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アラフォー山本周五郎の煩悶

本に何を求めているか、というと、それは、

「胸を打つ言葉」に出会うことである。

『山本周五郎戦中日記』(ハルキ文庫)を、少しずつ読み始める。

私は、残りの人生は、もう山本周五郎の小説だけ読んでいれば何とかなるんじゃないか、と思っている。

彼の描く、人間へのまなざしこそが、私にとっての、生きる勇気である。

山本周五郎の異名は「曲軒」。「へそ曲がり」の意味である。

私もそんな生き方に憧れる。

昭和17年2月18日の日記。

「昨夜ひと夜、原因不明の三叉神経痛に悩まされて眠れなかった。斯ういう痛みは多く悪性脳腫脹からくると云う。もしそうだとすれば治療の法がなく、ただ死を待つばかりだそうだ。

この一日の雪の日にはじまるこの痛みは、単なる歯齦膜炎から来たものかどうか、まるで判断がつかぬため、昨夜は徹宵「死」の恐怖と闘わざるを得なかった。…死ぬことは、それ自体さして怖ろしいとも重大だとも思わない。ただ妻と子たちのためにもう少し生きなければならぬと思うと、苦悶のために幾度も全身拭うような汗だった」

山本周五郎にも、「痛み」との闘いがあったのかと思うと、救われる気持ちになる。これはまさに、私がいま経験していることだからである。

同年3月13日の日記に書かれた次の一節は、胸を打つ。

「己を制して世に順応すべきか。己を押して世を無視すべきか。この日ごろ、この一事のみ繰返しわが心を往来す。おのれ性未熟、学事疎慢にして、徒に驕傲なるを知らぬには非ず。この性あって今日の足場を招来せることわれ独り知る也。これは「無理」なるや。-知らず、知らず。いまおのれはただおのれを嫌うの情切にして、世に順応せんとせざるとに関せずなおおのれを制すべしと思う」

山本周五郎も、クヨクヨ悩んでいたらしいことがわかる。「自分を抑えて、世の風潮に順応していくべきなのか、あるいは、自分の信念を貫いて、世間に背を向けるべきなのか」を。

「俺はダメな人間だなあ」と自己嫌悪に陥った山本周五郎は、「世間に順応しようとしまいと、自分自身を制するしかないのだ」と結論づけている。

「生き方を考える」とは、こういうことなんだぜ。意気揚々と、疑いもなく世の風潮に迎合しようとする連中に聞かせてやりたい言葉だ。

しかも、山本周五郎がアラフォーのときに、こういう悩みを抱いていたのだ。

良質の小説を量産し続ける作家からは、想像もつかない悩みである。

いや、むしろそういう悩みを常に抱えていたからこそ、読者の胸を打つ小説を、書き続けることができたのではないだろうか。

その煩悶こそが、生きていく上で何より大切であることに、いったいどれほどの人が気づいているだろうか。

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