屁理屈は私を救う
私が「屁理屈芸人」と分類している人たちがいて、その筆頭は、引退した上岡龍太郎である。
私が「屁理屈芸人」に共感するのは、私自身が屁理屈な人間だからである。
そもそも、「あいつは理屈ばかり言う」というのと、「あいつは屁理屈ばかり言う」というのに、どんな違いがあるのか、よくわからない。
「理屈」も「屁理屈」も、結局は同じことである。
私を知る人はよくわかっているように、私は何かと、しなくてもよい妄想にとらわれ、うじうじと悩む。
被害妄想というのか、加害妄想というのか、自意識過剰というのか、他意識過剰というのか。
そのどれもが混ざり合った感情である。厄介な性格ですよ。
さすがに親しい友人も、私のそういう部分に嫌気がさすらしいのだが、一度深みにはまると、どうしようもなくなるのである。
先日、ある友人から電話があった。あることを依頼されて、その友人の依頼にはぜひこたえたかったのだが、あいにくその日は都合が悪い。
申し訳ない、と電話口で話すと、その彼は、
「いやいや、気にしないでくださいよ。いつもみたいにまた悶々として、気に病まれると困っから」
さすが、私のことをよく知っているなあ、と電話口で大笑いした。
しかし、である。
そんなことばかり考えていては、本当に気に病んでしまう。
それを解決するのが、「(屁)理屈」なのである。
ここ最近も、あることでモヤモヤと悩んでいたのだが、ある「理屈」で、「絵解き」をしたところ、
(なるほど、そういうことか!)
と合点がいって、モヤモヤとした妄想の霧が、晴れていく感じになった。
(なんでこんなことをするんだろう?…そうか!かくかくしかじかだから、こういうことをするわけか!)
すべて理詰めで、説明していく。
いったん自分がたてた理屈で説明していけば、面白いくらいにその現象が解き明かせる。
それが正しいかどうかは、もちろんわからないのだが、その「仮説」で、これまでのモヤモヤの原因が説明できるような気になるのである。
それで思うのだが、人間は、説明のできないことに対して、不安に思ったり、不審に思ったりするものなのだ。
友人や学生から受ける相談というのは、たいていそういうものである。
自分の中でそのモヤモヤの理由を説明できるようになれば、いくらか心は軽くなるのではないだろうか。それは、屁理屈でもかまわないのだ。
思い返してみるに、今まで私は、そうやってなんとかここまで生きてきたのだ。
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