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ヤマアラシのジレンマ

こぶぎさんのコメントが秀逸だという理由で、このブログを読んでいる人が多い、という。

こぶぎさんが書いてくれたコメントの中で、いまでも気になっているのは、「もし中学校の合唱部の顧問だったら」という記事を書いたときのものである。

このとき私は、槇原敬之の「Hungry Spider」という歌を取りあげて、「槇原敬之の楽曲の中で、この歌がいちばん素晴らしい。この歌を、中学校の合唱曲で取りあげるべきだ」と論じた。

そうしたところ、こぶぎさんは例のごとく、動画サイトから、この歌のPV(プロモーションビデオ)を探し出してくれ、つぎのようなコメントを寄せてくれた。

「PVのリンク貼ろうと、ユーチューブで探して見たら、怖いのなんの。

ま、「どんなときも。」も「世界に一つだけ…」も、結局はこの「超友情」の恨(ハン)が潜んでいるわけで、心して歌わんとね。

「超友情」が分かりづらければ、シザーハンズ的というか、ヤマアラシのジレンマというか(もっとわかりづらい?)。」

「Hungry Spider」の歌詞といい、PVといい、「超友情の恨(ハン)」がテーマになっている、という指摘は、おそらくこの歌の本質を突いたものだろうと思う(ちなみに、「恨」を「ハン」と読むのは、韓国語読みである)。

なるほどそういうことかと、溜飲が下がる思いがした。私自身も、昔からこの「超友情の恨(ハン)」というのを何度も経験していて、情けないことに、今でもそういうことをしでかす。

ところでこのコメントの中で、「シザーハンズ的」というのはなんとなくわかるとして、「ヤマアラシのジレンマ」とあるが、これまた恥ずかしいことに、初めて知る言葉であった。

インターネットとは便利なもので、この言葉の意味について、ウィキペディアには次のように書いてある。

「『ヤマアラシのジレンマ』とは「自己の自立」と「相手との一体感」という2つの欲求によるジレンマ。寒空にいる2匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという、ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの寓話による。但し、心理学的には、上述の否定的な意味と「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもあり、両義的な用例が許されている点に注意が必要である。」

つまり、「相手との友情を強く思うあまり、自分のさりげない言動で相手を傷つけたり、相手のさりげない言動に傷ついたりすること」ということらしい。

なるほど、これもまた、思いあたる節がある。

自分では気をつけているつもりだが、自分の言動が知らず知らずのうちに相手に不快な思いをさせてしまっているのではないか、とか。

相手の何気ない行動を深読みして、過度な意味づけをして、一人で勝手に傷ついたり、とか。

まあそんなことの繰り返しなのである。

しかしわからないのは、槇原敬之の他の楽曲である「どんなときも。」とか「世界に一つだけの花」にも、この「超友情の恨(ハン)」が潜んでいる、というこぶぎさんの指摘である。

どうにも私には、これらの歌の歌詞をたどってみても、こぶぎさんの指摘するような「超友情の恨(ハン)」が潜んでいるようには感じられないのだが、ただ、おそらく槇原敬之自身が、私と同様、「超友情の恨(ハン)」や「ヤマアラシのジレンマ」を強く抱えている人なのではないか、ということは、容易に想像される。

そしてそれが、槇原敬之の音楽の本質ではないかとするこぶぎさんの指摘にも、強く共感するのである。

それは、槇原敬之がまだ高校生の素人時代に作ったというこの曲にすでに、その片鱗があらわれているように思う。

大昔、NHKFMで放送されていた「坂本龍一のサウンドストリート」の「デモテープ特集」で採用され、オンエアされた「Half」という曲である。

…と、ここまで書いてきて、ん?と思った。

「こぶぎさんのコメントが面白くてこのブログを読んでいます」という読者の感想を聞いて私がいだいた感情は、こぶぎさんに対する「超友情の恨(ハン)」なのか?

それとも、たんなる嫉妬なのか?

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