湖上
先日このブログで高橋和巳の『悲の器』のことを書いたら、「俺も高橋和巳の小説、好きだったんですよ」と言ってくれた同世代の友人がいた。
何でも書いてみるものだ。身近なところに同じ趣味の人がいるんだな、と思っていたら、
「でも、中原中也は嫌いだったんでしょ?」
とその友人は言う。
「そんなことありませんよ」
と言うと、
「いや、嫌いだと書いてましたよ」
と言う。
そういえば、中学校の卒業式の思い出について書いたときに、中原中也の詩について、少し触れたのだった。
だが、嫌いだった、とは書いていない。
しかし、中原中也が好きな人からしたら、たしかに「この人、中原中也の詩が嫌いなんだな」と思わせる表現だったのかもしれない。
「俺、ズボンのポケットにいつも詩集をしのばせているくらい、好きだったんですから」
「そうだったんですか」
私はたしかに、熱心な読者というわけではなかった。だが、「湖上」という詩は、とても好きだった。
「湖上」
「ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。」
私はとくに、
「あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで」
という部分が大好きで、この情景を思い浮かべては、なんともいえない幸福な気持ちを想像したものである。
「あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで」
ひょっとしたらこの情景が、今まで想像した中で、私にとっていちばん幸福な情景なのかもしれない、と、今でも思うのだ。
| 固定リンク
「文化・芸術」カテゴリの記事
- アートと書いて「いいわけ」と読む(2021.12.17)
- 中島敦の絵はがき(2019.11.23)
- 写真展(2019.08.16)
- ポーでした!(2018.07.18)
- とんどさぎちょう(2017.04.15)
コメント
最近登場が減っているダブル浅野という意味でのダブルKの片割れです。
高橋和巳全集、持ってます。
Sネット系統には高橋和巳率は高いようです。
あの法学者のように「やむにやまれなかった」というところが通じるのでしょう。
投稿: 最近登場しないダブルK | 2014年2月22日 (土) 23時38分
高橋和巳、やはりこの世代の人たちにけっこう影響を与えているんですね。しかしその世代の人たちも、いまや彼の年齢を超えてしまった…。
投稿: onigawaragonzou | 2014年2月24日 (月) 02時22分