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「いまを生きる」再見

久しぶりに、映画「いまを生きる」(1989年)をDVDで見た。

1989年、私が大学2年のときに公開された映画で、この年は、「フィールド・オブ・ドリームス」とか、「7月4日に生まれて」とかも封切りされて、私にとっては「アメリカ映画豊作の年」だった。

ただし、この年のアカデミー作品賞は、「ドライビング・ミス・デイジー」という、じつに地味な作品が受賞した。

同じ年、イタリア映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」も公開されていて、たしかアカデミー賞外国語映画賞を受賞したと記憶する。

「いまを生きる」は、原題が「DEAD POETS SOCIETY(死せる詩人の会)」で、これではあまりにも、ということで、「いまを生きる」という邦題になったのだろう。この「いまを生きる」という邦題は、劇中に登場するセリフ「Seize the Day(この日をつかめ)」を訳したものである。

規律の厳しいエリート校に赴任した英語教師、キーティング(ロビン・ウィリアムス)が、型破りな指導法で詩や文学を教えることを通じて、生徒たちに「自分で考えることの大切さ」「自分の力で未来を切り開くことの尊さ」を気づかせ、生徒たちが次第に心を開いていく、というストーリー。

こう書くと、「金八先生」みたいだが、事実、公開当時、ロビン・ウィリアムス演じるキーティングを金八先生になぞらえる映画評もあった。そういう先入観で見てしまうと、この映画は好き嫌いが分かれると思う。

私は、金八先生は嫌いだったが、この映画は好きだった。

ロビン・ウィリアムスは、「グッドモーニング・ベトナム」で、日本でも一躍有名になり、その次が、この「いまを生きる」だったと思う。ロビン・ウィリアムスにしては、かなり抑えた演技で、それがまたよかった。

こうしてロビン・ウィリアムスは、その後も「アメリカの良心」を演じ続けることになる。

劇中は、いわばキーティングによる名言のオンパレードなのだが、なかでも、

「医療、法律、経営、工学、

これらは生活を守るために必要な立派な仕事だ。

しかし、詩、美しさ、ロマンス、愛こそ、

我々の生きる糧なのだ」

というセリフが、とくに印象に残っていた。

この3月まで10年以上、総合大学に身を置いていた私にとっては、自分の専攻している分野を「生きるための糧である」と考えることで、「医療、法律、経営、工学」を専攻する同僚たちに引け目を感じることなく、アイデンティティを持ち続けることができた。

まあ私にとっては、救いの言葉だったわけだ。

さて、映画の最後では、「ある事件」をきっかけにキーティングが進学校を解雇させられてしまうことになる。

生徒たちは、キーティングの解雇に抗議する意味で、「ある行動」に出る。

これが、かの有名なラストシーンで、私はこのラストシーンに何度も涙したのだが、久しぶりに見て、気づいたことがある。

この抗議行動は、クラスの全員がしていたわけではなかった。

画面をよく見ると、この「行動」に参加していなかった生徒の方が、多かったのである。

映画的には、クラスの生徒全員が、キーティングの解雇に抗議する行動に出る、と描いた方が、より感動的のようにも思えるのだが、そうはなっていない。

むしろラストシーンを注意深く見ると、クラスの大多数の学生は、「オレたちには関係ねえ」といった感じで描かれているのである。

公開当時は、そんなことにまったく気づかず、もっぱら抗議行動をする学生たちに目を奪われ、ひたすら感動していたのだが、いまはむしろ、「オレたちには関係ねえ」という生徒の方が、見ていて気になる。

彼らは、型破りの英語教師を、どう思っていたのだろう?

決して全員が、キーティングに心酔していたわけではなかったのだ。

そこをちゃんと描いているところに、この映画のすばらしさがあるのではないだろうか、と、公開から25年目にして、あらためて思う。

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コメント

参加していない少年たちは心酔していないのか、勇気が出なかったのか、何かのしがらみで仕方がなかったのか…じっとうつむいて下を向いている様子を見ると、自分の貧しい経験を重ねながらいろいろ考えます。どっちにしても、自分の判断で行動することを求めるのがキーティングの教え方なのだから、ラストでみんなが「せんせいー」と駆け寄ってきたりしたら台無しですね。少年たちが全然成長しておらず、むしろキーティングに支配されていることになってしまうから。「俺は参加しない(できない)」と判断してその通りに振舞った生徒もまた、立派にキーティングの教え子なのでしょう。
それにしても鬼瓦先生、教師の役割は反語的だと思いませんか。教える相手が、できるだけ自分を必要としなくなるようにもっていかなければならないという意味で。
そしてロビン・ウィリアムズさん、『今を生きる』『グッドモーニング・ヴェトナム』、そして『レナードの朝』のあなたは素晴らしかった。人間に失望することの方が圧倒的に多い現実にくじかれ続ける中で、あなたの創造した人間像がどれほど救いになり、糧になったことか…。名優は他にいても、あなたのような人はひとりしかいない。
ほんとうに名残りはつきないけれど、ありがとう、そしてさようなら。

投稿: カーペ・ディエム | 2014年8月12日 (火) 14時53分

カーペ・ディエムさん、ありがとうございます。

ロビン・ウィリアムスの作品は、「グッドモーニング・ベトナム」「いまを生きる」「レナードの朝」「グッド・ウィル・ハンティング」の4つしか見ていません。どれも好きですが、とくに好きなのは、「グッドモーニング・ベトナム」と「いまを生きる」です。おそらく20歳前後のころに見たことが、影響しているのでしょう。

前者では「型破りなラジオDJ」を演じ、後者では「型破りな英語教師」を演じました。「型破り」な人間を演じるのが、ロビン・ウィリアムスの真骨頂だったように思います。

でもときどき、僕は思うのです。彼が演じた「型破り」な人間こそが、正論であり、指針なのではないか、ということを。

もし今の社会が、彼の演じた人間をなお「型破り」と評するならば、この社会はまだ未熟の域を脱していないのではないか、と思わずにはいられません。時代はまだ、彼の演じた人間像に追いついていないと、そんなことを感じるのです。

投稿: onigawaragonzou | 2014年8月12日 (火) 22時17分

先日、とある博物館にて、ほぼひとり貸し切り状態で、映画「山びこ学校」を見てきましたが、まさに日本版「今を生きる」ではないかと(ラストは違いますが)。

外に出ればそこが映画ロケ地、という場所で観るというのも新鮮ですね。

なお、展示では文集「きかんしゃ」の本物も飾ってあるのでお見逃しなく。映画の中の小道具との違いを確かめられます。

投稿: こぶぎ成恭 | 2014年11月 5日 (水) 01時27分

私の尊敬する「眼福の先生」は、この地のご出身で、高校までこの地で過ごされました。あるとき、公開されたばかりの映画「山びこ学校」が、そのモデルとなった中学校で上映されるというので、見に行ったそうです。見終わってあたりを見まわしたら、いま見ていた映画の中に出ていた中学生たちがすぐ隣にいてビックリしたと、つい先日、その思い出話をうかがったところでした。

以前に廉価版のDVDを買ったのですが、まだ見ていません。日本版「いまを生きる」を見ないとね。

投稿: onigawaragonzou | 2014年11月 9日 (日) 22時36分

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