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誰にも理解されない「廃市」論

誰にも理解されないと思うが、福永武彦の中編小説「廃市」を、昔から耽読していた。

いや、1人だけ理解者がいるぞ。私の妹である。

妹は、短大の国文科に在籍し、福永武彦をテーマにした卒業論文を書いた。兄である私が、当時、福永武彦を耽読していたことに影響を受けてのことである。

どんな内容の卒業論文を書いたのかは知らない。そもそも、どれだけ福永武彦に思い入れがあったのかすら、定かではない。単に、手っ取り早くテーマを見つけるために、当時私が夢中になって読んでいた作家に目を付けただけかも知れない。

今は、文学とは関わりのない銀行員なので、当時のことなど、すっかり忘れているだろう。

もし、大学で文学を学び直すことが許されるのだとしたら、あるいは私も、福永武彦をテーマに卒業論文を書くかも知れない。

というこで、誰にも理解されない「廃市」論を書く。

卒業論文を書くために、福岡県柳川の旧家・貝原家で一夏を過ごした「僕」が、貝原家で体験したことを綴った物語である。物語は、「僕」の視点で進んでいく。

この小説が好きな理由は、この小説が、「人間関係をめぐるミステリー」に満ちているからである。

主な登場人物は、次の4人である。

貝原郁代…貝原家の長女。

貝原安子…貝原家の次女。

貝原直之…長女・郁代の婿となった、貝原家の跡取り。

「僕」…卒業論文を書くために貝原家を訪れた大学生。

このほかに、直之の情婦である「ひで」も登場する。

貝原家を訪れた「僕」は、貝原家に次女の安子さんしかいないことを、不審に思う。跡取りの姉夫婦がいるはずなのに、二人の姿が見えないのである。

やがて「僕」は、直之が情婦「ひで」のもとで暮らしていることを知り、郁代が寺に引き籠もっていることを知る。

では、直之は郁代のことがイヤになって、あるいは「ひで」のことが好きで、「ひで」のもとへ行ってしまったのか?

実はそうではなかった。

安子が「僕」に語ったところによれば、直之は郁代を愛していたが、あるとき郁代は、直之と安子が二人で食事に出かけ、ふざけ合いながら歩いているところを見てしまって、「直之が好きなのは、私ではなく安子なのではないか」と思い込み、郁代は自分から身をひいて、お寺に籠もってしまった、というのである。

実際、直之と安子は、はた目から見ても、とても仲がよかったのだ。

郁代のそうした「面倒な性格」をよく知っている直之は、誤解を解くことが面倒くさくなり、心の落ち着き場所として情婦「ひで」のもとで暮らすようになり、最後には、ひでと心中してしまうのである。

直之が本当に愛していたのは、郁代だったのか?安子だったのか?

郁代は、直之が安子を愛していたのだと思い込み、安子は、直之が郁代を愛していたのだと思い込む。

夏が終わり、柳川の町に別れを告げた「僕」は、帰りの列車の中で、「直之さんが愛していたのは、やはり安子さんだったのではないだろうか」と述懐する。さらに「僕」もまた、安子を愛していたことに気づくのである。

はたして、「僕」が結論づけたように、直之が本当に愛していたのは、安子だったのか?これもまた、安子を愛していた「僕」の思い込みだろうと思う。

「あれほど郁代さんが確信を持って信じたのには、やはり十分な理由があるのだ」と「僕」は推測しているが、はたしてそうだろうか。郁代の性格から考えて、十分な理由がなくとも、2人の関係を確信するなど、容易なことである。

おそらく「僕」は、安子を愛していたがゆえに、必要以上に安子のことを意識して、直之に嫉妬していたのかも知れない。やはり、直之は郁代を愛していたのではないだろうか。

直之を愛していた郁代は、直之が安子を愛していたのだと思い込み、

直之を愛していた安子は、直之が郁代を愛していたのだと思い込み、

安子を愛していた「僕」は、直之が安子を愛していたと思い込み、

郁代を愛していた直之は、郁代や安子に誤解されて、「ひで」のもとに駆け込む。

直之と心中した「ひで」は、直之に愛されていなかった。

誰もが、思い込みと誤解をしている。

本当のところは、誰にもわからない。

これは、「人びとの思いのすれ違い」の物語なのである。

この小説が、私にとって何度も飽きずに読めるのは、それぞれの視点に立って、噛みしめるように読むことができるからである。

若いころはもっぱら、「僕」の視点で読むことが多かったが、今はもっぱら、郁代の視点で読んでいる。

たぶん、性格的に一番近いのは、郁代だろうと思う。

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