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違和感の絵解き

先日メールをくれた学生のAさんが、木曜日(23日)の夕方に仕事部屋に訪ねてきて、小一時間ほど話をした。

Aさんは、直接教えたことのない学生なのだが、ふとしたことから、私に相談に来るようになり、たまに話を聞いたりしている。

そうしたら今日、「先日はありがとうございました。自分の気持ちが整理されて、頭の中がスッキリしました」とメールが来ていた。

私自身も愚痴の多い人間なのだが、学生や、大人の友人から、悩みとか愚痴、といったものを、聞く機会が多い。

そこに共通しているのは、「悩み」というよりも、「違和感」である、ということに気づいた。

もっと具体的にいえば、「他者に対する違和感」である。

自己と他者の考え方や認識の違いにとまどったり、憤ったりする。「他者はなぜこう考えるのだろう?」「なぜ自分の意見が理解されないのだろう?」など。

その「他者」というのは、個人であったり、大多数の人であったり、さまざまである。

それが、悩みのほとんどを占めていることに、気づいたのである。

他者に対する「違和感」がどこから来るのか、それを説明しがたいことに、人は戸惑うのである。

私は話を聞き、頑張ってその人の「違和感」を「絵解き」しようとつとめる。その「絵解き」が正しいのかどうかは、わからない。

だが自分の中の「違和感」の理由をなにがしか説明できれば、少しは、気が楽になろうというものである。

いつの間にか私は、その「絵解き」が役回りになっていた。

考えてみれば、学生や友人にとって、私はたんなる「狂言回し」に過ぎないのかも知れない。

だがその役回りも、もはや役割を終えつつある。

他者に対する「違和感」を感じていた人は、おそらく自らも「絵解き」できるようになったり、「違和感」に対して以前ほど気にしなくなったり、さらにはほかの人に「絵解き」を求めたり、と、変わってゆく。

かくして「絵解き」の役回りは、必要とされなくなり、しだいに私は視界の外へと追いやられていく。

それはたぶん、喜ぶべきことなのだろうと思う。

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