臆病者で何が悪い!
5月15日(木)
山本周五郎原作・松田優作主演の映画「ひとごろし」(大洲齊監督)を見た。
福井藩の剣術指南をしていた剣豪(丹波哲郎)が、ある日、殿様の側近を斬り、逐電するという事件が起こる。怒った殿様は、上意討ちを命ずるが、彼の腕前を知る者たちは、誰も討手を引き受けたがらない。そんな中、藩内きっての臆病者と評判の若侍(松田優作)が、自らの汚名を返上すべく、上意討ちを買って出る。
ところが、剣術がまるでダメな若侍は、まともに剣で勝負しようとしたら、絶対に勝ち目がない。なにより、剣豪の前に立つと、震え上がってしまうのである。
絶対に自分は死にたくない。
剣豪を斬る勇気もない。
でも、この勝負には勝ちたい。
これらをすべて満たす方法はないものか?
若侍は、2人の百姓が「人殺しの剣豪」におびえて逃げ出したのを見て気づく。
「そうか、おれは臆病者だ。世間には肝の坐った名人上手よりも、おれやあの百姓たちのような、肝の小さい臆病な人間のほうが多いだろう、とすれば…」
若侍は熟慮の末、ある奇抜なやり方で、剣豪を追い詰めることを思いつくのである。
まったく剣を使わずに、剣豪を追い込める方法を、である。
世の中には、肝の坐った名人よりも、臆病者で小心者の人間のほうが、圧倒的に多い。
これこそが、山本周五郎が言いたかった、人間社会の本質だった。
ほとんどの人間は、臆病で、気が小さいのだ。
だが、臆病者には臆病者の戦い方があることを、この小説で描いてみせたのである。
人はともすれば、強い者に対して、強い力で対抗したい、と思ってしまう。
とくに最近の、ある国の指導者は、そう考えているようである。
まるで臆病であることが恥であるかのように。
だが、臆病者で何が悪い?
あの若侍のように、まったく剣と用いずとも、剣豪を追い詰めることはできるのだ。
その知恵こそが、人間にとって、いちばん大事なのだ。
そのことを山本周五郎は、いまからちょうど50年前の1964年、この短編小説「ひとごろし」の中で、描いていたのである。
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