猫の事務所は続くのか
ある読者に「このブログ、昔は謙虚だったのに、最近はけっこう言いたい放題ですね」と言われ、反省しているところなのだが、これだけは言わせて。
宮沢賢治の童話「猫の事務所」を読み直して思い出したのは、昨今世の中を騒がせている、あの「騒動」である。
あれって、どうなんだろう?
実際のところはどうだったのか、今のところ真相は「藪の中」である。
つまり黒澤明の映画でいえば、「羅生門」である(また始まった)。
それよりも、私が気になるのが、あれだけあの人を持ち上げたマスコミが、一転して「糾弾」に走っている、という現象である。
「若い女性」という理由だけで持ち上げたマスコミが、今度は「若い女性」という理由だけで叩いている、というようにしかみえない。
そこに、薄ら寒さを感じるのである。
私が見たところ、今あの人の味方をする人は、誰もいないのではないか、と思う。米国にいるという師匠くらいではないだろうか。
まさに、「猫の事務所」でいうところの、「かま猫」の立場である。
童話「猫の事務所」の最後は、猫たちが恐れる「獅子」が事務所に入ってきて、
「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」
といって、かま猫を集団でいじめていた事務所は廃止される。
これに対して宮沢賢治は最後に、
「ぼくは半分獅子に同感です」
と述べている。この「半分」という感性がすばらしい。
ところが、こちらの「獅子」といったら、記者会見で、
「未熟な研究者がずさんな研究をした。データをずさん、無責任に扱った。徹底的に教育し直さないといけない」
と、その人のことを「未熟な研究者」と言い放ったのである。
私に言わせれば、
「いまごろそんなこと言うなよ!」
である。
私が宮沢賢治だったら、
「僕は獅子にまったく同感しません」
と書くだろう。
まだ、宮沢賢治が「半分同感する」という「廃止」「解散」の道を選んだ方が、ずっと誠実である。
そもそもこの発言は、強い者が弱い者に対して放つ、「トカゲのしっぽ切り」としか聞こえないが、もし、本当にその人が「未熟」だったのだとしたら、なぜ周りの人がそれに対してもっと早く対応をとらなかったのか?
要は、周りの人たちに「見る目がなかった」のである。
自分に見る目がなかったことを棚に上げて、後になってその人の問題点をあげつらったり、蔭口を叩いたりする、というのは、私の周りでもよくみられることだが、そのたびに、なんとなく薄ら寒さを感じてしまうのである。
これって、「いじめ」と構造的には同じだよなあ。
ひょっとして、自分もその一人として荷担しているのかも知れない、と思うと、自分もまた、情けない。
だから私にとってこの騒動は、周囲の対応の仕方のほうに、ずっと興味があるのだ。
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