあ」

寒空の下、500ミリリットル缶のマウンテンデューを路上でゴクゴク立ち飲みしている私に、「どうしたんです?」と聞かれて、私は何と答えたらいいのだろう?

「あの…散歩しておりまして…その途中です」

「正月はこちらにお戻りだったんですね」

「ええ」

「○○ちゃんは?」○○ちゃんとは、私の妻のことである。

「…あのぅ、…家で昼寝しています」

従姉妹は、私が一人で駅前の自販機の前の路上で、缶ジュースを一心不乱に飲んでいる姿を、明らかに不審の目で見ていた。

「おばちゃんも元気ですか?」おばちゃん、というのは、義母のことである。

「ええ」

私は話を早く切り上げたかった。なにしろ私の右手には、500ミリリットル缶のマウンテンデューが握られているのだ。

「あのう、ここで切腹してもよろしいでしょうか…」

と、喉まで出かかった。

「それじゃあまた」

察したのか、従姉妹はそそくさと帰っていった。

考えてもみたまえ。

いい年齢をした大人が、日が暮れた寒空の下、自販機の前の路上で、一人で500ミリリットル缶のマウンテンデューを、立ち飲みしているのである。

まるで、「親に内緒でこっそり買い食いしている中高生」ではないか!

明らかに挙動不審である。

それを、妻の親戚に見られてしまったときの気持ちを考えてみたまえ。しかも、妻と同世代の従姉妹である。

さらに、である。

私が年末年始、妻の実家に厄介になっていることも、その従姉妹は知っているのである。

その従姉妹が、私のこの状況を見たら、どんなことを思うだろうか?

(よっぽど、家に居づらいのねえ)

(きっと家では、ジュースを飲ませてもらってないのねえ。それでこっそりと、外でジュースを飲んでいるのねえ)

(だからといって、いい年をして、自販機の前の路上で500ミリリットル缶のマウンテンデューを一心不乱に飲むなんて、みっともないわねえ)

(しかも夕飯前だっていうのに、待ちきれなかったのかしら)

…てなことを、絶対に思っているに違いない!

私が、妻の前では「ダメ人間」であることは認めよう。だが、せめて妻の親戚の前では、「ちゃんとした人間」であろう、とつとめてきた。

「ちゃんとした人間だ」と思ってもらいたかっただけに、そのダメージも大きい。

いまごろ、妻の親戚一同に「500ミリリットル缶のマウンテンデュー」の話が、伝わっているかも知れない。

歩いて家に戻ったら、すでに親戚中に知れ渡ってしまっていたことが判明した。

ああ、本当に俺は、ダメ人間だなあ。

今年最初の、「軽く死にたくなりました」。

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小さいおうち

1月3日(金)

先日、映画館で映画を見たとき、山田洋次監督「小さいおうち」の予告編をやっていた。

直木賞を受賞した中島京子の小説「小さいおうち」を映画化したものである。

Chiisaiouchiimg01 少し気になったので、原作の小説を読んでみることにした。

昭和初期から戦中期にかけて、山形から上京した一人の女性・タキが、女中として、ある家に仕える。彼女の回想を中心に、物語が進んでいく。

昭和初期から戦中期にかけての東京の日常を、おどろくほど詳細に描いている。これほど、日常の視点でこの時代を描いた小説もめずらしい。

読んでいて思うのは、この時代が、今の時代とじつによく似ている、ということである。

小説の中に、1940年(昭和15)に東京でオリンピックが開催される、と決定したことに、人びとが興奮する場面が出てくるが、まさにこれは、いま私たちが目の当たりにしている状況とまったく同じである。関東大震災からの復興、そしてその象徴としての東京オリンピック開催への悲願、という流れは、まさに今の時代そのものではないか。

ちなみに1940年開催予定だった東京オリンピックは、開催が中止され、幻に終わったという話は、有名である。

こうしたディテールを読むだけでも、この小説は読む価値があるのだが、それ以上にすばらしいのは、この小説の「語りの文体」である。

決して派手な展開ではないのだが、この小説の「語り」には、ついつい、引き込まれてしまい、一気に読んでしまった。

この読後感はいったい何だろう?

ハタと、気がつく。

私のきわめて貧しい読書経験からすると、この小説の読後感は、小川洋子の小説「博士の愛した数式」に、とても近いものがある。

そういえばどちらも、家政婦の語りで、物語が進んでいく。

そして、人の心の内面にある「秘密」に、気づいていくのである。

やがてその「秘密」が、さらに多くの人を巻き込みながら、「現在」に継がれていくのだが、このあたりの「ストーリーテラー」ぶりのすばらしさは、実際に読んでみた者にしかわからない。

もちろん、この「ストーリーテラー」ぶりのすばらしさが、この小説の最も魅力的なところなのだが、さらに私は、そこで語られている、主人公の後悔や愛惜、といった、さまざまな感情にも、惹かれたのである。

11年間、女中として平井家に仕えていた主人公・タキは、自分の住んでいた部屋に関して次のように書いている。

「たった二畳の板間をわたしがどんなに愛したか、そのことを書いても、人はおそらくわかってはくれないだろう」

戦争が激しくなったため平井家のもとを離れ、故郷の山形に戻ったタキにとって、東京での生活は、何ものにも代えがたい11年間だったのだ。

その「喪失感」、といったものが、小説の終盤で語られていて、個人的にはそこに強く惹かれるのである。

これを、山田洋次監督が映画化したのか…。

個人的には、小泉堯史監督に映画化してもらいたかったなあ。

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公園で思索にふける

1月3日(金)

新年早々、二つのクイズを出してみたが、マトモに相手をしてくれたのが、こぶぎさんと、数年前の卒業生である江戸川君である。いずれもすばらしい答えだった。こんな「しょーもないクイズ」につきあってくれる2人に、感謝である。

さて今日。

Photo 義妹の家の近くにある行きつけのイタリアンレストランでランチをすませたあと、妻と義母は義妹の家に寄ることになったが、私は例によって、一人で散歩に出ることにした。

「ちょっと思索にふけってくる」と私。家に帰ってしまうと、「思索にふける」つもりが、つい昼寝をしてしまうので、ちっとも思索にふけることができないのだ。

レストランを出て、北へ向かって歩き出す。

このあたりは、昔の言葉でいえば「都心のベッドタウン」といった町で、密集している住宅のあいだを、細い道が縫うように走っている。

しかしかつては、自然が豊かに残っていた。近代文学作品の舞台になったこともある。

20年ほど前だったか、この地域の鉄塔をテーマにした小説が出され、映画化もされた。鉄塔の果てを見に行こうと、送電線づたいに少年が旅をする、というプチ冒険物語で、私が大好きな映画なのだが、この映画を見たとき、この地域には、まだこれほどの自然が残っていたのか、と驚いたものである。

私はずっとこの地域で育ったので、この地域の雰囲気が、やはり好きなのだ。

Photo_2 歩いていくと、小さな川をわたる。この地域を象徴する川である。

この地域を西から東へ横断し、都心へ流れていくこの川は、歴史的にも、文学史的にも、とても重要な川なのだが、今はあまり顧みられていないらしい。

2 この川の片側は緑道になっていて、かろうじて自然を感じることができる。

さらに北へ歩いて行くと、大きな公園にぶつかった。

Photo_3 繁華街に近い、有名な公園なので、多くの人たちでごった返している。とくに、池のスワンボートの混雑ぶりは、笑ってしまうほどである。

私はこの池のほとりのベンチに腰かけ、思索にふけることにした。

…といっても、ひたすら小説を読み続けただけなのだが。

2_2 1時間半ほど小説を読んでいると、横のベンチに座っている老夫婦に、話しかける人がいた。その人は、テレビカメラを持っている。

よく聞き取れなかったが、次のようなことを言っていた。

「あのう、実は私、○○という番組を担当している者でして、番組の中で、1万人の方にタイトルコールをしてもらうことになっておりまして、いまここで、タイトルコールをお願いできないでしょうか。1万分の1ということで」

老夫婦は嫌がって、断っていた。

待てよ。断られたら、次はこっちのベンチに来るのか?

冗談じゃない。うっかり私が番組名のタイトルコールをしているところがテレビに映って、誰かに見られたりしたら、恥ずかしくてしょうがない。

急に怖くなって、あわてて立ち上がり、公園をあとにした。

それにしても、あのディレクターは、1万人に番組のタイトルコールをしてもらうまで、ずーっとお願いしてまわるのだろうか?

それに、1万人にタイトルコールをしてもらう番組って、いったいどんな番組なんだ?

1人1秒としたって、1万秒。タイトルコールだけで2時間半以上はかかるぞ。

あのまま座り続けて、彼の負担を減らすために、「1万分の1人」になった方がよかったかな、と、少し後悔した。

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地図のない初詣

1月2日(木)

年末年始を返上して脇目もふらず原稿を書いている友人や、鉢巻きで卒論を書いている学生たちをよそに、こちらは、映画を観たり、正月料理をたらふく食べたり、昼寝をしたり、読書をしたり、散歩に出かけたり、姪の遊び相手をしたりと、申し訳ないくらいに、いたって平凡な年末年始を過ごしている。

新年のメッセージをくれたのは、お互いの連絡先がわからないので毎年このブログのコメント欄で新年の挨拶をしてくれたこぶぎさんと、韓国の友人が1人、そして、学生が1人の、合計3人だけである。

なんとも寂しい新年である。

午後、思い立って、一人で初詣に行くことにした。

家族からも友人からも運動不足が指摘され、今年こそは運動を最重要課題と位置づけなければならないと、思いを新たにした。まずは、歩くことである。

歩いて30分くらいあるところに、とても有名なお寺があるのだが、どうやったらたどり着くのかがよくわからない。このあたりは住宅が密集している地域で、狭い道路が迷路のようにいくつも曲がりくねっているような町なのである。

私はスマホではなく、ガラケーを使っているので、ナビゲーションのようなものもない。

仕方がないので、地図にたよらず、だいたいの方角だけをたよりに歩いて行くことにした。

有名なお寺であるにもかかわらず、まちなかには、不思議とそのお寺の方角を示す看板が見当たらない。道路によくある、地図の看板のようなものも、見当たらないのである。

住宅地のあいだを縫うように伸びている細い路地を歩きながら、とりあえずその方角をめざすのだが、本当に方向が合っているのか、不安になってきた。

30分たっても、まだたどり着く気配がない。

歩いていると、路地の曲がり角から、「破魔矢」を持った人が出てきた。

破魔矢を持っている、ということは、初詣の帰りということである!

さっそく、その人が出てきた路地のほうに曲がると、今度は路地の前方に、若者3人組が歩いているのが見える。

(あの3人組は、初詣に行くに違いない!)

3人組のあとをつけていくことにした。住宅地の路地なので、ほかに歩いている人はほとんどおらず、3人は、ちらちらと私のほうを見ている。

(あとをつけている私のことを、不審者だと思っているに違いない)

しかし初詣のためならば仕方がない、と思い、ずっと後をつけていると、大きな通りに出た。

(よかった。お寺に近づいたぞ)

と思った矢先、3人はなんと、大きな通りに面しているラーメン屋に入っていったのである。

(おい!初詣じゃないのかよ!)

これでまたわかんなくなっちゃった。周囲には人がほとんど歩いておらず、本当にこのあたりに大きな寺があるのか、ふたたび不安になってきた。

ふと電信柱を見ると、現在地の住所が書いてあり、「○○寺東町」とある。

(「○○寺東町」ということは、西に向かって歩いて行けば、目的地の○○寺にたどり着くということだな!)

今度は電信柱をたよりに、西へ西へと歩いて行くが、行けども行けども、電信柱の住所は「○○寺東町」のままである。

(いったい、いつになったらこの町から出られるのだ?)

そう思って歩いているうちに、いつのまにか電信柱の住所は「○○寺北町」になっていた。

ええええぇぇぇぇぇ!!どういうこっちゃ?

少し南に軌道修正すると、電信柱にはまた「○○寺東町」の町名が。

(どうなっているんだ?)

さらに西を進もうとするが、西に行く道は、畑の中の小道しかない。

(いよいよわけがわからなくなってきた…)

しばらく歩いていると、また大きな道に出た。今度はたくさんの人が歩いている。

(ようやくたどり着いた)

すでに1時間以上が経過していた。どうやってたどり着いたのかは、もはや復元できない。

Photo

2

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初詣の参拝客が、ものすごく多い。

すでにこちらはすっかりヘトヘトになってしまった。

参道に軒を連ねているお店や屋台を歩いていると、

「地ビールはいかがですか」

という声が聞こえる。

歩いてきて、すっかり喉が渇いてしまったこともあり、思わず地ビールに惹かれる。

考えてみれば、先月27日に忘年会でお酒を飲んで以降は、年末年始、まったくアルコールを口にしていないのだ!

こっそり飲んでやろう、と思い、1本買って、その場で飲むことにした。

Photo_2

喉が渇いていただけに、救われるような味である!

これぞ、本当の「地(寺)ビール」である!

…ということで、「一人で歩いて初詣に行きました」というお話しでございました。

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最強の名探偵の名前

大晦日から元旦にかけて考えていたことといえば、

「日本の名探偵には、漢字5文字の名前が多い」

ということである。

横溝正史の「金田一耕助」「由利麟太郎」

江戸川乱歩の「明智小五郎」

東野圭吾の「加賀恭一郎」

西村京太郎の「十津川省三」

三谷幸喜の「古畑任三郎」

森村誠一の「棟居弘一良」

…ほら、名探偵には5文字の名前が多いでしょう?

さらに名前を見ていて、気がついたことがある。

名前の終わりが「郎」で終わる名前が多い、ということと、名前に数字が入っている名前が多い、ということである。

それも、数字はいずれも奇数である。

「十津川省三」は、十と三を足して十三。やはり奇数である。

さらに気づいた!

「金田一」「十津川」「加賀」に共通するものは何か?

そう、温泉の地名である!

ということはですよ。

1.名前が漢字で5文字。

2.名前に奇数の数字が入る。

3.最後に「郎」がつく。

4.温泉名を姓に持つ。

この条件を満たす名前が、名探偵の名前にふさわしい、ということになる。

さあ、これであなたも、名探偵の名前を自由に作ることができる!

「小野川三郎」とか、「玉造健一郎」とか、「草津大五郎」とか、「霧積十五郎」とか。

しかし、である。

実は、私が選ぶ、史上最強の名探偵の名前は、これら、いずれの条件も満たさない人物である。

それは、加田玲太郎という作家の小説に登場する、「伊丹英典」という探偵である。

さて、なぜ私は、この名前を史上最強の名探偵の名前だと考えたのか?

わかるかな?ワトソン君。

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無重力版ワンシチュエーション映画

1月1日(水)

元旦の午後、実家の近くにある映画館へ、映画を観に行く。

Images3 観た映画は、「ゼロ・グラビティ」である。

映画評論家の町山智浩さんがラジオで絶賛していたので、見に行くことにしたのである。

アバター以来の3D映画体験である!

昨年、「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」という映画を、3D映画だと思い込んで、ずーっと3Dメガネをかけながら観ていたのだが、見終わったあと、その映画館は3D用の映画館ではなかったことを知った。つまり、たんにふつうの映画を、3Dメガネをかけながら鑑賞していた。だから正確に言えば、これは3D映画体験ではない。

今回は、事前に3D映画であることを確認し、3Dメガネをかけて鑑賞した。

結論。この映画は、劇場で、しかも3Dで見なければ、意味がない。

まるで自らが宇宙で無重力状態にいるような体験をすることができる。

ストーリーは、「宇宙ゴミ」によってスペースシャトルが壊され、宇宙空間に放り出されてしまった乗組員・ライアン(サンドラ・ブロック)が、宇宙ステーションを乗り継ぎながら、地球に帰還することをめざす、という話。

よけいな背景を語ることなく、ひたすら、無重力空間で起こるさまざまな困難と、それを克服する様子を、ノンストップで描いていく。

そのおもしろさのみを追求した、まぎれもない傑作である。

ノンストップ・ワンシチュエーション・アクション映画、といったらよいか。黒澤明監督の幻の映画「暴走機関車」を彷彿とさせる。

主演のサンドラ・ブロックがすばらしい。

観ていると、自分も宇宙空間にいるような気がして、息詰まる場面が多いが、その緊張を緩和させる役割を果たすのが、同じ乗組員の一人、マットを演じた、ジョージ・クルーニーである。

マットは、宇宙空間に投げ出されてパニックに陥ったライアン(サンドラ・ブロック)をなんとか落ち着かせようと、通信を使って語りかけていくのだが、それがなんというか、アメリカンジョークというか、欧米人のオヤジ特有のオヤジギャグというか、とにかくそういった言葉を連発するのである。

「この非常事態に、オッサン、なんでつまんないギャグなんか言ってんだ?」

と、観ている私は、最初は少しイライラするが、その「つまらないギャグ」が、実はライアン(サンドラ・ブロック)の心を落ち着かせる役割を果たし、ライアンは、マットに心惹かれていくのである。

なるほど、そういうものなのかねえ。欧米人特有の、アメリカンジョーク的なオヤジギャグに、世の女性は意外と心惹かれるのかも知れない。

まあそれはともかく。

無重力空間で緊迫した状況が続くが、ところどころに「笑い」もあって、それが、緊張感を緩和する役割を果たしている。

上映時間は91分と、ふつうの劇映画からすると短いが、90分の「脳内無重力体験」は、それだけで濃密で、見終わったあと、ヘトヘトになる。

正月のテンションで観るには、じつにふさわしい映画である。

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ガラ紅白

12月31日(水)

どうでもいい話である。

ここ数年、大晦日の夜は、紅白歌合戦(NHK)を最初から最後までじっくり見たあと、ジルベスターコンサート(テレビ東京)で、「クラシック音楽でカウントダウンする」という流れが、定着している。

紅白歌合戦は、面白いと思って見ているわけではない。

年々、ますますカオスになっているよなあ、と思いながら、見ているのである。

「紅白歌合戦のガラパゴス化」という理論を提唱したい。紅白歌合戦は、年々、演出が訳のわからない方向に凝っていくために、かなりつじつまが合わなくなっており、かつ内向きになっている。

昨今の政治的事情をかなり反映していることも、見ているとよくわかる。

まあそれはともかく。

今回、いちばんカオスだなあ、と思ったのは、朝の連ドラ「あまちゃん」のコーナーである。私はドラマをほとんど見ていないが、2013年の大ヒットドラマだったらしい。

それ自体が内向きなネタなのだが、まあそれはよい。

キョンキョン(小泉今日子)と、薬師丸ひろ子が、「小泉今日子」や「薬師丸ひろ子」としてではなく、それぞれ「天野春子」「鈴鹿ひろ美」という、ドラマの役に扮して、「潮騒のメモリー」という、これまたドラマの中で作られた架空の歌を、紅白歌合戦で歌ったのである。

キョンキョンや薬師丸ひろ子といったらあーた、私の世代の、憧れのアイドルですよ!

それだけで、私にとっては感激ものである。

「小泉今日子」「薬師丸ひろ子」として持ち歌を歌わせても、全然おかしくないと思うのだが、「潮騒のメモリー」という劇中歌を歌わせているところが、面白いけれど、なんというか、もったいないのである。

しかもですよ。

「潮騒のメモリー」は、ドラマの脚本を書いた宮藤官九郎が自ら作詞した歌で、70年代から80年代の歌謡曲のいろいろなパロディがちりばめられている「バカ歌」(ほめ言葉)なのだ。

たとえば、

「彼に伝えて 今でも好きだと

ジョニーに伝えて 千円返して」

という歌詞は、「ジョニーへの伝言」のパロディで、とても可笑しいのだが、そのあとに高橋真梨子が紅組出演者として、ちゃんとした歌を歌っているのをみて、

「高橋真梨子は、この歌について何とも思わないのか?というか、高橋真梨子は、『ジョニーへの伝言』を歌ってくれるわけではないのか」

と思ってしまったり、

「三途の川のマーメイド

友達少ないマーメイド」

という歌詞は、松田聖子の「小麦色のマーメイド」のパロディで、たまらなく可笑しいのだが、やはりそのあとに松田聖子が紅組出演者として出てきて、ちゃんとした歌を歌っているのをみて、

「なぜ、松田聖子は松田聖子として出ているのに、キョンキョンや薬師丸ひろ子は、キョンキョンや薬師丸ひろ子として歌わせてもらえないのか?というか、ここで松田聖子は『小麦色のマーメイド』を歌うべきだろう」

と思ってしまったり、なんとも、NHKの演出意図が理解できない。

NHKは、何ともったいない使い方をするのだろう。

まあ、伝わりにくい話だし、どうでもいい話なのだが、とにかく言いたいことは、

「紅白歌合戦のガラパゴス化」

ということと、

「俺と同世代のクドカン(宮藤官九郎)は、キョンキョンと薬師丸ひろ子に、自分の作ったバカ歌(ほめ言葉)を紅白で歌わせて、うらやましいぞこの野郎」

ということだけである。

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