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愚者の聖化

毎度おなじみの妄想的映画評論。

山田洋次監督の初期の喜劇作品に「馬鹿シリーズ」というのがある。映画「男はつらいよ」の前身となる作品群である。

「馬鹿まるだし」とか「いいかげん馬鹿」とか「馬鹿が戦車(タンク)でやってくる」とか(いずれも1964年)。

ハナ肇を主人公として、どうしようもない愚か者が、一途な思いで行動に出て、ときに厄介者と扱われながらも、その一方で愛すべき人間として慕われる、というパターンの作品群である。

「無法松の一生」を意識して作られたと思われる「馬鹿まるだし」(1964年)のラストは、愚か者の主人公である安五郎(ハナ肇)が消息を絶って何年も経ったあと、池にはまって溺死したという風の便りを聞き、「大人物をなくした」と人びとが回想するところで、終わる。

喜劇、といいながら、なんとも物悲しいラストだが、山田洋次監督は、「一途な愚か者」が「間抜けな死に方をする」ことで「聖人」になる、というラストの描き方が、どうも好きなのではないだろうか。

たとえば、山田洋次監督は、映画「男はつらいよ」の最終回を、次のように構想していた。

それは、寅次郎がテキ屋稼業をやめて幼稚園の用務員になり、かくれんぼをしている最中に息をひきとり、町の人が思い出のために寅次郎のお地蔵さんを作る、というものである。

寅次郎がお地蔵さんになる、というのは、一見、ずいぶん奇妙なラストのようにも思えるが、「男はつらいよ」シリーズは、途中から、寅次郎の「聖人」ぶりが際立っていた。

以前にも書いたが、第39作「男はつらいよ 寅次郎物語」では、寅次郎は徹頭徹尾「いい人」なのである。人生を説く「物わかりのいいおじさん」になっている。

それは、同じ回における、御前様(笠智衆)の次のセリフにもあらわれている。

「仏さまは愚者を愛しておられます。もしかしたら私のような中途半端な坊主より、寅の方をお好きじゃないかと、そう思うことがありますよ」

ひょっとして寅次郎がお地蔵さんになる、という最終回の構想は、この頃(1987年頃)からできていたのではないかとも思えてしまう。

ともかく寅次郎は、シリーズ前半の「どうしようもない厄介者」から、後半の「物わかりのいいおじさん」へと、大きく変貌を遂げるのである。

第42作「男はつらいよ ぼくの伯父さん」に至っては、甥の満男の恋愛相談にのって、寅次郎が人生を語る、という「人生の師」のようなことまでしている。

「愚か者が、実はピュアな心の持ち主で、周りの人びとがそれによって浄化される」

これこそが、山田洋次の描く、いや、描きたい「愚か者」の本質である。

寅さんがお地蔵さんになる、という構想も、山田監督のこうした「愚か者」観から来ているのだ。

しかも、そうした「愚か者」観は、山田監督が映画を撮り始めた初期の作品である「馬鹿まるだし」のころから、ずーっと変わっていない。

いったいこうした「愚か者」観は、どこから来るのか?

私が見たところ、山田監督が師と仰ぐ、野村芳太郎監督の「拝啓天皇陛下様」(1963年)の影響を、強く受けているのではないか、と思えてならない。

渥美清が主演したこの映画は、やはり「一途な愚か者」が主人公で、最後は、酒に酔ってトラックにはねられて死んでしまう。

この「間抜けな死に方」により、「一途な愚か者」は、聖化されるのである。

山田監督は最後の最後まで、

「一途な愚か者が、人びとに厄介者扱いされつつも愛され、最後には間抜けな死に方をして聖化される」

という物語にこだわった。それは、師である野村監督の映画の呪縛から、生涯逃れることができなかったことを意味するのではないだろうか。

…考えすぎか?

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