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2014年3月

激痛新生活

3月30日(日)

朝起きると、右膝が猛烈に痛い。

これは、例の病気である。

私はこれまでに2回、大きな引っ越しをしているが、そのときに必ず、「足が猛烈に痛くなる病気」にかかっている。

14年前、東京から、「前の職場」に引っ越しをしたとき、4月早々、例の発作が起きた。

11年7カ月前、「前の職場」から「次の職場」に引っ越したときも、たしか、引っ越しの最中に、猛烈に足が痛くなったと記憶している。

そして、今回、3回目である。

発作が起きないように、慎重に慎重に引っ越し作業を進めてきたが、ここへ来てやはり、同じことをくり返してしまった。

23日くらいから、まず左足のくるぶしが痛み始めた。

だが、24日~26日は、大切な送別会や卒業式があったため、なんとしても乗り越えなければならない。

送別会や卒業式は、いずれも楽しかったので乗り越えられたが、27日以降、また痛み始めた。

そして一昨日の28日の夜。

あるイベントがあり、そのときは気を張っていたので痛みは感じなかったが、終わってどっと疲労すると、とたんに痛み出した。

おそらく極度の精神的ストレスがあったのかもしれない。

そして今朝である。

目が覚めたら、起き上がるのが億劫なくらいに、右膝が猛烈に痛いのだ。

「痛いタイタイタイタイ!」

左足のくるぶしに加え、右膝まで激痛が走ったのだ。

こうなると、いったいどっちの足を軸足にしていいのか、わからない。

だが不思議なもので、右膝が痛くなると、左足のくるぶしの痛みは、ほとんど感じなくなった。

そうか!

人間は、「もっと痛くなると、それまでの痛みを忘れる」のか!

つまり、

「人生において、それまでの些細な痛みは、もっと大きな痛みによって、何でもないことのように思えてしまう」

ということである!

…そんなことはどうでもよい。

とにかく痛いのだ!

家族には、

「作業をするのがイヤだから、引っ越しのたびに仮病を使っているのではないか?」

と疑われているようだが、断じてそんなことはない。

この痛みは、たぶん「ほかの人にはわからない」。

とくに膝に発作が出ると、膝をちょっと曲げただけで、激痛である。

立ち上がろうとすると、体重が膝にかかるから、

「痛いタイタイタイタイ!」

となる。

階段を降りるときもタイヘンである。

一段ずつ降りるたびに膝に激痛が走り、

「痛いタイタイタイタイ!」

となるのだ。

床にものを落としたときもタイヘンである。

膝をかがめてとろうとすると、

「痛いタイタイタイタイ!」

となる。

前にも同じようなことがあったな、と、自分のブログをさかのぼってみると、

あったあった、ありました!

2011年10月15日(水)「激痛避難訓練」

このときも、猛烈な膝の痛みに襲われたのだった。

加えて今日は、春の嵐。外は大雨である。

外へ出るのも一苦労である。

どうしていつも、こんな目に遭うんだろう?

とにかく、新生活が始まる4月1日(火)までに、膝の痛みを治しておかなければならない。

新天地で、いきなり

「痛いタイタイタイタイ!」

となっては、新しい職場の人たちにも迷惑をかけるばかりである。

痛み止めの薬もかなり飲んでいるが、今回ばかりはお手上げのようである。

「健康第一!」

そんなことはわかりきっているのだが、この病気だけは、どうにも自分でもコントロールできなくなっている。

はたして、4月1日(火)からの新生活、無事乗り越えられるのか???

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ちぐはぐロードムービー

3月28日(金)

14年間住んでいた土地を、離れることになった。

3月のあいだ、大変な思いをして引っ越し作業が終わり、最終日の今日は、仕事部屋と自宅にあったこまごまとした荷物を、自家用車に積んで、いよいよ完全退去である。

ところがこれに、思いのほか時間がかかった。

朝、仕事部屋に残った最後の荷物を自家用車に積む作業をしていたら、あっという間に10時になってしまった。

最後、事務室に挨拶に行こうとすると、事務室も、引っ越し作業に追われていた。耐震工事が終わり、もとの部屋にもどるため、職員さんたちが総出で荷物を運んでいる。

お前のことなんかかまってられるか!という雰囲気だったので、挨拶もせずに廊下に出ると、昨日感動的な別れのあいさつを交わした同僚とすれ違う。

「まだいたんですよ、てへへ」

と自嘲気味に挨拶したが、なんともバツが悪い。

今度は自宅に戻り、自宅に残ったこまごまとした荷物を自家用車に積んだ。

そうこうしているうちに、11時半になってしまった。

ようやく出発である。自家用車による400㎞の旅が始まる。

しかしその途中で、立ち寄りたい場所があった。

まず向かった先は、「同い年の盟友Uさん」のいる職場である。

この職場には、これまでいろいろとお世話になったこともあり、挨拶をしてから旅立とうと思ったのである。

アポなしで行くと、Uさんがいた。

「なんだよ~。タイミング悪いなあ」

「どうしたんです?」

「今日、おおかたの人が出はらっちゃって、職場にいないんだ」

なんともタイミングが悪い。

だが、Uさんは職場の中をひとまわりしてくれて、ひととおり、挨拶の機会を与えてくれた。

お世話になったTさんやMさんとも会うことができた。

「こういうときって、手を振るもんなんだよな」

UさんとMさんに玄関で見送られながら、私の車はその職場をあとにした。

次に向かった先は、「前の職場」である。

アポなしで行って誰もいなかったらどうしよう、と急に不安になって、Kさんに電話をした。

「これからうかがおうと思うんですが、職場にいらっしゃいますか?」

「ええ、僕はいるんですけど、タイミング悪いなあ」

「どうしたんです?」

「僕以外は誰もいませんよ」

「こぶぎさんもですか?」

「ええ」

またか!どうにもタイミングが悪い。

「前の職場」に到着し、Kさんの仕事部屋に行って四方山話をする。

Kさんの部屋を出ると、廊下をたまたま通りかかった「同期入社」のUさんと、10年ぶりくらいに話をした。

Uさん、全然変わってないなあ。

気がつくと、午後3時半である。

「いかん!今日中に帰らないと」

「もういっそのこと、温泉に泊まったらどうです?で、3日くらいかけてたどり着くとか」

「そんな悠長なこと言ってられません!」

慌てて「前の職場」を出て、国道を東に向かって、峠越えをする。

この峠を越えると、県境である。

山を下り、隣県の町に入ると、そこから東北道に入り、あとはひたすら南下する。

そういえば思い出した。

私によく「雲をつかむような話」をする同僚が、先日、こんな話をしてくれた。

「東北道のサービスエリア(SA)に、すごく美味しい食べ物があるんです」

「そうですか」

「東北道を通るとき、必ずそのSAに立ち寄って、それを食べるんですよ」

「そんなに美味しいんですか?」

「ええ。絶対にオススメです」

「へえ、それって、何です?」

「さあ、それがよく覚えていないんです」

「はぁ?」

話の様子だと、どうも洋菓子のようなものである、らしい。

「SAの場所も、商品名も、わからないんです」

どういうこっちゃ???

美味しい、という記憶だけはあるのだが、それがどこにある、どういうものだか、まったくわからない、というのだ。

「上り線にあるのか、下り線にあるのかも、わかりません」

記憶喪失か!?

「わかりました。じゃあ自分で探してみます」

とは言ってみたものの、これこそ、「雲をつかむような話」である。

しかし、全部のSAやパーキングエリア(PA)をしらみつぶしに探すわけにはいかない。そんなことをしていたら、今日中に目的地にたどり着けなくなる。

あたりをつけて、大きいSAに立ち寄ったついでに探すことにするが、どうも「洋菓子風の美味しいもの」に該当しそうなものは見当たらない。

そのことに気をとられているうちに、重大なミスを犯した。

「ああああぁぁぁ!!!」

以前、こぶぎさんにすすめられた、「鬼平犯科帳」の世界を再現したというPAを、うっかり通り過ぎてしまったのだ!

「美味しい食べ物」は見つからないし、行こうと思っていたPAは通り過ぎてしまうし、まったく、今日はなんとちぐはぐな日だろう。

もとはといえば翻弄される私のほうが悪いのだ。だが翻弄されるのは、嫌いではない。

そんなこんなで、目的地に着いたのが夜10時半。出発から、じつに11時間が経っていた。

出発当初は、「お世話になった場所を訪れ、別れを告げながら目的地に向かう感動的なロードムービー」を期待していたのだが、全然そんな感じにはならなかった。

実際の人生なんて、こんなものである。

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最後の卒業祝賀会

3月25日(火)

ひどい二日酔いのまま、お昼過ぎ、卒業祝賀会場に向かう。

タクシーの中で、先日の「追いコン」で4年生のSさんとAさんからもらったネクタイを締める。

会場となるホテルに着くと、職員さんが、「先生、早く早く!」と手招きをしている。

うちの学科の集合写真を、今まさに撮ろうとしているところだった。

私が走って会場に駆け込むと、並んでいる学生たちから笑いが起きた。

ギリギリ、集合写真撮影に間に合った。

撮影が終わり、祝賀会がはじまる。

Sさんが、「最優秀学生」として、表彰された。私はまるで保護者か!というくらいに、前に出て、表彰の瞬間を写真に収めた。

Sさんが学部でいちばん優秀な学生であることに、議論の余地はない。それに関しては自信がある。Sさんのことをずっと見てきた私が言うのだから、間違いない。

祝賀会場は、円卓が並んでいて、とくに席が決まっているわけではない。自由席である。

隣に座ったのは、Oさんのご両親だった。

Oさんのご両親と、吹奏楽の話題で話が弾む。お二人は、大学時代に吹奏楽団で知り合い、それからずっと今まで、吹奏楽を続けているのだという。

「今度、演奏会を聴きに来てください」

「これをご縁に、今後もよろしくお願い申し上げます」

続いて、S君が来た。S君は、私の指導学生ではないが、私を慕ってくれていた。

「先生、専門分野が違う僕にも、いつも気にかけていただいて、ありがとうございました」

「あなたと、T君と、M君、いつも一緒にいたよね」

私は、この3人の「男子学生ぶり」が、かなり好きだった。

「3人のめげないところが好きだったんだ。これからもそのめげないところが武器になると思うよ」

「ありがとうございます」S君は、涙ぐんでいた。

続いて、T君が来た。

T君は、4月から国際交流にかかわる仕事に携わることになったという。中国に留学した経験が生かされるのだ。

「先生、ブログ辞めちゃうんですか?」

「まだわからないよ」

「もし続けてくれたら、俺、これからも読み続けて、それを力に、仕事がんばります」

T君は、私の韓国留学体験を読んだことで、中国に留学するふんぎりがついたと、以前、言ってくれたことがある。それは何よりも嬉しい言葉だった。

3人目のM君が来た。

「先生、ありがとうございました」

「あれ?」M君は、もう一年在籍するはずだが、なぜかここに来ていた。

だが、誰よりも卒業祝賀会を楽しんでいた。

学生とのやりとりを書くときりがない。

最後まで仕事部屋の引っ越しを黙々と手伝ってくれたA君。

学年のとりまとめ役をしてくれたSさん。

一昨年、学園祭でバンドを組んで一緒に演奏してくれたAさん。

姉妹ともにここで勉強したNさん。

ボランティア作業に献身的に活動してくれたTさん。

地元に就職が決まったWさん。

居酒屋の主人から謎の調査依頼を持ってきたKさん。

台湾に留学していたSさん。

ラトビアに留学していたNさん。

教師を目指すSさん。

…まだまだほかにもいる。

「先生、途中で失礼します」と、先ほど最優秀学生に表彰されたSさん。

「よく頑張ったね」

「ありがとうございます」

「弟さんに会いたかったよ」

Sさんがよく話す弟の話を、私はいつも、面白がって聞いていた。

「また遊びに行きます」

Sさんは一足早く、会場をあとにした。

OさんとFさんが来た。

「先生に出会わなければ、大学を辞めていたかも知れません」

2人が口を揃えて言った。少々大げさな話かもしれない。だが私は、学生たちがこの4年間、どれほどいろいろな思いを抱えてきたか、それを、おそらく他の同僚の誰よりも、見つめてきたつもりである。

たぶんそれは、「ほかの人にはわからない」だろう。

Oさんは、辞めるどころか、私の影響を受けて、韓国に留学までしたのである。

学生をふつうに送り出すことが、これほど嬉しく、誇らしく、尊いことであるとは。

最後の卒業祝賀会で、はじめて実感したことである。

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振り出しにもどる

何日か前に紹介した、高野寛の「All over Starting over ~その笑顔のために~」という歌の中に、

「過ぎ去った月日を

置き去りに歩いたら

めぐる季節はまた

振り出しにもどるだろう」

という歌詞があって、

「振り出しにもどる」

という言葉が、とてもよい響きに感じた。

考えてみれば、これは今の言葉でいえば、「リセット」のことであって、今はもっぱら「リセット」という言葉が使われていて、「振り出しにもどる」という言葉は、あまり聞かなくなった。

もともと、双六の用語から来た言葉だと思うが、そもそも、双六じたいが、あまりなじみのないものになってしまったことからすると、「振り出しにもどる」という言葉は、もうあまり意味がわからない言葉になってしまっているのかも知れない。

だが、「リセット」という言葉では、なんとも味気ない。

「リセット」というデジタルな言い方よりも、「振り出しにもどる」というアナログな言い方のほうが、この時期の感傷をよくあらわしているように思う。

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楽しむ生き方

もはや体力と気力の限界である。

今年度で定年退職する同僚の挨拶を、いろいろな場所で聴いていて、

「すごいなあ」

と思ってしまった。

その同僚は、長らく商社に勤めていて、おそらく商社の定年退職を目前にして、東京からうちの職場に移ってきたのだと思う。この3月までの6年間、それまでとはまったく異なる職業である「田舎教師」をつとめていたのだ。

挨拶ではもっぱら、

「楽しかった思い出しかない」

「まったく飽きることがなかった」

と話していた。それをいかにも楽しそうに話すので、本当に、この6年間を楽しんでいたんだろうなあ、と思う。

私の勝手なイメージでは、生き馬の目を抜く商社から、独特の文化や因習を持つこの職場に移ったら、文句の一つでもいいたくなるのではないだろうか、と、思ってしまう。

しかし、この同僚には、そんなところが微塵もない。

学生の間での授業の評判もよかったそうだ。長らく社会で実践を積んでこられた方なので、お話も歯切れよく、面白かったのだろう。

ゼミに集まってくる学生も、面白い学生が多かったのだと思う。

本人が楽しんでいると、それを面白がる人が周りに集まってくるのだ。

以前、私が職場で企画した「眼福の先生」の講演会にも、専門分野がまったく異なるにもかかわらず、聴きに来ていただいた。しかもそのときは、その同僚とまったくお話をしたことがなかったので、義理で来てくれた、というわけではない。ただ、楽しみに来てくれたのである。そんな感じで聴きに来てくれた同僚は。たぶんその方だけである。それが、とても嬉しかった。

先日の送別会で、はじめて、その同僚とお話しすることができた。

わずかな時間の立ち話だったが、専門分野の異なる私のところにわざわざ来ていただいて、四方山話をした。

私の話に合わせつつ、ご自身の経験をふまえたお話をされたりして、その話題は尽きることがなかった。

もっと早くから、こうしたお話が日常的にできていたら、いろいろなことを学べたのではないか、とも思った。

いつも思うのだが、人はなぜ、身近に師がいることに、気づかないのだろう。

F先生、お疲れさまでした。これからも、楽しい人生を!

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記憶の肩代わり

ちょっと戻って、3月19日(水)。

朝から夕方まで、4つの会議が続く。

お昼休みに、職場の寄合があった。

思いもかけず、日ごろ信頼する2人の同僚から、私に対するメッセージをいただいた。

いつも思うだが、人間の記憶、というのは、面白い。

自分がすっかり忘れていることを、別の人が、覚えていていくれる。

しかも、相当細かい部分まで、である。

人はひとりでは生きていけない、と、よく言われるが、「ほかの人が、自分の記憶の肩代わりをしてくれている」ことが、自分にとっての大きな絆になることがある。

だから、自分の記憶の肩代わりをしてくれる人は、大事である。

他人の記憶の中に潜む自分。ひょっとしてそれこそが、生きた証、なのかも知れない。

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誰にも理解されない主張

サッカーJリーグのサポーターによる、差別横断幕事件。

当初は、ほとんど報道されていなかった。

しかし、次第に事の重大さに気づいたのか、Jリーグ側が、チームに重い制裁を科し、ようやく報道されるようになった。

このときの経緯を、TBSラジオ「荻上チキ セッション22」のポッドキャストで聴いたのだが、これがメチャクチャ興味深い。

この差別横断幕を競技場の観客席で見つけて、「これはまずい」と思ったのは、同じサッカーチームの熱烈なサポーターだった、Uさんだった。当日の放送では、このUさんも出演して、そのときの様子を事細かに話している。

それによると、サッカー観戦をしようと競技場に入ったUさんは、この差別横断幕を見て、「これはまずい」と思い、すぐに、しかるべき手続きを経て、クラブ(サッカーチーム)に、

「あの横断幕は、差別的表現を含んでいるので、ただちに取り外すべきだ」

と申し入れをした。

ところが、結局試合の最後まで、この差別横断幕は取り外されることはなかった。

チームを率いるクラブ側が、横断幕を掲げたサポーター側に配慮した、ということらしい。

サッカーチームは、サポーターの支援があってのものだからである。

つまりは、「なるべく事を荒立てないように」ということのようだった。

しかし、これをこのまま放置しておくと、さらに大きな問題に発展しかねませんよ、と、Uさんは再三言ったのだが、クラブ側は、その場を穏便に済ませようとしたのである。

だが最終的には、問題はかなり大きくなり、チームの受けた傷は、より深いものとなってしまった。

このラジオを聴いていて、すげえなあ、と思ったのは、この差別横断幕をただちに問題視し、正当な手続きでクラブ側にその場で申し入れをした、Uさんである。

これほど適切で、毅然とした行動は、なかなかできない。

さらに驚いたのは、Uさんが、このときの放送で、じつに理路整然と、冷静に、この問題について論じていたことである。

このUさんの素性は、サッカーチームの熱烈なサポーターというだけで、とくに明かされているわけではなかったが、じつに弁が立つ、というか、ラジオ慣れしている、というか、とにかく、私なんかよりも、はるかに冷静で理知的なのである。

何者なんだ?この人は。

何よりすばらしいのは、サッカーチームのサポーターによる不祥事を、同じチームのサポーターが毅然とした姿勢で、臆することなく、正当な手続きで、問題を明るみにしたことである。

それに対してクラブ側がとった行動は、当初は、「事なかれ主義」に徹する、というものであった。

そればかりか、よかれと思って申し入れをしたUさんのことを、当初は「クレーマー」の1人として対応していたのである。

「ある問題が起こったとき、どのように対処するか?」

差別横断幕事件は、その、見本のような事件である。

誤解を恐れずにいえば、教材にしてもいいくらいの事件である。

「この事件の、何が問題なのか?」

「こうした事件が起こったとき、周りの人たちはどのような姿勢でのぞめばよいのか?」

これに答えられることが、社会人になるための、第一歩なのではないだろうか。

…ま、そうは言っても、私の周りで理解してくれる人なんて誰もいないだろうな。

ところで、私こそ、差別のかたまりのような人間であることを、この事件を通じて痛感した。

私はこの事件が起こったとき、

「サッカーチームのサポーターなんて、やっぱりろくなもんじゃねえ。きっと、こういう連中ばっかりなんだ」

と思ってしまった。

だが、この問題を誰よりも深刻に受けとめ、解決に導いたのも、実は、サポーターだったのである。

「オレは、サポーターを、十把一絡げに見てしまっていた」

と、自分の中にある強い差別意識に、深く反省したのであった。

最後にくり返していう。

この事件は、教材にすべきである。

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新しい門出に

3月20日(木)

大事な作業の日なのに、大雪や大雨が降ったり、

苦労して受付に到着したのに、「書類が足りないのでダメです」と言われたり、

よかれと思って慣れないことをしてしまったために、相手を喜ばすどころか手こずらせて困らせてしまったり。

最近の私は、ツイてないことばかりである!

こういうときは、

「縁がなかったのだ」

と思うことにしている。

しかし、そうクヨクヨしていても仕方がない。

もうすぐ春が来る。

新しい門出を迎える人たちに、音楽を贈ろう。

手っ取り早く、動画サイトをお借りして。

縁があったら、聴いてみてください。

春を待つこの時期に、ぴったりの歌だと思います。

高野寛「All over, Starting over ~その笑顔のために~」の短縮バージョンです。

「雪どけの季節さ

開け放した窓には

東から届いた

見知らぬ風の便り」

では、お元気で!

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絶対に理解されない大林映画

以前、「絶対に薦められない大林映画」として紹介した、「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」。

借金の取り立て屋である室田(三浦友和)のもとに、風のように現れた旅人、山倉(竹内力)。山倉は、妙なアイデアを考えては、室田をたきつけて、アイデアの開発にお金を投資させるが、どれも失敗する。室田は山倉に騙されながらも、その飄々とした性格に、憎めない感情をいだいていく。

そこへ、刑期を終えた室田の幼なじみ、成田(永島敏行)があらわれる。

室田と成田の間には、深い友情と憎しみが交錯していた。映画の終盤で、室田と成田は、殴り合いのケンカを始める。

室田の妻であり、2人の幼なじみでもある夕子(南果穂)は、2人のケンカに原因が自分であることに気づき、なんとか止めようと、山倉に助けを求める。

「今すぐ来てください!室田さんと成田さんが、…殺し合っています!」

夕子に助けを求められた山倉は、寂しそうな表情で、ひと言つぶやく。

「…僕だって殺し合いたい」

夕子は山倉の言葉に、驚く。

たぶんこの映画の、いちばんの見せ場である。

旅人の山倉にとっては、自分が室田にいくら気に入られようとも、所詮は旅人である。成田と室田、そして夕子の3人の関係に、山倉はどうしても立ち入ることができなかったのだ。

そう考えると、日常の中で軽口をたたける関係にある人たちって、うらやましい。

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疲れた体に、ワインを少々

3月18日(火)

愚鈍な私のために、多忙な友人たちが時間を割いて食事会を開いてくれた。今日もまた、ありがたい一夜である。

お店のチョイスもすばらしく、時間を忘れるほど楽しかった。その気遣いに、どうお礼を言っていいか、わからない。

いつも思うのは、自分の未熟さや稚拙さや性急さや独善さに対して、自分を支えてくれる友人たちの、大人ぶり、である。

自分自身がわきまえていないことに気づかないまま、今まで、その大人ぶりに甘えてしまっていたんだろうなあ、と、後になって気づき、反省することがしばしばである。

いつまでも独善的なノスタルジーに酔っていてはいけない。

私自身が、大人にならなければいけないのだ。

…ん?これもまた、独善的なノスタルジーか?

疲れた体に、ワインを少々。

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誰にも理解されない「廃市」論

誰にも理解されないと思うが、福永武彦の中編小説「廃市」を、昔から耽読していた。

いや、1人だけ理解者がいるぞ。私の妹である。

妹は、短大の国文科に在籍し、福永武彦をテーマにした卒業論文を書いた。兄である私が、当時、福永武彦を耽読していたことに影響を受けてのことである。

どんな内容の卒業論文を書いたのかは知らない。そもそも、どれだけ福永武彦に思い入れがあったのかすら、定かではない。単に、手っ取り早くテーマを見つけるために、当時私が夢中になって読んでいた作家に目を付けただけかも知れない。

今は、文学とは関わりのない銀行員なので、当時のことなど、すっかり忘れているだろう。

もし、大学で文学を学び直すことが許されるのだとしたら、あるいは私も、福永武彦をテーマに卒業論文を書くかも知れない。

というこで、誰にも理解されない「廃市」論を書く。

卒業論文を書くために、福岡県柳川の旧家・貝原家で一夏を過ごした「僕」が、貝原家で体験したことを綴った物語である。物語は、「僕」の視点で進んでいく。

この小説が好きな理由は、この小説が、「人間関係をめぐるミステリー」に満ちているからである。

主な登場人物は、次の4人である。

貝原郁代…貝原家の長女。

貝原安子…貝原家の次女。

貝原直之…長女・郁代の婿となった、貝原家の跡取り。

「僕」…卒業論文を書くために貝原家を訪れた大学生。

このほかに、直之の情婦である「ひで」も登場する。

貝原家を訪れた「僕」は、貝原家に次女の安子さんしかいないことを、不審に思う。跡取りの姉夫婦がいるはずなのに、二人の姿が見えないのである。

やがて「僕」は、直之が情婦「ひで」のもとで暮らしていることを知り、郁代が寺に引き籠もっていることを知る。

では、直之は郁代のことがイヤになって、あるいは「ひで」のことが好きで、「ひで」のもとへ行ってしまったのか?

実はそうではなかった。

安子が「僕」に語ったところによれば、直之は郁代を愛していたが、あるとき郁代は、直之と安子が二人で食事に出かけ、ふざけ合いながら歩いているところを見てしまって、「直之が好きなのは、私ではなく安子なのではないか」と思い込み、郁代は自分から身をひいて、お寺に籠もってしまった、というのである。

実際、直之と安子は、はた目から見ても、とても仲がよかったのだ。

郁代のそうした「面倒な性格」をよく知っている直之は、誤解を解くことが面倒くさくなり、心の落ち着き場所として情婦「ひで」のもとで暮らすようになり、最後には、ひでと心中してしまうのである。

直之が本当に愛していたのは、郁代だったのか?安子だったのか?

郁代は、直之が安子を愛していたのだと思い込み、安子は、直之が郁代を愛していたのだと思い込む。

夏が終わり、柳川の町に別れを告げた「僕」は、帰りの列車の中で、「直之さんが愛していたのは、やはり安子さんだったのではないだろうか」と述懐する。さらに「僕」もまた、安子を愛していたことに気づくのである。

はたして、「僕」が結論づけたように、直之が本当に愛していたのは、安子だったのか?これもまた、安子を愛していた「僕」の思い込みだろうと思う。

「あれほど郁代さんが確信を持って信じたのには、やはり十分な理由があるのだ」と「僕」は推測しているが、はたしてそうだろうか。郁代の性格から考えて、十分な理由がなくとも、2人の関係を確信するなど、容易なことである。

おそらく「僕」は、安子を愛していたがゆえに、必要以上に安子のことを意識して、直之に嫉妬していたのかも知れない。やはり、直之は郁代を愛していたのではないだろうか。

直之を愛していた郁代は、直之が安子を愛していたのだと思い込み、

直之を愛していた安子は、直之が郁代を愛していたのだと思い込み、

安子を愛していた「僕」は、直之が安子を愛していたと思い込み、

郁代を愛していた直之は、郁代や安子に誤解されて、「ひで」のもとに駆け込む。

直之と心中した「ひで」は、直之に愛されていなかった。

誰もが、思い込みと誤解をしている。

本当のところは、誰にもわからない。

これは、「人びとの思いのすれ違い」の物語なのである。

この小説が、私にとって何度も飽きずに読めるのは、それぞれの視点に立って、噛みしめるように読むことができるからである。

若いころはもっぱら、「僕」の視点で読むことが多かったが、今はもっぱら、郁代の視点で読んでいる。

たぶん、性格的に一番近いのは、郁代だろうと思う。

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泣いた侍

落語ブームに続いて、童話ブームが到来か??

「泣いた侍」

どこの村か、わかりません。

ある村のお百姓さんが、荒くれ者の野武士たちにとても困らされていました。

収穫のころになると、野武士たちが食べ物をぜんぶ奪い取ってしまってしまいます。

野武士たちの自分勝手な行動に、お百姓さんたちはとても困っていました。

「野武士お断り」という看板を立てても、かまわず野武士がやってきます。

何かいい知恵はないものか、と考えた末に、侍を雇って村を守ろう、ということになりました。

お百姓さんの気持ちを知った侍が、村を守ることに協力してくれることになりました。

最初は、侍が村を守ってくれるのか、半信半疑でしたが、侍は、村を守るために、さまざまな知恵を出しました。お百姓さんの愚痴や弱音も、黙って聞きました。

こうして、お百姓さんと侍は、お互いを信じるようになりました。

侍のうち、いちばん若い侍は、村の娘と、恋に落ちました。

最初はばらばらだった村のお百姓さんたちは、侍のおかげで、だんだんまとまっていきました。

さて、いよいよ収穫の時期がやってきました。

思った通り、野武士が村を襲ってきました。

お百姓さんたちは、侍と一緒に、村を守り抜きました。

侍のおかげで、村は野武士の手から守ることができましたが、侍のほうにも、多くの犠牲が出ました。

さて、村を守った侍は、村を出て行くことになりました。いよいよ別れの時です。

別れがつらくて、お百姓さんは泣いたんだろうって?

いえ、全然違います。その反対です。

お百姓さんたちは、今までと何一つ変わりなく、みんなと田植えをしたり、お祭りをしたり、一緒にご飯を食べたりしていたのです。

まるで、最初から侍なんていなかったかのように。

とくに村の娘に恋をした若い侍は、ひどくショックを受け、落ち込んでしまいました。それで、

「娘さん。みんなと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくがこのまま村にいると、君も悪い人だと思われるかもしれません。それで、ぼくは旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください」

と伝えようと思いましたが、長老の侍に、

「やめておきなさい」

と言われました。

「今度もまた、負け戦だった」

若い侍が、驚いた顔で長老の侍の顔を見ると、長老の侍は続けました。

「勝ったのはあの百姓たちだ。儂(わし)らではない」

長老の侍の言葉を聞いた若い侍は、何度も村を振り返り、泣きながらこの村をあとにしました。

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ヤマアラシのジレンマ

こぶぎさんのコメントが秀逸だという理由で、このブログを読んでいる人が多い、という。

こぶぎさんが書いてくれたコメントの中で、いまでも気になっているのは、「もし中学校の合唱部の顧問だったら」という記事を書いたときのものである。

このとき私は、槇原敬之の「Hungry Spider」という歌を取りあげて、「槇原敬之の楽曲の中で、この歌がいちばん素晴らしい。この歌を、中学校の合唱曲で取りあげるべきだ」と論じた。

そうしたところ、こぶぎさんは例のごとく、動画サイトから、この歌のPV(プロモーションビデオ)を探し出してくれ、つぎのようなコメントを寄せてくれた。

「PVのリンク貼ろうと、ユーチューブで探して見たら、怖いのなんの。

ま、「どんなときも。」も「世界に一つだけ…」も、結局はこの「超友情」の恨(ハン)が潜んでいるわけで、心して歌わんとね。

「超友情」が分かりづらければ、シザーハンズ的というか、ヤマアラシのジレンマというか(もっとわかりづらい?)。」

「Hungry Spider」の歌詞といい、PVといい、「超友情の恨(ハン)」がテーマになっている、という指摘は、おそらくこの歌の本質を突いたものだろうと思う(ちなみに、「恨」を「ハン」と読むのは、韓国語読みである)。

なるほどそういうことかと、溜飲が下がる思いがした。私自身も、昔からこの「超友情の恨(ハン)」というのを何度も経験していて、情けないことに、今でもそういうことをしでかす。

ところでこのコメントの中で、「シザーハンズ的」というのはなんとなくわかるとして、「ヤマアラシのジレンマ」とあるが、これまた恥ずかしいことに、初めて知る言葉であった。

インターネットとは便利なもので、この言葉の意味について、ウィキペディアには次のように書いてある。

「『ヤマアラシのジレンマ』とは「自己の自立」と「相手との一体感」という2つの欲求によるジレンマ。寒空にいる2匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという、ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの寓話による。但し、心理学的には、上述の否定的な意味と「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもあり、両義的な用例が許されている点に注意が必要である。」

つまり、「相手との友情を強く思うあまり、自分のさりげない言動で相手を傷つけたり、相手のさりげない言動に傷ついたりすること」ということらしい。

なるほど、これもまた、思いあたる節がある。

自分では気をつけているつもりだが、自分の言動が知らず知らずのうちに相手に不快な思いをさせてしまっているのではないか、とか。

相手の何気ない行動を深読みして、過度な意味づけをして、一人で勝手に傷ついたり、とか。

まあそんなことの繰り返しなのである。

しかしわからないのは、槇原敬之の他の楽曲である「どんなときも。」とか「世界に一つだけの花」にも、この「超友情の恨(ハン)」が潜んでいる、というこぶぎさんの指摘である。

どうにも私には、これらの歌の歌詞をたどってみても、こぶぎさんの指摘するような「超友情の恨(ハン)」が潜んでいるようには感じられないのだが、ただ、おそらく槇原敬之自身が、私と同様、「超友情の恨(ハン)」や「ヤマアラシのジレンマ」を強く抱えている人なのではないか、ということは、容易に想像される。

そしてそれが、槇原敬之の音楽の本質ではないかとするこぶぎさんの指摘にも、強く共感するのである。

それは、槇原敬之がまだ高校生の素人時代に作ったというこの曲にすでに、その片鱗があらわれているように思う。

大昔、NHKFMで放送されていた「坂本龍一のサウンドストリート」の「デモテープ特集」で採用され、オンエアされた「Half」という曲である。

…と、ここまで書いてきて、ん?と思った。

「こぶぎさんのコメントが面白くてこのブログを読んでいます」という読者の感想を聞いて私がいだいた感情は、こぶぎさんに対する「超友情の恨(ハン)」なのか?

それとも、たんなる嫉妬なのか?

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猫の事務所は続くのか

ある読者に「このブログ、昔は謙虚だったのに、最近はけっこう言いたい放題ですね」と言われ、反省しているところなのだが、これだけは言わせて。

宮沢賢治の童話「猫の事務所」を読み直して思い出したのは、昨今世の中を騒がせている、あの「騒動」である。

あれって、どうなんだろう?

実際のところはどうだったのか、今のところ真相は「藪の中」である。

つまり黒澤明の映画でいえば、「羅生門」である(また始まった)。

それよりも、私が気になるのが、あれだけあの人を持ち上げたマスコミが、一転して「糾弾」に走っている、という現象である。

「若い女性」という理由だけで持ち上げたマスコミが、今度は「若い女性」という理由だけで叩いている、というようにしかみえない。

そこに、薄ら寒さを感じるのである。

私が見たところ、今あの人の味方をする人は、誰もいないのではないか、と思う。米国にいるという師匠くらいではないだろうか。

まさに、「猫の事務所」でいうところの、「かま猫」の立場である。

童話「猫の事務所」の最後は、猫たちが恐れる「獅子」が事務所に入ってきて、

「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」

といって、かま猫を集団でいじめていた事務所は廃止される。

これに対して宮沢賢治は最後に、

「ぼくは半分獅子に同感です」

と述べている。この「半分」という感性がすばらしい。

ところが、こちらの「獅子」といったら、記者会見で、

「未熟な研究者がずさんな研究をした。データをずさん、無責任に扱った。徹底的に教育し直さないといけない」

と、その人のことを「未熟な研究者」と言い放ったのである。

私に言わせれば、

「いまごろそんなこと言うなよ!」

である。

私が宮沢賢治だったら、

「僕は獅子にまったく同感しません」

と書くだろう。

まだ、宮沢賢治が「半分同感する」という「廃止」「解散」の道を選んだ方が、ずっと誠実である。

そもそもこの発言は、強い者が弱い者に対して放つ、「トカゲのしっぽ切り」としか聞こえないが、もし、本当にその人が「未熟」だったのだとしたら、なぜ周りの人がそれに対してもっと早く対応をとらなかったのか?

要は、周りの人たちに「見る目がなかった」のである。

自分に見る目がなかったことを棚に上げて、後になってその人の問題点をあげつらったり、蔭口を叩いたりする、というのは、私の周りでもよくみられることだが、そのたびに、なんとなく薄ら寒さを感じてしまうのである。

これって、「いじめ」と構造的には同じだよなあ。

ひょっとして、自分もその一人として荷担しているのかも知れない、と思うと、自分もまた、情けない。

だから私にとってこの騒動は、周囲の対応の仕方のほうに、ずっと興味があるのだ。

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究極のオフ会

こぶぎさんのブログのタイトルが、

青鬼のブログ

に変更されていて、大笑いした。

理由は、前々回の記事前回の記事のコメント欄を参照。

前のタイトルは「乙女旅のブログ」だが、そのタイトルに名称変更した理由も、このブログのコメント欄が原因である。

ファンタジーなのか、リアルなのか、よくわからないところが、面白いところである。

そんなことはともかく。

先日、オフ会が開かれた、と書いたが、読者から「オフ会って、何です?」という質問が来たので、調べてみた。

インターネット上でオンラインの状態で交流することに対し、インターネット上ではなく、実際に会って交流することを「オフライン・ミーティング」すなわち、「オフ会」というらしい。

だが、このブログには、「オフ会」に参加せずとも、無言の読者、という人びとがいることを忘れてはならない。

もし、そうした人たちも含めて、一堂に集まる機会があるとしたら…。

そう!それは私の告別式である!

私の告別式こそは、「究極のオフ会」である!

「あなたもダマラーでしたか」

「あなたがあの有名な、高校時代の友人のコバヤシさんですか!」

「あなたもこぶぎファンだったんですか?」

「いえ、私は原則として記事の本文しか読まないことにしていたんです。本文愛好派です」

などという会話が、そこかしこで交わされるかも知れない。

そんな日が来るのを楽しみにしているのだが、考えてみたら、私はその場には立ち会えないのである。

せっかくその日が来るのを楽しみにしているのに、その日が来たときには、肝心の私がいない。

この矛盾をどう解決したらいいのか?

これは、すぐれて哲学的な問題である。

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猫の事務所

昨日の記事のコメント欄で、こぶぎさんが宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」をパロディ化した秀逸なコメントを書いていて、負けず嫌いの私も、同じ宮沢賢治の童話を使ったパロディを書いて、受けて立とうじゃないか、と、まる1日考えてみたが、どうも思い浮かばない。

思い浮かんだのが「猫の事務所」だったのだが、あらためて読み直してみて、「猫の事務所」って、すげえ話だなあ、と思うばかりで、これをこぶぎさんのようにパロディ化することが、できない。

「猫の事務所」って、どのくらい有名な童話なんだろうか?

教科書とかに載っていたかなあ。記憶にない。

だが、大人こそ読むべき童話である。

とくに、社会や組織の中にあって「生きづらいなあ」と日頃感じている人は、絶対に読むべき童話である。

で、結局、「コメント返し」は、別の童話作家の童話でお茶を濁しましたとさ。

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ダマラーのオフ会

3月11日(火)

夜6時半、「よく喋るシェフの店」で、ダマラーのオフ会があった。

Sさんが発起人になり、こぶぎさん、Kさん、Tさん、そしてだいぶ遅れて、T君が集まってくれた。

「オフ会」というのは、経験したことがないのでよくわからないが、ブログの熱心な読者たちによる会合、ということらしい。

このブログについてあれこれと語り合う、という趣向で、パソコンを持ち込んで、話題に出た記事をその場で検索して、振り返ることになった。

「ちょっと勘弁してくださいよ。恥ずかしいです」

と私が言うと、

「いえ、オフ会とはそういうものですから」と、発起人のSさん。

オフ会って、そういうものなのか?

さらに恥ずかしいことに、一昨年、大学祭で演奏したときのライブ映像が、BGMのように流された。

とにかく、恥ずかしくて居たたまれない。

それだけではない。

Kさんが、USBメモリを取り出した。

「今度は何です?」

私が不安になって聞くと、

「写真です」

という。

写真?私の恥ずかしい写真か何かだろうか?

パソコンの画面に映しだされたのは、10年前の私の写真だった。

Kさんが、なぜか持っていたのだ。

ずいぶん若いし、それに今よりも少し痩せているではないか。

ブログの記事や、ライブ映像や、過去の写真で、これまでを振り返る。

まるで、生前葬をやっていただいた気分である。

ありがたいことに、Tさん、Kさん、Sさん、こぶぎさん、それぞれの方々からプレゼントもいただいた。

Sさんからは、「千里同風」と刻まれた封緘印をいただく。

「千里同風」とは、「千里離れた遠い地域にも同じ風が吹いている」という意味である。

このブログ名「風の便りの…」にも、ふさわしい言葉である。

お酒を飲まないこぶぎさんからは、「おくりびと」という名前の日本酒。わざわざ雪の山道を往復して、入手したという。

ますます生前葬の気分になる。

かなり遅れて、Uさんが登場した。

2次会に場所を移してからも、ブログの話は続く。

そこで話題になったのは、

「最近はブログ本文よりも、こぶぎさんのコメントの方が面白い」

ということだった。

こぶぎコメントの熱狂的なファン、という人たちが、実はすごく多いことがわかった。

果ては、

こぶぎさんが場所を当てられないような喫茶店の話を書くべきではない。こぶぎさんが正解を出すところに、このブログの醍醐味がある」

と、「こぶぎさん擁護論」まで出て、可笑しかった。

それにしても、みんなよく読んでるなあと、ビックリした。

結論。オフ会って、すげえ恥ずかしい。

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世界にひとつだけの扇子

3月11日(火)

この日。

いろいろな感慨をいだきながら、学食でたった一人、カレーライスを食べる。

3年目のこの日を迎えたことに対する私の感慨など、他の人にとってはたいしたことではないことを悟った。

すでに私の役目は終わり、世代交代されてしまったのだ、と思うことにしよう。

ひどくショックを受けたが、そんなことで落ち込んでも仕方がない、と思い直す。

ところで。

4年生のTさんとWさんが、卒業旅行で京都に行ったときのおみやげを持ってきてくれた。

いちばんビックリしたのは、扇子である!

Photo_2

ハングルで「キョスニム」と書いてあり、しかも2011年秋の大学祭で使用した、屋台の看板の似顔絵が、キャプチャーされて、扇子に描かれているではないか!

京都に手描きの扇子を作ってくれるお店があり、そこで注文してつくってもらったのだという。

世界にひとつだけの扇子である。

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良縁

3月10日(月)

夜7時。5年前の卒業生であるIさん、Mさんと、卒業以来はじめて、会うことになった。

きっかけは、Iさんがメールをくれたからである。

Iさんが、スペイン料理の店を選んでくれた。ワインを飲みながら、いろいろと話をする。

5年前の卒業生には、いろいろな思い入れがある。

私が韓国に留学中だったため、卒業論文をなんと!スカイプで指導した

その後、卒業旅行で、韓国に滞在中の私を訪ねてくれた

そして、卒業式を見届けることができなかった学年でもある。

とくにIさんには思い入れがある。

Iさんは、いよいよ明日から社会人となるという5年前の3月31日深夜に、私にメールをくれたのである。

これについては以前、このブログにも書いたことがある

そのメールに感激したんだぜ、ということをIさんに話すと、

「全然覚えてません」

という。

メールを受け取った方は5年経った今でも覚えているのだが、送った方はすっかり忘れている、というのが、なんか面白かった。

IさんもMさんも、5年前の印象と、ほとんど変わっていないので、安心した。5年ぶりだが、まるで昨日の話の続きを話すがごとくである。

二人が私にプレゼントをくれた。

Photo 「良縁」という名の日本酒である。Iさんが吟味して選んだ銘柄である。

「『良縁』という名前がいいでしょう?私たちを言い表しているみたいで」とIさん。

たしかに、この学年は、「良縁」に恵まれた学年だった。Iさんはとりわけそのことを実感しているようだった。

「『良縁』か。いい言葉だねえ」と私。「韓国に住んでいるころ、『因縁』という言葉を頻繁に聞いたんだ。『こうして会えたのも、何かの因縁だ』とか、『因縁があれば、また会えるでしょう』とか。それ以来、『因縁』という言葉が好きになってねえ」

「へえ、日本だと、『因縁』という言葉は、あまりいい印象ではない感じがしますよね」

「そうだね。韓国ではふつうに使う言葉なんだ。でも『因縁』なんて、自分で作るものなんじゃないだろうか」

「そうですか」

「どこにいようと関係ない。その気になれば、その縁は続くんだと思うよ」

「そうですよね」

気がつくと、夜11時をまわっていた。外は雪がずっと降り続いていた。

「あっという間ですねえ」

お店を出て、タクシーを拾う。

「こんど、仕事の愚痴とか、メールしてもいいですか?」

「もちろん。いつでもメールくださいよ」

「先生もお元気で」

固い握手を交わしたあと、二人は最終列車に乗るために、慌ただしくタクシーに乗り込んだ。

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おーい、フクザワ君!

高校時代の友人、フクザワ君! 

ここを見てるかぁー?

こぶぎさんが、自身のブログでなんと、「続・スイカをめぐる、オッサンたちの冒険」という記事を書いているぞー!

昨年5月、高校時代の友人のフクザワが、

「1990年代前半に、深夜テレビでやっていた歌番組で、韓国のアイドルグループが『スイカ甘いな美味しいな』的な脱力するような歌詞を歌っているにもかかわらず、キャーキャー言われる人気ぶりだったのが妙に可笑しかった。あのアイドル歌手は誰だったのか?そしてその曲は、どんな曲だったのか?」

と、私に語った。

それがきっかけとなって、この「スイカの歌」をめぐる、同世代のオッサンたちの冒険が始まったのである。

続・雲をつかむような話

スイカをめぐる、オッサンたちの冒険

昨年、謎のままに終わったこのエピソード。実はまだ終わっていなかった!

こぶぎさんの執念深い調査により、さらに新たな展開がみえてきたのである!

続・スイカをめぐるオッサンたちの冒険

果たして「スイカの歌」の謎は、解き明かされるのか???

…といっても、唯一この謎に関心のあるのはフクザワのみ。そのフクザワも、見てくれていないだろうなあ。

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ありがたい一夜

3月9日(日)

ありがたい、のひと言である。

夕方6時。私ごときのために、約20名の方が集まっていただいた。かつての上司や、大先輩の同僚にも来ていただいたことに、驚いた。

上は齢80の方から、下は10年近く前の卒業生まで。

企画してくれたのは、私の父よりも年上のIさん、「腐れ縁」のAさん、そして同世代で同郷のSさんである。

思いもかけず、プレゼントをもらった。

私の父よりはるかに年上のIさんが、町中のお店を一軒一軒まわって探し当てたという、鉄瓶である。

人生の大先輩であるIさんとは、何度も一緒に調査に出かけた。

それは、私の人生を変えた、といってもよい調査だった。Iさんにとっても、それは同様であったという。

人生の大先輩から、吟味して選んでくれたプレゼントをいただく、ということなど、人生において、めったにあることではない。人間の縁というのは、じつに不思議である。

寄せ書きの色紙もいただいた。

学生からの寄せ書きをいただいたことはあるが、私より年上の方々が書いてくれた寄せ書きの色紙をいただくのも、めったにあることではない。

本当の意味で、「ありがたい」ことである。

1次会が終わり、2次会へと場所を移す。

2次会の途中でお帰りになるIさんと、固い握手を交わした。

「また、調査をご一緒しましょう」

その後、私を含めた同世代の4人で四方山話をする。

気がつくと午前1時半をまわっていた。

果報者と感じた一夜である。

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それで救われる気持ち

今日もすっかり疲労して、日記を書く気力が起きないので、以前に書いてはみたものの、公開するつもりもなく「下書き」のままにしていた記事を、以下に公開することにする。

中学生のころ、YMO(細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏)が好きだった。

友だちと、「3人のうち、誰の音楽が一番好きか」みたいな話によくなったのだが、私は坂本龍一、友だちのヤマセ君は高橋幸宏だった。

なぜかこのとき、細野さんはノーマーク。

だが大人になって、それもかなりオッサンになって、細野晴臣の音楽がすごくいいと思うようになった。

なぜなんだろう?大人になって味覚が変わって、ミョウガが食べられるようになった、みたいな感じだろうか?

とくに「HOSONO HOUSE」は、名盤である。

以前このブログでも「恋は桃色」を紹介したことがあるが、いまは、同じアルバムの「終わりの季節」がいい。

「とびらのかげで 息を殺した

かすかな言葉は 『さようなら』

6時発の 貨物列車が

窓の彼方で ガタンゴトン・・・

朝焼けが 燃えているので

窓から 招き入れると

笑いながら 入りこんで来て

暗い顔を 紅く染める

それで 救われる気持ち」

最後の、「それで救われる気持ち」ってのが、いいねえ。

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黒澤映画の三角形

書くことが思い浮かばないときは、「寅さん」の話か、「黒澤映画」の話である。

「黒澤明の映画と手塚治虫の漫画で、人生のほとんどのことが学べる」というのが私の持論だが、黒澤映画に関していえば、「羅生門」「生きる」「七人の侍」は、私にとって「人生の三角形」ともいえる映画である。

「羅生門」で、人間の不条理を知り、

「生きる」で、揺るがない人間の誇りを知り、

「七人の侍」で、自分に与えられた役割を知る。

現実の世の中で目の当たりにするほとんどのことは、この3作品の中ですでに語られているのである。

少なくとも私は、この三角形の中を行ったり来たりすることで、なんとか生きていけている。

そして最も重要な問題は、そのことに気づくかどうかである。

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重鎮の法則

3月6日(木)

妻に、身の回りで起こったことを話すと、

「なあんだ。結局は自慢話ね」

とよく言われる。今日も、そんな感じの話。

2時間の会議に出席するために、片道3時間半かけて、隣県のある場所に行く。

途中、列車から見える景色が、猛吹雪で真っ白になって、

(たどり着くのだろうか?)

と心配になった。

はじめて出席する会議なので、どんなことをするのか、まったくわからない。何より、メンバーも知らされていないのだ。

不安に思いつつ会場に着いて、ビックリした。

「重鎮」と呼ばれる方々ばかりではないか!

ひえぇぇぇぇ~。

会議のメンバーが7人出席していたが、私が一番若い。それも相当な年の差で、「若造」というより、「くそガキ」といったレベルである。

他のメンバーの方々からしたら、

「お前に何がわかんねん!」

と思っておられるに違いない。

以前から存じ上げていた方、はじめてお会いする方、さまざまだが、その中に、何度かお会いしたことがあってご挨拶するていど、という重鎮の先生がいらっしゃった。

たぶんこっちのことなんか覚えていないだろうなあ、専門分野も派閥も違うし、などと思って、こちらからご挨拶する間もないまま、会議が始まってしまった。

2時間の会議が終わり、三々五々、メンバーの方々が会議室をあとにする。

するとその重鎮の先生が私のところに近づいてこられて、

「この前書かれた論文、面白かったですよ」

とひと言おっしゃって、会議室を出て行かれた。

「きょ、きょ、…恐縮です…」

こちらから差し上げたわけではないのに、あんな地味な論文を読んでいただいていたのか。

いつも思うのだが、たいてい、思いもかけない人から、そういうことを言われたりする。

かえって自分と近しい人に、そういうことを言われることは稀である。

これって、何の法則?

私がよく言う「味方は外にいる」法則か?

それと、重鎮の先生が重鎮たる理由は、こういうところにあるのではないか、とも思うのだ。

ということは、「重鎮の法則」か?

こういうことがあると、映画「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」で、どさ回りの劇団、板東鶴八郎一座が、たまたま信州で寅次郎と再会し、寅次郎に芝居を見てもらったあと、座長の鶴八郎(吉田義男)が、寅次郎に感謝の言葉を述べる場面を、思い出す(また始まった)。

「常日ごろ座員一同には、いつどこでどういうお方がご覧になっているかわからない。少しでも手を抜けば、必ずそのお方の目にとまり、笑いものになる、芝居は常に真剣勝負であらねばならない、こう申し聞かせておりましたが、今日は図らずも、車先生のようなお方にご覧いただき、座員一同励みになりました。ありがとうございました」

座員一同が、フーテン風情の寅次郎をなぜか「先生」と仰いでいるのが、たまらなく可笑しいのだが、それはともかく、座長のこのセリフは、芝居以外のことにもあてはまる。

「いつどこでどういうお方がご覧になっているかわからない」「常に真剣勝負であらねばならない」というのは、つい忘れがちだが、常に心がけておかなければならないことなのである。

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愚者の聖化

毎度おなじみの妄想的映画評論。

山田洋次監督の初期の喜劇作品に「馬鹿シリーズ」というのがある。映画「男はつらいよ」の前身となる作品群である。

「馬鹿まるだし」とか「いいかげん馬鹿」とか「馬鹿が戦車(タンク)でやってくる」とか(いずれも1964年)。

ハナ肇を主人公として、どうしようもない愚か者が、一途な思いで行動に出て、ときに厄介者と扱われながらも、その一方で愛すべき人間として慕われる、というパターンの作品群である。

「無法松の一生」を意識して作られたと思われる「馬鹿まるだし」(1964年)のラストは、愚か者の主人公である安五郎(ハナ肇)が消息を絶って何年も経ったあと、池にはまって溺死したという風の便りを聞き、「大人物をなくした」と人びとが回想するところで、終わる。

喜劇、といいながら、なんとも物悲しいラストだが、山田洋次監督は、「一途な愚か者」が「間抜けな死に方をする」ことで「聖人」になる、というラストの描き方が、どうも好きなのではないだろうか。

たとえば、山田洋次監督は、映画「男はつらいよ」の最終回を、次のように構想していた。

それは、寅次郎がテキ屋稼業をやめて幼稚園の用務員になり、かくれんぼをしている最中に息をひきとり、町の人が思い出のために寅次郎のお地蔵さんを作る、というものである。

寅次郎がお地蔵さんになる、というのは、一見、ずいぶん奇妙なラストのようにも思えるが、「男はつらいよ」シリーズは、途中から、寅次郎の「聖人」ぶりが際立っていた。

以前にも書いたが、第39作「男はつらいよ 寅次郎物語」では、寅次郎は徹頭徹尾「いい人」なのである。人生を説く「物わかりのいいおじさん」になっている。

それは、同じ回における、御前様(笠智衆)の次のセリフにもあらわれている。

「仏さまは愚者を愛しておられます。もしかしたら私のような中途半端な坊主より、寅の方をお好きじゃないかと、そう思うことがありますよ」

ひょっとして寅次郎がお地蔵さんになる、という最終回の構想は、この頃(1987年頃)からできていたのではないかとも思えてしまう。

ともかく寅次郎は、シリーズ前半の「どうしようもない厄介者」から、後半の「物わかりのいいおじさん」へと、大きく変貌を遂げるのである。

第42作「男はつらいよ ぼくの伯父さん」に至っては、甥の満男の恋愛相談にのって、寅次郎が人生を語る、という「人生の師」のようなことまでしている。

「愚か者が、実はピュアな心の持ち主で、周りの人びとがそれによって浄化される」

これこそが、山田洋次の描く、いや、描きたい「愚か者」の本質である。

寅さんがお地蔵さんになる、という構想も、山田監督のこうした「愚か者」観から来ているのだ。

しかも、そうした「愚か者」観は、山田監督が映画を撮り始めた初期の作品である「馬鹿まるだし」のころから、ずーっと変わっていない。

いったいこうした「愚か者」観は、どこから来るのか?

私が見たところ、山田監督が師と仰ぐ、野村芳太郎監督の「拝啓天皇陛下様」(1963年)の影響を、強く受けているのではないか、と思えてならない。

渥美清が主演したこの映画は、やはり「一途な愚か者」が主人公で、最後は、酒に酔ってトラックにはねられて死んでしまう。

この「間抜けな死に方」により、「一途な愚か者」は、聖化されるのである。

山田監督は最後の最後まで、

「一途な愚か者が、人びとに厄介者扱いされつつも愛され、最後には間抜けな死に方をして聖化される」

という物語にこだわった。それは、師である野村監督の映画の呪縛から、生涯逃れることができなかったことを意味するのではないだろうか。

…考えすぎか?

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Nゲージのレストラン

3月4日(火)

いささか、というか、かなり疲れている。

先週金曜日の「追いコン」の席で、3年生のSさんが、「ぜひ3年生とじっくりお話しする機会を作ってください」という。

ということで、今日の夜7時半から3年生たちと飲むことになった。集まったのは、私を含めて7人である。

お店はSさんが決めたのだが、繁華街から少しはずれた、ひっそりとした裏通りにある、おしゃれなイタリアンレストランである。Sさんとそのお店の主人は、とある喫茶店の常連客だそうで、その縁で、Sさんはこの店の存在を知ったらしい。

店内に入って頭上を見上げると、天井近くに、縦横に線路が張り巡らされていて、そこに電車が所狭しと走っていた。店の主人は、Nゲージが趣味であるらしい。

「ここはピザが超おいしいんです」とSさん。「ぜひ一度、先生をお連れしようと思っていたんです」

そう言われると、疲れも吹っ飛ぶ。

たしかに美味しい。

地元には、まだまだ美味しい店が多いのだな、と、あらためて思った。

3年生(Sさん、Oさん、Wさん、S君、T君、C君)たちの「スダ」(韓国語で「おしゃべり」の意)が楽しく、気がつくと3時間半が経っていた。

午後11時過ぎに解散となったが、アルバイトがあったために途中から参加したC君は飲み足りなさそうな顔をしていたので、C君ともう1軒行くことにした。

先ほどのおしゃれな店とは対照的に、オヤジがひとりで切り盛りしているような昔ながらの居酒屋である。芋焼酎のお湯割りとやきとりを注文し、C君と四方山話をする。

気がつくと深夜0時半。

楽しかったが、昼間の疲れも手伝って、最後になってかなりヘトヘトになった。

少し前までだったら、これくらいのことは平気だったのに。

もう若くはないんだ、と実感した。

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好きな本は二度買う

好きな小説を本のリサイクルショップで見かけると、何度も買う、という癖がある。

あるいは、好きな小説が新装版で出ると、買い直したりすることがある。

その第一は松本清張である。

文庫版で持っていたものを、全集版で買い直すとか、最近では、韓国で出版されている「韓国語版」を買ったりする。

だからモノが増えるのだ、といわれればそれまでである。

福永武彦『廃市・飛ぶ男』(新潮文庫)とか、『風のかたみ』(同)なども、最近はなかなか市場に出回っていないだけに、本のリサイクルショップで見かけると、つい、買ってしまう。

カズオ・イシグロの『日の名残り』もそうだった。

数年前、ハヤカワ文庫版で出たのをつい買ってしまったが、その前の中公文庫版を、当然ながら持っていたのだった。訳者は同じなので、出版社と装丁が変わっただけなのである。

『日の名残り』は、小説ではなく、映画から入ったクチである。1993年公開というから、今から20年前の映画である。私は20代半ばのころ、劇場で見たのである。

謹厳な執事・スティーブンス(アンソニー・ホプキンス)は、厳格なまでにプロ意識をもって執事の職務を遂行する。使用人同士の恋愛が禁じられている執事の世界で、彼は女中頭であるミス・ケントン(エマ・トンプソン)に深い友情を感じながらも、それを決して表に出すことなく、職務に忠実な執事であり続けるのである。

やがて時が過ぎ、長らく仕えていた主人が没落し、新しい主人に仕えるようになったスティーブンスは、結婚して引退したかつての同僚、ケントンのもとを訪ねる。新しい主人の下でもう一度仕事をしようと説得するためである。2人の再会の場面は、スティーブンスとケントンの両者の、決して明かされることのない思いとも相俟って、じつに印象的である。

なんといっても、スティーブンスを演じたアンソニー・ホプキンスがすばらしいのだ。

数年前、海外版の電子書籍用タブレットを入手したとき、真っ先に購入したのが、「日の名残り」の原作版だった。何を考えたのか、日本語訳ではなく、英語で読んでみたい、と思ったのである。

しかしすぐに挫折したことはいうまでもない。

だが、原作は、きっと味わい深い英文であると私は信じている。

死ぬまでには「日の名残り」の原作版を読破したい。

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4度目の正直

3月1日(土)

昨年卒業した「詰めのあまい学年」ことCさんとは、卒業以来会っていなかった。

Cさんは卒業後、隣県の職場で働いている。仕事が落ち着いたころだったか、メールが来て、「所用でそちらに行くのですが、先生はその日、いらっしゃいますか?」とあったのだが、あいにくその日は出張で職場を不在にしていた。

同様のやりとりがもう一度ほどあり、

「タイミングが合わないものだなあ」

と思っていた。というか、いつも直前にそんなメールが来るので、こちらとしても日程調整ができないのである。

「詰めがあまい学年」たる所以である。

それからしばらくしてまたメールがあり、「今度こそは都合のよい日を調整しましょう」ということで、満を持して2月15日の土曜日に、在学中のOさんも交えて食事会をしようと約束したのだが、この日はあいにく大雪で、県外からの交通手段がシャットアウトされてしまったのである。

「どうしてよりによってこの日に…」

これで3度目である。

こういうのを何て言うの?すれ違い?いや、ちょっと違うな。

とにかく、縁がなかったとしかいいようがない。

まあ仕方がないとあきらめていたが、ようやく3月1日(土)に、4度目の正直で、Oさんと3人で、食事会が実現したのである。

Cさんはクールにみえるが、とても義理堅い人なので、社交辞令に終わらせず、ここまでこぎ着けた、ということなのだろう。

事前に、Cさんがメールで

「何が食べたいですか?」

と聞いてきたので、

「美味しいもの」

と私は答えた。なんともヒドい答えだなあ。

前々日くらいに「もつ鍋は大丈夫ですか?」

と聞いてきたので、

「痛風に悪いかも」

と答えたら、ひどく驚かれた。まさか、もつ鍋を断られるとは思わなかったのだろう。

紆余曲折の末、美味しいやきとり屋さんを予約してくれた。

そこに美味しいモツ鍋もあったので、結局はモツ鍋も食べたのだが。

食べながら、OさんやCさんと話をする。

この2人と話をすると、いつも、

「青春やなあ…」

と思う。話がいつも「青春している」内容なのだ。

2人が対照的だなあと思うのは、Oさんはたいてい、「感情の渦中」に、私に話をしに来る。これに対してCさんは、「感情の渦中」に私のところに来ることは稀で、それが一段落したあと、「感情の渦中」にいた自分を客観的にとらえられるようになってから、私に話をしに来るのである。

この日も、そんな2人のカラーがよく出ていて、聞いていてとても楽しかった。

Cさんは私に、プレゼントを持ってきてくれた。

「先生をイメージしたものです」

いただいたものは、デザインも含めて、まさに私をイメージしたものであった。

私をよく知る人は誰もが、これをくれる。

逆に、このプレゼントをくれる人は、私をよく知る人なのである。

Oさんも、プレゼントをくれた。

「来る途中、先生をイメージしたパンが売っていたので、買ってきました」

と、パンを1つ、くれたのである。

私をイメージしたパン、って…?

ありがたくいただいた。

それだけではない。

「ここは私たちが…」

と、2人がほとんどご馳走してくれたのである。

つくづく、

「美味しいものが食いたい」

などと、傍若無人なわがままを言った自分が情けなくなった。

予定していた2時間があっという間に終わり、お店を出る。2人はバスで隣県に帰ることになっていた。

「先生、お元気で。握手してください」

「また会いましょう」

2人と握手をして、別れた。

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恥じない生き方

2月28日(金)

朝9時から、恒例の卒論発表会である。

ほとんど休みなく続き、夕方の5時近くに終わった。

その場で、思いがけず、学生から花束をもらった。

Photo

「先生をイメージして花束をつくってみました」と、3年生のSさん。

よく見ると、古代米の稲穂が入っている。

なるほど、 そのあたりが、私らしい。

突然、何か喋れ、と言われ、学生100人ほどの前で挨拶する。

意を尽くすことはできなかったが、ただ1つ言いたかったことは、

「みなさんに恥じない生き方をしたい」

ということだった。

夜7時から、今度は場所を変えて、居酒屋で「追いコン」である。50人ほどが集まった。

ここでも、何か喋れ、と言われる。

喋っているうちに、涙が出てきて、言葉に詰まってしまった。

じつにぶざまである。

私が言いたかったことは、やはり

「みなさんに恥じない生き方をしたい」

ということだった。

ひととおりみんなの挨拶が終わると、今度は4年生たちが、お礼だと言って、私に大きな花かごをくれた。

今までにもらったことのない、大きな花かごである。

2

それだけではない。花かごと一緒にくれた小さな袋の中には、4年生のAさんとSさんが選んでくれたという、2本のネクタイが入っていた。

「学会発表の時とかの、勝負ネクタイにするよ」

「ほんとですか?そうしてください!」

さらにこんどは、ふたたび3年生のSさんが代表となって、私の苗字が入った、メチャクチャかわいいネーム印と、学生全員が書いてくれた色紙2枚を手渡してくれた。

ネーム印は、これから私にとって欠かせないアイテムになるだろう。

色紙には言葉が溢れていて、とてもその場で読むことはできない。

学生たちが、声を合わせて、

「先生、ありがとうございました!」

と言ってくれた。

この間、私はずっと泣きっぱなしである。

「先生、目から焼酎が出てます!」

じつにぶざまである。

みんなと一緒に写真を撮り、できるだけたくさんの人と喋った。

2次会に場所を移しても、話題は尽きない。

恋愛の悩み、進路の悩み、家族の悩み。

じつにいろいろなことを喋った。

自分を信頼して、心を開いていろいろなことを喋りかけてくれる学生たちには、感謝してもし尽くせない。

だからどんな悩みも、決して茶化してはならない。

気がつくと、深夜1時近くになっていた。

「これからは、この人たちに恥じない生き方をしよう」

私が思うことは、ただそのことだけである。

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