« 1979年の緒形拳 | トップページ | 親不孝の孝 »

損をしたっていいじゃないか

1月22日(水)

相変わらず、心がどんよりな日々である。

「この場の日常」の視界から、しだいに外されていくような感覚。

そんなおり、学生のAさんからメールが来た。

自分と他者との考え方の差に、自分で疲れている、という。

よかれと思ってやってきたことが、今では自分の主張を守るために意固地になっているにすぎないのかもしれない、と、自分を疑いはじめているという。

よかれと思ってやっていることに、「なんでそんなことするの?」と言われ、そんな思いまでして、その人たちのためにする必要があるのだろうか、と。

そこまでしてやることが、無駄なように思えてきて、「やるせない気持ちです」と、ふだんは気丈でへこたれることのないAさんが、書いてきたのである。

うーむ。まるで自分を見ているようだな。

返事を書いた。

「自分のやっていることがまわりに理解されない」というのは、私自身もいつも経験しています。「よかれ」と思って提案したことが、まったく理解されなかったり、会議の場で正論を吐いたつもりが、まったく援護射撃を得られなかったり、そんなことの連続です。Aさんと同じように、自分が意固地なだけなのではないか、と、たまに苦笑することがあります。

どんな組織にも、「無言の人びと」がいて、そこには、自分を支持してくれる人や、厄介なヤツだと思う人など、さまざまな人がいるのだと思います。

でも間違いなく言えるのは、正論を吐き続けている限り、「無言の人びと」の中には、「無言の支持者」がいる、ということです。

以前、ある仕事を担当していたとき、よかれと思ってさまざまな提案をしたのですが、まわりの反応は、それはそれは冷ややかなものでした。誰だってかかわりたくない問題ですからね。それこそ「やるせない気持ち」になりました。

でも、救いだったのは、援護射撃してくれるひとりの同志や、ごくわずかですが「無言の支持者」もいたことです。そのことが支えになりました。

それからというもの、「どんなにまわりが、自分のやっていることを理解してくれないようにみえようとも、正論を吐き続けよう」と思うことにしました。自分が言わなければ、誰も言わないのだとしたら、自分が言うしかないでしょう。

それは、「自分は単に意固地なのではないか」と疑問を持ち続けている限りは、意固地ではないことだと思います。

社会に出たら、たぶん、こんな思いをくり返すことになると思います。

損をする性格だと思いますよ、Aさんは。

でも損をしたっていいじゃないですか。それが性分なんですから。」

まるで自分に言い聞かせるように書いた。

Aさんがどんなふうに受け止めたかは、わからない。

|

« 1979年の緒形拳 | トップページ | 親不孝の孝 »

職場の出来事」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 1979年の緒形拳 | トップページ | 親不孝の孝 »